汚泥の見る夢
夢を見る。
夢を見る。
誰かの悪夢を覗き見る。
夢の中の俺は、小さな子どもだった。
鏡に映る俺は細く華奢な、顔色の良くない少年だった。
顔立ちは整っているものの、常に下がり気味の眉尻と、おどおどとした上目遣いが自覚のないまま人を苛立たせてしまうような、そんな子どもだった。
夢の中の俺は、どうやら王族であるらしかった。
母親も父親も、お前には王位継承権があるのだからしっかりと努力して誰からも認められる男になれと俺に言い聞かせた。
けれど――…俺はどうにも運動がダメだった。
ほんの少し走っただけで、ぜひぜひと息が切れて目の前が霞む。
心臓がばくばくと暴れて胸が痛くなる。
そして何より、俺は武器を手に取ることが怖くて仕方なかった。
ぎらりと光る刃物が、それが彷彿とさせる暴力が、俺には怖くて仕方なかった。
俺が成長するにつれ、そういった性質ばかりが目立っていくことに父親は随分と失望したようだった。
両親の喧嘩が増えた。
父親は母親が甘やかすからいけないのだと母親を責めた。
母親はお前がちゃんとしていないから、と俺を責めた。
俺の父親は、王弟であるらしかった。
兄がいたことで王にはなれなかった父親は、その夢を俺に託したかったものらしい。だが、よくよく考えると彼の兄であり、現国王でもある男には一人息子がいた。しかも俺より年上だ。
俺が王位を継げる可能性は、限りなく低い。
それこそ現国王の息子が不慮の事故でぽっくり逝きでもしない限り、俺に王位が回ってくることはないだろう。
それは誰にでもわかる現実だった。
けれど、父親だけは息子が優秀でさえあればチャンスがあると信じていた。
そう、信じたがっていた。
父親は俺に理想の息子であることを求めた。
父親の要求に応えられなければ、時には殴られることもあった。
俺が男らしくないことが最大の問題だと思っている父親であったもので、父親は俺を鍛えるのだと言ってよく剣の訓練へと連れだした。
そして、まともに剣を手にすることすらできない俺を軟弱だと罵った。
剣の鍛錬やら格闘術やらで痛い目に遭う度に、ますます俺は戦うことを恐れるようになった。怒鳴る声、冷たい眼差し、振り上げられる拳、何もかもが怖かった。
父親が相手でもこれほど怖いのだ。
モンスターなど、どんなに恐ろしいかわからない。
もし、兄弟でもいたのなら俺の環境は少しでも良くなったのかもしれない。
両親が望みを託すことが出来る兄弟が他にいでもしたのならば、俺の肩に寄せられる重すぎる期待も少しはマシになったのかもしれない。
けれど、母親は俺以外の子を孕むことはできなかった。
母親にとって俺は父親の気を惹くための道具にしかすぎず、その役目を果たすことのできない俺は要らない子だった。
父親にとって俺は自分の果たせなかった夢をかなえるためのコマに過ぎず、その役割を果たすことのできない俺はやはり要らない子だった。
俺を見て。
俺を愛して。
俺を認めて。
助けて女神さま。
お願いです。
誰かひとりで良いから、俺を見てくれる人を与えてください。
俺の存在を許してくれる人を、お恵みください。
少しでも親に愛されたくて、認められたくて、俺は魔法の研究に没頭した。
静かな図書室に籠って本を読んでいる間だけは安心することが出来た。
怒鳴り声も響かず、冷たい眼差しを向けられることもない。
もともと魔法の方面に才能があったのだろう。
俺の知識は城付きの魔法使いにも匹敵するほどになったし、扱える術もあっというまに誰にも負けなくなった。
これで認めてもらえると思った。
これでようやく息子として認めてもらえると思った。
けれど――…それだけ魔法が使いこなせるなら大丈夫だろうと連れていかれた初めての狩りで、俺はモンスターを前に身体が硬直して動けなくなった。
呪文を一つ唱えれば、そんなモンスターを消し炭にしてしまえることがわかっていたのに、杖を握る手が震えて、喉がカラカラになった。
怖い。
ただひたすらに怖い。
植物型のモンスターのうねる蔦が、ぱちんと頬を叩く痛みにすら泣いてしまいそうになった。
