おっさんと聖女
しっかりとイサトさんが起きているのを確認した後、俺とイサトさんは二人して東屋の中へと足を踏み入れた。
渡り廊下側の方からはさりげなく植え込みが邪魔して中が見えないような造りになっていたものの、一歩足を踏み入れればそこは室内というには随分と開けた空間となっていた。庭に面した前方にはほとんど壁や柱がなく、目の前の美しい庭の光景が満喫できるような造りになっている。適度に日差しを遮るよう屋根から枝垂れているのは、藤に似た植物の蔓だ。小さな白い花の房が、ほろほろと咲きこぼれては風にのって散らされていく。
大理石でできた白いローテブルを正面に、庭を見渡すよう配置されたソファは植物の蔓で編まれている。濃い茶と白の色彩で整えられた室内は、派手すぎず、自然と調和のとれた優しい雰囲気に満ちている。居心地が良さそうだ。
そして、そんな部屋の中央にその少女は佇んでいた。
随分と小柄な少女だ。
イサトさんよりも、頭一つほどは小さいように見える。
ただ、それでいて幼いような印象はうけなかった。
俺たちを見つめる淡い灰色の双眸が随分と大人びた色合いを浮かべていたからだろうか。
彼女が、ウレキスさんの姉であり、セントラリアの聖女と呼ばれる人物だろう。
艶やかな長い真っすぐな黒髪に、雪花肌とでもいえば良いのか、白く、透けそうな肌。俺たちを見つめる灰色は、ウレキスさんのそれよりも随分と淡い。そのせいか少し蒼みがかっているようにすら見えた。彫像めいた静謐な佇まいも、ウレキスさんとよく似ている。ただ、ウレキスさんの雰囲気がひやりと冷たい石膏像めいたものだとしたら、彼女のその硬さはどこか硝子めいた危うさを含んでいるかのようだ。触れたら、砕けてしまいそうな錯覚。
「ようこそ、セントラリア大聖堂の奥の間へ。こんなところまで呼びつけてしまい――……申しわけありません」
涼やかな声音が謝罪を告げる。
「私は、7代目のクローリア、女神の声を民に伝える役目を受け継ぎし者です」
「……?」
クローリア?
7代目のクローリア、という言葉の意味がわかりかねて一瞬間が空いてしまう。
その間を埋めるように口を開いたのはイサトさんだった。
「こちらこそ、お招きいただきありがとう。私は旅の冒険者、イサト・クガ。こちらが、」
ぽん、と促すように軽く腕を叩かれる。
「同じく旅の冒険者、アキラ・トーノ、だ」
イサトさんの言葉を継いで、自己紹介を口にする。
最初のうちは違和感のあった名乗りも、ここまでくると慣れてきた感がある。
「どうぞ、こちらに腰かけて楽にしてください」
クローリアと名乗った少女が、俺たちに席を勧めてくれる。
その言葉に甘えて、柔らかなクッションの敷かれた蔓製のソファへと腰を下ろした。ぎ、と小さな軋みをあげつつも、ソファはしっかりと俺の体重を支える。柔らか過ぎず硬すぎず、随分と座り心地が良い。
聖女は俺たちの前に手ずから淹れたお茶らしき飲み物に満ちたグラスを置くと、それから並んで座った俺とイサトさんとは少し席を空けた位置に腰を下ろした。ソファが庭に面して弧を描くように配置されているため、正面というわけにはいかないものの、無理に首をひねらずとも自然に相手の姿が視界に入る位置取りだ。
「――…随分と、不思議そうな顔をされているのですね」
「あ、ああ……すみません。その、いろいろ気になってしまって」
涼やかな聖女の声音に、俺は誤魔化すように笑いながら頭をかく。
「何が、気になるのですか?」
「聞いても良いのですか?」
「ええ、もちろん。なんでもお聞きになってください」
「その……、」
俺は、会話のとっかかりを探すように手元に置かれたグラスを手に取る。
よく冷えたお茶に、グラスはうっすらと汗をかいて指先に濡れた感触が伝わってきた。疲労と寝不足の両方で熱を持ちがちの身体に心地良い。
「聖女様自ら、こうしてお茶を淹れてもらえるとは思っていなくて」
小さく笑い交じりに言いつつ、お茶に口をつける。
ふわりと爽やかな花の香りが、喉元を過ぎていった。
「ここは、巫女も神官も足を踏み入れることの赦されていない神域ですから。身の回りのことは、すべて自分でしているのですよ」
「あ……、そうか」
