おっさんと旅立ち
イサトさんとの作戦会議から数日が経過した。
俺とイサトさんは、そこで決めたとおり、この数日を北へ出発するための準備に費やしていた。
以前今後のことを相談した際に、上位ポーションは500を目標に揃えたいと話していたのだが……諸々の支度を整える中で、暇を見つけては黒の城に殴りこんで薔薇姫を乱獲して過ごした結果、俺とイサトさんがそれぞれ持っている薔薇姫の蜜の合計は見事700を超えるほどとなった。
これだけあれば、勝つことはできなくても負けることもないだろう。
それに平行して進めていたのが、俺の『家』の改装だ。
これまではただの通り道、もしくは避難場所としてしか使われていなかった俺の『家』なのだが、イサトさんを含めいろんな人の尽力によりすっかり人が住める環境として整備された。
というか、結構な勢いでいわゆる魔改造を施された感がある。
当初俺の『家』はそれなりの広さはあるものの、仕切りもなくただただぶち抜きの平屋だった。それに精霊石と呼ばれるアイテムをつぎ込み、間取りを拡張して二階を作った犯人は言うまでもなくイサトさんである。
「いややはりプライベートルームは二階に限るだろう。それにせっかくならちゃんと身体を休められる部屋でなければ」
と言ってはいたが、間違いなくただの詭弁だ。
凝りに凝ったさまざまな家具を作成してはいそいそと運びこむ姿は、ただの生産マニアだった。
その一方で、その他生活に必要な設備を整えてくれたのは、あの元ギルロイ商会の商人が手配してくれた職人たちだった。
もともとレティシアに再会した当初から『家』の改装は考えていたのだが、これまではあの摩訶不思議空間に対応できる職人に渡りが付かずに苦戦していたのだ。そこで活躍したのが彼なのである。試しに話を振ってみたところ、あっという間に腕の良い職人をそろえてくれた。さすがはセントラリアに根差して活躍していた商人だ。
そしてそんな職人たちが必要とする資材の数々を入手する手助けをしてくれたのは獣人たちだった。入手自体は難しくないものの、ただひたすらに量がいるようなアイテムを彼らは鍛えられた統率力を遺憾なく発揮して揃えていってくれたのだ。
とは言っても、最初から上手くいったわけではない。
あの商人の指揮のもとでは獣人たちが良い思いをしないのではないかと思った俺たちの心配を他所に、意外なほど改築の作業はスムーズに進み行き――…それに対してスムーズすぎて気持ち悪いわ、とクロードさんがキレたのが最初の修羅場だった。
商人とクロードさんの打ち合わせの際には万が一に備えてストッパーとして必ず依頼主との建前で俺とイサトさんが同席するようにしていたのだが。そんなある日の晩、商人が打ち出したスケジュールに対して、クロードさんが物言いをつけ、それを商人が呑んだ瞬間クロードさんがバァンとえらい勢いで机を叩いて立ち上がったのである。
「ふざけんなテメエ、物分かりが良すぎて気持ち悪いわ!!」
俺、イサトさん、商人、ポカーンである。
それに対して、ズバァンと机を叩いて応戦したのは商人の方だった。
「だったらどうしろって言うんだ!!」
「商人なら商人らしく仕事しやがれや!!」
「それはどういう意味だ!!!」
俺とイサトさんは何故か二人そろってホールドアップの図。
さすがにどちらかが手を出したら止めようと思っていたのだが……
「計算もできねえ商人となんざ組んでられるか!!!」
そう言い放たれたクロードさんの言葉に、まるで憑き物でも落ちたかのように、商人の顔から戦意がすとんと抜けた。むしろ、気まずそうに視線をテーブルへと落とす。それに対して言うべきことは言ったとばかりにクロードさんは部屋を出て行き、続いて商人の方も考えたいことがあるからと言って部屋を出て行ってしまった。後に残された俺とイサトさんは、顔を見合わせるばかりだ。
正直、やっぱりあんなことがあったばかりだし、あの商人と獣人たちとで組んで仕事をするのは難しいのかもしれないと思った。
両者の関係は少しずつ改善されているとはいえ、この二人は直接の加害者と被害者の関係だ。クロードさんもそう簡単にはこれまでのことをなかったことにはできないだろうし、上手くいかないようなら商人の立場をレティシアに代わってもらうか、という風にもイサトさんとも相談した。
けれど、その次の日。
獣人たちの元に現れた商人は、昨夜提案してスケジュールはやはり変更できないとクロードさんへと告げた。