初めての狩りを見届けるために同行していた父親の「何をしている、さっさと殺せ」と怒鳴る声が響けば響くほどに俺は委縮して動けなくなった。何もできない。呪文を唱えさえすれば軽く瞬殺できるような相手を前に、俺の喉はひくひくと震えるだけで、声らしい声を発することすらできなかった。
結局見かねたように助けてくれたのは、現国王の息子、従兄上だった。
情けないと父親に殴られる俺を庇い、初陣なら動けなくなっても当然だと言ってくれた。
俺を庇う従兄上の背は高く、広く、俺とは比べものにならないほどにたくましかった。
格好良い、と憧れた。
初めて、優しくしてくれたひとだった。
父親は、ライバルである現王の息子に憐れまれるなんてと余計に荒れたけれど、そんなことはもう俺にはどうでもよかった。
従兄上こそが次代の国王には相応しい。
俺は国王になんてならなくても良い。
従兄上に必要とされたい。
従兄上を助けたい。
戦うことが怖いのなら、戦う従兄上をサポートすることはできないだろうか。
俺は、従兄上をサポートするための魔法を次々と覚えた。
相変わらず武器を持つことは怖かったし、戦うことも怖かったけれど、それでも従兄上と狩りにいくことは楽しかった。
共に馬を並べ、自然の中を走らせ、木漏れ日の下で笑いあった。
剣に優れる従兄上は、国王の命令でモンスターの討伐を任されることもあった。その度に父親には「それに比べてお前は」と罵られたけれど、従兄上はそれを知ってか知らずか、いつも俺を必要としてくれた。
「‐‐‐がいると助かるのです。‐‐‐を連れていっても構わないでしょうか」
そう言って、従兄上は俺を窮屈な城から連れ出してくれた。
実際に俺は従兄上にとっては良いパートナーだったと思う。
従兄上が無理をして怪我をするようなことがあればすぐに俺が癒したし、護りの結界を張って人々を助けることだって出来た。
従兄上の行くところにはいつだって俺がいた。
初めて出来た居場所だった。
女神さま、ありがとうございます。
どうか、従兄上とずっと一緒にいられますように。
そのうち、父親は俺を殴らなくなった。
その代わりのように「お前が女だったならば」というのが口癖になった。
俺が女であれば、聖女として従兄上の伴侶になれたのだと言う。
今代の聖女はすでに高齢で、だが王家の中に未婚の女性は少なく、聖女の後継者を国王は吟味し始めていた。
女神の代理人として教会に籍を置く聖女の言葉は、たとえ国王であっても無視することはできない。
もし俺が何の力も持たない臆病な子どものままであったのなら、父親も俺に何も期待を寄せることはなかっただろう。
だが、俺は魔法に秀でていた。
戦うことは相変わらず苦手だったものの、人々を癒し、守る力においてはすでに王城の誰よりも優れていた。
聖女になれば、父親は俺を認めてくれるだろうか。
俺を愛してくれるだろうか。
よくやったな、といつも俺を殴るあの手で撫でてくれるだろうか。
聖女、というのは女神の声を聞く女神の代理人だ。
いくつもの文献を読み漁ったものの、女性でなければならない、という条件はなかった。
ただ、これまでの慣習で女性が選ばれてきたというだけだ。
ならば他に相応しい女性がおらず、誰よりも聖女に相応しい能力を備えた俺がいたならば、俺が聖女として選ばれることもあるのではないだろうか。
女神よ、お願いです。
どうか俺を選んでください。
誠心誠意貴方に御仕え致します。
俺は貴方に選ばれたい。
日々聖堂に通ってはそう祈り続けた。
いつか女神が祈りを聞き届けてくれるのだと、そう信じて祈り続けた。
従兄上は今もずっと俺に優しかった。
優しい従兄上なら、俺の願いを聞いてくれるのではないかと思った。
俺は、ある日従兄上に口添えを頼むことにした。
従兄上が言えば、陛下も俺を聖女の座につけることを考えてくれるかもしれない。
従兄上は王城の前で誰かを待っているようだった。
「従兄上、」
「ああ‐‐‐か。ちょうど良いところに来た」
「ちょうど良いところ、ですか?」
「ああ」
城の前についた豪奢な馬車の扉が開く。
従兄上が恭しく差し出した手を、白く華奢な手が取る。
