おっさんと大団円
「……ッ、は、」
俺は荒い息をつく。
酸素を求めてこめかみの辺りが熱くガンガンと痛む。
心臓が阿呆のように熱を吐き、調子っぱずれのビートを刻んで苦しくて仕方がない。チリチリ、ぢりぢりと肌を焼く瘴気。
床下から突き上げる触手を蹴散らしていた足先は、分厚いブーツに守られてはいてもすでに瘴気に蝕まれてボロボロた。
痛みと紙一重の熱感に気を散らされる。
すでに、黒竜王の首は落ちた。
残る腐竜の首は七本。
まるでヤマタノオロチの出来損ないだ。
次々と噛みつきに伸びてくる七本の首をしゃらんら☆でぶん殴る。
これで一体どれほどのダメージを与えられているのか。
しゃらんら☆の間合いが狭いこともあり、殴り飛ばされた腐竜の頭から爆ぜるように散る汚泥を避ける術がない。自分もダメージを受けること前提でインファイトを繰り広げるしかないあたり、ジリ貧だ。
上空にはイサトさんの召喚した朱雀が舞っており、俺やイサトさんの回復を図ってはいるのだが、正直間に合っていない。おそらく、実質ダメージというよりも状態異常めいた腐食に心と身体の両方が摩耗しているのだ。
ポーションも追加して少しでも回復しようと距離をとれば、今度は床下を突き破って現れる触手から逃げ惑うことになる。
ぎりぎり直撃を避けられているのは、イサトさんの援護があるからこそだ。
そうじゃなければ、俺はとっくに喰われている。
そのイサトさんにしても、腐竜に蝕まれ、瘴気の立ち込めるこのおぞましい空間での戦闘に神経をすり減らしているのか、その顔には疲れの色が濃い。
少しでも気を抜いたら、倒れる。
何よりもしんどいのは、絶え間なく聞こえ続ける怨嗟の声だ。
『こんな世界滅んでしまえばいい』
『そうだ全部壊してやり直そう』
『みんな私。私がみんな』
『そしたら誰も私を否定しない!』
枯れ木男とも、聖女ともつかぬ声が、この調子で延々と喚き続けているのである。
これがなかなかにクる。
無視している、つもりなのにいつの間にかその声に絡めとられて動きが鈍る。
イサトさんが道を作り、そこに俺が飛び込んで攻撃を加える。
それが俺たちの戦略だというのに、気付くとリズムが狂わせられるのだ。
避けたはずの攻撃が身体を掠め、ぶちのめすはずのしゃらんら☆が空を切る。
「……くッ、そ」
身体と思考が切り離されたかのようなチグハグ感。
微妙なズレが気持ち悪く、そちらに気をとられるとまたズレてしまう。
それは、イサトさんも同じだったらしかった。
その微妙なズレを修正すべく、少しでも正確な援護を行おうと半ば無意識の判断でイサトさんが距離を削る。
駄目だ。いけない。それは、腐竜の間合いだ。
「イサトさん……!!」
退いてくれ!
そう叫ぶより先に、厭らしい歓喜に満ちた声を上げて腐竜の首が伸びた。
「あッ」
そこでようやく己が下手を打ったことに気付いたらしいイサトさんが小さく声を上げる。
身体をひねる。
急な方向転換に、太腿のあたりで厭な音がしたような気がした。
だがそんなもん気にしていられるか!
俺はイサトさんへと迫る腐竜の首へと追い縋る。
イサトさんの前に庇うように降りた朱雀が、腐竜により屠られる。
もともと朱雀は回復を得意とする召喚獣だ。防御力は低い。
蛇に呑まれる小鳥のように、朱雀は腐竜に侵食されて朱色の光を散らしながら消えていった。
朱雀の回復が途切れたせいで余計に身体が重くなる。
それでも、ほんの少しでも朱雀が稼いでくれた時間だ。
間に合え。
間に合え。
間に合え!!!
