おっさんと守りたいもの
シオンの焦りは、日に日に色濃くなっていた。
探索の間黙りこみ、俺たちと話そうとしないのは今までと変わらないのだが、気もそぞろに難しい顔で何か考え込んでいるのが伝わってくる。
それでも、マッピングの腕には影響がないあたり、流石クロードさんがおすすめするマッパーだけはある、というところだろうか。
その日もしばらく歩き続けていると、延々と続くかのように見えた細い道の先に、広く開けた空間があった。天井、というか地上までの空間が高く取られており、ちょっとしたホールのようになっている。
「ここって……」
何か理由があって、こんな空間が作られているのだろうか。
これまで特に罠らしい罠もなく、モンスターに襲われることもなく順調にここまでやってきていた俺たちには明らかに油断があった。
シオンがふと何かに気付いたように顔を上げ、今まで広げていたマッピング用の方眼用紙とは別に地図を懐から取り出して広げる。
「…………」
思いついた内容を確認するように、彼は俺たちより数歩先行してその広間へと足を踏み入れていく。ずるッ、と何かに滑ったようにその身体が傾いたときにも、俺は最初シオンがぬかるんだ地面を踏んだのだとばかり思っていた。おそらく、シオン自身もそう思っていただろう。
最初に異変に気付いたのはイサトさんだ。
「秋良青年……ッ!」
「……ッ!?」
名前を呼ばれて、気付く。
シオンの足元にはぬるりとぬかるむ黒があった。
その黒はシオンの足を絡めとるようにじわりと裾から這い上がっていく。
「なんだ、これ……っ!?」
振り解こうとシオンが足を振るものの、びたびたと波打つ黒は糸を引くように滴るだけでシオンの足を離そうとはしない。
それに合わせて、広間の地面にうっすらと厭な光沢を帯びた黒が複雑な魔法陣を描いているのが浮かび上がった。
ちり、と首裏の毛が逆立つようなおぞましさを感じる。
「シオン!」
「…………」
絡みつく黒を振り解こうとしていたシオンの動きが止まっている。
かく、と脱力したように緩くその顔が虚空を見上げる。
淡い色をした金髪の陰から微かに見えるその顔は、虚ろだ。ただその唇だけがブツブツと何かを呟いている。
「……殺す。全部殺す。マルクト・ギルロイを殺す。マルクト・ギルロイに協力した商人を殺す。僕たちを守ってくれなかった騎士も殺す。見て見ぬふりをし続けてきた街の連中も殺す。今更商人や騎士たちと慣れあう獣人も殺す。皆死ねばいい。皆僕が殺してやる。殺す。殺す。殺す。殺す。殺す」
どう考えても普通じゃない。
双眸に力はなく、淡い水色の絵の具をそのまま塗りたくったかのように光がない。その癖、ぶつぶつとその唇から零れる殺意だけがじりじりと熱を帯びていく様が異様だった。
このままではシオンがヌメっとした何かに取り込まれる。
助けに行きたいものの、俺まで取り込まれるのも御免だ。
どうしたら魔法陣に触れずにそのシオンまでの数歩の距離を削ることができるかと考えていたところで、イサトさんがターン、と高らかな音を立ててしゃらんら☆を地面へと突き立てた。
ばぶしゅ、と奇妙な音と共に地面に描かれていた魔法陣が、一つの生き物のように波打つ。
「今だ……!」
「おう!」
黒くさざめく魔法陣を蹴散らして一歩踏み込み、俺はシオンの襟首をひっつかむとそのままぐいと強く引く。火事場の馬鹿力と言うべきか、勢いをつけすぎたと言うべきか、脱力しきって棒立ちになっていたシオンの細身の身体が地面から浮いて弧を描くようにして俺の胸へと飛び込んでくる。それを受け止めた勢いで、背後に倒れながらも、シオンの足に執念深く絡みつく汚泥めいた黒が糸を引くのが目に入った。
「イサトさん!」
「任せろ!」
横合いから一閃されたドリーミィピンクの軌跡が、しつこい黒をぶつりと断ち切る。シオンの体重ごと背を地面に打ち付けて若干息が詰まりつつも、すぐさま上身を起こす俺を庇うように仁王立ちするイサトさん。だが、ヌメっとする魔法陣はそれ以上の追撃を試みるつもりはないようだった。
生き物のようにざわめいていた魔法陣の表面がゆっくりと凪いでいき、やがて俺たちが最初見たとき同様に厭なヌメりを失って闇へと沈んでいく。
よくよく見れば地面に何か描かれているな、という程度にはわかるものの、これは初見で気付くのは無理だろう。
