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おっさん、変質者に迫られる



 それからの数日間、俺とイサトさんは時間を見つけては例の廃墟でダンスを練習する日々が続いていた。

 万が一違っていたらということでレティシアにも見てもらったのだが、おおむね問題はないようだった。こちらでも舞踏会といったら、円を描くように動きながら踊る三拍子のダンス、という認識で間違っていないらしい。ただ、細かい足型が少し異なるようなので、セントラリア風のワルツの足型をそれぞれ俺は男性パート、イサトさんは女性パートをレティシアから習った。

 最初はそれぞれ足型を覚えるために別々に練習し、それから実際に組んで踊ってみる。


「秋良青年、目線」

「ああ、うん」


 油断するとつい足元を確認してしまいそうになる。


「足元を見ようとすると顎が下がるから、背も丸くなっちゃうんだ。せっかく君は上背があるのに、それじゃあ勿体ない。右手の先を見る感じだとちょうど良いよ」

「右手?」

「そうそう、右手」


 俺の右手は絶賛イサトさんの腰に添えられている。

 その先、というとどこだ。

 地面しかない気がするぞ。


「どこ見てるんだ、ほら、こっち」


 少し呆れたように笑いながら、ぎゅっぎゅ、とイサトさんが俺に示すように手を握る。


「…………」

「……なんだ」

「イサトさん、それは俺の左手だ」

「あれ?」

「あれって」


 不思議そうに瞬いたイサトさんに、思わず小さく笑ってしまった。

 二人手を取り合って向かい合っているのだから、そりゃ逆にもなる。

 イサトさんにとっては右手の先なんだろうが、俺にとっては左手であるわけで。


「……ただでさえ左右の区別がつかない私に、私にとっての右だとか君にとっての右だとか難易度が高すぎる。右は右でいいじゃないか」


 間違えた照れくささを誤魔化すようにイサトさんがぼやく。

 それにはいはい、と頷きながら、俺はイサトさんに言われた通り視線をイサトさんにとっての右手の先へと流した。

 こうして視線を進行方向に向けておくと、あまりイサトさんとの近さを意識せずに済む。それに、実際こうして組んで踊ってみてわかったのだが、ホールドの段階ではものすごく近く感じたイサトさんの顔が今は意外に思ってしまうほど距離を感じる。腰のあたりは互いに触れるほど近いのに、そこを抱く俺の手を支点にするかのようにイサトさんはくうと背を優雅にしならせた姿勢をキープしているからだろう。それでいて、腰を抱く俺の腕に体重がかかっているかといえばそうでもないのだから凄い。

 ダンス超体力使う、とこぼしていたイサトさんの言葉を改めて実感する。


「いーち、にーい、さーん」


 リズムを刻むイサトさんの声に合わせて、足型を踏む。

 最初はなかなかかみ合わず、お互いの足を踏んだりよろけたりすることの多かった俺たちだが、ようやく少しずつ合うようになってきている。実際自分で体験する前は、ダンスの何が楽しいのかがよくわからなかったが、なるほど。こうして少しずつパートナーとの動きがかみ合い、ダンスとしての完成度が高まっていくのはなかなかに面白いかもしれない。


「秋良、もうちょっと大股でも大丈夫だぞ」

「イサトさん辛くない?」

「そりゃあついていくのは大変だが」


 もともと俺とイサトさんには身長差がある。

 そうなると当然コンパスの差がある上に、このワルツというダンス、女性は常に後ろ向きに進んでいくような状態が続く。高いヒールを履いて上身をしなやかにそらしたまま大股に後ろ向きに進む、なんてなかなかに大変なのではないだろうか。……いや、落としたり転ばせてしまったりしないようにしっかり支えているつもりではあるのだが。


「その方が見栄えが良いんだ。せっかくなら、セントラリアの貴族連中を驚かしてやりたいだろう?」


 くぅ、と胸をそらして進行方向を見ていたイサトさんが、ちらりと俺に向けて悪戯っぽい視線を投げかける。


「……確かに」


 相手は、わざわざ俺たちを舞踏会に招くような連中である。

 深読みしすぎかもしれないが、冒険者風情である俺たちを場違いな舞踏会の場に引っ張り出して威圧しようとしている、という風にも受け取れる。もしそうだとした場合、俺たちが隅っこで小さくなっていては相手に隙を与えるだけだろう。


