おっさんと一つの終焉
そう。
接敵して斬りつけようとした瞬間、硝子のように透けたモンスターの腹部に囚われていたのはセントラリアに残してきたはずの二人だった。
あのまま俺が大剣を振り抜いていたならば、間違いなく内部に囚われていた二人ごとぶった切る軌跡だった。それ故のクイックターンである。
「ライザとレティシアが捕まってるって……」
信じられないといったようにイサトさんは、俺とヌメっとしたモンスターの球状に膨れた下半身とを交互に見やる。が、それ以外に俺がイサトさんの攻撃から身を挺してあのモンスターを庇う理由が思いあたらなかったのか、嫌そうに顔を顰めつつも納得したように深く息を吐いた。
「……もっと強力なアイテムを渡しておけば良かった」
「いやいやヌメっとシリーズを倒せるだけの破壊力を秘めたアイテムは流石に駄目だろ」
下手したらセントラリアの一角が吹っ飛ぶ。
イサトさんは冗談めかしながらも、悔しそうに唇をきゅっと咬んでいる。
「イサトさん、仕方ない」
「……でも」
「ヌメっとしたのが潜んでるなんて知らなかったんだから」
「それはそうだけれども」
イサトさんは、敵の戦力を見誤ったことを悔やんでいる。
セントラリアに残してきたライザやレティシアに敵の手が及ぶ可能性に気付いていながら、こんな事態になってしまったことを自分の責任だと思っている。
あそこで自分がもっと適したアイテムを渡すことが出来ていたならば、こんなことにならずに……、俺を痛い目に合わせずに済んだのではないかとありもしない可能性を思い描いている。
「イサトさん」
「……なんだ」
「いいことを教えてあげよう」
俺は、悔しそうに唇をへの字にして敵を見据えているイサトさんの肩をぐいと引き寄せた。本来ならば敵を目の前にして目をそらすなんて良くないんだろうが、この流れを引っ張るよりはマシだ。それに、頭上を旋回するように舞う朱雀がある程度は応戦してくれるだろうという見込みもあった。
イサトさんを正面からまっすぐに見つめる。
応戦するように、イサトさんもぐっと俺を見つめ返してくる。
年頃の男女が向かい合って見つめ合っているというのに、なんだかカケラもロマンチックなシチュエーションを掠らないのが残念極まりない。
が、今は言うべきことがある。
俺はしっかりとイサトさんを見据えて口を開いた。
「試合の最中に悔やんでると、後でもっと悔やむことになるぞ」
「……う」
俺の言葉に、イサトさんは小さく唸った。
これは俺がバスケやら剣道やらの試合の中で学んだことである。
反省は大事だし、同じ間違いを繰り返さないために対策を考えることは大事だ。
けれどそのせいで集中できなかったために一つのミスからがたがたと崩れていった試合を俺は腐るほど見てきているし、嫌というほど体験もしてきている。
ヌメっとシリーズが潜んでいることを予見できなかったのは、こちらのミスかもしれない。だが、人質は取られているとはいっても、俺たちは一度飛空艇で同シリーズのヌメっとした人型を見事倒すことに成功しているのだ。
撲殺、なんていうシンプル極まりない手段で。
なので、今すべきことは反省でも後悔でもない。
どうしたらライザとレティシアを取り戻し、あのヌメっとしたモンスターを無事に撲殺することが出来るかという手段を考えることだ。
「――…」
イサトさんは、ふっと目を閉じて深呼吸を一つした。
次に目を開けた時、イサトさんの瞳から動揺の色はだいぶ薄くなっていた。
そう。それでいい。
ミスは取り返せばいい。
俺たちにはそれが出来るだけの力がある。
俺はイサトさんの肩から手を離し、再びヌメっとしたモンスターへと向き直ろうとして……
「秋良青年」
ふと、イサトさんに呼び止められた。
「ん?」
「その」
イサトさんは、少しだけ気恥しそうにほんのりと目元を淡く染めて、ぽつりとつぶやいた。
「ありがとう」
「…………」
思わず言葉を失った。
まだまだ戦場だとか、これからライザとレティシアの奪還戦が待っているとか、そういうことが一瞬頭からトぶ程度には可愛らしいお礼だった。
くそう。
普段年上ぶっている――…というか実際に年上なわけなのだが、そんなイサトさんにしおらしくお礼なんて言われてしまうと、予想外に心臓が跳ねる。
そんな動揺を誤魔化すように俺はぼり、と頭を掻く。
鎮まれ俺の心臓。
「――…さて」
イサトさんが敵に向き直って改めて口を開いた。
「幾つかわからないことがあるんだが……、質問しても?」
「ええ、構いませんよ」
イサトさんの言葉に、マルクト・ギルロイが一歩前に出る。
二人のやりとりは、商品について聞こうとしている客とそれに愛想良く応じる販売員といった風にさりげなく響いた。
「まず一つ。せっかく囲っていた獣人たちを始末しようとしたのはどうして?」