俺はしゃらんら☆を必死になって伸ばす。
後少し、ほんの少しが届かない。
後一歩だ。
後一歩踏み出せれば手が届くのに。
腐竜の顎がギチギチミチミチと開く。
ぞぶりとイサトさんの柔らかな身体に、その牙を食い込ませようとして――
目の前でイサトさんを失うかもしれないという恐怖に、摩耗した俺の精神が耐えきれず叫びだしそうになったところで、ふと、耳元で小さな声が響いたような気がした。
「――……、」
なんだ。
人は死を目前にすると走馬燈を見るという。
死にそうな目に遭った時、まるで時の流れがスローモーションのように感じられることがあるとも。
俺は目の前の現実を認めたくないあまりに、その時の流れを引き延ばしてしまっているのだろうか。
間延びした世界の中、俺の耳元で響く音が少しずつ大きくなる。
それは旋律だった。
懐かしい、ゲーム内のセントラリアの教会で耳にしたメロディ。
イサトさんを喰らおうとする腐竜に向かって突き出したしゃらんら☆を握る俺の手の下に、もう一つ小さな手が添えられているのが見えた気がした。
白く小さな手の先には、白と赤の清らかな装束に身を包んだ少女がいた。
まだ人の姿をしていた頃の聖女によく似ているような気がするが……それよりももっと幼くてあどけない。それでいて、きり、とつりあがった眉はどこか凛々しく、自分の意志を貫きとおすような――ちょっと言い方を変えるとどこかじゃじゃ馬っぽい――強さがあった。そう。それはきっと、妹を襲った野犬に一人で立ち向かい、怪我を負いながらも妹を守り通してみせるよう、な。
「―――あ」
それは、ほんの一瞬のことだった。
すぅとその少女の姿が消えると同時に、俺の手の中にあったしゃらんら☆が姿を変える。可愛らしいドリーミィピンクの色合いがすぅと薄れて、代わりに滲むのは眩いほどの清浄な銀の煌めき。
手に吸い付くように馴染むその感触は、使い慣れた愛用の大剣にとてもよく似ていた。
「ウルァアアアアアアアアアアアア!!」
吠える。
イサトさんを、奪われてたまるか。
振るう。
全力で、渾身の力を込めて、届かないはずの一撃を俺は振るう。
そして――……ずぱんッ、と腐竜の首が舞った。
グギャァアアアアアア!?
首を斬り落とされた腐竜が戸惑ったような悲鳴を上げてのけぞる。
「ッ、……、は、……、あ、は、……!」
息が苦しい。
それでも止まれない。
まだ、止まらない。
俺はそのままの勢いでイサトさんの下まで駆け寄ると、その身体を腕の中にしっかりと抱きこんだ。絶対に、獲られてなるものか。それしか考えられなかった。
左腕でしっかりイサトさんの身体を胸内に抱き込み、右手で持つものを悶絶する腐竜に突きつける形で構える。
左腕に伝わるイサトさんの体温と、柔らかな身体の感触に泣きそうなほどの安堵が込み上げた。
「……よか、った」
肩越しに抱いたイサトさんの首筋に、額を落とすようにして呟く。
良かった。
ちゃんと生きている。
間に合った。
イサトさんの手が、宥めるように俺の左腕をぽんぽんと撫でる。
「ごめん、助かった」
「いい」
どんな状況であろうと、イサトさんを護るのが俺の役割だ。
だから、イサトさんを助けられたならそれで良いのだ。
が。
さすがに、しゃらんら☆だったはずの右手の得物が、神々しく煌めく一振りの大剣に変わっていたことに関しては無視できなかった。
「ええと、これは一体」
「しゃらんら☆が、剣に化けている」
「うん」
化けている。
剣の柄と、幅広に伸びる大剣の中央には薄く蒼の乗る装飾が繊細に彩っている。細部の装飾はどこか繊細でありながら、作りは豪胆で力強さを感じさせる大剣だ。
何より特徴的なのは、その大剣の周囲では呼吸が楽になることだ。
まるで、大聖堂内に立ち込めていた瘴気を浄化しているかのようだ。
『女神め、女神め、また私の邪魔をするのかァアアアアア!!』
腐竜が怨嗟の声を上げる。
不思議なことに、腐竜は斬り落とされた首を再生させることが出来ないようだった。先ほどまでとは逆で、俺に斬り落とされた首の断面はまるで光に侵食されたかのように萎びて乾いている。
「聖属性……?」