ほう、とイサトさんと共に安堵の息を吐きつつ、腕の中のシオンを見下ろした。
意識を失っているのか、ぐったりと目を閉じた顔色は非常に悪い。
念のためにポーションを唇に含ませたところで、うっすらとその瞼が開いた。
まだ多少ぼんやりとはしているものの、その瞳には光が戻っている。
良かった。
「あ……、僕、は…………」
「大丈夫か? 起きられるようなら、これ、飲んでくれ」
「はい……」
襲われたショックもあってか、いつにもなく素直に頷く。
普段なら俺やイサトさんが食事を差し入れしようとしても、そこまでしていただく理由がありませんから、なんて固辞されてしまうところなのだが。
「具合はどうだろう。どこか、身体におかしなところは残っていないだろうか」
「……大丈夫、です」
そう、イサトさんに答える声音もどこか頼りなげな、年相応の響きを帯びている。いつもはしゃっきりと伸びる白いウサ耳までが、今はへにゃりと垂れていた。
俺たちは、彼が回復するまで休憩のつもりで一緒になって腰を下ろす。
ちびちびと少しずつポーションを飲みながら、シオンはぽつりと口を開いた。
「……アレが、マルクト・ギルロイを狂わせたもの、なんですか」
その語尾の上がらない、どこか確信めいた問いかけに俺は頷く。
「……そう、ですか」
それきり、シオンは再び黙り込んだ。
だがその沈黙は、今までのように俺たちを拒絶しようとしてのものではなく、なんだか彼自身が言葉に迷っているかのようなものだった。
シオンの回復を待って、俺たちは本日の探索を切り上げることにする。
このまま探索を続けるにしても、あの魔法陣をどうにかしない限りは先に進めないだろうし、シオンを連れたまま挑むわけにもいかない。
そんなわけで、今日のところは切り上げることにした俺たちだった。
シオンには、あの魔法陣をどうにかしたらまたマッパーとして協力してほしいと頼んである。
黴の臭いの立ち込める地下道を抜けて、マルクト・ギルロイの屋敷の地下に出ようとしたところでふと気付いた。
地下室に、誰かいる。
ゆら、ゆら、と小さく揺れる明かり。
場所は、獣人たちの閉じ込められていた檻のあたりだ。
イサトさんとシオンを庇うように、俺はわざと足音を立てつつ一歩前に踏み出して……その足音に、はっとしたように振り返ったのは、燭台を手にした二人の騎士だった。
「ああ、探索からお戻りになったんですね」
「探索、お疲れさまです」
二人は闇から抜け出して姿を現したのが俺であったことに安心したように、ほうと息を吐く。その声を聞いて地下通路からイサトさんとシオンも姿を現した。
「そっちは何をしてるんだ?」
ここは立ち入り禁止のはずだ。
騎士たちの見張りはあくまでマルクト・ギルロイの屋敷への部外者の侵入を防ぐためのものだ。なので、その職務に屋敷内の見回りなどは含まれていない、はずだ。
だというのに、彼らはこんな地下室で何をしているというのか。
俺の怪訝そうな眼差しに少し怯んだように彼らは顔を見合わせると、へにゃりと眉尻を下げつつ、燭台を持つのとは逆の手を差し出した。
その手の中にあったのは――…少し、元気を失ってくにゃりと項垂れた野花だ。
彼らはちらちらとシオンへと気遣うような視線を向けながら言葉を続ける。
「その……勝手なことをして気を悪くさせてしまったら申し訳ないのですが、俺たちはいつもこうしてここに花を供えさせてもらっているのです」
「朝、最初の当番と、夜番が花を供えているんです。私たちも、任務を引き継ぐ前に花を代えようと思って」
言われて見やれば、確かに檻の傍らに、小さく慎ましやかな祭壇が作られ、そこに色とりどりの花が供えられているのがわかった。ここで虐げられ、マルクト・ギルロイの坊やに喰われていった人々を弔うための花だ。
「……どうして、花を」
ぽつり、と小さくシオンが問う。
言葉に迷うように視線を彷徨わせながらも、騎士たちはその問いに真剣に答える。
「……謝って、許されることじゃないことはわかっています」
「ですが、せめて亡くなった人たちの魂が安らかであるようにと、祈らせてほしいと思ったんです」
「…………」
シオンは、少しの間黙ったままだった。
「……僕も、祈らせてもらっても良いですか」
「っ……!」
「もちろん、です!」
騎士二人が、シオンを招くように二手に分かれて道を作る。