「じゃあ、ちょっと大きめに動いてみる」

「よしきた」


 足型が一周して最初に戻ったところで、意識して次の一歩を先ほどよりも深く踏み込んだ。その分深く体が沈む。合わせて後退するイサトさんの身体にもぐっと力が張るのがウエストに添えた掌からも伝わってきた。結構キツそうである。


「もうちょい抑えた方が良い?」

「いや、大丈夫。根性で、合わせる」

「…………」


 この負けず嫌いめ。

 言われた通り、一歩一歩ストライドを広げて、廃墟の中庭をくるくると足型を踏んで進む。歩幅が広がった分勢いがついているのか、ターンの度に本日赤ずきんなイサトさんのスカートがより華やかにふわりと広がった。

 そのまま足型を踏み続けること数分。

 イサトさんの体力が持続したのは、ちょうど中庭を一周するところまでだった。がく、と膝が抜けるようにそのまま崩れかけるのを、慌てて腰にかけた手で引き戻す。先ほどまでぴんとしなやかに伸びていた背が柔らかに弛緩するのが伝わってきた。


「大丈夫かイサトさん」

「しぬ」

「死ぬな」

「ちょっと、たいむ」

「はいはい」


 ホールドを解くと、イサトさんはへろへろとした動きで中庭の端っこに腰を下ろした。踊っているときは優雅そのものなのだが、やはり体力の消費は激しい模様。体育座りの膝小僧に額を乗せて、ぜーはー言っている。


「イサトさん、それで一曲持つのか」

「三分から四分ぐらいならなんとか」

「え、ワルツってもっと長くないか?」


 俺の記憶が確かならば、クラシックのなんとかのワルツ、的曲は大体10分前後あったような気がしている。

 イサトさんは弾んだ息を整えながら、俺をじろりと見上げた。


「そんな長時間あのペースで踊ってたまるか……しんでしまう」


 切実だった。


「舞踏会なんかで演奏されるワルツには前奏なんかもあるし……あと無理なく踊れるように短縮されてたりするんだよ。私たちの知ってるワルツ曲が流れるようなことはないだろうけれども――…まあ10分耐久ワルツなんてことにはならないだろうな」

「なるほど」

「それにがっつり、これだけ魅せることをメインに全力で踊るのは最初だけだよ。後はまあ、パートナーも変わるだろうし、ゆるーく」

「え」


 イサトさんの言葉に俺は思わず声をあげていた。

 パートナーが変わる?


「ん?」


 イサトさんは緩く首を傾げている。

 それから何か思い出したかのようにポンと手を打った。


「ああそうだ、実際舞踏会が近くなったら言おうと思ってたんだった。たぶん他の人にダンスに誘われるようなこともあるだろうから、心の準備はしておいた方が良いぞ」

「え、他の人とも踊らないといけないのか?」

「まあ誘われたらあまり無碍にはしない方が良いだろうなあ。ただその時はかるーく一周回る程度で良いと思う」

 

 そうか。

 そういうこともあるのか。

 ……というか、イサトさんも他の奴と踊るのか。

 なんとなく、面白くない。


「そんな難しい顔しなくとも、あれだけ足型踏めてれば大丈夫だよ」


 ゆっくりと立ちあがったイサトさんが、ぽん、と軽く俺の腕に触れる。

 いつもと変わらない、俺を安心させるような仕草。

 が、実際のところ俺は別に他の相手と踊ることに対して不安を感じていたわけではないわけで。いや不安といえば不安ではある。イサトさんのような隙の塊を貴族の男どもの中に放流して大丈夫なのか、とか。

