Sign005 這いよる混沌
「あれ? 零さん……ですか?」
森の中から現れたのは、綺麗な藍色の髪をボサボサにし、服のいたるところに枯れ葉を付けてやつれたようにも見えるマガリだった。
「……マガリ、か?」
「…ハロー、ですね。探しましたよ零さん……よかった……居てくれて」
「………もう夜だぞ、マガリ」
マガリに応える零の目は、そのマガリをあるがままに『観測』ていた。
何故だかはわからないが、普段のマガリにも多分の『魔性』はある。
人の何倍もの魔力が、彼女の血に混ざっているのはわかっていたのだが。
「………ではないな、誰だお前は」
しかし今のマガリはまるで別物だ。
零の瞳の奥から激痛が、彼女の姿をしたものの接近を、それが警鐘であるかのように熱く告げている。
「え?」
首を傾げるマガリ。
「失礼だが、マガリはそんなに英語の発音が綺麗じゃない。……完成度の低い猿真似だな」
零の答えに、マガリは暫く俯いていた。
「くひひ…」
そしてマガリの口から嘲笑のような声が漏れる。
「な……!?」
次の瞬間には、マガリはいつの間にかぐっと零に接近して、零を見上げていた。
零に察知させずに間合いに入ってこれる人間など稀なのにも関わらず、それはいとも容易く近付く。
「ふは、いやはや全く『居ない人』に化けるのは簡単だけど、やっぱり『居る人』に化けるとバレちゃうもんだねー? あのジジイみたいに操っておくべきだったかな?」
にいっ、と狂気を孕んだ笑顔で。マガリはまん丸に見開いた両目の視線を零の右目に注いでいた。
そして二人は対峙する。
「言っても信じるかはわからないけど、私は―――。…うーん、君たちに依るならナイアルラトホテップといったところかな?」
それの言葉を聞いて、ザドック老人が言っていたその名を零は思い出す。
「ナイアルラトホテップだと?」
成る程、通りで。と零は思った。『千の貌』を持つと言われる存在なら、マガリに化けるくらいわけないだろう、と。
「そうだよ、まあ君が『ニャルラトホテプ』って言ったほうが萌えるって言うんならそっちでもいいけどね。お兄さん、邪神は初めて?」
踊るようなステップで距離をとって、ニャルラトホテプは笑う。
この時点で零はニャルラトホテプと呼称することに決定した。萌えるから。
「まあ初めてではないのかもな、さっき夢でクァチル=ウタヌスと会ったから、あれが邪神ならだが。というか、俺はまだ夢を見ているのか?」
「まあ夢なんだけど、夢じゃないかもね」
「何だ……その、となりの妖獣みたいなパターン」
「ちなみにここで死んだら現実でも死ぬけど。……試してみる?」
マガリの綺麗に澄んだ艶のある紺色の髪が、不意にうねり、纏まっていく。
まるで触手のように。
「試されてたまるか。まあ人類の敵、邪神だもんな。悪いが触手に犯される趣味は無いぞ」
零は右手に握られていた回転式拳銃を構えた。
「……結局、これは夢なんだろうな?」
零が呟くと、ニャルラトホテプは変わらず笑顔で零を見つめた。
「夢だけど、夢じゃない。…ハードボイルドなワンダーランドってやつかな」
「流石に邪神だな……人間に理解できる回答で頼むよ」
Sign005 這いよる混沌
ニャルラトホテプの藍色に艶めく触手が零を絡め取ろうと伸びる。数本のフェイントを混ぜながら、確実に。
「……ちっ」
しかし零も軍人として数々の死戦を潜り抜けてきたのだ。その戦闘能力は特殊部隊上がりのコックに迫ると専らの噂だった。避けながらも冷静に触手の軌跡を見極め、本命はどれかを探る。
「ふふ…」
そして十七度目の触手の鞭打、その直後にそれは来た。
「ふぐぉっ!?」
十七度目の触手で逃げ道を封じた直後の襲来。見えるか見えないかの速度の鞭打だった。
零は右目の反応により、ギリギリでガードには成功したものの、両腕の骨が砕けた嫌な感触と共に吹き飛ばされた。
その先は、エンダージュの湖面。
激しい爆音を立てながら、零は跳ね石のように何度もバウンドしながら吹き飛ばされ、やがて1.7Km先の対岸の樹に背中から叩きつけられた。
「ごぁ……っ」
声が出たことすら称えられてもいい衝撃と重傷だ。体が全く動かない。
ガード時に両腕の骨は粉々に砕け、あばらも殆どが折られたような感覚がある。
そして湖面をバウンド、両足は使いものにならないだろう。よしんば使いものになったとしても、最後に樹で背骨をやられた。神経信号も恐らく途切れてるだろう。
呆けた心のまま対岸に目をやると、ニャルラトホテプは湖の上をゆうゆうと飛行していた。トドメを刺しにくるつもりなのだろう。
そんな絶望を知った時、零の右手からこんな声が聞こえてきた。
「あら、これは手酷くやられたものね」
「…………?」
右手に視線をやると、そこにはあれだけのことがあったというのに手放さなかったのか、しかと拳銃が握られていた。もう握っている感覚すら怪しいものだが。
「こっちよ、こっち」
声は明らかに拳銃から響いている。
「まだ立てそう?」
「お……こぁ、げほっげほっ………メルヘン……だな」
夢なら銃も喋るか、と声では続けられないまでも思う。
零は胸の血を吐き出し、口の中を空ける。すると少しは楽になった。
「悪い、が…立てそうには無い、な」
