迷い
20X3年6月22日 渋谷
6月から事務のバイトを再開していた。
もともと就職活動は5月くらいまでに終わるだろうと予測していたから、6月から再開しようと思っていた。
真紀とのデート資金を稼ぐためにも辞めることは考えていなかった。
紆余曲折を経て、現状は当時の予測とは大きく異なるものになってしまったものの、就職活動で大分お金を使ったのも事実だし、卒業旅行くらいは行きたいのでお金を貯めるためにも再開することはあまり迷わなかった。
それに、バイトをしてせわしなく働いていれば、モヤモヤとした考えと向き合う必要がなかったのも一因ではある。
認めたくないが。
就職活動をすると言ってしばらく休みをもらったこともあり、再開後最初に出勤したときは少し気まずい思いもあったが、質問攻めにあってそんな気まずさも全て吹き飛んだ。
ただ、結局全てを話すことになった。
就職活動のために休みを取ったにも関わらず、大学院を目指すために就職活動を辞めた僕に対して、話を聞いてきた社員たちは特に意外そうな顔を見せなかった。
「学生のときっていろいろと悩むもんねぇ」
「今は大学院まで行く人も結構いるから、有りな選択なんじゃないの?」
そう言って僕の状況を肯定的に捉えてくれた。
大学院に行くことのモチベーションが上がりきらないことが後ろめたかったが、結果的に少し楽に仕事ができるようになった。
初日から仕事の勘はすぐに戻った。
バイトとしては多少付加価値のある仕事をしているのではないかと思っていたものの、資料作成や業務システムへの打ち込み等がメイン作業なので、もともと大それたことはしていないというのが主要な要因だと思う。
ただ、
「沖田君、戻ってきたばかりなのにテンポ良く仕事してくれるねぇ」
そう言って僕の仕事を管理している課長に誉められたのは素直に嬉しかった。
就職活動で否定され続けてきて、バイトとはいえ仕事がうまく行かないのではと心配していたが、杞憂だったと安心した。
バイトを再開してあっという間に3週間近くが経った。
週2日なので、負担もあまり感じなかった。
いつも通り淡々と割り振られた作業をこなしていると、課長から呼び出しを受けた。
「沖田君、ちょっと時間取れる?」
「はい。大丈夫です」
別段作業が遅れている訳ではない。
多少時間を取られても今日も時間通りに帰れそうだ。
しかし何の話だろうか。
こうして課長に呼び出されることは今までなかった。
先週提示した翌月のシフト希望に何か問題があったのだろうか。
「ちょっと席外します」
隣の席の社員に一応断りを入れ、メモ帳とボールペンを持って課長に呼ばれるがまま別室に移動した。
「失礼します」
通されたのは、お客様たちをお通しするような応接間だった。
「とりあえず、座って」
課長に言われるままに、背もたれが頭まである椅子に座った。
社長椅子だと思って心が少し躍ったが、逆にそんな自分が滑稽だった。
「いきなり呼び出してごめんね」
「いえ」
事情が分からず、半端な返事をしてしまった。
「戻ってきてからも良い仕事してくれてありがとう。この前作ってくれた資料も部長から誉められてたよ」
「あ、ありがとうございます!」
自分の仕事が誉められるのは嬉しかったが、これが本題ではないことは分かっていた。
「いやね、時間ももったいないから、本題に入るんだけど」
大きくつばを飲み込んだのが自分でも分かった。
課長も気付いていたかもしれないけれど、そのまま続けた。
「みんなから沖田君が大学院を目指すって聞いてね」
確かに初日に社員に話をしたが、課長に話したわけではなかった。
特に問題があるというわけではないが、あっという間に伝わっていたことに驚いた。
僕が出社していない日にそんな話がされているのだろうか。
「こんな話は本当はしてはいけないのだろうけど、大学院を目指す気持ちがどれくらいなのかを良かったら教えて欲しいんだ」
「えっ? それってどういうことですか?」
「ええっと、急な質問だったね。ごめんごめん。みんなから聞いた話だと、就職活動をしたけど、沖田君自身が納得のいく結果にならなかった。だからもう一度自分を見つめなおす時間を作るために大学院に行くと、そう聞いたんだけど」