「みたいだな」
「だが、その剣は一体どこから」
「なんか、歌声が聞こえたんだ」
「歌、声?」
この声が、イサトさんには聞こえていないのだろうか。
「――……本当だ。聞こえる。って、……あ」
イサトさんが微かに身を竦ませる。
その視線の先にいたのは先ほどの少女だ。
彼女は、イサトさんが手にしていたスタッフにも、そっと触れた。
神々しい光がスタッフに纏わりつき、ゆっくりとその形を変えていく。
黒く、どこか禍々しい形をしていたスタッフは、纏う銀光をそのまま色に変えたような優美な錫杖へと変化していた。すらりと伸びた長さは、イサトさんの身の丈ほどもある。
その変化を見届けると、白い光を纏った少女は小さく笑ったようだった。
そして、俺とイサトさんに向けて頭を下げて――消えていく。
「……アレ、は」
「たぶん、聖女だよ。本物の」
女神に仕えるために徳を積み、優秀な巫女であったがために偽の聖女に目をつけられ、誰にも知られずに屠られてきた何人もの聖女たち。
きっと、女神がその姿を借りて俺たちに力を貸しに来てくれたのだ。
「……よし」
「行くか」
俺とイサトさんは、視線を交わして笑いあう。
先ほどまでの追い詰められた焦燥感はもうなかった。
腐竜の上げる怨嗟の声も今は遠い。
俺たちの耳元で響くのは、懐かしい祈りの歌だ。
たくさんの声が重なるその歌声の中には、どこか聞いたことのある声たちが溶け込んでいるような気がした。
俺はイサトさんを抱き込んでいた腕を解いて、大剣を携えて再び腐竜へと踏み込んでいく。
『死ね! 死ね! 死んでしまえ!!』
呪詛めいた罵声とともに黒い逆氷柱が床下から突き上がってくる。
それに向かって俺は大剣を一薙ぎ。
斬り落とされた触手は、そのまま黒い塵となって消えていく。触れれば肌を焼く汚泥が散ることもない。
『厭だッ、来るな! 来ないで!』
叫ぶ声も気にせず、俺は一息に距離を詰める。迎撃しようと迫ってきた腐竜の頭へと駆ける勢いもそのままに左下から右上へと斬り上げた。ずばんッ、と大剣の刃がまるで吸い込まれるように腐竜の首を断ち切る。先ほどは夢中で見届けられなかったものの、今回は斬り落とされた腐竜の首が先ほどの触手と同じようにばしゅりと黒い塵に変わるのを見た。追撃のつもりで迫っていた二本目の首が怯んだように逃げようとするが、遅い。返す刀で斬り伏せて、三つめの首が飛ぶ。
これで残りは四つだ。全部、斬り落としてくれる。
俺が腐竜へと接近するタイミングを見計らって、イサトさんが攻撃魔法を放つ。
「F1! F2!」
ピシャァンとピンポイントで生じた雷撃が、腐竜の頭の一つをバヂンッと弾き飛ばした。雷光の中で、腐竜の頭が消し炭と変わり果てて消え失せる。雷撃に痺れたのか、それとも怯えに身体を竦ませたのか、その隙にさらに迫って首を刎ね飛ばす。これで五つ。残る首は後二つだ。
と、そこで腐竜の様子が変わった。
ぶるぶると巨躯が揺れて、まるで空気が抜けるように萎れていく。
もともと七本もの首を支えるための土台としてしか機能していなかった胴体が、重力に負けたかのように潰れてゆく。へしゃげたプリンのようにぐずぐずになった胴から生えた二本の首だけがゆらゆらと揺れ――…やがてその腐竜の頭からそれぞれずるりと人の上半身が生えた。
聖女と、枯れ木男だ。
まるで人の死体が黒くヌメる腐竜の頭から生えたかのようで、酷くアンバランスな光景だ。見ていて、心が不安定になる、というか。
さらに様子がおかしいことに、その二人は俺たちには目を向けることもせずお互いを憎々しげに睨みあっている。
『どうして私を認めてくれない!』
『どうして私を認めてくれない!』
二人が同時に叫ぶ。
『女神よ! あなたは私に男として頑健な身体も、勇ましい魂も授けてはくれなかった!』
『女神よ! あなたは私に清らかな乙女の身体を授けてはくれなかった!』
『私にあったのは女のようにひ弱な身体と怯え惑う弱い心のみ!』
『私にあったのは女にもなれず聖女としての役にもつけぬ役立たずの男の身体のみ!』
『厭だ厭だこんなものは欲しくはなかった!』
『厭だ厭だこんなものは欲しくはなかった!』