一回のミスでゲームオーバーなんて、俺の人生の難易度はどれだけハードなのか。
そもそも邪神は人がどうにか出来るような存在ですらないか。
と自嘲気味に零は思う。
銃の声は続ける。
「じゃあ私が力を貸すから、キスしてくれる?」
「は……?」
「だから、キス。私に」
よくわからないが、拳銃にキスすればいいのだろうか。
もうどうにでもなれ、と零は渾身の力を持って、拳銃の撃鉄に唇を寄せた。
「うん、オッケーよ」
刹那、拳銃が黒と紫の螺旋に包まれていく。
「これ、でいいのか? というか、俺は…もしかして……悪魔と契約を―――」
おどろおどろしい黒煙が拳銃を渦巻き、包むのを見て零は呟いた。
「まあ似たようなものだけど、冥界に出入りしてるからって悪魔呼ばわりされるのは頂けないわね。……これでも女神なんだけどな。ほら、もう立てるんじゃない?」
言われて、零は気が付いた。体の痛みが心なしか引いている。
骨が砕けてぶらついてた腕も、しっかり動く。無論、節々の痛みや右目の熱さは消えないが、このくらいのコンディション、戦闘中にしては上等だ。
「まあ、いけるか…」
零は立てあがって喋る拳銃を構えた。
「私はペルセフォネよ。よろしくね、零」
「死と再生を司る女神か、悪くない名前だな。こちらこそよろしく…で、あいつを倒す方法、何かあるのか?」
とりあえず零はまだ痛み残る体に鞭打って、湖とは反対側の森林へ駆け出した。
「んー、難しいわね。ここは夢の中だから、あなたが目を覚ませばいいのだろうけど、根本的な解決にはならないし」
零は深い森に進みながらちらりと後ろを見る、どうやらニャルラトホテプは追ってきているようだ。流石は『這いよる混沌』と言ったところか。這ってはいないが。
「打つ手無しか、やり過ごせないか?」
「まず無理ね、人間の常識なんて遥かに超越してるから。…まあ少しすれば私達の仲間が助けに来ると思うけど」
「私達? 仲間?」
不意に出てきた単語に零が疑問を浮かべる。
「なによ水くさいわね私達、姉弟みたいなもんじゃない」
「…は?」
自分は一人っ子だったはずだが。と零は首を傾げる。
「(生き別れ? 親父の隠し子? というか拳銃だしなぁ…)」
「ま、そんなことはいいか」
そうペルセフォネが打ち切った瞬間、空から稲光が走った。
それは狙い定められたかのようにこちら岸に辿り着いたニャルラトホテプを貫く。
「っと、噂をすれば来たわね。今のうちに距離を稼いだほうがいいわね」
どうやらかなりの衝撃だったらしく、3mほど吹き飛ばされてニャルラトホテプはゆっくりと立ち上がり、零を追って森林に進んできた。
「…ちっ」
彼我の距離は300m程度。零はペルセフォネを構え、ニャルラトホテプに狙いを定めようとして───
「ちょっと待ちなさい」
その拳銃に止められた。
刹那、零の手の中からペルセフォネが弾け飛ぶ。
空中で分解されたペルセフォネは組成を変化させながら、どんどんと細かいパーツごとに変わっていき、再び集結する。
この間、0.2秒。魔法少女変身の法則の脳内適用を推奨。
気が付くと、零の腕にはアサルトライフルが収まっていた。軍人の零でも見たことは無いタイプだったが、構造的にM-4に近い。
「…便利だな」
「契約してよかったでしょ?」
「……やっぱり契約だったんだな、アレ」
魂とか消費してないだろうな、と言いながらもわきわきと髪もとい触手を伸ばそうとしていたニャルラトホテプに掃射する。軍人なので銃の扱いには慣れている。
「くっ…」
威力自体は距離もあるため高くはないが、邪神と言えど物理的な衝撃には怯むらしい。
しかも、その瞬間ニャルラトホテプの背後からありえない角度で雷撃が襲った。
「いけそうか?」
「まあ、足止めくらいならね」
「これ、グレネードランチャー付けられるか?」
銃口下部のレールを示して、ペルセフォネに訊ねる。
「ええ、任せて」
ペルセフォネが弾けてすぐ、触手の横薙ぎが零を襲った。
零は即座にしゃがんで側転し、やり過ごす。
と同時に再結合したグレネードランチャーからグレネード弾を放つ。
「ナイショッ!」
轟音の後、黒煙と火薬の臭いが立ち込め、一瞬ニャルラトホテプの姿が隠れる。
「…………」
零はじっと様子を伺う。未だ、殺気は放たれたままだ。
「もう少し距離を取る」
と黒煙から目を離さぬまま、じりじりと後退を始めた刹那、強烈な殺気に零は飛び退いた。瞬間、先程まで零の隣にあった木々が、神速の触手の鞭打によって薙ぎ払われる。
「あれ、外した? おかしいなぁ」
ニャルラトホテプはグレネード弾に堪えた様子もなくマガリの顔でニタニタと気味の悪い笑顔を浮かべていた。
「ペルセフォネ、何にでもなれるのか?」
「火器ならね」
返事はすぐに届いた。
「俺の想像を汲めるか?」
「勿論よ」
「ならよし……しかし想像がバレるとあってはこれから迂闊に妄想できんな」
零は体勢を立て直してから、広葉樹を盾に身を隠し、ペルセフォネを空中に放った。
瞬間、天から閃光がちらつき、ニャルラトホテプの呻きが漏れる。
「回転式のグレネードランチャーだ、ペルセフォネ」
「弾は?」
零は脳内で簡潔にペルセフォネに伝える。
「了解よ」
少し楽しそうな声色で、ペルセフォネが告げた。