「はい。そんな感じです」
「本当に大学院に行きたいのかな、そう思ってさ」
「それは……」
僕の現状は見抜かれているのだろうか。
大学院に行きたくないわけではないが、サークルの同期たち何人かが6月に入って内定をもらったという話を聞き、正直自分の頑張りが足りなかっただけなのかとも思い始めていた。
父さんに言われた通りみたいで癪だったので、認めたくはなかったけれど……。
僕の頑張りが足りなかったのだとすると、2年間で自分のやりたいことを見つけても、2年後も同じ結果になるかもしれない。
「別に責めている訳じゃないよ」
課長の言葉ではっとした。
少しばかり黙ったままぼうっとしていたらしい。
「あ、はい」
「別に沖田君が大学院に行きたいなら、全く否定するつもりはないんだけど、もし良かったら、うちの会社に入社してくれないかなと思ってさ」
「えっ?」
「この不況で新入社員は数人しか取らない計画ではあるんだけど、せっかくならうちの仕事が分かっている沖田君が来てくれたら良いと思ってね」
こんなオファーが来るとは思っていなかったので、言葉が喉に詰まったまま出てこなかった。
「確かに、沖田君の学歴とかを考えると、うちのような無名の中小企業に入るのは抵抗があるかもしれないけど、中小だからこそやりがいはあると思うんだ。考えてみてくれないかな?
あ、今すぐにここで結論を出してくれなくてもいいよ。ただ、秋の採用活動開始までには間に合わせないといけないから、7月までに決めて欲しいんだ」
「はい」
どう答えて良いのかわからず、とりあえず発することができたのはこれだけだった。
「ありがとう。いきなりごめんね。家でゆっくり考えてみて。
話は終わりだから、仕事に戻って良いよ」
そう言って、課長は部屋を後にした。
部屋に一人残り、数秒壁を眺めていた。
大学院に行くと決めた決意が揺らいできているのが自分でも分かった。
胸の辺りに少し苦しい感覚を覚えながらも、仕事を終わらせなければと思い自分の席に戻った。
「何だったの? 大丈夫だった?」
戻るとすぐに隣の社員から声をかけられたが、本当のことは言えなかった。
「いえ。この調子で頑張って欲しいって言われました」
「あ、そうなの」
含みのある言い方だったが、それ以上は特に聞かれなかった。
帰りの電車の中、ひどく落ち着かなかった。
自分のことを認めてくれた喜びと、急な提案への驚きと、大学院に行くことへの疑問と、バイト先への就職の悩みと、全てが渦を巻いてぐちゃぐちゃだった。
少なくとも、自分の将来がどうなるんだということに答えが出ない現状が全ての根源であるということだけは分かった。
だからといって、すぐに結論が出るわけでもないことも分かっている。
その一方で、何でも良いのでこの気持ちを抑える方法を知りたかった。誰でも良いので教えて欲しかった。
気付いたら家に着いた。
ただ、ぐちゃぐちゃでまとまらない思考のどこかで、何かが湧き出てくるのを感じた。
内定を取った同期たちへの悔しさからか、姉さんの結婚式で見た採用担当の行動に対する怒りからか、そしてバイトで自分の仕事が認められている自信からか、何が要因だったかは分からない。
でも、その感覚に間違いはない。
もう一度将来について一生懸命考え抜いてやる。
意気込みが僕の奥底から顔を出した。
久々の感覚だ。
就職活動を始めたとき以来かもしれない。
大学院を決めたときも少しすっきりした気持ちがあったと記憶していたが、今思えばやはりあのときは半ばやけくそだった。
大学院という選択を御破算にして、もう一度ゼロから大学院、バイト先への就職、就職活動を比べて悩み抜く。
絶対になかなか答えがでなくて苦しむことになる。
それは感覚的に分かっていた。
もう苦しみたくない。
確かにそう思ってここまで来たが、それでは前に進まない。
やるしかない。
真っ暗で先が見えない道で、まだ光は全く見えないけれど、もう一度歩き出そう。
そんな決意で心が少し落ち着いた気がした。
依然進路は決まっていない。
大人しく勉強した方が大学院に合格する可能性が高いことも分かっている。
でも、この日、久々に自分のベッドで眠った気がした。