馬車から降りてきたのは、雪のように白い髪に白い肌、冬の空のように澄んだ淡蒼の瞳をした美しい女性だった。
彼女は俺に対しても、礼儀正しくしずしずと頭を下げて見せる。
さらり、と揺れた長い白髪の間から、ツン、と尖った白い耳が覗いた。
そして、従兄上は言ったのだ。
「‐‐‐、こちらノースガリア女王の姪であり、次代の聖女につかれるセフィリア様だ。俺の、花嫁でもある」
目の前が真っ暗になった。
女神よ。
女神よ。
どうして貴方は俺を選ばない。
どうして貴方は俺を苦しめる。
従兄上は、狩りに彼女を連れていくようになった。
従兄上は、遠乗りに彼女を誘うようになった。
従兄上は、彼女と過ごす時間が増えていった。
そこは俺の居場所だった。
従兄上の隣は俺の居場所だった。
従兄上だけが俺を認めてくれたのに。
どうしたら俺は愛されるのだろう。
どうしたら俺は認めてもらえるのだろう。
そんなある日だ。
いつものように俺を罵り、拳を振り上げる父親がすっかり年老いていることにふと気付いた。たくましく太かった腕はいつの間にかほそりと枯れ木のようになっていた。俺を殴る拳にも、かつてのような力はもうなかった。
俺を蔑む冷たい眼差しの目元には幾重にも皺が刻まれ、老化による澱みが浮かんでいた。
痛くない。
怖くない。
俺は、ゆっくりと腕を伸ばした。
手のひらにかさついた年寄りの肌が触れる。
薄気味悪くたるんだ喉。
とくとく、と脈を打つ音が聞こえる。
だけれども、それだけだ。
「な……ッ!?」
驚いたように父親が目を見張る。
ああ、これなら。
これなら、怖くない。
俺はぎりぎりと父親の喉に食い込む腕に力を込めた。
ばたりばたりと父親の腕が振り回される。
水に浮かべたら走る玩具のようだ。
父親の顔が次第に赤く染まる。
ねえ、お父様。
上手に殺せたら褒めてくれますか。
貴方の息子は、男らしく敵を殺せるようになりました。
褒める言葉は聞こえない。
あっけないほど簡単に、父親は動かなくなった。
人を殺すというのは、こんなにも簡単なことだったのか。
俺はいったい何を怖がっていたのだろう。
こんなに簡単なら、恐ろしいモンスターを狩るよりも人を狩った方がよほど強くなれる。
待っていてね、お父様。
俺は強くなります。
お父様がそうあれと望んでくれたように。
人の命から、女神の恵みを吸い上げる仕組みを構築する。
女神は俺に何もしてくれなかった。
助けてくれなかった。
俺の願いを何一つ聞き届けてはくれなかった。
今度は俺がやり返す番だ。
「あはは、あははははは」
屈託なく笑いながら、俺はたくさんの人を平らげた。
まずは城にいる人たちから。
従兄上を食べてしまうのはとても悲しかったけれど、従兄上があんまりにも必死に聖女を守ろうとするものだから、腹が立って食べてしまった。
城にいる人たちを全部食べてしまったら、なんでもできるような気がしてきた。
何が出来るだろう。
何も出来ないどうしようもない屑と言われ続けた俺に何が出来るだろう。
術をどんどん最適化していく。
コンパクトに、スマートに、より少ない魔力で最高のパフォーマンスを求める。
何が出来るだろう。
俺に何が出来るだろう。
術を発動してみる。
その結果、ごっそりと誰もいなくなったセントラリアの街を見下ろして思わず笑いが零れた。
誰もいない。
誰もいなくなってしまった。
俺を認めない人間は皆消えてしまった。
ふらふらと空っぽの街を歩いて教会の中へと足を踏み入れる。
一段高いところに飾られた女神像を見上げる。
ここで跪いて助けてほしいと祈ったことがあった。
ここで跪いて選んでほしいと願ったことがあった。
だけど、もう祈らない。
願わない。
じわり、と女神像の足元から黒くヌメる何かが染みだしていった。
不思議なことにその黒い何かは俺の意思に従うようだった。
足元から這い上がった黒くヌメる何かが女神像を包みこみ、やがてヌメる黒い虚の中でごりんばりんばきん、と石像の砕ける音が響いた。
そうだ。
良いことを思いついた。
「「「私が女神になってやる」」」
俺と、聖女と、枯れ木男の声が重なって響いて――……