ユニゾンを奏でる声で二人は嘆く。
そして、互いを罵りながら首を絡め、お互いを喰らい合う。
なんだか、そんな光景に俺はすっかり空しくなってしまった。
イサトさんも、同じ気持ちなのだろう。
痛ましげに金色の双眸を伏せている。
「哀れだなあ」
「…………結局、最後の最後まで自分を否定してるのは自分自身じゃねぇか」
囚われている間に見た夢の中の少年を思い出す。
可哀想な子どもだった。
ただ愛されたいだけの子どもだった。
環境が彼を歪めてしまった。
そして皮肉なことに、彼の父親がさんざん無能だと罵り続けた彼には、歪んだ才能があった。彼は確かに、彼の父親が望んだ通り、類稀な才能を持つ優秀な子どもだったのだ。
彼は、何百年もかけてそれを証明した。
そして今も、それを証明しようとし続けている。
「……もう、頑張んなくていいんだよ」
ちゃんと、終わった方が楽になる。
この世界の明日のためにも。
いつかの夢の中でひとりぼっちで泣いていた子どものためにも。
俺とイサトさんは静かに殺し合う二人へと距離を詰めた。
白銀の光が、煌めく。
腐竜の最後に残された二本の首がすぱん、と落ちて。
妄執の塊めいた二人の姿は、他の汚泥と同じくばしゅりと微かな音を響かせ黒い塵へと化して消えていった。
それが、セントラリアを、ひいては一つの世界を終わらせようとしていたモノの最期だった。
全ての頭を落とされた腐竜の身体は、後はもうぐずぐずと崩れていくだけだった。今はもう、命の脈動はなく、ただただその場に蟠る汚泥と化している。
「……これ、浄化した方が良いんだろうか」
「イサトさん、浄化ってできる?」
「…………」
イサトさんが難しそうな顔をする。
俺やイサトさんはこれまでもヌメっとしたイキモノと戦い、浄化めいたことをしてきているがそれは全部浄化(物理)である。聖属性のついた鈍器でぶん殴って消滅させることで、浄化(物理)していたのだ。
この一面に広がる黒い泥を、くまなく大剣と錫杖でぶすぶす刺して歩いて回る必要があるのだろうか。
イサトさんは悩ましげに眉根を寄せつつ、まるで試してみるかのように長い錫杖の先でちょん、と汚泥をつついた。
果たして、それが何か効果をもたらしたのか。
ふわっ、とイサトさんがつついた先から、蛍のような小さな光の粒が一つ零れ落ちた。それはふわふわと、空へと舞い上がっていく。
「これって……」
「うわった!?」
その最初の一粒を皮切りに、ぶわあああッと黒い汚泥の中から無数の光の粒が立ち上って空へと昇っていく。
「…………今まで、喰われた人たち、なのかな」
「やっと、還れるんだな」
これまで汚泥の中に囚われ、この世界の理から外れていた魂たちが、今ようやく女神の下へと還っていくのだ。
きっと、これでこの世界は正しく廻りだすだろう。
そうして、ふわふわと細かい光の粒が空へと舞い上がっていく中、逆に何かきらきらしたものが俺とイサトさんの目の前にゆっくりと降ってきた。
手のひらで受け止める。
ひやり、とした石の感触。
それは――……色鮮やかなエメラルドグリーンのジェム。
「…………」
「…………」
何か込み上げるものが大きすぎて、言葉にならない。
これで、帰れる。
俺たちは、元の世界に帰ることが出来るのだ。
いざ帰れると思うと、なんだかどうしていいのかわからなくて俺とイサトさんは顔を見合わせた。
「どう、しようか」
それは、帰るかどうかを聞いたつもりではなかった。
もちろん帰る。
だが、その前に何かやり残したことはないか、それを聞いたつもりだった。
だというのに、イサトさんはわかりやすくへにゃりと眉尻を下げた。
「…………秋良、……君はやっぱり帰りたくはない、か?」
「まってなんでそうなった」
「だって」
イサトさんは悲しげに双眸を伏せながらも、口元だけは小さく拗ねたように尖らせた。
「……君、レティシアが好きなんだろう」
それ今来る???
思わず真顔になった。
「待って。ねえ待って。イサトさん、ちょっと落ち着こう」
「ぅん?」
なんだその、恥ずかしがる気持ちもわかるから大丈夫だよ、的な大人の包容力に溢れた顔は!