「それはアレですよ。セントラリアを出た獣人たちがそのまま消えているということに、貴方がたが気づいてしまったからです」
「なるほど」
会話の間、手慰みというようにイサトさんはトン、トン、としゃらんら★で地面を叩く。
「いくら愚鈍な動物でも、さすがにそこまで状況が明らかになってしまえば恩も忘れて逃げ出すだろうと思いましたので」
「そもそもそんな恩があったのかどうかも疑問だけどな」
「そう、ですか?」
横合いから口を挟んだ俺に、マルクト・ギルロイは心底不思議そうに首を傾げた。あれだけ境遇に街に住む獣人たちを追いこんでおきながら、本人は恩を売っているつもりだったというのが何とも恐ろしい。
「だって、ここまで生かしておいてあげたでしょう?」
おおう。
俺とイサトさんは思わずちら、っと視線を交わしてしまった。
この男にとって、きっと獣人というのは同じ「人間」のカテゴリには存在しない、自分よりももっと遙か下位に存在しているものなのだろう。
同じ言葉を話し、相互理解を深めることが出来る相手に対してどうしてそこまで残酷になれるのかが、俺にはよくわからない。それは俺がほぼ単一種族のみで成立する日本という国で育ったからなのか。
誰それが嫌い、~~という考え方が合わないからその団体を避ける、というような感覚は俺にもわかる。だが、肌の色や種族の違うというだけで、意志の疎通が可能な相手を自分よりも劣る動物のように扱う感覚はどうもピンと来ないのだ。
「それでも、『女神の恵み』が手に入らなくなったら困るんじゃないのか?」
商売という意味でも、生活という意味でも、獣人側にそっぽを向かれたら本当に困るのは人間の方だというのが俺たちの結論だった。だからこそ、そこの利害関係をうまく交渉することが出来れば獣人の立場を向上させることも出来るのではないか、などと考えていたわけなのだが……どうやら、このマルクト・ギルロイなるおっさんの発言を聞いているとどうにも難しそうだ。
商売上の利益のために獣人の立場を弱めて利用していた、というよりもこの言いようでは、心の底から獣人を蔑み、嫌っているからこそ利用してついでのように利益を上げていた、というように聞こえる。
それを確かめるための疑問に、マルクト・ギルロイはにっこりと笑った。
「ああ、そこが心配だったんですね。大丈夫ですよ。女神の恵みを独占する薄汚い略奪者を駆逐することが出来れば、その心配はなくなりますから」
「……っ」
「…………」
これは、駄目だ。駄目な奴だ。
相互理解とかそういう生ぬるい言葉が届かない域にイってしまわれている。
セントラリアにはびこる獣人蔑視の思想をとことん突き詰めたらそこまでいってしまうのかという暴論が、マルクト・ギルロイの中では成立してしまっていた。
獣人が「女神の恵み」を独占しているが故に、人にその恩恵が行き渡らないというのなら、略奪者を殺せばいい。
それが、マルクト・ギルロイの辿りついた歪な結論だった。
声高に主張するわけでもなく、さも当然のように語られたその言葉に背筋がぞくぞくと冷える。主張しないのは、それが主張するまでもなく皆にも受け入れられる「正論」だと確信しているからだとわかってしまったからだ。
このマルクト・ギルロイという男は根っ子の部分から狂っている。
極悪非道な商人というわけではなかったのだ。
ただ、理屈が狂っている。
「……それが、本当じゃなかったらどうするんだ?」
「とは?」
イサトさんの疑問に、マルクト・ギルロイが首を傾げる。
「いや、ほら。貴方は獣人を殺せば人間も女神の恵みを手に入れられるようになると思っているみたいだけれども……もしそうならなかったら? 誰も『女神の恵み』を手に入れられない、なんてことになったらどうするつもりなんだ?」
「試しに獣人全滅させてみたけど駄目でした、じゃ済まないだろ?」
「はは、大丈夫ですよ」
俺たちの声に、マルクト・ギルロイはにっこりと明るく微笑んだ。そんな仕草はまるで、疑り深い客を相手にする深夜の通販ショーの販売員のようである。
こん。こん。こん。
そんなやりとりの間も、イサトさんは手慰みのようにスタッフで地面を小突いている。
「実際に坊やは救われましたから」
「救われた?」
「ええ、ええ。今から十年ほど前のことになりますか。うちの坊やは流行り病で酷い熱を出してしまったんです。坊やを救うためには、ある『女神の恵み』が必要でした」
昔を懐かしむように、マルクト・ギルロイは薔薇の庭を見渡した。
「それなのに、街の獣人たちは誰も力を貸してはくれなかった」
ぴしり、と。
愛想の良い販売員風の顏に罅が入ったように見えた。
顏は笑っていたものの、マルクト・ギルロイの目の奥に滾るのは明らかな憎悪だった。
「怖気づいたんですよ。普段威張り腐って『女神の恵み』を高値で売りつけてきた獣人どもは、いくら金を積んでも私が本当に必要なものは売ってくれなかった」