 適当に言いくるめられて部屋に連れ込まれたりしそうで、心底不安である。


「…………」

「……なんだろう、その信用のならないイキモノを見るような目は」

「いや、別に」


 ……舞踏会当日はなるべくイサトさんから目を離さないようにしよう、と心の中で固く決意。

 と、そこでイサトさんがゆっくりと伸びをした。


「ちょっと喉が渇いたので飲み物をとってくるが、君も飲む?」

「あ、頼めると嬉しい」

「わかった」


 ひらりと手を振って、イサトさんがカツカツとブーツのヒールを鳴らして廃墟を出ていく。時折腰のあたりに手をやってポンポン、としているあたり、筋肉痛に悩まされているのかもしれない。イサトさんほどではないが、俺も体の節々が痛い。いつも使ってるのとは違う筋肉を使っている感。

 イサトさんをを見送って、俺も軽く身体を解すことにした。

 部活の後にいつもしていたクールダウンのためのストレッチを思い出しながらこなしていく。一度やり始めると意外と覚えているもので、淡々と10分程度のストレッチを終えた。


「こんなもんか」


 腕を伸ばして腰を捻りつつ、ふう、と息を吐く。

 と、そこでそんな俺をまじまじと観察している人影――イサトさんに気付いた。


「あれ、戻ってきてたのか」


 こくん、とイサトさんが頷く。

 飲み物を取りにいってくれる、と言っていたわりに手ぶらだ。


「イサトさん、飲み物は?」

「あ、ごめん」

「なんだ、自分だけ飲んできたのか」


 申し訳なさそうに眉尻を下げたイサトさんに、俺はひょいと肩をすくめた。

 別段そこまで気にすることではない。

 が、わりと俺のことをいつも気にかけてくれがちなイサトさんにしては珍しいポカだ。やっぱり疲れが溜まっているのだろうか。


「今日はこれぐらいにして、ゆっくりした方が良さそうだな。イサトさん、疲れてそうだし」

「ううん、そんなことない。ねえ、もうちょっと練習しない?」

「いいけど」


 なんだか様子がおかしい、ような?


「なあ……って、……ッ」

 

 俺が口を開きかけたところで、イサトさんにぴたりと距離を詰められた。ホールドというよりも、まるで俺に抱きついて身を寄せるような距離感に息が詰まる。服越しに触れる柔らかな体温に、言いかけたはずの言葉がどこかにかっとんでいった。じりじりと頭の芯が熱くなる。


「い、いいい、イサトさん!?」

「…………」




Q:イサトさんはどうしたのですか?


①何かあった

②何かやらかしたのを誤魔化そうとしてる

③おかしくなった




 脳裏に謎の三択が思い浮かぶ。

 一番疑わしいのは②ではあるのだが、それにしてはイサトさん、いろいろと賭けすぎである。何をしたらここまでするというのか。それを考えるとそれはそれで聞くのが怖い。


「ええと、その」

「…………」


 イサトさんが俺の胸元に埋めるようにしていた顔を上げる。

 じっと金色の双眸が俺を見つめる。


「何か、あった……?」

「踊ろう?」


 会話になってない。

 いつもならそうツッコミを入れるところなのだが、ちょっと今はそれどころじゃない。当たってる。柔らかく、それでいて弾力のある感触がものすごく当たっている。イサトさんの表情を見ようと下した視線がそれより先に、俺に押し当てられて撓んだ胸の盛り上がりだとかに吸い寄せられたので本当にマズい。


「ほら」


 イサトさんが俺の手を取る。

 条件反射のように、その腰に手を回した。

 だというのに、イサトさんはいつものポイズを取ろうとはしない。変わらず俺に寄りそうような形で、すっと自分から身体を引くようにしてワルツのステップを踏み始めた。もはやポイズがどうとかホールドがどうとか言ってられる状態ではなさすぎる。何だこれ。何が起きてる?


「ねえ」


 低めの柔らかな声音が、ぞっとするほど甘く響く。

 ふわりと鼻先を覚えのある香りが漂った。

 甘く、それでいてどこかほろ苦さを感じる……これはチョコレート?

