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おっさんの献身

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 俺はびっくりするほどに追い詰められていた。

 大ピンチである。

 敵はイサトさん(俺の煩悩)だ。


 ……ちょいちょいセクハラしているというのに、どうにも学ばないお人である。


 ちなみに、御金に困ってるわけでもないんだしもう一部屋借りようという紳士的な申し出は、物理的にすでに宿の他の部屋が借りられている状況の前に完封されてしまった。

 このタイミングで満員御礼になりやがった宿屋が憎たらしくて仕方ない。

駄目元で別の宿をとるというアイディアも提案してみたが、「そこまでして別の部屋に泊まる意味があるか?」と小首をかしげるポーズつきの疑問で粉砕された。


 据え膳喰い散らかすぞこのやろー。


 俺の煩悶など無視して、隣の部屋の姉弟に食事を差し入れたイサトさんは、現在優雅なお風呂タイムである。もう一度言う。お風呂タイムだ。イサトさんはお風呂タイム。メーデーメーデー。

 俺が頭を抱えるすぐ隣、壁を一枚隔てた場所で、イサトさんは一糸まとわぬ裸身を晒して風呂に入っているのだ。脳裏に思い浮かぶのは、ぴっちりと身体のラインも露わにナース服を着こなしていたイサトさんのシルエットだ。拘束具めいた布から解放されたまろやかな褐色の身体の破壊力はいかほどだろうか。想像だけでいろいろまずい。いやほんと。マジで。









「寝よう。寝るしかない」








 俺は呻くように呟いて、宿の主から無理いって借りてきたソファに身体を押しこんだ。身長180㎝を超える俺にはかなり窮屈だが、このソファが俺にとっての生命線である。風呂から出てきたイサトさんが、どっちがベッドを使うか、なんて話をし始めたら俺の寿命が縮みかねない。もうすでに雑魚寝した仲なんだし、納屋の床で寝るのもベッドで寝るのも変わらないだろう、なんて言われたら死ぬ。主に俺の理性が。


 ここは寝たふりで乗り切るしかない。いくらイサトさんでも、ソファにみっちり詰まって寝る俺を無理やり起こしてベッド談義を始めようとは思わないだろう。俺は目をつぶって、無になるべく宇宙の真理について思いを馳せる。


そんな最中、どうして俺がこんな風に苦しまなければならないのか、なんて考えてはいけないことをふと思ってしまった。


 この我慢は必要なことなのだろうか。理性なんて放り出して、本能の赴くままにあの柔らかそうな肢体を貪って何が悪いのだろう。間違いなく裁判に持ち込まれたとしても、強姦は成立しない。イサトさんは自分から俺と同じ部屋で寝る、と言ったのだ。その時点で、その意思があると受け取られても仕方ないのだ。俺に罪はない。それにイサトさんにその意思がないというのはどこの筋の話だ。ソースは?もしかしたらイサトさんだってそういうことを期待して俺と同じ部屋で寝るなんて言い出したのかもしれないじゃないか。それならばいっそ手を出さない方が失礼なんじゃないのか。そうだ。そうに決まっている。イサトさんだって、



「だああああああああああッ」



 がごん。

全力でソファの手すりの角に頭を打ちつけて、俺は脳みその暴走をを強制終了した。ものすごくあたまがいたい(物理)。


 もしかしたら、イサトさんだってまるっきりその気がないというわけではないのかもしれない。少なくとも、嫌われてはいないと思う。


 でも。

 俺は。






 イサトさんを泣かしてしまうことがこわい。






 肉欲が満たされて冷静になった時、イサトさんが泣いていたら俺はどうしたらいいのだろう。きっと、俺は俺が許せなくなる。

 だから。




「イサトさんまじじちょう」




 そんな呪詛めいた呻きを残して、俺はフテ寝するしかないのだ。














 念ずればなんとやら。

 どうやら俺は、本当に寝てしまっていたらしい。

 うっすらと目を開けて、窮屈なソファの中で身じろぐ。みしみし、とソファの肘置きが不穏な音を立てるのが聞こえた。部屋の中はすでにすっかり暗い。イサトさんも眠ったのだろうか。くわぁ、と小さく欠伸をして、俺ももう一度眠りなおそうと試みる。このまま起きていても、良からぬことを考えてしまうだけに決まっている。それならさっさと眠って、この生殺しの地獄のような夜を乗り越えてしまいたい。