そこへシオンはおずおずと、それでも歩み寄っていった。
手を合わせ、頭を垂れて犠牲になった人たちの冥福を祈る。
シオンの背後で、俺たちもそれに倣った。
ヌメっとした人型に喰われ、命を落としてもなお女神の下に還ることも敵わなかった彼らの魂は、今頃女神の力として再びこの世界を廻っているのだろうか。
祈りを終えて、俺たちは騎士たちと共に地上へと上がる。
見張りの騎士たちとも会釈を交わしてから、帰路についた。
教会に向かって歩きながらも、しばらくの間シオンは黙り込んだままだった。
それが、ふと小さく口を開いたのは周囲の人通りがまばらになり始める通りに差し掛かってからのことだ。
「…………僕は、ずっと動くことができませんでした」
俺たちに聞かせるための言葉、というよりも、それは小さな独白だった。
「家族の思い出の残るセントラリアを捨てたくはありませんでした。その一方で、僕はセントラリアの人々を許すことも、出来なかった。クロードさんたちが商人や騎士たちと共に生きようとすることが許せなかった」
俺とイサトさんは、その独り言のような言葉を静かに聞く。
「街を離れられず、けれど新しく生活を始めることも出来なくて、皆が進み始めた中僕だけが取り残されているような気がして、焦りました」
クロードさんたちは、レティシアと一緒に仕事を始めた。
その仕事に、元ギルロイ商会の、もともとは獣人たちを苦しめていたあの商人も参加した。騎士たちとも、取引が始まった。そして、騎士たちが狩りに同行するようになり、騎士たちまでが女神の恵みを得られるようになった。
家族を失い、自分がどうしたいのか、セントラリアでどう生きていきたいのかがわからなくなってしまっていたシオンの焦りは理解できるような気がした。
「進みたい方向は、見えたのか?」
「……正確には進みたくない方向、ですけど」
小さく苦笑して、シオンが肩を竦める。
「さっき、あの魔法陣に捕まったとき……、頭の中が真っ赤になりました。ぐつぐつと煮えたぎって、怒りや憎しみ以外のことが考えられなくなった。僕にとって面白くない連中は全部殺してやろう、て思いました。それはきっと、僕の中にある恨みで、憎しみで、間違ってはいないんです。僕自身、その憎悪の感情が強すぎるからこそ動きだせないのかとも思ってました」
かつて、もしかしたら家族の復讐をしたならば少しは気持ちが楽になるのかと考えていたこともあるのだ、と。
まるで、なんでもないことのようにシオンは言う。
もしかすると、そんな不安から解放されたからこその気軽さだったのかもしれない。小さく、困ったように眉尻を下げてシオンは笑う。
「……でもね、さっきのことがあって思ったんです。僕は、殺したくない。新しく始まりかけているクロードさんたちの生活を、ぶち壊したくない、て思ったんです。だから、貴方たちに止めてもらえて良かった」
「そう、か」
なんだか、息が詰まるような気がした。
脳裏に、マルクト・ギルロイの最期が過る。
最期の瞬間、崩れゆく坊やを抱きしめたマルクト・ギルロイの顔に浮かんでいたのは、どこか安堵めいた微笑みだった。
彼があんな顔をして逝ったのは、最後の最後に自分の暴走を止めてくれる者が現れたから、だったのだろうか。
「君は、これからどうしたいのかがわかったんだろうか」
「……少しは、わかったように思います。さっき、騎士の人たちが死んだ獣人たちのために祈ってくれていたでしょう?」
「ああ、そうだな」
「それを見て、僕が欲しかったのはこれなのかもしれない、て思ったんです」
「これ?」
「僕が、クロードさんたちと一緒になって動きだせなかった一番の理由って、あの人たちがなくしたものをなるべく見ないようにしていることが厭だったからなんだな、って思って」
「なくしたものを……、見ないように」
「はい。クロードさんたちも騎士も、商人も、街の人たちも、努力して共に歩き出そうとはしています。でも、だからこそ死んだ人たちのことをなかったことにしているような、気がして」
ああ、そうか。
クロードさんは「許せない」とはっきりと言った。
商人もまた「許されるつもりもない」とはっきり口にした。
彼らはお互いに許すつもりも、許されるつもりもないまま、ちょっと言い方を変えると表面を取り繕うことで共存を目指している。