 違和感を頭の片隅に覚えるものの、その小さな棘のような違和感の正体を追うところまで頭が回らない。

 

「イサト、さん」

「聞きたいことが、あるの」

「聞きたいこと、って……」


 いつの間にかホールドが解け、イサトさんの右手が俺の頬に触れる。


「どこから、来たの?」

 

 ヤバい。

 これは本当にヤバい。

 ヤバいとわかっているのにぴたりと貼りつくように寄り添うイサトさんを引っぺがすこともできず、その質問に答えようとしてしまっていることが何よりヤバい。


「俺は……」


 甘いチョコレートの香りに思考が痺れる。

 マズいことになっていると頭のどこかでは認識しているのに、自分の行動に歯止めがかけられない。

 蠱惑的な笑みを浮かべて俺を見上げるイサトさんから視線が逸らせない。

 俺はゆっくりと口を開きかけて……


「――…何を、しているんだ」


 そんな声と共に、カツン、と澄んだ音が響いた。


「っ……!」


 とたん、まるで俺を閉じ込めていた見えないシャボン玉がぱちんと弾けたかのように、濃厚なチョコレートの匂いが遠くなった。

 爽やかな風がぶわりと廃墟を吹き抜けていく。

 その新鮮な風の匂いに、俺はは、と息を吐き出した。

 少しずつ、頭の奥を侵していた甘い痺れが抜けていく。

 緩く頭を振って、その声の主へと視線をやる。

 そこにいたのは――半ばわかっていたことだが――イサトさんだった。

 どことなく厳しい顔つきで、片手には禍々しいスタッフを携えている。

 先ほどの音はスタッフの石突で地面を叩いた音だったらしい。

 その傍らには、取ってきてくれたらしい飲み物のグラスが二つ地面に並べられている。


「イサトさん」


 俺が名前を呼ぶと、イサトさんの視線がちらりと俺を向く。

 どこか呆れたような、それでいて少し安心したような色がその金色には浮かんでいた。というか。そこに立っているのが本物の(・・・)イサトさんだとしたならば、俺に今もぴたりと寄り添っているこの人物はいったい誰だというのか。俺はごくりと喉を鳴らしつつ視線を下して……


「うわ!?」


 思わずそんな声と共に一気に後ずさってしまった。

 そこにいたのは――、銀とも見紛うプラチナブロンドに白い肌、灰がかった蒼の瞳を楽しそうに笑みに撓ませた 男 だった。繰り返す。男である。男。まだ女だったなら救われたような気がするが、男である。

 イサトさんだと思っていた相手がいきなりそんな似ても似つかぬ男に化け、さらに言うならそんな男と密着していたことに気付いたのだ。胸元に感じる感触も、いつの間にやら固く平たい男の胸板に変わっている。咄嗟に悲鳴じみた声をあげて後退ったからと言って、誰も俺を責められないと思う。


「酷いな、さっきまでは優しく抱きしめてくれていたのに」

「おいやめろ、本当やめろ死にたくなるから」


 くっくっく、と喉を鳴らして面白がるように笑っている男に、俺は死にそうな声で呻いた。この男相手にあんなに至近距離でワルツを踊って惑わされていたのかと思うと死にたくなる。というか世界を滅ぼしてでも全てをなかったことにしたくなる。わりと本気で。

 

 背丈は俺とそう変わらない。

 ただ、全体的に俺よりも細身である分一回りほど小柄なようにも見える。

 長い、銀にも見えるプラチナブロンドを顔の片側に寄せて編み、長く体の前にたらしている。そんな風貌や整った顔立ちもどちらかというと柔らかで女性的ではあるかもしれないが、だが男だ。どう見ても男だ。

 

 なんでこんな男をイサトさんだと思ってしまったのか。

 

 唯一その男の外見の中でイサトさんに似ている点があるとしたのなら、それは淡いプラチナブロンドの間からにゅっと付きだした細長い耳だった。


 エルフ……?