 そこで。

 俺は失念していた。

 目を覚ましたには、目を覚ますだけの理由があるのだ、ということを。


 ふわり、と鼻先を甘い香りが掠めた。

 誘われるように、首をひねって顔をあげる。

 無理な体勢で持ち上げたせいで、首の筋がぴきりと引き攣って痛んだ。

 けれど、そんな痛みは大したことなかった。

 

 ああ。

 これが俺の目の覚めた理由か。


 そこには、イサトさんが立っていた。

 こちらの世界にやってきて以来、パジャマとして愛用されている節のある召喚師装備(上)。太腿までを申し訳程度に隠すその上着の下からは、形の良いむっちりとした長い脚がにゅっと伸びている。

 寝起きで目にするには、とてつもなく心臓に悪い光景だった。


「イサト、さん…?」

「………」


 イサトさんは俺の呼びかけには答えないまま、ぺたりと裸足で踏み出して俺へとの距離を削った。


「なあ、秋良青年」

「な、なに…?」

「私と話をしようか」

「え」


 おいイサトさん。

 あんた言ってることとやってることが違う。

 話をしよう、なんて理知的なことを言いながら、イサトさんはとんでもない暴挙に出た。ソファにみっちりと詰まる俺の上に、載ったのだ。跨りやがった。ブランケット一枚を隔てて、イサトさんの体温が俺の上に乗る。とんでもない光景だ。窓から差しこむ月明かりに照らされて、イサトさんはなんだか恐ろしいまでに美しい淫魔のようだった。


 ああくそ。この人は、なんで。俺の我慢やら気遣いをこうしてぶち壊すような真似をするんだ。


「……イサトさん、どけよ」

「嫌だ」

「……あのさ。エルリアの街でも言っただろ。俺は男で、あんたは女なんだから、俺がその気になったらあんた抵抗できないんだぞ」


 声が苛立ちに尖る。

 イサトさんは、不思議なほどに無表情だ。

 何を考えているのか読めない金色の双眸が、まっすぐに俺を見下ろす。


 あんたは一体何を考えてるんだ。

 今の居心地の良い関係を保つためには、お互い不可侵の壁を築く必要があるという話をしたばかりじゃないか。俺が不用意に壁を乗り越えてしまわないようにと、あんたにも下手にその気もないのに挑発すんなと警告したじゃないか。


「やれるかどうか、試してみたら良い」

「……ッ」


 心底こちらを煽ろうとしているとしか思えない言葉に、かっと目の前が赤く染まった。ばきり、とソファの腕置き部分がついに折れる音が聞こえた。

次の瞬間には、俺はイサトさんの華奢な腕を捕まえて、体勢を入れ替えていた。


 ソファに組み敷かれたイサトさんは、ほんの一瞬だけ驚いたように目を瞠って、その後はすぐにまた何を考えているのかわからない静かな金色が俺を見上げた。長く艶やかな銀髪が、ソファの上に蛇のようにのたうって広がる。その顔の脇に手をつき、脚の間に己の膝を割りいれて押さえ込んだ。