「なんで! そうなった!?」
「え……、だって」
今度は何故か、イサトさんが照れたようにうっすら目元を染めた。
なんだこれ。
どういう状況だ。
「……黒竜王のところに出発する前に、皆が見送りに来てくれたことがあっただろう?」
「あった」
そういえば、イサトさんの様子がおかしくなったのはあの時からだ。
何か一人で物憂げに考えこむことが増えた。
「……あの時に、ニーナが言ってたんだ」
「ニーナが? なんて」
厭な予感がする。
イサトさんは、ちろ、と上目遣いに俺を見る。
「…………秋良青年に、好きな人がいる、って」
「ぐげふ」
血を吐きそうになった。
「ニーナが、親の言う通りに政略結婚のために君に近づいたときに、自分の好きな人は自分で自分の進む道を選んで、そうと決めたならその結果どんなことが起きても自分の選んだことだと受け入れて前に進める強い人だ、って言って諭したって聞いた」
「ぶげふ」
俺のHPはもうゼロよ。
うっかり第三者へと漏らした惚気というか好きな人のどこが好きか、という話が回り回って本人の口から語られるというこのいたたまれなさ、プライスレス。
やばい。死ぬ。うっかり死ぬ。
元の世界へと戻る手立てを手に入れたはずの今、俺はイサトさんに殺されそうになっている。俺のメンタルが殺される。
「……それって、レティシアのことだろう?」
「違う」
即答で否定した。
「え」
ぱちくり、とイサトさんが瞬く。
確かにレティシアだって、トゥーラウェストから単身セントラリアに乗り込んできた気丈な少女だ。飛空艇を襲われたり、俺たちと一緒に参加した城での舞踏会ではエレニの襲撃に巻き込まれたりもしているが、それでもレティシアは一言だって親元に帰るとは言い出さなった。セントラリアのため、獣人のために今もレスタロイド商会のセントラリア支部の代表として頑張っている。
うん。
確かに、当てはまる。
当てはまりはするが、違うんだイサトさん。
と、いうか。
「……あの後セントラリアを出てからイサトさんの様子がおかしかったのってさ」
「……っ!」
ぶわあ、と。
今までも赤かったイサトさんの目元が真っ赤に染まった。
ツンと尖ったエルフ耳の先まで赤い。
「……もしかして、俺がこっちに残るって言い出すかもしれないとか思ってた?」
「ッ、……あの時は! 元の世界に戻る方法なんて全然わからなかったし、こっちの世界で生きていかなければいけなくなる可能性だってなくはなかっただろう!」
「うん」
「だからこっちで好きな人が出来たなら、ここの世界で暮らすことを選ぶ可能性だってないわけじゃないって思ったんだ! それに……っ」
イサトさんがき、と俺を睨みつける。
なんだなんだ。
そんな真っ赤な顔で睨まれても可愛いだけだぞイサトさん。
「最果ての洞窟が見つからなかったときだって!」
「うん」
「私はもう元の世界に戻れないかもしれない、って落ち込んでるのに、秋良はなんかわりと平気そうな顔してた!」
「…………」
あの時やたらイサトさんがしょんぼりしているように見えたのは、そのせい、だったのか?
