Sign007 時を超えて語るもの
「おや、鬼ごっこの次はかくれんぼだと思ったのに、もうやめたのかな?」
突如森から姿を現した零に、ニャルラトホテプは絹を裂くような耳障りな声で哄笑する。
「……ま、とりあえずの勝利条件が見つかったものでな」
零は溜息を吐きながら、ペルセフォネを握り締めた。
それを見たニャルラトホテプは、黒く、暗い触手を唐突に伸ばす。
「へえ、それはぜひとも教えて欲しいね」
伸ばした、というよりは突き出した、という表現のほうが正しいだろうか。
垂直に槍の如く突き出された触手は一瞬で零の元まで届く。
刹那、零の姿がブレた。
触手は零の残像を抜け、遅れて零の姿が掻き消える。
「こちらだ…ッ」
瞬間、左足を軸にした回し蹴りが背後からニャルラトホテプを襲った。
「くあっ!?」
零の声に反応し、振り向きざまだったニャルラトホテプはその直撃を受け、奇声を発して真横に吹き飛んだ。
「…多少、時間を稼がせてもらう」
Sign007 時を超えて語るもの
零はニャルラトホテプを吹き飛ばした状態から、器用に一回転して銃を構えずに連射する。
形状はペルセフォネの基本形、コルトパイソンのようなの回転式の拳銃。
しかし、装填された弾薬はダムダム弾。
「ぐが…ッ!?」
命中した弾は、弾頭に刻まれた溝に衝撃を受け、ニャルラトホテプの体内で飛散する。
ダムダム弾とは、相手の体に留まるフォローポイント弾の一種で、相手に必要以上の苦痛を与える弾として条約で禁止されたものだ。
曰く、体の中で破裂する弾丸。
生物としての体内構造を持つ以上、そのダメージは等しく高い。
「く、ふふ…」
しかし、ニャルラトホテプは少し膝を付いただけでもう立ち上がろうとしていた。
そんなニャルラトホテプの側に、零はいつの間にか立っている。
そしてペルセフォネを虚空へと投げた。
「レミントンM1100を、弾はスラッグ弾だ」
零の呟きにペルセフォネが近未来的な形の散弾銃へとその姿を変え、零はそれをキャッチし、ニャルラトホテプの脚に間断なく銃弾を撃ち込んだ。
「ぐ、あっ!!」
綺麗にニャルラトホテプの脚が膝の辺りから吹き飛ぶ。
レミントンM1100は分類されるところの散弾銃だ。散弾銃とは散弾、すなわちショットシェルと呼ばれる弾を撃ちだす銃の総称であるのだが、ペルセフォネが装填しているものは違う。
スラッグ弾。
拡散する小弾ではなく、巨大な弾丸での破壊力と貫通力に特化したライフル弾である。
「ちっ、このクソがッ!!」
今まで、落ち着き払い、相手を煽るような語りを徹底していたニャルラトホテプが苦悶の声を出しながら背から触手を伸ばして振るう。
そして、ずしゃ、と生々しい音が火の粉舞う森林に響いた。
「れ、零?」
ペルセフォネが信じられないといったような声を上げる。
それは当然だろう、零の左腕が、肩からばっくりと抉り取られていたのだから。
「………あ?」
「はっ、ははっ。…やはり所詮はただの人間じゃないか!」
ニャルラトホテプが再び哄笑する。
だが零は自らの肩を一瞥することもせず、残った右腕でショットガンの照準をニャルラトホテプに合わせる。
「なんだ? その台詞は」
「……は?」
零の右目がキィィンと紅に輝いた。
「……本当にお前は人類を破滅に導く邪神なのか? 今の言葉を聞く限り、三流の小悪党にしか思えんがな」
零の瞳が歪んだ五芒星を灯した瞬間、左腕が再び生える。
逆再生のように、肉体だけを完全に。
「旧神の印だと!? 何故、そんなものを人間が持っている!」
怒りと恐れに震えるニャルラトホテプが零に再び触手を振るう、その下半身はもう泥のように溶けていた。
「……遅いな」
零の紅く染まった右目が残光の軌跡を描き、あらゆる法則を無視して高速で移動する。
そしてその速度を残したまま、零はニャルラトホテプの顔面に位置する太い触手のような部分に膝の打撃を入れた。
「くぎゃっ!?」
さらに次の瞬間には高速で離脱している。
ニャルラトホテプには何が起きたのか、曖昧にしか理解はできないだろう。
「零……大丈夫…?」
脳内にアリアドネの声が響く。非常に澄んだ、白絹のような声だ。
「ああ、まだ使える。もう少し抑えられるか?」
瞳の熱さをアリアドネはその内部から抑えている。
父が持っていたと、母に聞かされていただけの瞳の力を零は使っていた。
零の父は邪神の遺伝子を埋め込まれた創られた人間だったらしい、その所為か父は不思議な力を持っていたという。
触れた邪神類の力をコピーする魔眼。