「ほら、あんたは逃げられない」


 顔を近づけて、威嚇するように口角を持ち上げてわらう。

 怖がればいいと思った。

 俺を押しのけようと、暴れてくれればいいと思った。

 そしたらきっと俺は――…






「君が、本当にしたいことをしたらいい」






 なんで。

 なんで、そんな静かな声で受け入れるみたいなことを言うんだ。

 駄目だろ。こんなの、駄目だろ。

 ぐぅ、と喉の奥が鳴る。

 まるで獣だ。


「なあ」


 イサトさんは静かに語る。

 ここに来て、あやすような柔らかな声音で話し出す。


「どうして君は、我慢するんだ」

「してない」


 この状況で、何をどう我慢しているというのか。

 俺は俺が恐れていた通り、理性の手綱を放してこうしてイサトさんに酷いことをしようとしてしまっている。いや、むしろもうすでにしている。

 我慢できていたら、こんなことにはなっていない。

 そう思ったら、腹の中でとぐろを巻いていた性欲だか怒りだかよくわからない熱が急速に引いていくのを感じた。いわゆる、心が折れた。ああしにたい。


 がくりと項垂れる。

 顏を上げられない。

 イサトさんの顔が見れない。


「……ごめん、イサトさん」


 押し出すようにして謝って、のろのろとイサトさんの上から身体を引く。

 それを何故か引き留めたのは、やっぱりイサトさんだった。


「……何」


 なんで、止めるんだこの人。


「私は、君のその顏が嫌いだ」

「………」


 嫌われた。

 イサトさんに、嫌われた。

 涙が出そうになった。

 でかい図体の良い年した男が、泣きそうになった。


「その、自分のことが嫌いで仕方ないって顔」

「……へ」


 顔をあげる。

 俺を見上げるイサトさんは、やっぱり何を考えているのかわからない顔をしていた。でも、なんだかとても優しいことを言われたような気がした。


「最初にひっかかったのは、カラットの村だ。アーミットが斬られたとき」

「…っ」


 小さく息を飲む。

 あの時、目の前でアーミットが斬られるのを見た俺は、極々自然に相手を殺し返そうと思った。アーミットの命を奪った男の命を、俺がこの手で奪ってやろうと思った。即座にそう決めて、実行しようとした。怒りにとち狂ったわけじゃない。俺は冷静にそう考えて、殺すと決めたのだ。


 ……我ながらどん引きだ。


 平和な日本で安穏と暮らしてきた大学生の発想じゃない。

 イサトさんにも言われたじゃないか。


 『あんなにナチュラルに相手を殺す覚悟を決められる人を、初めて見た』と。


「それから君は、たまに嫌な顔をするようになった」

「嫌な、顏…?」

「自分自身を毛嫌いするような、それでいて何かを恐れているような曖昧な顔」

「……あ」


 思い当る。

 カラットの村でしたことを、俺はイサトさんに隠し続けている。

 俺たちに対して危害を加え得る敵だと判断した男を、俺はこの手にかけようとした。イサトさんが口にした「殺すな」という人道的な判断に悖ることを、俺はあっさりと行動に起こした。あの男が、俺たちに害を成す「敵」だと判断したから。

 

「最初は、この状況や、未来に対する不安なのかとも思った。いきなり戦闘に巻き込まれたり、目の前で人が殺されかけたり、衝撃的なことが続いたしな。そして、その不安を形にすることを、口にすることを恐れているのかと思ってた」


 イサトさんの澄んだ金色の双眸が、俺を見上げる。

 俺を見透かす鏡面のように、その瞳に俺が移っている。

 イサトさんは、静かに告げる。





「君は一体、何を怖がってるんだ」





 俺が、怖いもの。

 イサトさんの静かな問いかけに、ふと心の中に浮かんだ答えは二つあった。

 一つは俺自身であり――…、もう一つはイサトさんだ。


 俺は、自分が怖い。

 俺は、どうにも人間として淡泊だ。

 だから、己と関係ない人間がどうなろうと関係ないと思ってしまうし、自分の敵だと認識した相手の命を奪うことに躊躇いを感じない。感じられない。


「俺さ」


 懺悔のように、口を開く。


「ちょっとおかしいんだ」

「おかしい、って?」

「例えばなんだけど、イサトさんホラー映画だとかで、殺人鬼に追われるようなシチュエーションがあるじゃないか」

「あるな」

「倒した、と思って逃げてたら、実は生きてた相手にまた襲われて…、っていうのはそういうのじゃわりとよくある展開だろ?」

「そうだな」

「俺はそういうのを見るたびに、何でトドメを刺さないんだろうって不思議に思っちゃうんだ」


 どうして、映画の主人公たちは殺人鬼が動かなくなった時点でその場を離れてしまうのだろう。何故、気絶で許してしまえるのだろう。俺ならそこできっと殺してしまう。動かなくなった相手が、本当にもう動かないかどうかを確かにする。そうでなければ、安心できない。