ふとマルクト・ギルロイが目を伏せる。
「坊やは、死にました。獣人どもに見殺しにされたんです」
次に顏を上げたとき、マルクト・ギルロイはやっぱり笑っていた。
にこにこと笑いながら、その眦からつっと唯一の人らしさのように涙が頬を滑り落ちて行った。
「でもね、ある人が坊やを助けてくれたんです。獣人どもを殺せば、『女神の恵み』を取り戻すことが出来るって。坊やを生き返らせることが出来るって教えてくれたんです。だから、殺しました。商談があると呼び寄せて、何度も何度もその腹を刺して、動かなくなるまで頭を殴って、殺しました」
マルクト・ギルロイは嬉しそうに語った。
その独白に、俺はなんだか憂鬱になってしまった。
人を殺したことを嬉しそうに語るから、ではない。
それが、マルクト・ギルロイという男が息子のためにしてやれる唯一だったということに、なんとも言えない気持ちにさせられてしまったのだ。
獣人でなければ、『女神の恵み』を手に入れることが出来ない。
だからこの男は、息子の病のための特効薬があると知りながらも、自らそれを手に入れるために危険を冒すことは出来なかった。それが無駄であるということを知っていたから。
そして、何も出来ないまま息子はやがて死に至る。
きっと、心が擦り減るほどに自分を責めたことだろう。
何もしてくれなかった周囲を憎み、呪い、そして誰よりも何も出来なかった自分自身を憎み、呪ったことだろう。
だからきっと、この男は飛びついたのだ。
「獣人を殺せば息子を救ってやる」という何者かの妄言に。
「私は人間ですから、息子のために『女神の恵み』を手に入れてやることは出来なかった。けれど、私にも獣人を殺すことは出来た。そして――…坊やは甦ったんです」
愛しげに瞳を細めて、マルクト・ギルロイは傍らに控えるバケモノを見る。
そして無貌に成り果て、黒くヌメる人外のバケモノをこの男は「可愛い坊や」と呼ぶのだ。
は、とイサトさんがやりきれないといったように息を零すのが聞こえた。
「……きっと、無駄なんだろうな」
「……うん」
イサトさんの呟きに、俺は頷く。
きっと、無駄だ。
あなたの隣にいるのはただのヌメっとしたバケモノで、あなたの息子などではないのだと言う言葉は、彼には届かない。
「時間稼ぎのつもりだったんだけども――…」
聞かなきゃ良かった、と言うようにイサトさんがやわりと目を伏せる。
銀色の睫毛がその目元に濃く影を落す。
物憂げなその横顔に、俺も短く息を吐き出した。
「さて、随分と無駄話をしてしまいましたが……そろそろ坊やがお腹を空かせている頃です。質問はもう良いですか?」
その問いかけに言葉で答える代わりに、俺とイサトさんはそれぞれ得物を構えることで応じた。
そして、再び戦闘が始まる。
「秋良、これを!」
「うえええええ……」
ぶびゅるっと伸ばされた黒の触手を迎撃するためにイサトさんが俺に放ったのは、ドリーミィピンクが暗がりでも輝くようなまじ狩る★しゃらんらだった。それを手にするのは心底嫌で嫌で仕方ないのだが、それしか手がないのもわかっているためおとなしく受け取る。
それと同時にイサトさんの身体を包んでいた薄い桃色の光が闇に溶けるように消えていき、その衣装も変身前の赤ずきんへと戻る。
握ることで、俺の身体を薄桃の光が包んだりなんかした日には舌噛んで死んでやる、とやさぐれた気持ちで思っていたりもしたのだが……、そんなことは起こらないまましゃらんら★の柄はしっくりと俺の手に馴染んだ。
鈍器として。
「どうりゃ……っ!!」
俺とイサトさんを絡め取ろうと伸ばされる触手を、ぱしんぱしんと叩き払うようにしてしゃらんら★を振るう。
打撃ダメージはそれほど与えられていないはずだが、聖属性のしゃらんら★に触れられることを嫌がるようにしゃらんら★に払われた触手はしおしおと萎れて地に落ちる。
「イサトさん、ライザやレティシアの居場所はわかったか?」
「何度か試したが駄目だった……!」
「ぐぬぅ」
いつもの禍々しいスタッフに持ち替えたイサトさんの返事に、俺は渋面で呻いた。先ほどマルクト・ギルロイとの会話の間に何度もイサトさんがさりげなくしゃらんら★で地面を叩いていたのはおそらくスキルの発動のためだと見て聞いてみたわけなのだが、スキルを使ってもあのヌメっとした身体のどこにあの二人が囚われているのかを見届けることは出来なかったらしい。
「まあ、もともとスキャンスキルは条件が厳しいから難しいとは思っていたんだけど」
「ちなみに発動した結果としては?」
「聖属性が弱点ってことしかわからなかった」
「やっぱりそうなるか」
スキャンスキルというのは、モンスターの弱点を見抜くことが出来るという便利スキルだ。前衛、後衛、ジョブに関係なく身につけられるスキルなので、RFCプレイヤーの中にはこのスキルを持っている者も多い。が、その発動条件がなかなか厳しいため、俺は数少ないスキャンスキルを最初から諦めたクチの一人である。