俺が、この世界に好きな人が出来たが故に、元の世界に戻れなくても良いと思っている、なんて考えて。
「…………違う」
俺は呻くように口を開いた。
「……へ?」
「俺が! 平気そうな顔をしてたのは! 俺まで落ち込んだらイサトさんがもっと不安になると思ったからです!」
あーくそ、なんだこれ恥ずかしい。
何かいろんなことの符号があっていく。
セントラリアから出た後にイサトさんが口にした別れへの寂しさは、いつか来るであろう俺との別れを覚悟して漏れた言葉だったのか。
なんだそれ。なんだそれ。
壮絶なすれ違いに頭を抱えたくなる。
「…………」
イサトさんが、ちょろ、と俺の顔を窺う。
俺も、じんわり顔が赤くなっている自覚はある。
「それじゃあ、君も一緒に帰る?」
「当たり前だ」
むっすりと口元をへの字にしつつ宣言。
「……そ、っか」
よかった、と呟くイサトさんはなんだか心底安堵したように見えた。
可愛い。ああくそ。このヤロウ。襲うぞ。
なんて思っているところで、ばさりと羽音が響いた。
お、と顔を上げると、破れた大聖堂の屋根の隙間からにゅ、と竜化したエレニが顔を出す。
『終わった?』
「ああ、終わった。全部終わったぞ」
『――…そうか』
エレニの声にも、全てが終わったのだという感慨が滲んでいた。
まだわずかに舞う光の粒を、エレニはそうと見上げる。
そしてそんなエレニの背からやたらにぎやかな声が響いた。
「アキラ! イサト! オマエら無事なんだろうな!」
「――……」
思わず俺は黙りこむ。
エリサだ。
だがエリサよ。
お前が乗ってるの、馬でもなんでもなく、今代の黒竜王だぞ。
エレニもエレニだ。
良いのか、獣人の少女の足にされて。
俺の眼差しに、言いたいことは伝わったのかエレニがふい、と目をそらす。
これ、きっと乗せていけと騒ぐエリサを断りきれなくなったパターンだな。
今頃、残されたライザは涙目に違いない。
けれど、ちょうど良かった。
俺はエリサに渡すものがあったのだ。
「エリサ! セントラリアに巣食ってた紛いモノは俺とイサトさんが倒したから、もう全部大丈夫だ! で! 俺とイサトさんは故郷に帰ることになった!」
「ッ……! そんな、早すぎるだろ! オマエら、セントラリアを救った英雄なんだぞ! それなのにいなくなるなんて勝手だろ!!」
口ではそんな風に怒りながらも、エリサの双眸からはぼろぼろと涙がこぼれ始めた。しゃくりあげるようにひくりと喉が鳴る。
「まだ……ッ、ちゃんと、お礼も、言ってないのに!!」
「今聞いた!」
「ばか!!」
エレニがそっと大聖堂の中に降り立ち、エリサのために身体を伏せてやる。
エリサはほとんど滑り落ちるかのような勢いで地面に降り立つと、そのまま俺たちへと飛びついた。
「ありがとな、本当に、ありがとう……!!」
感謝の念をその身の丈で伝えようとしているかのように、エリサは小さな身体で力いっぱい俺たちを抱きしめる。ぎゅうぎゅうとくっつくその一生懸命な腕の強さに愛しさがこみあげた。
「エリサ、」
俺はインベントリへと手を滑らせると、その中から一本の短剣を取り出した。
地下を探索している間、イサトさんは夜になると刀鍛冶に転職して騎士たちのために剣を打ちまくっていた。おかげでそれなりに鍛冶スキルのレベルの上がったイサトさんに、密かに頼んでいたのだ。
「それ……、アキラの」
「おう。俺の大剣が黒竜王とやりあったときに折れちゃってさ。その破片で、イサトさんに打ってもらったんだ」
クリスタルドラゴンの短剣である。
かなりレアなことは間違いない。
ただ、今のエリサのレベルではたぶん、振れない。
「……俺、最初に出会ったときにお前の短剣へし折っちゃっただろ」
パニクったエリサがイサトさんに刃を向けたことに対して、過剰反応した俺がつい迎撃してしまったのだ。あの時のエリサの呆然とした怯えを含んだ眼差しを思い出すと、今でも心が折れる。
ずっと、気にかかっていたのだ。
だから、この短剣はエリサに渡したい。
「お守りだと思って、持っててくれ」
「……っ、ばか……っ、ばか!」
顔をくしゃくしゃにして泣きながら、エリサが短剣ごと抱きしめて俺にしがみつく。その背を宥めるようにぽんぽんと撫でながら、俺はもしかしたらライザが一緒じゃないのは、ライザがエレニを怖がったからではなく、泣いているところを見られるのを嫌がったエリサがわざとおいてきたんじゃないのか、なんて考えていた。
「……もう、会えないのか」
ぐず、と鼻を啜りながらエリサが問う。
「まあ、そうだろうな。だいぶ遠いところに帰るつもりだから」
「今まで、ありがとうな」
イサトさんの指先が、柔らかにエリサの髪をかき撫でる。
そのついでのように、さりげなくぺたん、と寝たエリサの▲耳をつまんでいったのを俺は見たぞ。ずるい。俺も、イサトさんを真似て宥めるふりでエリサの耳をふにりとつまむ。柔らかい。素晴らしい触り心地である。
心なしかエレニが俺たちに生ぬるい目を向けている感。
「……他の皆には、何も言わないで行く気なのかよ」
「あー……」
「引き止められても大変、だしな」
きっと、皆俺たちのことを引き止めてくれるだろう。
だが、きっと一度足を止めてしまったらずるずると出発を先延ばしにしてしまいそうな自分たちがいることを、俺たちはわかっていた。
「軽ーく挨拶してから、行くことにするよ」
「ん」
イサトさんの言葉に頷く。
そして――……俺たちは、再び羽音を響かせて空へと舞い上がった。
俺とイサトさんが跨るのはいつものようにグリフォンだ。
エリサはエレニの背に乗って、セントラリアの人々が避難しているのだというエスタイーストへと続く街道のあたりへと向かう。
エレニの巨躯は、地上からでも見つけやすいらしい。
大勢の人が集まる上空にさしかかると、さっそく眼下で賑やかな歓声が上がった。俺たちが共にいる、ということで、すべてが無事に終わったことをきっと把握したのだろう。
抱き合っているのは団長さんとエラルドだろうか。
手を取ってぴょんぴょん跳ねているのは……まさかあれ、シオンとアルテオか?
