Sign009 桜花天嵐
「ふん……」
零が鼻を鳴らし、敵を見下ろす。
戦闘開始から小一時間が経って、再生力の尽きたニャルラトホテプがそこにはあった。
「……這いよる混沌にばかり固執していたらいつの間にやら有象無象に囲まれたか」
零が正面のニャルラトホテプから目を離して見渡す。
もう、触手を伸ばすだけの力も殆ど失ったニャルラトホテプに興味は無い。
「零の体、返してもらいましょうか?」
ペルセフォネが銃を両手で握り、零に宣告する。
左右にはヒュプノスとノーデンス、背後にはアリアドネ、そして姿も見えぬ程の上空にはゼウスが待機していた。
「何を烏滸言を……、我は此の時、此処に存在しているではないか」
仰々しく零が告げる。
「今、此の夢現に立つ我こそが白井零。……粛々と時の歩みに身を委ねる人と神と邪神の混血」
今は邪神に近くあるが、と零は何でもないことのように言い放つ。
「あなたは邪神ハスターではないの?」
「……血迷ったか? 確かに我は此の湖を境界としてハスターの力を借り受けてはいるがな、我が血の元は違う」
「では、あなたの祖は……」
「母は白井いすか、父は名も無き……いや、答えることもないか」
仮面の中の零はどんな表情をしていたのか、神々に窺い知る術はない。
「なら、無理やりにでも元に戻して聞き出すわよ」
ペルセフォネの放つ殺気に合わせるように、ゼウスは雷の槍を構え、アリアドネは指先から銀糸を紡ぐ。
「ふ……我にそんな戮力が通用するとでも?」
「やって見なければわからないでしょうが。それに、私達が神ってこと、忘れていないでしょうね」
ペルセフォネが答え、ヒュプノスが白い羽毛の翼を広げる。
「行くよ、邪悪の皇太子」
「一番槍は貴様か、精々戯れるが良い」
零は黄金のツヴァイハンダーを片手で振るい、ヒュプノスに向ける。
此処に、神々の戦いの序章が幕を開く。
Sing009 桜花天嵐
「ゆくよ、…眠りの舞羽」
身を縮めて、ヒュプノスは翼から羽根を剣のように飛ばした。
零はその羽根を斬り払っていく。
「君に起きてもらわなければ、ペルセフォネが困るらしくてね。夢の中の君が眠れば、あちらで目を覚ますだろう?」
「生猪口才な……そも、人とは硬貨の裏表、聖も邪も分かつことが出来ない故に人であるというのに……」
「今の君は人と呼べるのか……!」
空を埋め尽くすほどの羽根を剣で散らし、零は進む。
「……我が前に道は無く、その後ろに続く者無し。残るは、屍の山が積もるのみ」
零の言葉に、空に刺す黄金の輝きが光を増す。
「輝け、この力を刃に乗せて……世界に、血の饗宴を」
光が一瞬で剣に収束し、竜の形へと変容する。
竜の剣圧は鱗が剥がれるように燐光を放ち、桜色に剣が染まる。
「竜刃―――桜花極葬」
刃から桜色の竜光が羽根を燃やしながらヒュプノスに迫った。
「ちっ……」
ヒュプノスは激しく翼を羽撃かせ、遥か空へと逃げ場を求めるが桜の竜はヒュプノスを追う。
「ヒュプノス!」
雷神ゼウスが雷撃の槍を投げつけ、瞬間、桜が舞うように光の奔流が空を埋めた。
「ほう、良い腕をしているな。さすがは希臘神話の主神と言ったところか」
「今の貴様に褒められても嬉しくはないな」
「ふん、王からの誉れは素直に受けるものだ」
「儂は神じゃからな、王の賛美など聞き飽きたわ」
ゼウスは零の仮面を狙って二本目の槍を投擲した。
「此れだから地球由来の神は……」
零は舌打ちして、雷撃の槍を鬱陶しそうに払う。
「………何?」
刹那、雷撃の槍は破裂して、零を覆う駕篭となった。
「お手製の結界だ、神なら搦め手など使わんと油断していたか?」
「ナイスね、ゼウス。じゃあそのお面を割らせて貰うわよ」
ペルセフォネが零に近付こうとしたその時、事は起きた。
「あ? ……ぐ……」
零の深蒼の瞳が輝く。
「ちょっと、まさか元に? アリアドネ!」
元の零の紅の瞳は、邪神の力にアレルギーのような反応を示す。
力を削られたとはいえ本気モードのニャルラトホテプに対して、そのアレルギー反応は命を脅かしかねない。
コク、と小さく頷いたアリアドネが零に近寄ろうとした刹那、伏していたニャルラトホテプがこの瞬間を待っていたかのように最後の力で動き出した。
一瞬で新たな触手が生え、薙ぐように払われる。
その先には、零たちの姿。
「くっ……」
唇の端を噛んだペルセフォネがありったけの魔力弾を打ち込むが、横薙ぎされる高層ビル一棟分のエネルギーを消すには至らなかった。
その時―――零の右目が黒と白に明滅した。
虹彩に描かれるは中心が混ざりあった対極図。まるで、混沌を表したかのような。
次の瞬間だけ、零の姿は闇に塗り潰された漆黒に染まっていた。
どこからか飛び出した赤、青、緑、茶色の剣がニャルラトホテプの触手を切り裂く。
「何……? この……懐かしい……感じ……」
アリアドネは呟く。
そして、その一瞬を以って、零は脱力したかのように落ちていった。
「……ノーデンス!」
ペルセフォネが叫ぶ、アリアドネの手を引いて。
「わかっておるわ!」
ノーデンスは零を二枚貝の上にフォローすると、ペルセフォネの前に連れてきた。
「意識を失ってるみたいね……」
「じき、現世で目を覚ますだろう」
「じゃあアリアドネ、今のうちに瞳の中に入ってもらえる?」
「ええ……任せ、て……」
するん、とそのままアリアドネが瞳の中に溶けていく。
既に虹彩は紅に戻っていた。五芒星の中に、もう一つの目が描かれたが。
「では離脱するぞ、ニャルラトホテプの奴にはトドメはさせんかったが、当分は悪さ出来んだろう」
ノーデンスは完全に沈黙したニャルラトホテプを確認してから、二枚貝を引くイルカの手綱を握った。
夢からの脱出は、まるで鏡を突き破るかのように荒々しかった。