まず一番基本的な条件として、スキャンして出る情報は、一度自らの手で判明させたものに限られる。つまり、未知のモンスターに対しては通用しない。また、高レベルのモンスターに関しては魔力防御の値が高く、スキャンスキルに対してレジストしてくるのも多いのだ。
それならば二窓で攻略サイトでも開いておけば十分代用出来るし、そもそも俺はガチガチの前衛ステ振りで魔力系のステータスはとことん低い。
そんなわけで、俺は最初からスキャンスキルを持ってすらいなかったりするのである。
「ってことは、ライザやレティシアの状況も不明なままか?」
「とりあえず朱雀にはライザとレティシアの回復を命じていて、それが失敗してないってことは確実に生きてはいる」
「了解……ッ、っと!」
そんな会話の合間にも、次々と伸ばされてくる触手を俺はしゃらんら★で叩き落していく。これで、俺たちが手を出しこまねいて戦っている間にモンスターの中でライザとレティシアが命を落とす、なんていう最悪な事態は回避することが出来たはずだ。後は、どうにかしてライザとレティシアを助けだすことさえ出来れば…――
そう、思い続けてどれくらいの時間が経っただろうか。
相変わらず状況は膠着している。
お互いに決め手がないままに睨みあっている。
ヌメっとしたモンスターには俺たちをどうこう出来るだけの決め手がなく、俺たちにはヌメっとしたモンスターをぶち殺す手段はあっても、人質のためにそれを実行できずにいる。
ふつふつと額に浮いた汗を、ぐいと手の甲で乱暴に拭った。
体力的にはまだ余裕はあるものの、精神的になかなか追い込まれている。
「秋良青年」
そんな中、ふと神妙な声でイサトさんが俺の背中に声をかけた。
「何」
返事がそっけなくなるのは、それだけ余裕がないからだと思って見逃していただきたい。
「イチかバチかの作戦がある。聞いてほしい」
ほんの少しだけ、違和感を感じる。
けれど、この状況ではそんな違和感を気にしていられるわけもなく、俺はそのまま触手を打ち払いながら頷くことでイサトさんを促した。
正直に言おう。
俺はイサトさんを庇いながらひたすら触手を打ち払うという作業にプレッシャーを感じていたのだ。少しでも俺がミスれば、イサトさんに危険が及ぶというこの状況は、想像以上にキツかった。なので、そんな状況を打破するための作戦があるというのなら、何でも良いから飛びつきたかった。
「作戦自体は、とんでもなくシンプルなんだ。いつも通り、君は敵に突っ込んで一撃を加えればいい。ただ、インパクトの面を一点に絞って突き立ててほしい」
イサトさんが言った通り、それはどこまでもシンプルな作戦だった。
けれど、その意味を察したとたん口の中に苦いものが広がった。
「おいイサトさん」
「私がここで全力で回復に回る」
「……ッ」
息を呑む。
思わず振り返ってしまいそうになるのを、なんとか自制した。
唸るように言葉を吐く。
「それは、犠牲が出ること覚悟ってことかよ」
「…………」
イサトさんは、言葉にしては答えなかった。
けれど、決して否定の言葉を言おうともしなかった。
全力で突っ込んで、あのヌメっとしたモンスターの膨れ上がった腹にしゃらんら★を突き立てる。
それはこの戦いが始まって以来ずっと俺がしたいと思っていたことだ。
だが、その体内のどこにライザとレティシアがいるのかがわからないからといって、実行に移せなかったことだ。
万が一俺が突き立てたしゃらんら★がライザやレティシアにまで及べば、二人を命の危険に晒すことになる。
イサトさんが今言っているのは、その危険をあえて冒すということだ。
確かに、大剣の薙ぐような攻撃と違って杖で刺し貫くような攻撃であれば……攻撃の面積を最大限に絞れば、二人に危害が及ぶ可能性はそれだけ減るだろう。
そしてそれと同時に、その一撃が当たったとしても二人が即死する可能性も同様に減る。むしろイサトさんは、二人を巻き込む前提の貫通攻撃でかたを付けようと言っているのだ。もちろん、イサトさんがその間全力でライザとレティシアの回復に回ることで、最大限二人の安全を確保しようとはしているのだが。
「…………」
そんな作戦に乗れるか、と怒鳴ってしまいたかった。
この手で、ライザやレティシアを傷つけることが前提として組み込まれている作戦になんて、顔をそむけてしまいたかった。
けれど、それしか方法がないこともわかっていた。
このままではいつまでもキリがない。
俺の集中力が尽きれば、その後に待つのは全滅だ。
それよりは悲惨な作戦だろうが……、まだ助かる可能性に賭けたい。
「…………わかった」
俺は呻くような苦味を帯びた声音で頷いた。