当時13歳の零少年は幼いなりになんでそんなことができるのかと母に問うたことがある。
その答えは「謎」とのことだった。
さすがにニャルラトホテプのような強大な邪神の力は使えないようだが。
では何の力を使っているのか、それは簡単だ。
夢の中で初めて出会った邪神。
時を操る死神。
クァチル=ウタヌス。
時を超えて語るもの。
「使いすぎには…注意……してね…」
「さっき気が付いたんだけど、その眼、邪神に対してアレルギーみたいなのがあるわね」
少し前、アリアドネに出会った時、ペルセフォネはこう言った。
「私は…旧神…だから……少しは、抑えられる……けど…」
邪神の力を振るうのに、邪神に敵対する紅の虹彩。
「早く、決着を付けなきゃな…」
零の体にはもうガタがきていた。
考えてみれば至極簡単なことだが、零は自らの力を底上げしていたわけではない。
腕を生やしたのは代謝を異常加速させた為だし、体自身を加速させて攻撃や離脱に使っていたのだ、筋肉や骨格に多大な負担がかかっていておかしくない。
「…そうか、クァチル=ウタヌスか」
ニャルラトホテプも零の手品のタネに気が付いたようだ。
もうあまり時間も稼げないだろう。
「邪神の力を使えるとはね、じゃあこちらも本気でいかせて貰うよ」
そしてニャルラトホテプの姿が弾けた。
否、弾けるかのように膨れ上がった。
「……やはり、本気じゃなかったか」
最初からボロボロだった黄色の外套を引きずりながら零が呟く。
まだいけると強がってはみたが、もう殆ど魔眼の力は使えない。
ふう、と息を吐いて、零は雲すら突き破る巨大な黒き怪に立ち向かう。
「ズォォォォォォォォッ!!」
最早、人の言語を使うことすらやめたニャルラトホテプが激昂し、叫びはビリビリと大地を振るわせる。
「さあ…来いよ、化け物」
と、零が言い放った直後、超高層ビルほどもありそうな巨大な触手が振るわれた。
「……いや、流石にそれは無理だろ」
長さが超高層ビル並なのだ、太さは針葉樹3本を縦に並べたくらいはある。
対比がおかしい。避けられる筈がない。
零は瞳を閉じた。
ふと、瞳の熱が途絶え、零に聞こえるのははためく布の音のみとなった。
「……は?」
零は何故か狭まった視界で足元を見る。
はためく黄色の外套、遥か下に更地と大きな湖。
「……………」
瞳ではなく顔が熱い。
熱した鉄板で顔が覆われているようだった。
血が熱い。
まるで自分の体に流れるヒトの血を、何かの血が溶かして侵食するかのように。
「………………」
ボロボロの黄色のマントローブは、零がニャルラトホテプと出会う少し前、湖に立っていた時のように、破れ具合が戻っている。
顔には視界を狭めた蒼白な仮面。張り付いた嘲笑の表情。
熱さを失った右の瞳は青く、暗く、クエスチョンマークを放射状に三つ並べたような図画が灯る。
右手にはペルセフォネ。左手には瞳と同じ図画が刻まれた縞瑪瑙のコイン。
竜巻のような突風が体を纏う。しかし、その風はまるで王座のようで、零はゆっくりと腰掛けた。
風に体を預け、ただマントの端ははためく。
幻想のような世界の中に、零は存在した。
ニャルラトホテプは新たに現れた「零」を凝視する。
服装にあまり変化はない、少しボロボロ具合は戻ったが。
だから先の人間だと認識する。
縞瑪瑙のコインを宙に弾いては、青い軌跡を描くそれをただ受け止め、また弾く。
しかしその何でもない行為をとっても、気配が薄ら寒い。
先の人間の時の気配も冷たかったが、人間にしては、だ。こいつの殺気は凍った湖のように冷たい。
ニャルラトホテプは知っている、この殺気の、自分に向けられた瞳の冷たさを。
「…………………」
零が透明な王座に腰掛けたまま、蚊を払うように腕を薙ぐ。
たったそれだけの動作で、音も立てずにニャルラトホテプの右腕のような太い触手が大地へ落ちた。
ニャルラトホテプの理解は、その時、確信に至った。こいつを知っている、と。
ニャルラトホテプが協力しているクトゥルフ。
それに敵対するクトゥルフの弟、邪悪なる皇太子と呼びなされる神性。
先ほど音も無くニャルラトホテプの触手を落としたのが真空の刃とするならば。
その属性は風。
土たる素を持つニャルラトホテプに対して風。「ハストゥゥゥルルゥ…」
ニャルラトホテプが低く呻く。
その瞳の先には邪神ハスター。
遠き辺境の惑星カルコサに住まう黄衣の王。
魂まで凍るハリ湖の水辺にたゆたう邪悪。
零の姿は、まるでそのハスターのようだった。