おっさんの霍乱
途中第三者目線があります。
★☆★
何か、怖いものに追いかけられていた。
私は、懸命に走っていた。
右手の先には、誰かがいる。
手の中に、小さな手を感じる。
誰かの手を、引いている。
子供だ。
幼い子供。
嗚呼、守らないと。
きゅ、と唇を噛みしめる。
零れそうな嗚咽を飲みこむ。
怖い。
すごく怖い。
けれどここで私が怖がったら、私が揺れたら、私が迷ったら、この繋いだ手の先にいる子供はきっともっと怯えてしまう。
だから私は強いふりをしていなければ。
凛と、こんなことなんてことはないのだというふりを。
例えそれが真実でなかったとしても、その子の目に映る真実として、強き保護者であってやりたい。
身体より先に心が折れては、逃げられるものも逃げられない。
だから怖がるな。
だから怯えるな。
だから迷うな。
自分に言い聞かせて、子供の手を引いて走る。
胸が苦しい。
ふつふつと浮いた汗が額を滑って目に入って染みた。
ちりちりと目が痛むのはそのせいだ。
眦が熱いのはそのせいだ。
決して泣きそうだからなどではない。
「大丈夫だ」
言い聞かせるように呟いた言葉は誰に向けたものなのか。
ひたひたと背後に迫る異形の気配に神経が摩耗していく。
泣き叫んでしまえたらどんなに気が楽になることだろう。
感情を素直に表すことが出来たなら。
繋いだ手を振りほどいて、私に頼らないで私だって怖いんだからと泣き叫んでしまえたらどんなに楽だろう。
「っ……」
きゅ、とますます唇を強く咬む。
背後に迫る気配が濃くなる。
追いつかれる。
そう思ったとたん、土壇場で私に出来たのは振り子の要領で強く手を繋いでいた子供を前にぶん投げることだけだった。
反動で、自分の身体は背後に倒れる。
このまま背後に追い迫った「何か」に襲われてしまうにしても、繋いだ手の先にいる子供より後に死ぬわけにはいかない。
それは意地だ。
年長者の、意地だ。
声にならない声で、ざまあ、と己を背後より捕える闇に嘲笑う。
やけに清々しい気持ちで、どっぷりと背中から闇に沈む。
少しずつ身体の縁が溶かされているのかじりじりと肌が熱に痛む。
のっぺりとした闇色に閉ざされた世界の中で、息が苦しくないことだけが救いだと思った。
きっと窒息は苦しい。
真っ暗な世界で、そっと膝を抱えた。
誰もいない、ひとりぼっちの闇の中。
身体は重く、熱っぽく、このまま独り終わるのだと思うととんでもなく心細さを感じた。
「……は、」
小さく息を吐く。
その拍子に、先ほどまで我慢していた雫がほろりと眦を滑り落ちていった。
そうだ。
もう、我慢しなくていいのだ。
もう、ひとりだから。
自分のために泣ける。
本当は怖かったのだと、辛かったのだと、やっと泣くことが出来る。
そう思うと、独りで逝くのも悪くないと思えた。
ほう、とどこか安堵じみた息が零れた。
このまま闇に融けて見えなくなってしまおうか。
誰にも見つからないこの場所で。
誰にも気兼ねせずにすむこの場所で。
ゆっくりと、体が闇に沈んでいく。
ゆっくりと、融けていく。
どろり、どろどろ。
闇と自分の境界がわからなくなる。
感じる重苦しい熱だけが、自分の身体とそれ以外とを区別する縁だった。皮肉な話だ。きっと、この熱から解放されるとき、私は『自分』を見失う。それが、御終いだ。
★☆★
イサトさんを宿屋まで送った後、一度教会に戻って起き出してきたエリサに一声かけ、それから俺自身もまた宿に戻って仮眠を取った。
……というか、仮眠のつもり、だった。
が、ばたりとベッドに倒れ込んだ後はまるで切り取ったように時間が吹っ飛び――…次に目を覚ました時にはもう窓の外がすっかり暗くなった頃だった。
「……おおう」
ベッドの上でむくりと身体を起こし、窓の外を見やって呻く。
自分で思っていたよりも、よっぽど疲れていたらしい。
昼過ぎには起きて、一度イサトさんの様子を覗こう、とか考えていたはずだったのに。
俺は伸びをしてから起き上がると、隣の部屋を訪ねてみることにする。
ノックを数度。
「イサトさん?」
呼びかけても返事はない。
預かっていた鍵でそっと扉を開けて中の様子を窺ってみる。
部屋の中には、どこか気怠い熱がこもっていた。
ベッドの上には、まん丸い塊が一つ。
頭まですっぽり布団の中に隠れてしまっている。
……これ、中で息出来るんだろうか。