そして、しゃらんら★を携えて一息にヌメっとしたモンスターに向かって鋭く踏み込む。
「おや、人質のことはもう良いのですか?」
うるせえ。
からかうようなマルクト・ギルロイの声に、心の中だけで怒鳴る。
今はそんな呼気すら勿体ない。
俺を絡め取ろうと伸びてくる触手のことごとくを避け、しゃらんら★で叩き落しながら体を低くして3、4メートル程度の距離を駆け抜ける。
俺の背後を舞う朱雀が、スキルの発動を予兆するようにめらめらとより明るく燃えた。
大丈夫だ。
イサトさんを信じろ。
「う、らァアアアアアア!!!!」
自身を鼓舞するように吼えながら、俺はまっすぐにしゃらんら★の石突をヌメッとした球体へと突き立てる。
初撃の繰り返しのように、黒々とした球が透けて、中に囚われたライザとレティシアの姿が浮かび上がっていく。
二人の姿は、まるで水の中を揺蕩っているかのようだった。
力を失った四肢や、取りこまれた時に二人が手にしていたのであろう物がゆらゆらと揺れている。
そんな中で、水流に流されるかのようにして球の中を漂うレティシアの身体が、俺の攻撃に対する盾のようしゃらんら★の接触面に向かって押し出されてくる。
綺麗な金髪が、ゆらりと揺れて。
うっすらと閉ざされた瞼の奥の瞳が、俺を見たような気がした。
意識もないはずのその唇が、小さく戦慄いて俺の名を呼んだような気がした。
それでも俺は手を止めない。
ず、としゃらんら★の石突がヌメっとしたバケモノの腹にめりこむ。
まだ腹は破れない。
でも後少しだ。
後ほんの少し力をこめれば、しゃらんらの石突はぶつりとバケモノの表面を突き破り――…そしてそのままレティシアの胸を貫くことになるだろう。
これで本当にいいのか。
なあ。イサトさん。
こんなやり方で。
「ァアアアアアアアア!!!」
吼えながら、俺はしゃらんら★をなおも押し込もうとして。
唐突に、周囲に闇が落ちた。
真っ黒にブラックアウトしたように見えたのは、俺の目が光に慣れていたせいだと気づいたのは、急速に闇に慣れようと瞬きを繰り返した俺の目に、うっすらとレティシアの姿が浮かんだからだった。
俺が失明したわけでないなら。
俺の視覚が失われたわけでないのなら。
答えはシンプルだ。
―――光源が失われた。
壮絶に厭な予感がした。
俺は突き立てようとしていたしゃらんらを死にもの狂いで引き戻しつつ、背後を振り返る。
「――ッ」
冴え冴えとした月明かりの下、呆然と立ち尽くすイサトさんと目があった。
その顔色が不思議と色を失って見えるのは、月明かりのせいだけじゃないのだとようやく俺は気づいた。
俺はあの時の違和感を無視すべきではなかった。
『イチかバチかの作戦がある。聞いてほしい』
あの時イサトさんは、「聞いてくれ」ではなく「聞いてほしい」と強い調子で言い切った。そして口にした作戦だって、いくら追い詰められているとはいえあまりにもイサトさんらしくなさすぎた。あれはきっと、これ以上戦闘が長引けば自らのMPが持たないことに気付いていたからこそだったのだ。
そして、その作戦の実行を待たずにして、イサトさんのMPは尽きた。
だから、維持出来なくなった朱雀が消えた。
イサトさんのいつかの言葉が頭の中に甦る。
『だって、自分がMP切れしてるって自覚がないまま戦闘が続行するんだぞ。その勘違いって結構命取りだと思わないか?』
俺の横合いから、ぶびゅると粘着質な音が響いて、次々と黒の触手がイサトさんに向かって伸ばされる。
息が詰まる。
まずい。
本当にまずい。
ぞわぞわと悪寒に背筋が冷える。
「やめろッ!!」
叫びながら、しゃらんら★を振り抜いて触手を薙ぎ払う。
けれど、全ては落とせない。
上空を弧を描き撓った触手がイサトさんの腕を絡めとる。
それをきっかけに次々と触手がイサトさんの四肢に絡みついていくのが見えた。
「やめろっつってんだろ……!!」
我武者羅にしゃらんら★を振りまわすが、俺はヌメっとしたモンスターに近すぎた。イサトさんから、離れ過ぎた。
漆黒の繭に包まれてその姿すら見えなくなったイサトさんの身体がそのまま地面に呑まれるようにして消える。
からん、と後に残された禍々しいスタッフが地面に倒れる音だけが、空々しく響いた。
嘘だ。
嘘だ。
こんなのは嘘だ。
そして。
ごぷりと。
俺を嗤うよう、透けたモンスターの腹の中にイサトさんの姿が浮かんだ。
「あ…………」
絶望の声が漏れる。
「イサト、さん」
硝子のように透けていたヌメっとしたモンスターの球体がどろどろと黒く濁り、やがてイサトさんの姿が見えなくなる。
手脚が、ぞっとするほどに冷たく感じた。
しゃらんら★を握る指先の感覚がない。
それなのに、頭の芯だけがぐらぐらと煮立つように熱く、痺れる。
息が出来ない。
イサトさんを奪われた。
イサトさんを取り込まれた。
どうしたら取り返せる?