聖女だと敬われている様子からして、大事に傅かれているのだとばかり思っていたが……、言われてみれば確かにそうだ。俗世の影響を受けて穢れてはいけないと、彼女は巫女でもあり、実の妹であるウレキスさんからすら隔離されているのだ。
「他にも何かありますか?」
「では、七代目クローリア、というのは?」
「私の名前でもあり――…偉大なる救済の聖女様の御名です」
「救済の聖女?」
「ええ。少し、お話してもよろしいですか?」
「是非」
そのあたりに関して、俺たちはほとんど知識がないと言っても良い。
俺たちが知っているのは、この世界における宗教が、女神信仰である、ということぐらいだ。
「教会には、古より聖女と呼ばれる存在がいました。ただ、古い文献によるとそれは王家に連なる家柄から選ばれた女性が代々継ぐ役職だったようです」
「王族の女性がつく名誉職、のような?」
口にしてから失礼だっただろうかと思うが、彼女は小さく苦笑のような色を浮かべて頷いた。
「はい。それが変わったのは、今から三百年ほど前に起きた『セントラリアの大消失』のあとだと言われています。セントラリアの大消失では、その頃の教会にいた聖職者もすべて消えてしまいました。聖女も、含めて」
そこで一度、言葉を切って彼女は痛ましげに双眸を伏せる。
膝の上で組まれた華奢な指先にも、少し力が入っているように窺える。
それはまるで、300年前の犠牲を悼むようにも、街を護ことが出来なかった教会の力不足を嘆くようにも見えた。
「初代のクローリア様が現れたのは、その後のことだと言われています。クローリア様は、地方において様々な奇跡を起こして人々を救いました。人々の病を癒し、怪我を癒し、失われた命を呼び戻す奇跡すら起こしたと伝承には残っています。
そして、そんなクローリア様を、セントラリアを復興させようとしていた人々は聖女としてセントラリアに招いたのです」
「なるほど……」
三百年ほど前、セントラリアの大消失という悲劇が起きるまでは「聖女」というのはあくまで王族の女性に与えられる肩書に過ぎなかった。それが変わったのは、クローリアという実際の「力」を持った女性が「聖女」として復興の最中にあったセントラリアに招かれてから、ということか。
「初代のクローリア様は、お歳を召して身体が衰えるようになると、儀式を通して自らの力を後継者へと託しました。そうまでして、自らの命亡きあともセントラリアが守られるようにと願ったのでしょう。私は、そうして脈々と受け継がれてきたクローリア様の力を受け継いだ七代目のクローリアなのです」
「……その外見もその力によっての影響が?」
イサトさんの問いかけに、少しばかり恥じらいの色を浮かべて彼女が頷く。
彼女は、ウレキスさんの姉であるはずだ。
が、そんな彼女は二十代の中ほどに見えたウレキスさんよりも随分と若く見えるのだ。子供じみた幼げとは異なるものの、その肉体は女性として成熟したものというよりも、危うくも未完成な少女のような印象を受ける。
「私たち『聖女』は、クローリア様の力を継いだ時点で肉体の時間を止めてしまうのです。私の先代、四十余年の間聖女としてセントラリアを守っていた六代目のクローリア様も大変綺麗な――…少女のような方でした」
きっと、その六代目のクローリアも、今俺たちの目の前にいる彼女のように、儚く可憐な少女の姿をしていながらも、どこか大人びた眼差しをしていたに違いない。聖女として、他の人々との関係を絶ち、清らかな楽園のような聖堂の奥に囲われて彼女は一生を終えた。
時を止めた少女たちによって守られる王国。
それがなんだか歪なように感じられるのは、俺が現代日本から来た異邦人だからなのだろう。彼女は別に、無理やりセントラリアを守るための犠牲にされたわけではない。自ら望んで巫女としての修養を重ね、偉大なる先代の後を継いだ。それは、先代を語る彼女の誇らし気な口調からもよく伝わってくる。
それでも、俺はつい口を開いてしまっていた。
「ウレキスさんが――……心はいつもそばに、と」
「…………、」
少し、驚いたように彼女が柔らかな瞬きを挟む。
一拍ほどの間をおいて、彼女はふわりと小さな笑みを唇に浮かべた。
「そう、ですか。ありがとうございます」
微かな、笑み。
失われた時を慈しむように伏せられる淡い澄んだ灰の双眸。
それから彼女は、再び視線を持ち上げた。