周囲の空気はピリピリと張りつめ、すわ一触即発かと思われたところでクロードさんは静かに商人へとその理由を問うた。商人は、いっそ太々しいほどに堂々とその理由を答える。確か、職人の作業ペースを考えたらそれがベストだとかそういう理由だったように思う。
その理由を聞いて、クロードさんはフンと鼻を鳴らした。
それだけだった。
「んじゃ今日のノルマ果たしにいくぞ!」
そう声をかけて、獣人たちを連れてクロードさんは出ていった。
商人は、複雑な顔でその背中を見送っていた。
後から、商人が利益や効率を無視して獣人の主張を取り入れてばかりいたことをクロードさんから聞かされた。罪悪感からなんだろうが、そんな一方が我慢し続けるような真っ当じゃない商売が長続きするはずもねえ、と。
それからは幾度となく衝突しながらも、商人とクロードさんはお互いにうまくやりあっているようだった。
商人が職人たちとも相談し、スケジュールを引き、それに従って獣人たちが資材を調達していく。その姿は以前の狩りの図と似ているようで大違いで、あの夜を切っ掛けに獣人と人の関係が変わるだろうとの予感は決して間違ってはいなかったのだと確信させてくれた。
それでも完全に仲良く、とはまだまだ言えない。
二人が角を突き合わせ、大声で言い争い、周囲が肝を冷やす場面だって少なくはなかった。けれど、それもお互いが対等の立場で、お互いの仕事に真摯な結果の言い争いならば、きっと無駄ではないのだ。
「主寝室のベッドはキングサイズがいいに決まってるだろうが! ラグジュアリーな余裕が適度な距離感を保つんだよ!!」
「馬ッ鹿、ここは自然と肌が触れ合うクイーンサイズに決まってんだよ!! その方がいろんな意味で仲良くなれるだろうが!?」
――思いっきり無駄な言い争いしてやがった。
何故俺がイサトさんと同衾すること前提で話しているのか。
寝室は別だつってんだろとの俺の言葉に何故二人して半笑いで「またまた」なんてハモりやがるのか。
おっさんども、まじぶっ飛ばすぞ。
何がベッドは広い方が夢が広がるだ。
何がベッドは狭い方が密着度が増してより良いだ。
おっさんどもまじぶっ飛ばすぞ(二度目)
そんなわけでいろいろあったものの、とりあえずセントラリアを出発するのに必要だと思われる準備も着実に整っていき。
そろそろ良いだろう、というある日の朝。
「よし、行くか」
「おう」
俺とイサトさんはそんな風何気なく出立を決めた。
朝食の注文と一緒に、女将さんに、出立の旨を告げてこれまでの宿泊代を精算してもらう。それからしばらくは食べ納めになるだろうこの宿での朝食をしっかりいただいて、それほど多くもない荷物をまとめて部屋を出た。セントラリアにやってきて以来ずっと自室として使っていた部屋だと思うと、それなりに感慨も深い。
同じよう降りてきたイサトさんと階下で落ち合って、女将さんへと挨拶をする。
「お世話になりました」
「また、使ってくださいねえ。お二人の部屋なら、いつでもとっておきますから」
「是非また泊まりに来ます」
なんてにこにこ顔の女将さんに頭を下げて宿を出て、
「え」
俺は思わず立ち尽くしてしまった。
「ぶ」
後を追って宿から出てきたイサトさんが、俺の背中に顔面から追突する。
何かあったのかと背後から顔を出したイサトさんも、目の前に広がる光景に俺同様に驚いたように言葉を失ったようだった。
宿の前は、大勢の人たちでごった返していた。
何かイベントでもあるのかと思うような盛況ぶりだ。
一体何事なのかとイサトさんと顔を見合わせたところで、その一団の中に見覚えのある顔が多いことに気付いた。クロードさんや、エリサ、ライザ、獣人たちに、商人のおっさんや、『家』の改装でお世話になった職人たち、レブラン氏やその息子一家までがいる。見覚えのある白い鎧の一行は、セントラリアの守護騎士たちだろう。
「えっと……?」
「オマエら、黙っていくとか水くせえだろーが!!」
そんな声の持ち主はエリサだった。
肩幅に開いた足、ぐっと握り拳を作って俺たちを睨みつけている。
「や、ちゃんと出る前に声はかけていくつもり、だったぞ?」
悪いことはしていないはずなのに、つい語調が言い訳めいて弱くなる。
実際、出立の前にレティシアのいるであろう商人ギルドと教会には顔を出すつもりだったのだ。俺たちがいきなり姿を消したのではいろいろと不便もあるだろうし。『家』を通して、連絡の手段も用意するつもりではあった。