クロードさんたちが亡くなった人たちの死を悼んでいない、ということはないだろう。けれどそれでも、クロードさんたちは「なんでもない日常を装い表面を取り繕う」ためにその死には触れない。商人も、許されるつもりがないからこそ、あえてその死に触れようとはしない。
団長さんがクロードさんに謝ったときのことを、思い出す。
正面から謝罪した団長さんに、クロードさんは戸惑っていた。
そして渋々口にしたのが「許す気はない」という本音だった。
きっとあれは、本当ならクロードさんが騎士や商人のようなかつて加害者の立場であったセントラリアの住人たちと共存を試みる中では、決して言いたくなかった本音だろう。けれど、団長さんがあまりにも真っ直ぐに正面から謝罪を口にしたため、隠しておけなくなったのだ。
許すための努力はしている。
新しくやり直すための努力を、している。
そのためにクロードさんたちは痛みや、憎しみを忘れたふりをして、なるべく見ないように、している。
シオンが受け入れられなかったのは、きっとそれなのだ。
「僕は……僕の亡くした家族のことを、忘れたくない。忘れて、ほしくない。そう、思うんです。だから……僕は、僕なりに進もうと思います」
そう言って、へんにゃりと耳を下げて笑うシオンは、どこか憑き物が落ちたような優しい顔をしていた。
シオンを教会まで送り届けた後、イサトさんと共にのんびり歩く。
お互いに言葉はなかった。
教会が近いせいか、周囲には人の姿もあれば獣人の姿もある。
いつもよりも早い時間だからだろう。
きゃっきゃとはしゃぐ子どもの声が聞こえる。
ぱたぱたと軽やかに視界の端を駆け抜けていく子どもたちの中にも、獣耳のついた子どもと、人の子どもとがさりげなく交ざっているように見えた。
平和だ。
平和な光景だ。
そんなのをなんとなしに眺めながら歩いている中で、ふと、イサトさんの手が持ち上がってトン、と俺の背を柔らかに撫でた。
「イサトさん?」
「……ん。なんとなく」
「そっか、なんとなくか」
俺も、なんとなくイサトさんの方へと身体を傾ける。
触れ合う肩と肩。
イサトさんの柔らかな体温が伝わってくる。
「……俺さ」
「うん」
「マルクト・ギルロイを倒したことを後悔はしてない」
「うん」
マルクト・ギルロイは俺たちを殺すつもりで襲ってきた相手だ。
俺は俺の大切な、死んでほしくない人々を守るために戦った。
その結果、マルクト・ギルロイが斃れた。
だから俺は、マルクト・ギルロイを斃したことを後悔はしていない。
けれど――……
「……助けて、やれたら良かったとは思う」
それは小さく零れた本音だった。
マルクト・ギルロイの日記に触れて、俺たちは彼の身に何が起きたのかを一部ではあれ知ることができた。
マルクト・ギルロイが暴走していたのは事実だし、彼が大勢の獣人たちを犠牲にしたのも事実だ。
それでも、あの日記に綴られていた悲しみは善良な父親のもので、マルクト・ギルロイの心が少しずつ壊れていくのが、壊されていくのが切実に伝わってきた。
もし何かやり方を変えていたら、マルクト・ギルロイをも救う手立てがあったのではないか、とは俺の頭のどこかに常にある蟠りの一つだった。
そろり、とイサトさんの手が俺の背を撫でる。
「君は、マルクト・ギルロイを救ったんだ」
「……俺が、じゃなくて俺たちが、だ」
「……ぅん」
最期、息子と共に逝く瞬間。
マルクト・ギルロイは安らかな、穏やかな顔をしていた。
シオンが言うように。
あの表情が、『止めてもらえた』ことへのものだとしたならば。
「…………」
「…………」
俺とイサトさんは、肩を並べて穏やかな喧騒の中を歩く。
夕暮れ時の、赤みを帯びた日差しが柔らかに周囲を照らし出している。
そんな中、見慣れた顔が屋台を覗いている姿が目に入った。
レティシアと、エリサとライザだ。
エリサとライザがレティシアの両脇を挟んで、三人で夕食時に向けて並び始めた屋台を冷やかしては楽しそうに笑みを浮かべている。
「……守りたいよな」
「守りたいなあ」
視線を交わしあって、頷く。
するりとイサトさんの手が俺の背から離れていった。
俺も、イサトさんの方に傾いでいた身体をしゃんと立て直す。
それから俺たちは片手をあげると、三人に向かって声をかけた。
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