砂地に水が吸われて消えるような自然さで、その口元の笑みは失せ、その顔は聖女としてのものに戻る。彼女は白い指先でグラスを持ち上げると、花の香りのするお茶を一口飲みこんだ。
その間が、俺たちに次の質問がないかどうかを待つ間だったのだろう。
黙ったままその様子を見ていた俺たちへと、すぅ、と彼女の視線が戻る。
感情の読めない、硝子のような淡い灰色だ。
「本題に、入りましょう。
私は――…セントラリアを護る聖女として、貴方がたに頼みがあってこの場へと招きました」
黙ったまま、俺とイサトさんは聖女の次の言葉を待つ。
ドラゴンのブレスですら防ぐだけの『力』を持つ聖女が、俺たちに頼みたいことというのは一体何なのか。
彼女は、しっかりと俺たちを見据えて口を開いた。
「――北の狂える竜王を、貴方がたの手で斃してほしいのです」
俺とイサトさんは、揃って息を呑む。
北の狂える竜王。
それはすなわち、北の山脈に御座すお方、ではないのか。
ヅァールイ山脈に棲まう、竜を束ねる者。
俺たちが黒竜王、として認識している存在。
エレニの背後にいる存在でも、ある。
「…………理由を、聞いても?」
イサトさんが、戸惑いを押し隠した声音で問う。
その声に、聖女は哀しげにその双眸を伏せた。
「かの竜王が、人を滅ぼそうとしているからです」
どうしてそれを、と言う言葉を何とか飲み込む。
それを言っては、俺たちが黒竜王側の思惑を知っているということになる。
俺が動揺を顔に出さないよう努めるそばで、イサトさんが淡々と問を重ねた。
「どうして、そう思うのだろう。昨夜、セントラリアを襲った者がドラゴンの姿をしていたから、だろうか」
俺たちは、エレニから聞き出したが故にエレニが黒竜王の命を受けて行動していることを知っている。
世界を救うために、という理由でもってして、黒竜王がセントラリアを滅ぼそうとしていることを知っている。
だが、彼女は何をもってして昨夜の襲撃が、いや、人を滅ぼそうとしているのが黒竜王であると認識しているのだろうか。昨夜の襲撃がドラゴンの形をしたものによるものだったからといって、それがドラゴンを束ねる黒竜王の差し金とするのはなかなかに乱暴なように思える。
「それも、あります。ですが、一番の理由はこれまでにも、ドラゴンによる襲撃が幾度となくあったからです」
「……っ」
これまでにも、何度も?
そんな話は、これまで聞いたことがない。
エリサやレティシアも、何も言っていなかったはずだ。
「貴方がたが動揺するのも、無理はありません。これまで、ドラゴンによるセントラリアへの襲撃は代々聖女の間にしか伝わっていません。女神の加護と、代々の聖女の尽力により、セントラリアは人知れず護られていたのです」
「…………」
「…………」
彼女は、静かに言葉を続ける。
「女神の加護により、街が護られているのはご存知でしょう?」
「ああ。モンスターは、街の中には入れない」
「ええ、その通りです。また同様に――…街の外からの攻撃も、女神の加護は通しません。多くのドラゴンが、その加護の前に自壊するよう敗れていきました」
脳裏に、大聖堂へとブレスを吐くエレニの姿がよみがえる。
聖女の結界によって守られた大聖堂に向けて、エレニもまた自らのダメージを無視したようにブレスを吐き続けてはいなかっただろうか。
これまでにも――…街の外からセントラリアを攻撃しようとブレスを吐き続け、自滅していったドラゴンが何匹もいた、ということなのか。
「そういった意味では――…狂ってしまったのは黒竜王だけではないのかもしれません。竜が…………、いえ、狂っているのは、――…」
口にするのも躊躇うように、聖女が言葉を噤む。
迷子のように心もとなげな灰色が、俺たちを映す。
俺たちが信用に足るのかどうかを改めて慮るような間をおいて、彼女は喉に詰まった煩悶をそのまま吐き出すかのよう苦しげに言葉を続けた。
「……女神、なのかもしれません」
女神が、狂っている。
それは、俺たちが考えたこともないような事態だった。
この世界を作り上げた創造神であり、この世界の守護神でもある女神。
今目の前でその正気を疑う言葉を吐きだした彼女は、その女神を信仰する教会の巫女であり、その声を聴くと言われる聖女だ。
いや、その声を聴く聖女だからこそ――わかるのか?