 

 この世界において大昔にすでに滅んだと呼ばれている、古の種族。

 ダークエルフであるイサトさんの対。

 細く長い耳や、濃い肌の色ならば先祖がえりのようにその形質を継いだ者もいる、という話を以前レティシアから聞いたことがあった。

 だが。

 目の前にいる男は、どうもただ見た目だけのエルフだとは思えない雰囲気を漂わせている。


 滅んだはずのエルフ、というだけならまだ良い。

 もしかしたら。

 もしかしたらこの男は、イサトさんと同様にゲーム時代の設定に引きずられてエルフとしてこちらにやってきた同郷(現代日本)の人間である可能性だってあるのではないのか。

 

「お前、目的はなんだ」


 自然と声が厳しくなる。

 俺たちと同じ身の上であるのなら特に対立する必要はないと思う一方で、俺たちと同程度の戦闘能力を持っている可能性があると思うととても油断する気にはなれなかった。


「怖い顏しないでよ。あ、それとも幻術で惑わせたことを怒ってる? ごめんね?

ちょっと情報収集ついでにからかってみようかなーって思っただけなんだけど」

「…………」


 良い性格をしてやがる。

 とりあえず思いっきりぶん殴ってやりたい衝動をこらえて、すっとインベントリから大剣を取り出して腰に携えた。何か妙な動きがあれば、すぐに応戦できる準備だけはしておきたい。俺のその様子に、その男はひょいと肩を竦めた。そしてくるりと踵を返すと、なんでもないような動きでイサトさんに向かって歩を進めようとする。


「ッおい!」

「…………」


 背後から即座に引き留めようとした俺に向かって、イサトさんが軽く手を上げて制した。


「何か妙なことを企んでいるのなら――…辞めた方が良い。君が何か武器を取り出すようなことがあれば、こちらはすぐにでも敵対行動と見做すぞ」


 イサトさんの手には、禍々しいスタッフ。

 何か切っ掛けとなる所作を行えば、すぐにでも攻撃魔法が発動する用意はしてあるのだろう。相手が見た目どおりのエルフであるのなら、ゲーム内の設定に従えば得意な魔法は支援系、主な攻撃手段は召喚魔法になる。今のところこの男は手ぶらであり、魔法を発動させるのに必要な武器を携えている気配はない。徒手空拳で襲うにしろ、攻撃が届く間合いに飛び込むより先にイサトさんの魔法が炸裂するだろうし、そもそも俺にしたって黙って見守る気はこれっぽっちもない。イサトさんと俺との距離は2メートル程度。一息に踏み込んで大剣を振るえば、即座に斬り捨てられる。


「やあやあ怖いなあ、二人とも。そんなに警戒しなくてもいいじゃない?」


 軽い調子で笑いながら、男は無害っぷりをアピールするかのように両手をひらひらと振ってみせた。確かにその手には何の武器も持たれていなければ、ピアニストのように細く整った指先は何か素手による格闘技を嗜んでいるようにも見えない。


 男はイサトさんまであと一歩、という距離まで歩み寄ると――…ふっとその足元に跪いた。まるで童話の中の姫君に忠誠を誓う騎士のように、片膝をついてイサトさんを見上げる。そして悪意がないことを示すかのようにゆっくりとした所作で手を伸ばし、イサトさんのスタッフを握るのとは逆の手を取った。白い指先がイサトさんの褐色の指を絡め取った瞬間、ぴくり、とスタッフが微かに震える。


「イサトさん」

「大丈夫」


 少しでも、イサトさんが嫌がったならぶちのめす。

 そんなつもりで呼びかけた声に、イサトさんも声だけで応じた。

 金色の視線は、油断なく目の前で恭しく跪く男に据えられたままだ。

 今は、男の意図を探ることを優先したいのだというイサトさんの意図はわかっていても、あまり良い気はしない。べたべた触ってんじゃねえ。


「もし、君が俺を不快に思うならそのスタッフを振るうが良いよ。君なら、俺を殺すだけの力がある」

「…………」


 イサトさんは答えない。

 男はイサトさんを見上げたまま、ゆっくりとイサトさんの手を口元に引寄せ、その手の甲に恭しく口づけた。

 そして。











「――俺の子を産んでくれないか」











 あんまりにもあんまりなセリフが飛びだした。

 何言ってんだこいつ、と俺が呆気にとられている間にも、イサトさんの行動は早かった。渾身の力を込めて振り抜かれたのであろうスタッフが、強かに男の側頭部を引っぱたく。ガヅン、と何やらとんでもなく痛そうな音がした。