その声に、はッとしたように目が覚めた。
ぱち、と目を開けたところで眩い光が眼奥に刺さってしぱしぱと瞬く。
一瞬自分がどこにいるのかがわからなくて、その次にその自分とはいったい誰なのかがわからなくなって、腹の底からぞッと冷えるような感覚を味わった。
「……ッ」
深く、深呼吸をする。
大丈夫だ。
俺は秋良だ。遠野秋良。
現代日本で暮らす大学生で、現在うっかりプレイしていたネトゲそっくりの異世界にやってきてしまっている。
眩しい光に白んでいた視界がようやくはっきりしてきた。
俺はどうやら、木漏れ日の下にいるようだった。
そして、誰かに膝枕されている。
身体の下には、ちくちくとした下生えの感触がある。
そっと、俺に膝枕をしてくれている人物が優しく俺の頬を撫でた。
「……従兄上……」
細い声音が、うっとりと俺に向かって呼びかける。
その声にはっとして飛び起きようとして、俺は自分の身体が思い通りに動かないことに気が付いた。身体が動かない、というか、動かす気にならない、というか。
何かをしなくちゃいけない、と思いつつもなかなか動き出せない感覚を何十倍にも増幅されているような感じ、と言えば伝わるだろうか。
動くな、という外部からの命令が、都合よく「その気にならない」という自主的な感覚であるかのように変換されて、俺の身体が勝手に従ってしまっているかのような感覚だ。
ゆっくりと瞬く。
どうやら瞬きや呼吸、といった普段意識せずに行っている生命活動に結び付く自然反射的な行動に関しては制約がかけられていないらしい。
少しずつ光に慣れた視界に、俺を膝枕する女の顔が映る。
聖女だ。
正確には、成長して大人の女性となった聖女。
今はきちんと巫女服に身を包んでいる。
そうだ。あの時、あの部屋で、俺は聖女に捕らわれてしまったのだ。
白く、たおやかな指先が俺の左手に絡みつき、つ、と俺の左手の薬指の根元に嵌った銀環をなぞった瞬間、ぱきん、と悲しいほど軽やかな音を立てて指輪は砕け散ってしまった。
……くっそ。
イサトさんが、俺のために作ってくれた指輪だった。
イサトさんとの連絡手段を失ってしまった焦りと同じぐらい、せっかくの贈り物を壊されたことへの怒りがぐるぐると動くことのできない俺の腹の底で渦を巻く。
エレニ対策、としてイサトさんが作ってくれたあの指輪には、俺の魔法攻撃への抵抗値を上げる効果があった。その指輪を壊され、精神に干渉するような魔法を使われたことにより、俺の意識や身体は、しばらくの間は聖女に完全に支配されてしまっていたようだった。
あれから、どれくらいの時間が経ったのだろう。
随分長い間、夢を見ていたような気がする。
そして、限りなく薄ぼんやりとだが、何かイサトさんに取り返しのつかないことを言ってしまったような気がする。
ぼやけた視界の中、眉尻を下げて悲しげに、それでも口元だけは柔らかに微笑んだイサトさんが俺に背を向けて去っていくのを俺は見送った。見送ってしまった。
俺は緩く、深く、息を吐く。
「……これから、どうするつもりだ」
駄目元で口を開いてみたところ、普通に話すことが出来た。
俺の顔を見下ろして、聖女がふふ、と小さく笑う。
「今度こそ、ずっと一緒にいましょうね」
「…………」
渋面。
俺のことを従兄上、と呼んだあたり完全に聖女はヤンデレている。
先ほどまでの夢でも見たし、実際地下でも枯れ木男が操る「従兄上」と対峙しているからこそ言うが、俺は「従兄上」とは似ても似つかない。
「従兄上」は濃い茶色の髪に緑の眼をしていたし、なんといったって完全に西洋人の顔立ちだった。顎が割れていた。どう考えても俺には似ていない。あえて共通点をあげるとしたら同じ人類で、性別が同じで、どちらかというと体育会系、ということぐらいだ。
そのくくりで探すなら、騎士団の八割が「従兄上」だ。
あれだけ執着していた癖に、そんなざっくりでいいのか。
と、いうか。
「……お前が、本当の黒幕なのか?」
夢の中の俺は、ひ弱な少年だった。
あの少年の面影はどちらかというと、地下で対峙したあの枯れ木男に近い。