肩を組んで互いの背をばしばし叩きあっているのはクロードさんと商人だ。
そして、一番手前で俺たちに向かって一生懸命手を振っているのは、レティシアとライザだった。
「俺たちはもう帰るけど!!」
「セントラリア、頑張って立て直してくれ!!」
大聖堂に関しては、おそらく物理的に建て直す必要がある。
だが、きっとそれもセントラリアに暮らす人々が手をとりあい、力を合わせたならばきっと難しいことではないはずだ。
イサトさんが、す、っと錫杖を構える。
なんだ、何をする気だ。
ひゅん、と風切り音とともに錫杖が振るわれ、それと同時に青空に咲いたのは鮮やかな花火だった。
何かのイベントの記念でもらったお遊びスキルだ。
戦闘にはなんの役にも立たない、ただ花火があがるだけのスキル。
だが、お祝いごとには相応しい。
セントラリアと、俺たちの門出によく似合う。
俺とイサトさんはいくつもの花を空に咲かせて――……やがてそのまま俺たちは自然と北を目指して駆けだしていた。
俺たちがやってきたのは、北の最果て。
この前訪れたときには何もなかったはずの海に、今はぽっかりと浮かぶ小さな島がある。
女神が、気を利かせてくれたのだろうか。
ただし、あの魔窟めいた恐ろしい洞窟はない。
今からあの新規マップボスとリアルで一戦交えてから帰れ、なんて言われていたら俺は全力で女神に文句をつけていた。良かった。
とん、とグリフォンの背から降りて、最果ての小さな島で俺とイサトさんは向かい合う。
俺の手の中には、エメラルドグリーンのジェム。
これを発動させれば、俺とイサトさんは元の世界に帰ることが出来る――…はずだ。
俺は、そっとイサトさんへとジェムを握るのとは逆の手を差し出した。
イサトさんも、当たり前のように俺の手を握り返す。
「……帰るか」
「うん」
まっすぐに向かい合う。
元の世界に帰れば、こうしてイサトさんと過ごす日々は終わる。
銀の髪に金の瞳、なめらかな褐色の肌のダークエルフなイサトさんは見納めだ。
なんだか今更になって、少しばかり惜しいような気にもなる。
そんな感傷を振り切るように、俺はエメラルドグリーンの転送ジェムを発動した。
いつかあの洞窟で炸裂したような真白の光が、カッと俺たちの視界を灼く。
そんな中、俺はぎゅ、とイサトさんの手を握って。
「イサトさん」
「ん?」
「俺の好きな人って、イサトさんのことだから」
「ッ!? !!!??」
イサトさんの手が、かっと熱くなる。
きっと、今頃顔を真っ赤にして、わたわたしているのだろう。
そんな顔を見られないのが心底残念だ。
最後の最後。
いつも俺を手玉にとって転がしていたイサトさんの度肝を、とっておきの内緒話で抜いてやることに成功した喜びを咬みしめて喉を鳴らして笑う。
ぎりぎりと痛いぐらいに握られる手のひら。
繋いだ手の先にイサトさんの体温を感じながら――…俺の意識は静かに暗転した。
ふと、目を開くとそこは俺の部屋だった。
「――……、」
手を見る。
当然のように空っぽだ。
その手の先に、銀髪金瞳、褐色肌のエルフはいない。
目の前には、完全にブラックアウトした俺のPC。
ふと、自分の身体を見下ろす。
いつもの部屋着だ。
まるで、あの世界に飛ぶ前と何も変わらない。
PCデスクの上に置かれていたスマホを手に取る。
時刻は、昼下がり。
ちょうど、俺たちがあの追加マップを攻略していた時間帯だ。
日付を見る。
あの日だ。
俺とイサトさん、もといおっさんが、お互い暇ならぶらっと追加マップにでも攻め込んでみるか、なんて軽いノリで約束していた日。