なのだが、どうやらそういうことではないらしい。
エリサはじわりと目元に涙を浮かせて、唇をぎゅっとへの字に引き結ぶ。
代わりに言葉を続けたのは、その隣にいたライザだった。
「アキラさんと、イサトさん、王様に頼まれてドラゴンを追って北に向かうって聞きました」
「う、うん?」
どこからそんな話が漏れたのだろう。
正確には黒竜王討伐だし、依頼主はシェイマス陛下ではなく聖女だ。
その依頼を果たすかどうかはさておき、ドラゴンを追って北に向かう、というのはまあ間違ってはいない。
「ちゃんと、帰ってくるんだろうな!」
「まあ、そのつもりだけども」
もし元の世界に戻る方法が見つかったとしても、よほど状況が切迫してない限りはちゃんと皆に別れを告げるつもりでいる。なので、当たり前のようにエリサの言葉にうなずいたわけなのだけれども。
「馬鹿ァ……!」
何故か罵られた。
ぐすぐす鼻を啜りながら睨みつけられると、こっちの方が悪いことをしたような気になる。何か理由はわからないけれども、とりあえず俺が悪かった、と謝りたくなる。俺が困りきっていると、隣でイサトさんが小さく笑ったようだった。
「そっか、心配させちゃったか」
「心配?」
一歩前に出たイサトさんが、愚図るエリサの頭を撫でたとたん、エリサははじかれたようにぎゅうっとイサトさんに抱き着いた。まるで今生の別れだ。
……って、そうか。
これはまさしく、彼らにとっては今生の別れなのだ。
俺とイサトさんは当然死ぬつもりなどないし、そんな万が一の状況に追い込まれないための準備を着々と整えているが、エリサやライザたちにはそんなことはわからない。彼らが知っているのは、俺やイサトさんがドラゴンを追って北に向かうということだけだ。
「……シェイマス陛下に呼ばれた後、あなた達が深刻そうな顔で帰るのを見たんです。その後旅立ちの支度を整えてると聞いて、ピンときました。あのドラゴンにとどめを刺すために北に向かうんでしょう」
そう口を開いたのは、騎士の鎧に身を包んだ青年だった。
あの時、俺たちを騎士の詰所に案内してくれた彼だ。
俺たちはあの時、騎士団の詰所からシェイマス陛下の遣わした使者に呼ばれてあの場を去っている。どうやらそこからその推論が成立したらしい。まあ、おおよそ間違ってはいない。
特に誰かに相談することもなく、淡々と支度を整えて旅立とうとしていた俺たちは、傍から見たら重すぎる使命を受け入れ、人知れず命を賭した旅に赴こうとしている冒険者――…のように見えたのかも、しれない。
俺たちにそんなつもりは全くないのだが。
それほど大げさにあいさつ回りをしていなかったのは、単にそれほど大事だと考えていなかっただけだ。『家』を使えばいつでもセントラリアに戻ることが出来るし、なんならグリフォンの背に揺られてもそれほど時間はかからないで行き来することができる。
そんな俺らの気軽さが異質だからこそ、彼らはこうしてわざわざ見送るために集まってくれた。
「どうか、無事に戻ってきてくださいね」
「あんたたちにはまだ恩を返し切れてないんだ」
「これ、持って行ってくれないか」
口々にそんな言葉を言いながら、心づくしのものを差し出される。
それはお守りだったり、薬草だったり、食料だったり。
見送る彼らの、俺らの安否を願う気持ちがしっかりと詰まっている。
俺たちがこれまでしてきたことは、どれも俺たちが「したくて」したことだ。誰かに褒められたり、感謝されたくてしたことではない。けれど……それでもやっぱり、こうして気持ちで持って応えてもらえることは照れくさくも嬉しかった。
と、そこに一人の少女がおずおずとやってきた。
「あ、あの……」
「?」
声をかけられて、そちらへと目をやる。
清潔感のあるロングスカートに、濃い茶の髪を背に下ろした大人しそうな女の子だ。こう、イメージ的には将来の夢は花屋さんかケーキ屋さんと答える教室の中でも目立たない内気なクラスメイト枠、というかなんというか。
なんとなく見覚えはあるのに、どこで会ったのかが思い出せない。
その伏しがちの蒼の瞳は、確かに知っているような気がするのに。
「私、ニーナです」
「ニーナって……え、あの?」
驚いた。