そんなことを思いつつ、俺は傍らまで歩み寄る。
ただ眠っているだけならばこのままそっとしておいてやりたいところなのだが、具合が悪くて寝込んでいるようなら様子を見ておきたい。
「おーい」
そっと声をかけながら、ぺろり、と布団の端を捲る。
シーツの上をのたうつ銀色が見えて、それから胎児のように身体を丸めるイサトさんの横顔が覗いた。
熱があるせいなのか、布団に籠っていたせいなのか、その両方のせいか、イサトさんの頬は熱っぽく火照っていて、非常に寝苦しそうだ。
息苦しいならせめて布団から顏を出せば良いのに、なんて思いつつ額にそっと手で触れた。
★☆★
ぺり、っと。
闇が裂けた。
「え」
小さく間の抜けた声が出る。
そこから差し入れられたのは、小さな子供の手だった。
「馬鹿、逃げなさい、危ないから」
せっかく逃がしたのに、どうして戻ってきてしまったのか。
そんな危ないことなんて望んではいなかったのに。
一緒に闇に囚われてなんて欲しくないのに。
ここには私ひとりだけでいいのに。
吐き出した弱音も、こぼれた涙も、見られたくなんてないのに。
見ないまま行って欲しかったのに。
なんで。
「大丈夫、だから」
そんな声に、どこか聞き覚えがあった。
ぎゅっと手を握る掌は、いつの間にか自分のものよりも随分と大きくて。
掌の厚い、男の手だ。
あれ。
あれ。
戸惑っているうちに、ぐいと強く引かれて――…
★☆★
「イサトさん?」
「…………」
触れた額から伝わるじっとりとした熱に俺が顔をしかめたのと同時に、その手の上からそっと手を重ねられた。
重ねられたその手も、熱い。
どうやら俺はイサトさんを起こしてしまったようだった。
銀色の睫毛が小さく震えて、瞼が持ち上がる。
ゆらりと上身ごと捻るようにして俺を見上げて、不思議そうな瞬きを数度。
夢と現実の境界を揺蕩うようなとろりとした金色が、ぼんやりと俺を映している。
「ごめん、起こした」
「…………」
イサトさんは無言のまま、自分の額の上に載っていた俺の手を取った。
いつまでも触れられているのが嫌だったのかと手を引きかけたものの、ぎゅっと手を握る力が強くなって引き留められた。
なんぞ。
普段わりと饒舌なイサトさんが黙っているせいで、意図がわからなくて戸惑う。
何がしたいんだ。
どうしたイサトさん。
「手、どうかした?」
「……大きいなあ、と思って」
ようやく返事が返ってきたと思ったら謎の感想だった。
その声も気だるげに掠れていて、やっぱり具合は良くなさそうである。
イサトさんは俺の手の作りを確かめでもしているかのように、指を握ってみたり、厚みを測るようにつまんでみたりとした後、力尽きたようにぽとりと手を落とした。
そして。
「きみ、男だったんだなあ」
「ちょっと待て」
しみじみ、と呟かれたイサトさんの言葉に、俺は思わず半眼になった。
この人は今まで俺を何だと思っていたのか。
イサトさんは楽しげにくくくと喉を鳴らしながら、俺の方へと寝返りを打つ。
ようやく目が覚めたのか、いつもと変わらないどこか面白がるような光を浮かべた金色と視線が合ってどきりとした。
こちらに向かって寝返りをうって乱れた布団。
イサトさんが着ているのは、いつも寝間着替わりに使っている召喚士装備(上)だ。横向きにこちらを向いているせいで、大きく開いた襟ぐりからいつもより深く胸の谷間が覗いている。そんな胸元や、汗ばんだ首筋に銀色の髪が絡みつく様など、何か見てはいけないものを見てしまったような気がして落ち着かない。
が、イサトさんは俺の様子を気にすることなく、言葉を続けた。
「あれだ。バスケットボール、片手で持てるだろう」
「それはまあ。元々バスケやってたし」
基本である。
「イサトさんは?」
「……じっとしてれば」
「なんだそれ」
「動くとぽろっと落ちる」
「駄目じゃん」
「駄目なんだ」
イサトさんも女性にしては長身の方なので、手の大きさは問題ないような気がする。そうなると問題は握力か。
……イサトさん、腕力、体力ともに無さそうだもんなあ。
「メロン潰せる?」
「それは無理」
リンゴならともかく、メロンて。メロンて。
俺はプロレスラーか何かか。
そんな益体のない会話を交わしつつ、俺はベッドサイドに椅子を引き寄せて腰掛けた。それから、イサトさんの顔を覗き込む。
「具合、どう?」
「んー……熱ぽい」