実際あの枯れ木男は「従兄上」と「父上」を特に大事そうに傍に侍らせていた。
だが、そうなると今俺の目の前にいるのはいったい誰なのだろう。
聖女は、俺の問いかけにどこかぼんやりとした様子で首を傾げて見せた。
「どう、なのでしょう。
女の身体を持つこの私も、私。
貴方がたに滅ぼされた男の身体を持っていたのも、私。
どちらも、私でした」
「……どっちかが本体、というわけじゃあないのか?」
「さあ……、もう、わからなくなってしまいました。元は男の身体を持つ方が、主体であったような気がしますけど……どちらも結局は私、ですし。目的のために生まれた私が私なら、私こそが私なんだとも思います」
「…………」
よくわからない。
夢の内容からすると……一番の大本は、きっとあの枯れ木男だ。
王弟の嫡男として生まれながらも、武器を持って戦うことが苦手で、図書室で本を読んでいることを好むようなおとなしい少年。
それが成長の形で歪んだ型を押し付けられ、生まれ持った性質を否定され、歪められ続けた結果歪な何かへと変わってしまった。
「……さっき、夢を見た。お前の夢だと、思う」
「そう、ですか。アキラ様の身体と心を縛るのに、ずいぶんと魔力を注ぎましたから……そのせいかもしれませんね」
「お前が、『セントラリアの大消失』を起こすところまでは見た。その後、お前は何をしたんだ。どうして、エルフやダークエルフまでを襲ったんだ」
エルフ、まではまだわからなくもない。
夢の中で、彼の心が壊れる最後の一押しをしたのは従兄上が連れてきたエルフの女性の存在だった。ノースガリアを治める女王の姪であり、新しくセントラリアの聖女となるはずだった女性。
だから、まだ彼がエルフを襲うのはわかる気がした。
白い肌に尖った白い耳を持つ美しい種族は、きっと彼のコンプレックスを刺激する存在だ。だが、どうしてダークエルフまで。
「私ね、女神になろう、って思ったんです。だって、女神は私を救ってはくれませんでしたから。私が女神になって、私を救おうと思ったんです。それには力が必要でしたし……何より、怖かったんです」
「怖い……?」
「だって、私はエルフの聖女を食べてしまったから。きっとエルフの女王は怒ると思ったんです。だから、怖いからエルフもみんな食べてしまいました。でも、エルフを食べてしまったら、ダークエルフが怒るかもしれなくて、それも怖かったのでダークエルフも皆殺しにしました」
ふわ、と聖女が笑う。
それで安心しました、と柔らかに。
心が壊れ果てて空っぽであるからなのか、その笑みはどこまでも無垢だった。
思えば、夢の中の彼はいろんなものを怖がっていた。
父を、母を、暴力を、モンスターを。
だから彼は、怖いものに酷いことをされる前に自分を守ることを覚えたのだ。
のどかな木漏れ日の下、その身に巣食う虚ろな闇さえ知らなければ聖女の浮かべる笑みはどこか子どものように幼げで透き通っている。そんな美女に膝枕をされながらも、俺の背筋はぞくぞくと冷えっぱなしだ。
「私はただ認めてほしかった。褒めて欲しかった。愛されたかった。だから、私を認めてくれない人たちは消してしまいました。誰にも認められず褒められず愛されない私自身を変えてしまいました。私を愛してくれない世界を否定しました。嫌いです。こんな恐ろしい世界は嫌いです。女神なんて、死んでしまえばいい。私が女神になった方が、きっと上手くやれます。ね、私は上手にできていたでしょう?」
蒼みを帯びた淡い灰色が俺を覗きこむ。
その双眸は空っぽだ。
ただただ虚ろだ。
聖女は俺の手を取ると、そっと持ち上げて大事そうに頬を寄せる。
手のひらに柔らかな体温が伝わってきたことが、なんだか意外だった。
彼女があの枯れ木男と同じ存在ならば、きっとその身体は死体のように冷たいのだろうと思っていたのだ。
「みんな私を聖女だと信じてくれました。私を認めてくれた。だから、私もみんなを護るために頑張りました。頑張ってるんです。なのに、どうして邪魔をするんです? どうして、私の世界を壊そうとするんですか」
上手くいっていたのに、と聖女は繰り返す。
どうだろう。