ニーナ、といえば舞踏会で俺にとんでもない色仕掛けアタックを仕掛けてきた少女だ。確か、ネパード侯爵家のご令嬢。忘れようにも忘れられない強烈な印象を俺に残していったはずの彼女なのだが、それでも気づけなかったのは彼女の雰囲気が随分と変わっていたからだった。
以前舞踏会で会ったときの彼女は、意に添わぬ色仕掛け作戦に身を投じていたせいか、生気のない悲愴感に満ちた投げやりな雰囲気を漂わせていた。
それが今は、どこか落ち着いた様子で俺の前に立っている。
「こんな格好で、失礼しますね」
そう言って彼女はやんわりと眉尻を下げて微笑むものの……俺の個人的な意見を言わせてもらえば、舞踏会で見たような華やかな貴族の子女めいたドレスよりも、今目の前にいる自然体の彼女の方が、例え質素なスカートしか着ていなくともよほど魅力的であるように見えた。
「家、出たのか?」
「正確にはまだ、ですけれど……きっと、そうなると思います。あの時は、本当にご迷惑をおかけしました……」
気恥ずかしそうに、うっすらとニーナの白い頬に朱色がさす。
あの時は追い詰められて投げやりになっていたからこそ、あんな大胆なことができたのだろう。
「初めて、父上や兄上に逆らってしまいました」
そう語る彼女の眉尻は困ったように下がったままではあったものの、口元はどこか柔らかに微笑んでいる。
「それじゃあ大変なんじゃないか?」
「それが……兄上のことで、それどころじゃないみたいで」
「何かあったのか?」
「あの、幻術師のことをを覚えてらっしゃいますか? あの方が、兄上に術をかけていたようなのです」
「術?」
あの幻術師、というのは彼女の兄に雇われたエレニのことだ。
彼女を使って俺をイサトさんから引き離し、その隙にエレニはイサトさんへとの接触を図ったのだ。言われてみれば、確かに最初エレニを雇ったのが彼女の兄だと聞いたとき、俺は彼がイサトさんに何かしているのではないか、と焦ったのだ。けれど、実際のところイサトさんに接触していたのはエレニ自身だった。
彼女の兄を使って堂々と王城に乗り込み、用済みになった後は適当に騙くらかした、ということなのだろうか。あの夜、舞踏会の会場で俺は彼女の兄を見かけた覚えがない。
「どうやら、兄上を狙う女性のうちの一人を、あなたの連れだと勘違いさせられたみたいで」
彼女がそっと手で口元を隠す。
兄の失態を大っぴらに笑うのがは忍びないという彼女なりの配慮なのだろうが、くすくすと小さく揺れる肩は誤魔化せていない。
「その女性相手に結婚の約束まで取り付けてしまって、今ネパード家は大混乱なのです」
「ぶは」
つまり、なんだ。
彼女の兄は、玉の輿狙いで彼を狙うどこぞの娘さんをイサトさんだと思って口説き倒し、お持ち帰り、プロポーズにまで成功してしまったというわけなのか。
エレニもよくやる。
俺はつい噴き出してしまった。
実の妹を政略結婚の駒として使おうとしたような男なのだ。そんな話を聞いても、ざまあ、としか感想が出てこない。
ああでも、気にかかるとしたら相手の女性か。
「相手の女性の方はどうなんだ?」
「非常に乗り気なようですよ。兄上との結婚話も、あちらの女性の方が主導となって進めていて。兄上の方は誤解だと、騙されたのだと打ち明け、賠償金を積んででも結婚話をなかったことにしようとしたようなのですが……例え誤解がきっかけでも情をかわし、夫婦になろうと誓い合ったことは事実、と主張していらっしゃるようで」
ふくく、と悪戯ぽい笑みが彼女の口元からついには隠しきれずに零れた。
それはまた随分と逞しいことだ。
「彼女のその様子を見ていて、私はあなたの言葉を思い出しました」
「俺の?」
何を言ったのだったか。
何か偉そうなことを言ってしまったような気がする。
「自分で決めろ、と。そして自分で決めたからには胸を張ってその道を進め、と。彼女は自ら政略結婚の駒となることを決めて、その覚悟でもってして動いています。それに比べて私は……」
彼女がやわりと、過去の己を恥じるように目を伏せる。
「今は、ちゃんと自分で選んだ道を胸張って進めそうなんだろ?」
「はい。まだ、ちゃんと一歩を踏み出せたわけではないのですが」
ふわり、と花が綻ぶように彼女が笑みを浮かべた。
「母はずっと、いつか父が迎えにくるのだと言っていました。父に迎えられさえすれば幸せになれるのだと。いつしか私も、それを信じ込んでしまったのですね。父に迎えられさえすれば幸せになれるのだと思っていました。だから、ちっとも幸せでもないのに、ネパード家の娘の肩書にしがみついてしまった」