「貴方がたも、私たち人が女神の加護を得られなくなったことは知っているはずです。『セントラリアの大消失』以降、少しずつ私たちに向けられる女神の加護は減少していきました。本当のところ――…もう、随分と昔から、我々聖女にも女神の声は聴こえなくなっているのです」
まるで懺悔のようだった。
小さな身体に抱えてきた秘密を、洗いざらい吐き出すように彼女は言葉を続ける。
「この世界は女神により創られ、その加護の元巡り続けてきました。女神の余剰な力が野山で凝り、モンスターと呼ばれる存在になります。何故、彼らは人を襲うのでしょうか。人を慈しむ女神の余剰な力が、何故人を傷つけるのでしょう。
それを私たち教会の人間は、これまで女神が人を試すためだと説いてきました。モンスターを倒し、その力を証明した者には『女神の加護』が与えられます。女神はそうして我々人の力を試し、高めるためにモンスターを使わしているのだと。
けれど――…その『女神の加護』は得られなくなりました。あとに残ったのは、人を害する意思を持つモンスターだけです」
つまり、何だ。
どういうことだ。
思いがけない言葉の連続に、頭の中で情報が飽和する。
意味のある仮説を導きだすことが出来ない。
いや、もしかするとすでに思いつきつつある答えを、俺は認めたくないだけなのかもしれない。
「私は、思ってしまったのです」
小さく、彼女の言葉が響く。
ぽたり、と雫の落ちる音がした。
はっと顔をあげた先で、顔を伏せ、小さく身体を震わせる彼女の頬を滑り落ちた透明な雫がその手の甲にぱたり、ぱたりと落ちる。
「女神は、人を滅ぼされる気なのではないでしょうか。
その女神の意思を受けて――…黒竜王は、人を滅ぼそうとしているのでは、ないのでしょうか」
半ばわかっていたとはいえ、そう改めて言葉にされると、横合いから頭をぶん殴られるような衝撃があった。
この世界の人を滅ぼそうとしているのが、この世界を作った創造主でもある女神そのものなのかもしれないという仮説。仮説でしかないとはいえ、これまでわかっている情報を繋ぎ合わせたそれは充分な説得力があるように響く。
「女神の御心を疑うことが、どれだけ罪深いことなのかはわかっています。ですが……どうしても、その疑念を打ち消すことができないのです」
だから、か。
彼女は、「女神が狂っている」と思いたいのだ。
そうじゃなければ、女神は本気で人間をこの世界から滅ぼそうとしていることになってしまう。もしそれが女神の正常な意思による決断ならば、人の身ではその意思に逆らうことは叶わないだろう。何せ、相手はこの世界を創造した女神なのだ。芸術家が自分の作品に手を入れるよう、女神がこの世界において人間の存在が不必要だと正気において判断したのならば、人間に待つのは滅びだけだ。
だが、狂っているならば。
何らかの方法で女神を正気に返すことが出来たならば、女神はまた慈悲深く人を守護する存在に戻りうるかもしれない。
彼女はそれに賭けたいのだ。
「直接的な攻撃であれば、古の女神の加護によりセントラリアは護られています。ですが……今回や、前回のような方法を取られてしまえば、私の力だけではセントラリアを護ることが出来ません」
「前回、というのは……」
「飛空艇への襲撃です」
ああ、そういう、ことか。
ようやく、エレニがしたかったことがわかったような気がした。
あいつは飛空艇を墜落させる、という間接的な手段でもってセントラリアに攻撃を加えるつもりだったのだ。ドラゴンの身では、セントラリアの街に入ることも、外側から攻撃を加えることも出来ないから。
そして本当ならきっと、飛空艇の墜落に混乱した街の中でこそ、昨夜の襲撃が行われるはずだったのだろう。飛空艇の墜落でダメージを負った街中に溢れる大量のモンスターと、『竜化』したエレニによる襲撃はトドメだ。もしこれらの作戦が成功していたのなら、確かにセントラリアは滅んでいただろう。
聖女の力によって大聖堂と、大聖堂に避難した人々は助かったかもしれない。けれどそれでも、生活の場となる街が破壊されてしまえば人々はそれ以上セントラリアで暮らしていくことは叶わなくなる。
そう思うと、今更のように冷たいものが背に走った。
俺たちがいなければ、この街は本当に滅んでいたのかもしれないのだ。
窓の外に広がるこの美しく、長閑な光景も潰えていたのかもしれない。
ああ、それとも。
それこそが。
俺たちが、この世界にやってきた理由だったり、するのだろうか。
「すでに、白き森の民が、黒き伝承の民が、この世界から姿を消しました。次が人ではないと誰が言えるでしょうか」
ぽつりと小さく呟いて、彼女が顔を上げる。
涙に濡れた淡い灰色の瞳に浮かぶのは強い決意の色だ。
生き抜くために、戦うことを決めた目だ。
「大聖堂の外で、ドラゴンを相手に決して怯まず戦い抜いた貴方がたを見て、私は思ったのです。貴方がたなら、滅びに向かいつつある私たちを、この世界を救うことが出来るのではないか、と」