本当に上手くいっていたんだろうか。
…………まあ、女神が弱って世界が丸ごと滅びそうになってたことを除けば、比較的上手くいっていた、のかもしれない。
彼は聖女として空っぽになったセントラリアに戻ってくることに成功した。
それから長い間、彼は聖女としてセントラリアに君臨し続けたのだ。
聖女は世俗に触れることが出来ない、として誰にも会わず、何十年かに一度代替わりとして教会に所属する巫女の中から一人を選んだ。
そして、代替わりした振りをする。
誰も聖女の顔を知らない。
人々を騙し続けるのは簡単なことだっただろう。
祈りの場も、かつての教会から新しくあの魔法陣の上に建てた大聖堂へと変えた。セントラリアの人々は女神に祈りを捧げていると心より信じながら、この世界で誰よりも女神を憎むものへと祈りを捧げ続けた。
「……獣人を目の敵にしたのも、だからか」
「あの人たちは、私を敬ってくれなかったんです。古い教会で、女神ばかりに祈っていました。私が、新しい女神なのに」
獣人たちは、伝統を捨てなかった。
女神を称えるための古い聖歌を歌い、古い教会で祈り続けた。
だから、彼らだけが『女神の恵み』を得ることが出来たのだ。
だから、彼女はマルクト・ギルロイを操ってセントラリアから獣人を消してしまおうとしたのだ。
彼女を必要としないから。
彼女を認めず、彼女を愛さず、彼女を称えない獣人たちは彼女のセントラリアには相応しくなかった。
獣人たちと行動を共にするようになった騎士たちが『女神の恵み』を手に入れられるようになったのも、同じ仕組みだ。彼らは獣人たちと合流するために教会を訪れ、狩りに出る前に教会で祈るようになっていた。
実際に『女神の恵み』が手に入るようになってからは、ますます女神への感謝の祈りを捧げる者が増えていた。
今までわからなかった部分の謎がするすると解けていく。
聖女は、頬を寄せていた俺の手の甲へとそっと優しく口づける。
「近いうちに、儀式があります」
「……儀式?」
厭な予感しかしない。
彼女が執り行う儀式なんて、もはやサバトのイメージしかない。
「ええ。貴方と、私が正式に結ばれるんです。貴方は聖女である私に、セントラリアを救った英雄として剣を捧げ――……私のものになるんです。今度こそ、一緒になりましょうね、従兄上」
※従兄上ではありません。
心の中でツッコミを入れるものの、語る聖女の眼が明らかに深淵を覗きすぎていたので声に出すことは控えてしまった。
うふふ、と幸せそうに笑う彼女は、まさしく結婚式を目前に控えた幸せなカップルの片割れ、といったような雰囲気だ。
が、そんな事実がカケラも存在しないことが何より怖い。超怖い。
「今度こそ、私を選んでくださいね」
甘い言葉をねだる幸せな花嫁のように、彼女が言う。
――きっと、彼女はやり直すつもりだ。
俺を従兄上に見立てて、英雄である俺にエルフ――実際のところイサトさんはダークエルフだが――のパートナーではなく、彼女を選ばせるつもりなのだ。そしてそれを、セントラリアの民に、かつて彼女を認めなかった者たちに見せつけようとしている。
「――……、」
イサトさんは、今頃どうしているのだろう。
俺たちは仮定として、女神がこの世界を救うために俺たちを呼んだのではないか、と考えていた。だからこそ、セントラリアに巣食う「この世界を歪める者」を倒す道を選んだ。だが、今こうしてその片割れである聖女が存在している限り、その仮定の正しさは確認できない。
ノースガリアの先の世界の果て、元の世界に戻るための手がかりを失ったときのイサトさんの落胆ぶりを思い出す。
傷ついたように小さく笑って見せたイサトさんが、随分と儚げに見えて心がざわめいた。
今も、地下の枯れ木男を倒しても元の世界に戻るための術が見つからなかったことにイサトさんは一人で落ち込んだりなどしてはいないだろうか。
イサトさんが一人で泣いていなければ良い。
囚われの身でありながら、俺が思うのはそのことばかりだった。
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