 深く、息を吐く。


「俺、大学二年って言っただろ」

「うん」

「でも、21だ」


 ストレートで進学していたならば、21ならば大学三年生であるはずなのだ。

俺は、一年遅れている。


「誕生日が早いか、浪人でもしたのかと」

「浪人――…、というか留年、というか」

「ゥん?」

「中二の時にさ、ちょっとした事件に巻き込まれたんだ」

「事件」


 イサトさんが、復唱する。


「近所のコンビニで買い物をしてる時に、運悪く強盗にかちあった」

「それは――…」

「スキーマスクかぶって、包丁振り回して、金を出せって暴れてたよ」


 極度の興奮状態で、誰を傷つけてもおかしくなかった。

 後から聞いた話によると、よろしくないオクスリを服用していたらしい。


「だから、俺はそいつを店の中にあった脚立でぶん殴った」


 フルスイングで容赦なくこめかみのあたりを殴り飛ばした。

 そうしなければ、俺はもちろん、同じ店の中にいる他の客や、店員が助からないと思ったから。そして。


「俺は当たり前のように、そいつが追いかけてこられないように――…、そいつの足を折った」


 興奮して、恐怖に我を失っていたわけではない。

 俺は落ちついて、冷静に、追われたら困るな、と思ったから、追えないようにしたのだ。結果、犯人以外の怪我人を出さずに、事件は解決した。


「過剰防衛だとも言われたけど、俺は中二のガキだったからさ。特にお咎めもなかったよ。ただ、カウンセリングには通わされた。でもさ」


 はあ、と深く息を吐く。


「俺、全然気にならなかったんだ。家族は俺のことを滅茶苦茶心配して、学校も休学させてくれたし、家族ぐるみでカウンセリングも受けてくれた。でも、俺は平気だったんだ。人ひとり脚立でぶん殴って足をへし折っておきながら、俺は何のトラウマにもならなかったし、罪の意識で苦しむようなこともなかった」


 俺は、何とも思わなかったのだ。

 あの男は俺にとって、日常を脅かす敵だった。

 それに相手は犯罪者だ。

 だから、排除した。

 俺の中では、そこには罪悪感が発生する余地はない。

 いや。

 罪悪感があるとしたら、何も感じないことにこそ、罪悪感を感じた。


「最終的にカウンセリングで、俺はソシオパスの傾向があると言われたよ」


 ソシオパス。

 社会病質的傾向。

 良心と共感力に欠ける、欠陥のある人間。


「親はすごいショックを受けてた。そして、今まで以上に俺を『まとも』に育てるために気を遣ってくれた。だから、俺はずっと『まとも』になりたかった」


 まともな人ならどう感じるのか。

 どう行動するのか。

 本を読んだり、人を観察することで、俺はそれを模倣した。

「自分だったらそうする」という行動よりも、「普通の人ならそうするだろう」という行動を優先して選ぶようにしてきた。


 それでも、やっぱり俺はおかしかった。


 アーミットを斬った盗賊、カラット村での薄気味悪い男、先ほどのエリサ。

 俺は、相手が自分にとっての敵だと判断したならば、一切の躊躇いなく排除に動くことが出来る。


 俺の中では優先順位があんまりにも明確で、迷いが発生する余地が少ないのだ。

 俺はそんな自分が怖い。


「カラットの村でさ」

「うん」

「イサトさんは、殺すな、って言ったじゃないか」

「そうだな」

「でも、あの後に俺、薄気味悪い男に会ったって言っただろ?」

「うん」

「俺、本当はそこでその男を殺そうとした」


 静かに、告白する。

 イサトさんは、例えアーミットを殺した敵であっても「殺すな」と口にした。

 それがどうしてなのか、俺にはよく理解できない。

 あれは結果的にイサトさんの使ったポーションが間に合ったから、アーミットが助かっただけで、あの男がアーミットに対して殺意を向けて行動を起こしたことがチャラになるわけではないと、思う。