そして、聖女は俺たちへの願いをもう一度口にした。
「お願いです。
どうか私に協力して、――北の竜王を斃してはもらえませんか」
「…………」
「…………」
聖女のもとを後にした俺たちは、その後宿に向かう道すがら二人とも黙りこくったままだった。
そっと隣の様子を窺う。
黙々と歩き続けるイサトさんの視線は物憂げに伏せられている。
聖女の元で得た情報をいろいろ整理しているのだろうか。
結局。
俺たちは聖女からの要請に対して、黒竜王を倒すとの確約はしないままあの楽園を辞去することになった。
何せ、まだ情報が足りていない。
黒竜王が本当にセントラリアを滅ぼし、人間を滅ぼすつもりであるのならば止める必要があるとは思う。たとえ女神がそれを望んだとしても、俺は俺の知己であるエリサやライザ、レティシアの暮らすセントラリアが滅ばされる様を黙って見過ごすことはできない。
だが、まだどうして黒竜王がセントラリアを滅ぼそうとしているのかはわからないままだ。エレニを介してその辺の事情を聞くことが出来たのならば、もしかしたら武力衝突以外の方法で解決することが出来るかもしれない。
ただ、そう思う一方で妙な予感がしているのも事実だった。
聖女と話している中で、閃きのように俺の中に生まれた一つの考え。
どうして、俺たちがこの世界に迷い込んだのか。
この世界では規格外の力を持つ俺とイサトさんが、喚ばれた理由。
黒竜王ないし、女神を止めるためだと考えたならば、辻褄が合わないだろうか。
それを成し遂げ、この世界における俺たちの役割を果たし終えた時こそ、俺たちは元の世界に帰ることが出来るのでは――?
そんな考えが、ぐるぐると頭の中で渦巻き続けている。
疲れ切っているはずなのに、頭の中でそんな閃きが燻って神経が休まらない。目を閉じても、眠れるかどうか。
悶々とそんなことを考え続けている間にも、どうやら足だけは真っすぐに宿に向かって進み続けていてくれたものらしい。いつの間にか目の前には自室として借りている宿の一室の扉があった。
俺の隣を過ぎて、イサトさんが自室へと向かおうとする。
考えるより先に、その背を呼び止めてしまっていた。
「なあ、イサトさん」
「――ぅ、ん?」
イサトさんが立ち止まる。
「どう、思う」
振り返って俺を見つめ返す金色に、つい、そんな漠然とした疑問を問いかけてしまった。
「んー…まあ、考えるべきことは多いだろうな。ただ私としては、現段階において彼女の言葉だけを鵜呑みにすることは出来ないと思ってる」
「それはどうして?」
「ええとそれはだって、私がまだ中国語をマスターしてないから」
「――………」
ん?
「エレニ側の話をちゃんと聞いていないからというのもあるし――…彼女の話にはいくつかの穴があるようにも思える。その辺の穴をちゃんとうめないことには、生涯を通しての言語教育の可能性は否定できない」
「…………」
「…………」
しばしの、沈黙。
「イサトさん」
「ん?」
「ええとその、俺が疲れてるからかもしれないんだけど」
「うん」
「イサトさんの言ってることがちょっとよくわからない」
イサトさんが何かわけのわからないことを言ったような気がする。
いや、俺の頭が過労で死んでいるせいでイサトさんの文脈を追えてないだけか。
「――……」
イサトさん自身も、困惑したように少し首を傾げる。
俺の物分かりが悪いせいで、疲れているところにさらに説明の手間をかけさせてしまって申しわけないが、本当にイサトさんが言ってる言葉の脈絡がわからない。
こんなのは初めてだ。
申しわけなさそうに眉尻を下げた俺に、イサトさんが口を開いて――
「ごめん、私も自分が何言ってるのかわからない」
「イサトさん、寝よう」
頭が死んでるのはどうやら俺だけじゃなかった。
ごくご当たり前のようにさらっと混線してるぞイサトさん。
寝よう。
これは寝た方が良い。
ちょっとでもイサトさんの方がまともで、俺の方が脈絡を追えなくなっているのではないかと考えてしまったあたり、俺の方も正常な判断がついてない。
「おやすみ、イサトさん」
「ん、おやすみ秋良」
眠そうな声で応えて、ふらふらとイサトさんの背中が室内に消えていく。
それを見届けて、俺も自室のドアをくぐった。
「………………なんで、中国語マスターしようとしてるんだあのひと」
遅ればせながら、突っ込みをひとりごちる。
くく、と小さく笑いを漏らしながらばたりとベッドに倒れこんだ。
なんだか、不思議と爆睡できそうな気がした。
あけましておめでとうございます。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
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