どうしたら。
不安と焦燥が脳髄を焦げ付かせる。
そんな俺に向かって、ヌメっとした無貌が触手を伸ばし――…
ど ぱ ァ ん !
その腹が内側から爆ぜた。
「え」
びちゃびちゃびちゃ、と周囲に黒い泥が飛び散る。
その爆心地にいたのは、当然のようにイサトさんだった。
「げっほ……ッ、げほッ」
片腕を血の赤で彩り、喉をひゅうひゅう鳴らして咳き込みながらも、イサトさんは無事な方の手を泥の中に突っ込みバケモノの腹を掻き混ぜる。そんなイサトさんを再び包み込むように黒の泥が球を象って再生しようとするが……
「させるかッ!!」
俺はびちゃりと泥を踏みしだいて踏み込むと同時に、しゃらんら★をぐずぐずと滑る漆黒の泥の中に突き立てた。そこを中心に、漆黒の泥が粘度を失ってどろどろと溶解していく。
「秋良、ここにライザとレティシアもいるか」
ら、と最後までイサトさんが言うより先に、身体が勝手に動いていた。
黒い泥に塗れてびちゃびちゃになってるイサトさんの上身を、手加減も忘れて強引に抱き寄せる。どうしても、そこにイサトさんがちゃんといるのだと確認せずにはいられなかった。じっとりと濡れた服の生地を通して、イサトさんの柔らかな肉感と共に体温が伝わってくる。
良かった。
ちゃんと、生きてる。
とっとっと、と早いリズムを刻む鼓動が伝わってきて、ようやく俺は安堵したように深い息を吐き出した。
「え、っと。あの。その。……秋良、青年?」
「死ぬかと、思った」
イサトさんが。
そしてある意味でおいては俺が。
「――…」
イサトさんの手が、ゆっくりと俺の背に回った。
愚図る子供を宥めるかのように、ぽんぽん、と優しく俺の背を叩く。
「色んな意味で私も今死にそうだが、大丈夫。ちゃんと生きてるよ。なので――…とりあえず引き抜いて貰えるとありがたい」
「おう」
いろいろ言いたいことは胸の中に渦巻いていたものの、場所も場所である。俺はそのまま頭の位置を下げ、イサトさんの腹に肩を押し当てるようにしてずぶずぶと黒の汚泥の中からイサトさんの身体を引き上げた。そのままイサトさんはかついだまま、俺はイサトさんが埋まってたあたりの泥の塊に腕を突っ込む。ぐちゅぐちゅと滑る泥をかきわけていると、ふにゃりと柔らかい体温を感じた。服を手繰るようにして引き上げ、ずぶりと泥の中から引きずりだしたのはライザだった。次に、レティシア。
「私はもう大丈夫なので、ライザとレティシアを頼む」
「やだ」
「え」
俺の肩から降りようと身じろいだイサトさんを、一言で却下。信用ならん。というか、怪我人は大人しくしてろ。
「え、でもさすがに三人担ぐのは」
「うるさい」
「うるさいって」
ごちゃごちゃ言ってるのは聞こえないふりして、俺はライザとレティシアを何とか抱えあげると、最後にしゃらんら★を引き抜いてその腹の中からとっとと脱出する。ちら、と横目に振り返った背後、そんな俺に向かって獲物を奪い帰そうと触手がうねうねと迫ってくるのが見えた。
「しつけえ!」
怒鳴りつつ、なんとか回避しようと試みる。
そんな俺の背でがっくんがっくんと揺られながら、イサトさんが身を乗り出してしゃらんら★を握る俺の手の上から掌を重ねた。
「Ctrl2、F1! F2! F3!」
肩の上に抱いた体が薄桃の光に包まれると同時に、まるで魔法のように衣装が変わってスキルが発動した。しゃらんら★から放たれた聖属性を帯びた火焔攻撃が次々と追いすがる触手を打ち滅ぼし、黒のヌメっとしたモンスター本体へと着弾しては轟々と明るく燃え盛る。その熱気を背中に感じながら、俺は自然と半眼になっていた。
MP、尽きてねえでやんの。
ということは、俺はここまでイサトさんの掌の上で転がされていたことになる。
どこからだ。
決まってる。
あの、イサトさんらしからぬ犠牲を前提にした作戦からだ。
「…………イサトさん」
我ながら凶悪な低音が出たもんだと思う。
「……………………、」
いろいろと言い訳をしようと試みるような沈黙。
その後、何を言っても駄目だと判断したのか、イサトさんはぐんにゃりと俺の肩の上で身体を弛緩させて、ぽそりと口を開いた。
「私が悪かった。ごめん。心配させた。でも細かく作戦を伝えるタイミングがなくて」
「ほうほう」
そうか。
確かにその言い分にも一理ある。
俺は三人分の体重に軽く息を弾ませつつ、俺はにこやかに言葉を続けた。
「なら結婚しようか、これ終わったら」
「え」
肩の上でイサトさんがびくりと硬直する。