ずっと前に手放してしまえば、こんなにも身軽だったのに。
そう呟いた彼女はとても晴れやかな笑みを浮かべていた。
とは言っても、家を出た彼女が女一人で身を立てて生きていくのも、きっと楽な道ではないはずだ。
けれど、それでも。
それが彼女自身で選んだ道ならば、なんとかやっていけるのではないだろうか。
そう、思いたい。
「あの、すみません」
「お?」
と、そこで俺たちに声をかけてきたのはレティシアだった。
俺に何か用事かと思いきや、レティシアの目線はまっすぐにニーナへと向いている。
「失礼ですが、ネパード侯爵家のニレイナ様では?」
「……はい。ですが、近々ニーナに戻るつもりです。ニレイナ、というのはネパード侯爵家に呼び寄せられた際にニーナでは格好がつかない、とつけられた名前ですので」
柔らかな苦笑交じりに、ニーナが答える。
なるほど、ニーナとニレイナ、ただの愛称だと思っていたもののそういう理由があったのか。
「その……そのお話ですが、少しお待ちいただけませんか?」
「え?」
「へ?」
レティシアの提案に、ニーナの目が丸くなる。
そんな俺たちに、レティシアは申しわけなさそうに頭を下げつつ、俺たちの話をつい聞いてしまったのだと言う。
「ニーナ様は、家を出られた後のことは考えていらっしゃるのでしょうか」
「いえ、まだ具体的には。どこか住み込みで働かせてくれる店を探すつもりでいますが……」
「それなら、私と手を組んではいただけないでしょうか」
「あなたと……?」
「はい。実は、これからセントラリアで商いを続けていく中で、信用のおける貴族の方とご縁を結べればと考えていたのです。多少名の売れた家の娘とはいえど、私はただの商人ですから」
確かに今後セントラリアでレティシアが活動していく中で、貴族とのパイプがあるのとないのでは仕事のしやすさが異なるだろう。
「私のような身に、そのような利用価値を見出していただけたのは嬉しいのですが……」
申しわけなさそうにそう言って、ニーナは静かに首を横に振った。
「私にはそのような力はありません。ネパード侯爵家の娘として名前こそ連ねていますが、あなたに力添えできるような力は何も持っていないのです。父上や、兄上の言葉に逆らうことすら出来ない無力な身です」
だからこそ、彼女は父や兄の言うままに、俺を色仕掛けで篭絡するために送り込まれるようなことになったのだ。
が、その言葉にもレティシアは退こうとはしなかった。
むしろ、さらに一歩前に出る。
「私が、ニーナ様の力になります」
「え……?」
「セントラリアに存在する獣人の八割以上が、レスタロイド商会と協力関係にあります。つまり、セントラリアにおける『女神の恵み』の供給源を握っているのは私ども、レスタロイド商会になるのです。私どもが、ニーナ様を通してでなければ商談には応じないといえば、ネパード侯爵家の方々もあなたの力を認めざるを得ないのではないでしょうか」
そう、来たか。
レティシアはニーナをセントラリアにおける貴族連中への後ろ盾として利用するつもりなのだ。ただの新興商会なのではなく、バックにはネパード侯爵家がついている、という風に。その一方で、レティシアはニーナにレスタロイド商会という実際の力を与える。そうなればネパード侯爵家の連中も、ニーナを軽んじることは出来なくなるだろう。
「そんな、上手くいくものでしょうか」
「上手くいかなかったら、その時はその時です」
悪戯っぽくレティシアがくすりと笑う。
「うちはいつでも人手が足りていないんです。ニーナ様さえよろしければ、いつでも住み込みで来ていただいても結構です」
「…………」
まだ少し、迷うようにニーナの蒼い瞳が揺れる。
けれど、本人の柔らかな薔薇色に上気した頬が言葉以上に素直にレティシアの提案に乗り気なのだと告げていた。
しばらくの逡巡を経て、ニーナが頷く。
「私で良ければ、皆さまの仲間に入れてください」
そうして、大勢の人たちに見送られて。
思いがけない縁が結ばれるのを見届けて。
俺とイサトさんは、随分と長居したような気のする街、セントラリアを後にしたのだった。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
感想、Pt,お気に入り登録、励みになっております。