「だろうな。医者、呼んだ方が良いか?」
「や、それは大丈夫」
「…………」
イサトさんの大丈夫、は若干信用ならない。
じっ、と疑わしげな眼差しを向けてやれば、イサトさんは諸々の前科に心当たりがあるのか、ごにゃごにゃと言い訳するように口を開いた。
「風邪とか病気で熱が出てるってわけじゃないからな。本当、知恵熱……というかこう、口にするのも恥ずかしいんだけど」
もそもそ、と実際恥ずかしがるようにイサトさんは布団を引き上げてもすりと顔半分を埋めるようにして隠す。
体調不良が恥ずかしい、というのは一体どういうことなのか。
俺はその言葉の続きを待つ。
「……ストレス、です」
「…………」
消え入りそうな声が、心底恥ずかしそうに自白した。
イサトさんに、ストレス。
なんだか、とても不似合いな言葉を聞いたような気がした。
けれど、その一方ですとんと納得している俺もいた。
前に本人が言っていたはずだ。
「悲鳴を上げ損ねることがある」と。
この人はきっと、何か怖いことや恐ろしいことがあっても、それに対する感情を咄嗟に上手く表現することが出来ないのだ。
冷静に、物事を認識しようとしてしまう。
そして、実際にそれが出来る。
酷く、理性的なのだ。
ある意味我儘な感情を抑えることが出来る。
出来て、しまう。
俺を気遣い、不安や迷いを打ち明けず一人で抱えていたように。
だから、イサトさんはすごく飄々とした大人のように見えるのだ。
それはもちろんただイサトさんがそういう人である、というだけでなく、イサトさん自身もそうであろうと思ってしていることなのだろう。
だからこそ、こうして処理しきれない負荷で体調を崩してしまうことを、こんなにも恥ずかしそうにしている。
「……格好つけ」
「うるさいやい」
もすもす、とますます深くイサトさんが布団の中に潜り込んでいく。
意地っ張り、というか見栄っ張り、というか。
不思議な感慨を感じてしまった。
きっとこの世界に来なければ、俺はイサトさんが女性であることはおろか、こんな人だということを知ることはなかっただろう。
俺にとりイサトさんはいつまでも手のかかる、大人の悪友で。
こんな風に弱さを抱えていることなんて知らないままでいたのだろう。
……こんな、可愛いところがある女性だってことも、きっと知らないままだった。
「あのおっさんにこんな可愛げがあったなんて」
「秋良青年、そろそろ黙らないと後で三十倍にして返すぞ」
「何それ怖い」
布団からはみ出た銀色を、くしゃくしゃと撫でて機嫌をとってみる。
「じゃあ、何か欲しいものは?」
「冷たいもの食べたい」
「…………砂パフェとか?」
カラットで大量にゲットした砂トカゲドロップのパフェなら、いくつかインベントリに入ったままになっていたような気がする。
「……今はちょっとコテコテの生クリームを食べる気力はない、かな」
「じゃあ何か果物でもないか聞いてみるか」
「そうしてくれると助かる。基本、寝てれば熱は下がるから」
「了解」
俺はそう言って、階下に物色に行くべく立ち上がりかける。
そして、ふと何気なくイサトさんへと問いかけた。
「もう、大丈夫そう?」
「――……」
そろ、と布団から覗いていたイサトさんの双眸が、ほっそりと細くなる。
まだ少し具合は悪そうではあるものの、どこか吹っ切れたようにも見えるその顏にほっとした。
「ん。私の中で――…面倒なことは全部君に丸投げしてしまえばなんとかなるんじゃないかな、という結論に達した」
「その論理はおかしい」
何故そうなった。
思わず半眼で見やれば、イサトさんは楽しそうに喉をくくくと鳴らす。
「だって、君の手が大きかったから」
「意味がわからない」
ちょっとぐらいイサトさんのことがわかったかな、と思ってもこうしてすぐに煙に巻かれてしまうのが少し悔しい。
いや本当何がどうしてその結論に達したのか。
問い詰めてやりたいところなのだけれども、なんだかイサトさんが満足そうに笑っているので、まあ良いか、という気になった。
ちょっとぐらいなら、丸投げされるのも悪くはない。
俺自身朝から食べてないので、階下の酒場で食事を用意してもらってから二階に戻った。
本日の献立は、肉団子がメインである。