「結婚て。あの。結婚。ですか」
「はい。あの、結婚です」
イサトさんは何故かカタコトである。
はっはっは。
自分の撒いた種は責任とって刈り取るが良い。
RFCには、『結婚』というシステムがあった。
お互いの同意の元に教会で申請し、女神による祝福を持って成立するシステムで――…その『結婚』したキャラ同士はお互いの『家』の合鍵を交換することが可能になる他、専用の回線で二人きりの会話を登録なしで行うことが出来るようになるのだ。
1:1チャットやPTチャットなど、オープンではない会話を行う方法は幾つかあるが、どれも事前に相手のIDを調べて1:1チャットに招いたりPTを組むといった手間が必要だった。が、この『結婚』システムを利用した場合、チャット画面に直接「パートナー」というタブが新たに増え、そこから直接会話することが可能になるのである。
こちらの世界に来て、PTや1:1チャットといったゲームならではの機能は使えなくなったわけだが……もしかしたら『結婚』制度による通信の追加なら、アイテムの恩恵として実現する可能性がある。
少なくともそれが駄目だったとしても、俺にはそれでも良いと思えるだけの利点がこの『結婚』システムにはあった。
それはずばり。
自分のパートナーがどこにいるのかが常に把握できる、ということである。
イサトさんの首輪代わりにはちょうど良いと思うのだが如何だろうか。
「わ、私は嫌だぞ、あんなストーカー御用達システム!」
「自業自得です」
「どこで何してるのかバレるじゃないか!」
「そのためのシステムです」
断じて違う。
本来なら愛し合うカップルをサポートするためのシステムである。
が、ほんの少しとは言えお互いの得た経験値がプールされるという旨みもあったため、カップル外でこのシステムを利用するものも多かった。
実際、油断するとすぐにレベル上げを放り出してスキル獲得やらに精を出すイサトさん捕獲のために、リモネが「結婚しろやゴルァ」と迫りまくっていたこともあったぐらいだ。目的のレベルまでイサトさんが達したら離婚してやる、という謎の制度である。
俺はヌメっとしたモンスターから充分に距離を取った辺りで、ゆっくりとイサトさんとレティシア、ライザを地面に降ろした。地面に寝かせた後、そっと首に手をあてて脈を確認する。良かった。二人とも、意識はないものの脈は安定している。
「イサトさん、怪我は?」
「ものすごく痛い」
「…………何したんだ一体」
腹の中から引きずりだしたとき、イサトさんはスタッフを手にしてはいなかったはずだ。
俺の問いかけに、イサトさんはインベントリから取り出した薔薇姫の蜜をばしゃばしゃと腕全体にぶっかけつつバツの悪そうな顏をした。
「ほら、ライザに私、アイテムを幾つか渡してあっただろう?」
その言葉だけでピンと来た。
確か、あの時。
モンスターの腹の中に浮かび上がった二人の周囲には、二人の持ち物も一緒に漂っていた。きっとイサトさんはそれを確認させるために、俺を突っ込ませたのだろう。そして、その存在を確認したからこそ、作戦を実行に移した。MP切れを装い、自らモンスターに取り込まれつつその腹の中で砲閃珠を発動させたのだ。
思わず深い溜息が出た。
わざわざ調節して破壊力を上げてあった投擲武器を至近距離で発動させたのなら腕を痛めて当然だ。むしろ腕がふっとばなくて本当に良かった。
「お願いだから、後は俺に任せて大人しくしといてくれ」
「そんな心底呆れた風に言わなくても」
イサトさんはちょっと拗ねたようにぷ、と唇を尖らせつつも、すぐに口元に柔らかな笑みを浮かべて俺を見た。
「……ん。ちょっと無茶をしたもんで、さすがに私も疲れた。後は君に任せるよ」
「おう」
これ以上イサトさんに無茶をされたら、俺の心臓が止まる。
イサトさんはそっとしゃらんら★に添えていた手をするりと降ろした。
魔法少女のドレスと、イサトさんの身体を包んでいた薄桃の光とが蕩け合うように変身が解けていく。
イサトさんの魔法が解ける様を見届けた後、俺はゆっくりとしゃらんら★を構えてヌメっとしたモンスターへと向き直った。
イサトさんの放った聖属性を帯びた火焔魔法に包まれて、黒の無貌はうねうねと悶え苦しむように揺れていた。ぱちぱちと爆ぜる焔の中で、少しずつ黒の泥が粘度を失ってさらさらと崩れていく。
そんな姿を、マルクト・ギルロイは呆然と眺めているようだった。