「いったい!!! 何これ超いったい!!!」


 男が悲鳴をあげる。

 攻撃魔法が炸裂しなかったのは、イサトさんの理性のおかげだろう。

 俺としてはいっそ不幸な事故に見せかけて()ってしまっても良かったのではないかなんて思うわけなんだが。

 イサトさんが、ささっと悶絶する男の脇を回り込むような動きで俺の元まで逃げてきた。さすがのイサトさんも変態は怖いらしい。これもう、慈悲など要らないのではないだろうか。

 

「なあ」


 ぽん、と寝かせた大剣を肩の上で弾ませながら、俺は頭を抱えている男の脇に屈みこんだ。いわゆるヤンキー座りである。

 

「お前、何考えてんの」


 口元は笑っているものの目は笑っていない自覚はある。

 さぞかし凶悪な顔をしていることだろう。


「はは、君顔怖いな」

「うるせえ怖いのは顔だけかどうか実地で教えてやろうか」

「それは遠慮したい」


 あー痛い痛い、と呻きながら、それほど痛みを感じているとも思えない所作で男はすっと立ち上がる。その視線を遮るよう、即座にイサトさんとの間に入るように立った俺に、男はにこーっと悪意のなさそうな笑みを口元に浮かべた。


「突然の申し出に戸惑う気持ちはわかるよ。でも考えてくれるぐらいは……」

「駄目に決まってんだろ」

「えー」


 不満そうにブーイングされた。

 駄目だこいつ。

 なんかまともに相手しちゃいけないタイプの奴だ。


「あ、もしかして君、彼女の恋人だったりする?」

「ッ……」


 言葉に詰まった。

 不覚にもじわっと頬に熱が昇るのを感じる。

 くっそ。

 違う、と俺が否定するより先に、男は饒舌に言葉を続けた。


「まあ君が彼女の恋人でも構わないよ。彼女の心は君のものでも、その愛の寛容さでもって(はら)を貸してもらえればぐげふ!?」


 最後まで言わせずアイアンクローをかます。

 ぎりぎりぎりぎり。

 イサトさんにメロン潰せるかと聞かれた時には無理だと答えたが、今なら出来る気がする。


「痛い痛い俺の顔がますます小顔に!」

「微妙にポジティブなのが余計に腹立つな」


 めりめりめりめりめりめり。


「あっあっ、なんかミシって言ってる!」

「このまま潰したい」

「何それこわい!」


 痛い痛いと悲鳴をあげているわりに、楽しそうなのは気のせいか。

 わたわたと踊るように手足を動かしている男を半眼で見やりつつ、俺はイサトさんへと声をかける。


「コレ、どうする?」

「……生ごみとして処理したい」

「同感」

「まって俺まだ死んでないよ!?」

「安心しろ、今からコロス」

「安心できない!」

「って」


 ますますギリギリと力をこめようとしたところで、まるで本当の意味で魔法でも使ったかのように、男はするりと俺の手から逃げおおせた。


「……?」


 今、何をされた?

 思わず男の顔面にかけていたはずの手に視線を落とす。

 痺れがあるわけでも、何か衝撃を受けたわけでもない。

 それなのに、気づいた時にはもう逃げられていた。

 やはりこの男、得体が知れなさすぎる。

 大剣に手をかけて身構える俺に、男はやっぱりどこか人懐こく笑った。

 灰がかった蒼の瞳が、硝子玉のように俺を映している。

 