マッシュポテトにトマトベースのソースで煮込んだ子供の拳ほどはありそうな肉団子が添えられている。後は野菜がごろごろ入ったスープとパンだ。くず野菜のスープ、と献立には書かれているわけなのだが、とてもそうは思えないボリュームである。ぷかりと浮いたベーコンの切れ端から程よく滲んだ肉汁が、食欲をそそる良い匂いを漂わせている。主食が米ではない、というのがなかなか慣れないが、味に不満はない。
イサトさんには、ご希望の果物と、もし食べれそうなら、ということでスープを少々。
それらをベッドサイドのテーブルに並べたところで、もそもそとイサトさんも布団から這い出てきての食事タイムとなった。
ついでに、今後のことも話し合う。
「とりあえず明日からは、いろいろと後始末って感じだろうかな」
「そうなるな。あ、この肉団子美味い」
「ひとくち」
「イサトさんの分も貰って来ようか?」
「一つは食べきれないのでちょっとだけ欲しい。貰っても?」
「どーぞ」
そろーっと伸びてきたフォークが、俺の皿の上の肉団子を割って持っていく。
「あ、本当だタマネギ甘い」
「美味いよな。明日から動けそう?」
「たぶん? 明日の朝には熱も下がってそうだ」
「なら良かった。でもまあ無理せず」
「了解。まずはこの街における獣人の待遇がどうなるかってところだな。その辺は一応レティシアが介入することになってるんだっけ?」
「そうだな。獣人側がうんと言いさえすれば、身柄をレスタロイド商会に移籍して待遇の改善を、という話だったと思う。その話し合いに、出来れば俺たちにも参加してほしいって言ってたぞ」
「ギルロイ商会への抑えとして、ってことか。……この林檎、甘酸っぱくて美味しい」
「女将さんがあんまり甘くないかもって心配してたけど美味しいなら良かった。イサトさん体調良くなさそうなら俺一人で顏出すけど」
「や、大丈夫だろう。たぶん一緒に行けると思う。どうぞ、さっきの肉団子のお礼に林檎を一切れさしあげようじゃないか」
「あんがと。……結構酸っぱくない?」
「この酸味が良いんじゃないか」
「俺はもっと甘い方が好きだ」
「贅沢モノめ」
今後のことよりご飯で盛り上がっているような気がするのは気のせいである。
綺麗に皿の上を空っぽにして、俺はほう、と一息。
充分に休んで、腹も満たされ、ようやく人心地ついた、といったところだ。
それから、お互いのインベントリの中にある、薔薇姫ドロップの蜜の数を確認する。俺が36個で、イサトさんが48個。微妙に負けたのが若干悔しい。
まあ、イサトさんの方が攻撃範囲が広いので、同じ制限時間内で競えばこういう結果になって仕方ないではあるのだが。MP消費無しで狩りが続けられる分、持久戦になると俺の方が勝つ。……断じて負け惜しみではない。
「合計84個か。まだまだ、だよな?」
「うーん、そうだな。この五倍ぐらいは欲しい」
「イサトさん、この前あのダンジョン行った時はポーション幾つ持ってた?」
「んー……、確か200ちょいは持ってたと思う」
あのダンジョン、というのは俺とイサトさんがこの世界にやってくる切っ掛けとなった場所のことである。あのダンジョンボスの取り巻きがドロップした謎のアイテムを発動させてしまったことにより、俺たちはこの世界にやってきた。それならば同じアイテムを使えば、元の世界に戻ることが出来るのではないか、というのが現状もっとも有力な仮説だ。それを試すためにも、再びあのダンジョンに潜る必要があるのだが……そのためには念入りな準備が欠かせない。
ゲームであれば例え死んでも死に戻りするだけで済んだが、こちらの世界ではおそらく、そうはいかない。死は、死だ。それ以外の何物でもない。
「200ちょい、か」
それを使い切っていたことを考えると、確かに俺の分を含めて少なくとも500は確保しておきたいところである。俺が100、イサトさんが200~300。残りの100は予備だ。あの洞窟攻略だけで400は必要になると考えて、今後またあのヌメっとしたイキモノと戦う可能性を考えると、やっぱり500が最低ラインだろう。
「そうなると、しばらく黒の城に通うことになりそうだな」
「その間に君の『家』の整備も進めようか」
「そうだな」
なし崩し的に、セントラリアの商人ギルドとことを構えてしまっていたこともあり、その辺の情報が今までは手に入れられていなかったのだが……今後はもしかしたら良い方向に話を進めることが出来るかもしれない。万が一駄目でも、その時はその時でレティシアに頼めばトゥーラウェストの商人ギルドに話を通してもらうことも出来るだろう。