燃え盛る焔の中で踊るように揺らめく漆黒の異形と、その傍らで立ちつくす父親のシルエットは不思議なほど俺の目には印象的に映った。焔による逆光で、マルクト・ギルロイの表情は窺えない。
俺は、しゃらんら★を片手にゆっくりと距離を詰めていく。
時折思いだしたように焔に包まれた触手が俺に向かって伸ばされるものの、軽く打ち払うだけでそれはぱしゅりと軽やかな音を上げて霧散した。
やっと終わらせられる。
やっと終わらせてやれる。
そんな想いが、胸の中で混ざりあう。
ぐずぐずと焔に焙られて溶けたヌメッとしたモンスターは、随分と縮んでしまっていた。ライザ、レティシア、そしてイサトさんを呑みこむほどに大きかった下半身の球は、もう三分の二ほどがぐずぐずに溶けて崩壊してしまっている。おかげで、球の上部に乗っていた無貌の子供の顏がちょうど俺の目の高さにあった。
ヌメっとした黒の人型に顏はない。
人を象っただけのマネキンのような黒が、無感情に俺を見る。
「もう、いいだろ」
気づいたら、そんな言葉が俺の口から零れていた。
それは誰に向けたものだったのか。
俺は静かに、しゃらんら★の石突で黒の人型の胸を貫いた。
焔にまかれ弱っていたからなのか、それともそれ以外の理由が何かあったのか、まるで吸い込まれるかのようにしゃらんら★の先端が黒に呑まれていく。
おおおおおお、と慟哭めいた声にならない声が空気を震わせる。
焔の中、ぐずぐず、ぼろぼろと人型が崩れていく。
そこへ、ふとマルクト・ギルロイが一歩を踏みだした。
「っ、おい」
俺が腕を伸ばして引き戻そうとするよりも早く、その下半身がどろりと黒い泥に呑みこまれる。それはヌメっとしたモンスターが生き延びるために力を得ようと人を取り込もうとしてのことだったのか、それともそのモンスターの中に残ったその男の息子だった部分が最期の最期で父親を求めてのことだったのか、俺にはわからない。ずぶずぶと黒に呑まれながらも、マルクト・ギルロイは焔に包まれぼろぼろと崩れゆく我が子を、幸せそうに抱きしめた。
どろどろ、ぼろぼろ。
それはどこまでも奇妙な抱擁のようで。
焔に照らされたマルクト・ギルロイは黒の泥に呑みこまれながらも、どこか安堵したような笑みを浮かべているようにも見えた。
やがて静かに焔が消えた後――…、そこにはもうヌメっとしたモンスターの姿も、マルクト・ギルロイの姿も残ってはいなかった。微かに残った灰すらも、風に攫われてすぐに見えなくなる。
「なんだか、なあ」
小声で呟いた。
これがゲームであれば、強敵を倒した喜びに興奮を覚えるところなのだろう。
イサトさんと二人協力して、味方に犠牲を出さずになんとかボスを倒すことが出来たことを祝うべきシーンだ。
けれど、どうにもそんな気にはなれなかった。
ただただ、疲労と虚脱感だけを感じる。
小さく溜息をついて踵を返そうとして、何も残らなかったと思っていた燃え後に何か小さな白い欠片が落ちていることに気づいた。
屈んで拾おうとしかけて、それが何であるのかを察した。
骨だ。
おそらくは子供の……、マルクト・ギルロイが何としてでも救いたくて、最後には異形として甦らせることを選んだ坊やのものだろう。
未発達な小さな骨が、ぱらぱらと燃え後に落ちていた。
「…………」
はあ、と深い溜息が零れる。
どこで、何を間違えてこうなってしまったのだろう。
俺はそっとその小さな骨を手の上に拾い上げた。
せめて、骨だけでもきちんと供養して貰えるように手配したい。
からりと乾いたかつて人だったものはあまりにも脆く儚くて、その軽やかさが余計に空しさを掻きたてた。
そんな俺の肩を、いつの間にか傍らにいたイサトさんがぽんと軽く叩く。
「イサトさん」
「――…帰ろう、秋良」
「……うん」
隣に寄りそうように立つイサトさんから伝わる柔らかな体温に、ほっと吐息が緩んだ。それと同時に、これで良かったのだとも強く思う。俺はちゃんと、俺の護りたいものを護れた。だから、これで良いのだ。
「あっついシャワー浴びたいなー」
「いいな、その後は清潔なお布団にくるまって死んだように眠りたい」
「最高だ」
「だろう」
ちらりと二人視線を交わした後、ふっと口元に笑みを浮かべて俺たちは歩きだした。
「イサトさん」
「ん?」
「薬指を洗って待ってろよ」
「――…プロポーズがこんなにも恐ろしいものだったなんて」
俺はわりと本気なので、覚悟しておくと良い。
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