「まったく、君の護衛超怖い」


 そんなことを嘯きながら、男はひょいと見えない何かを拾い上げるような所作をした。それから、ちらりと俺へと視線を投げかける。

 にたりと揶揄する笑みがその口元に浮かんだ。


「ダンス、楽しかったよ。それじゃあね」

「逃がすか!」

「逃げるよ」


 しれっとそう答えた男の姿がすぅっと風に溶けるように見えなくなる。

 幻か何かのように、その姿が消え失せる。


「イサトさん!」


 なんとかならないかと思って声をあげたものの、イサトさんは諦めたように首を横に振った。


「逃げられた」

「ちッ」


 ついガラの悪い舌打ちが漏れる。

 

「あれはたぶん支援系魔法スキルの一種だな。ほら、敵から見えなくなるのがあっただろう?」

「そういえばそんなのもあったな。ってことは、もしかしてあそこにスタッフがあったのか」

「おそらく。幻術で隠してたんだと思う」


 もしもあの男が攻撃系の魔法スキルを使っていたら、と考えるとぞわりと背筋が冷えた。エルフだけあってあまり戦闘向きの魔法スキルは持っていない、ということも考えられるが、ここにいるイサトさんはダークエルフでありながら召喚魔法の取得を選んだ変人である。それを考えるとあの男が攻撃魔法を不得手にしていると決めつけるわけにもいかない。


 逃げるのに使った魔法スキルにしてもそうだ。ゲーム時代は、アクティブモンスターの索敵に引っかからなくなるスキルとして低レベル帯に重宝していたものだが、発動にはいくつかの条件があった。敵の目に映らなくなるのは良いのだが一発でも敵に攻撃を加えてしまったらその効果がなくなってしまう上に、すでに見つかった状態から使っても、成功率は低い――…ということになっていた。

 つまり、あの男はそれでも俺たちの前から姿を消すことに成功する程度には、腕の立つ魔法使いであるということになるのだ。

 

「なんなんだ、アレは」

「……さあ。でもなんか、こう。油断ならない」

「それは同感だ」


 結局、あの男がエルフの末裔なのか、俺達と同じくゲームを通してこの世界に迷い込んだ人間なのかはわからないままだ。


「あとなんか新ジャンルの変態だと思う」

「それも同感だ」


 俺とイサトさんの疲れたような溜息がハモる。

 まさか本当にイサトさんに求愛(と言っていいのかわからない)することが目的だったとはあまり思いたくはない。しれっと笑顔で言っているせいであまりその非道さが引き立たないが、子供さえ生んでくれればいいだの(はら)だけ貸してくれだの、男の俺が聞いても酷い言い草だ。

 ちらり、とイサトさんを見やる。


「ん?」

「いや、なんか大丈夫かなと思って」

「私は別に平気だが。

 それより――…君の方がダメージは大きそうな気がするけども」

「え」


 ふっとイサトさんの口元が笑みに緩む。

 にんまりと愉しそうな、それでいて少し意地悪げな笑み。


「戻ってきて驚いたぞ、君が男相手に寄り添ってワルツ踊ってるもんだから」

「やめろ思い出させるな」


 げんなりと項垂れる。

 幻術で騙されたとはいえ、不覚すぎる。

 って。


「イサトさんには、最初からあの男に見えてたのか」

「うむ」


 つまりそれってどういうことだ。

 あの男が最初から俺だけに幻術をかけていたのか、それともイサトさんには幻術が通用しなかったのか。

 ……イサトさんにはかかりにくい、ということは多いにありうる。召喚魔法や精霊魔法スキルを多く取得しているイサトさんは、俺に比べると魔法防御も高い。

 ふむ、と俺が考えこんでいると、イサトさんがかくりと小首を傾げて俺を見た。


「そういえば、いったいどんな幻を見せられてたんだ?」

「――え」

「なんかもの凄く、少女漫画の見開きのような雰囲気が漂っていたけれども」

「・・・・・・」


 言えない。

 言えなさすぎる。


「…………黙秘」

「ケチ」

「ケチじゃありません」

「別に笑ったりしないのに」


 逆に笑えないから言えないのである。

 あんな、触感つきの幻なんて実によろしくない。

 いや、本当に。


ここまでお読みいただきありがとうございます。

Pt,お気に入り、感想等いつも励みになっています。


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