「薔薇姫の蜜を確保したらサウスガリアンでガラスの欠片集めて……、そしたら今度はノースガリアでポーション作成、ってことでいいのか?」
「そうだな。ああ、その前にサウスガリアンで私は精霊魔法使い装備も作らないといけない気がしている」
「確かに」
ナース服や赤ずきん、魔法少女も普通に比べたら防御力の面で優れているが基本的には見た目装備である。あの洞窟に再び潜ることを考えたら、イサトさんにも職業にちなんだちゃんとした装備を作っておきたいところだ。
「作れそう?」
「うーん……ゲームだとダークエルフの里でレシピを買えたんだが、ここだとどうなっているんだろうな」
「あー……」
レティシアの話によると、ダークエルフの暮らしていた遺跡も、エルフの国、ノースガリアも今ではもう誰もいない廃墟になってしまっているのだと言う。果たして、そこに伝わっていたレシピやスキルロールは、どうなってしまっているのだろうか。
「消えたエルフとダークエルフ、それとセントラリアの大消失、だっけか。なんかいろいろあるな……ふあ」
ぼやくように呟いたイサトさんの語尾が、小さく欠伸に消えた。
見れば、イサトさんの双眸はどこか目元がとろんと下がって眠たげだ。
「ま、その辺のことはおいおい考えるとしようか。俺、そろそろ部屋に戻るよ。イサトさん、眠そうだし」
「……ん。実際、眠い」
ふわあ、とイサトさんがまた欠伸をかみ殺す。
眠そうにはしているものの、顔色はだいぶ良くなっているので、先ほど本人が言っていたように、明日には体調も落ち着いていそうだ。
俺は手早く食べ終えた後の食器を片づけて、イサトさんの部屋を後にしようとして……
「秋良」
「ん?」
呼び止められて、振り返ったところで一冊の本を差し出された。
今朝、イサトさんが俺の目から隠そうとした本だ。
「これ……」
「……マルクト・ギルロイの日記だ。屋敷の地下で見つけて……まあ、こそっと」
「こそっと」
ちょろまかしてきたらしい。
「ヌメっとしたイキモノのことだとか……、誰がマルクト・ギルロイをそそのかしたのか、だとかのヒントがないかを探すつもりだったんだけども」
そこで一度言葉を切って、イサトさんは少しだけ困ったように眉尻を下げた。
「なんというか――…、マルクト・ギルロイも一人の人間で、悩んで、苦しんでその果てにどこか麻痺して壊れてしまったんだな、って事実ばかりが伝わってきちゃって。そんなわけなので、それ、結構クる」
「……そうか」
俺はそう頷きながらも、イサトさんの差し出したその本を受け取る。
逆にイサトさんは、自分から差し出しておきながら、なかなか思い切りがつかないというように本から手を離せないでいるようだった。
「…………」
「…………」
「……本当に、読むのか?」
「うん」
「…………」
ぬぅ、と唸ってイサトさんの眉尻が下がる。
イサトさんは俺のことを心配性、と笑うが、こういうところ、イサトさんにも全く同じ言葉を返したくなる。
「なんていうか、うまく言うのは難しいけどさ」
「うん」
「知っときたいんだ、ちゃんと」
俺が。
俺たちが、倒した相手のことを。
罪悪感から忘れてしまうよりも、ちゃんと覚えておきたいと思うのは考えが甘いだろうか。
「……強情モノ」
「心配性」
そんな言葉を言い交わして、イサトさんはようやく諦めたように本から手を離した。
「夜中でも朝でも、なんかこう、辛くなったら起こしていいからな」
「はいはい、わかったよ。イサトさんの方こそ、具合悪くなったらいつでも起こせよ」
「ん。それじゃあ、おやすみ、秋良」
「おやすみ、イサトさん」
まとめた二人分の食器と、一冊の本を片手にイサトさんの部屋を後にする。
階下の酒場に食器を返して、部屋に戻ろうとしてついでに酒を一杯頼むことにした。酒なんて普段一人では飲まないのだが、今日は特別だ。
血のように赤いワインを、一杯。
俺はわりとアルコールにも強い性質なので、これっぽっちでは酔うことはないだろう。
ただ、少しだけ。
マルクト・ギルロイという男に杯を献じるのも悪くない、と思ったのだ。
そして俺は部屋に戻ると、安い赤ワインで唇を湿らせつつ、その本のページをめくっていった――…
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