俺たちがあの世界で過ごした時間は、夢か幻のように消え失せた。
きっと、自分の世界を救うために俺たちを利用した女神のせめてもの心遣いなのだろう。
全ては、なかったことになった。
けれど、あの世界で経験したことが全て夢だったのではないかと疑う気持ちは不思議と湧かなかった。俺は確かに、あの世界にいた。大剣を振るい、ヌメっとしたバケモノを倒し、世界を救って帰ってきたのだ。
だから、その日は、きっと俺、遠野秋良にとっては特別な日になった。
ほぼサービス開始当初からプレイしていたMMO、レトロ・ファンタジア・クロニクル――略称RFC――の最新かつ最深マップの踏破に手をかけた。
そして――…無事に異世界を救って帰還した日でもあるのだから。
俺たちが、異世界を救ってからどれくらいの時間が過ぎただろう。
ざわざわと人どおりの多い駅の片隅、改札前でぼんやりと人の流れを眺めながらそんなことを思う。
あの日以降、いろんなことがあった。
イサトさんがしばらく音信不通になって俺がヤキモキしたり。
結局待ちきれなくなって突撃したりだとかのなんやかんやがあったり。
そんなあれこれを経て、俺と伊里さんは元の世界に戻った今も、相変わらずつるんでいる。
「秋良、待ったか?」
「や、俺も今来たとこ」
俺はひょいと背を預けていた壁から背を浮かせて、目の前にやってきた女性へと視線を向けた。
そこにいるのは、女神の力でなかったことになった異世界での日々、隣にいるのが当たり前だったひと。
俺の肩ほどまでの背丈は変わらない。
ただ、腰のあたりまでありそうな長く艶やかな髪の色は黒だし、俺を見上げる双眸も同じく黒だ。肌の色は本人が主張する通りインドア派であるせいか、やや白めだ。あの世界にいた頃とは逆に、こちらでは俺の方が肌の色が濃い。
そんな色味を除けば、顔立ちはあの世界で共に過ごした彼女と何も変わらない。
俺を見上げる角度も、柔らかに笑いかける表情も、あの頃と同じ。
「秋良はどこか行きたいところあるか?」
「とりあえず腹減った」
「それじゃあ……、駅近くの洋食屋さんは?」
「伊里さんあそこのシチュー好きだよな」
「ロールキャベツも好きで今迷ってる」
「その店に行くことは決定してるのか」
「他どっか行きたいところあった?」
「や、ない」
「なら決定で」
こことは異なる世界で交わしていたのと、そう変わらないいつものやり取り。
「ん」
当たり前のように、どうぞ、と伊里さんへと手を差し出す。
当たり前のように、伊里さんが手を握り返す。
それでも、ちょっと唇を尖らせて口を開く。
「……秋良青年、さすがにはぐれないと思うのだけれども」
「やだ。第一、そう言って気づいたらはぐれてるのが伊里さんだろ」
「迷子放送で呼ぶから」
「普通に電話してくれ迎えに行くから」
「はい」
おっさん「が」美女だった、というところから始まった俺たちの物語。
それはきっと、おっさん「と」美女、になるまでの腐れ縁に違いないのだ。
ここまでお読みいただきありがとうございました!
なかなか感想に返信することができていませんでしたが、すべて目を通させていただいています。
ここまで書くことができたのは、読んでくださった皆様の応援のおかげです。
本当にありがとうございました!
「おっさんがびじょ」五巻は8月15日発売です!
詳しくは活動報告にまとめようと思うので、そちらもどうぞよろしくお願いいたします!