 だから別段俺としては殺してしまっても構わなかった。

 「絶対殺す」から「殺しても殺さなくてもどっちでもいい」になっただけに過ぎない。


 殺さなかったのは、イサトさんが止めたからだ。

 イサトさんと揉めてまで殺すほどのことはないと思ったからだ。

 ただ、それだけだ。

 敵の命を奪う、ということに対しての躊躇が、俺にはない。

 

 普通の人ならば、あの状況でも「命を奪うのは良くないこと」という常識に乗っ取って行動することが出来るのだろうか。

 イサトさんが俺を止めたように。

 普通の、人なら。

 

 俺は、俺の感覚が普通でないことをイサトさんに知られることが怖かった。

 まともで、人道的な感覚を持ち合わせるイサトさんに、恐ろしいバケモノであるかのような眼差しを向けられてしまうのが怖かった。

 だから、言わなかった。

 言えなかった。


「逃げようとしたところ、背中から斬り捨てた。まあ結局燃えてる家に逃げ込まれて見失ったけども」


 殺すつもりで、斬りつけた事実は変わらない。

 俺は自分に敵対する存在を倒すことに躊躇いを覚えない。

 もちろん、無暗矢鱈に敵を殲滅したい、というわけではない。

 話し合いで解決できるのならそれが一番だ。

 けれど、いざというときに俺は迷わないし、そのことに関しては罪悪感を抱かない。罪悪感を抱かないことに関しては罪悪感を抱いてしまうが。


「俺は、それをイサトさんに知られるのが怖かったんだ。

あの場で俺に『殺すな』と言えるような、真っ当な感覚を持ってるイサトさんに、俺のおかしいところを知られたくなかった」


 懺悔のような俺の告白を聞いて、イサトさんは静かに息を吐いた。

 少し、怖くてイサトさんの顔を見ることが出来ない。

 視線を伏せていると、そっと伸びてきた手が、優しく俺の頬に触れた。


「イサト、さん……?」

「なんだか、随分悩ませてしまったみたいだなぁ」


 ゆっくりと視線を持ち上げた先で、ふわりとイサトさんが柔らかな微笑みを浮かべる。その瞳には、俺に対する嫌悪や、恐怖の色はなかった。

 そのことに、心の底から安堵する。


「私が、あの時殺すな、って言ったのは――…、別段あの男のことを庇ったわけじゃないよ」

「……え?」


 それなら、どうして?

 イサトさんはあの時俺を止めた?


「だったら、人を殺すのは良くないこと、だから?」

「それは大きな意味ではあるかもしれない」


 現代社会において、殺人は許されない罪だ。

 ぎりぎりで正当防衛が認められているが、それだって正当防衛として認められるのは難しいという話を聞く。

 復讐や、仇討による殺人も認められてはいない。

 そんな社会でこれまで生活してきた故に、イサトさんがその常識を捨てられないというのも当然だろう。

 そう納得しかけた俺を見上げて、イサトさんは言葉を続ける。

 

「人を殺すのが良くない、というよりも――…」


 イサトさんがまっすぐに俺を見つめる。

 深い金色の瞳に、吸い込まれてしまいそうだ。




「君に、そんなことで傷をつけたくないと思った」




 息が、詰まった。

 俺を、傷つけたくない?


「私も現代日本育ちで基本平和ボケしてるから、トンチンカンなことを言ってるかもしれないけど、さ。人を殺すことでトラウマを背負うとかってよく聞くだろう」

「……ああ、確か、に?」


 日常的にそういった出来事が身の回りで起きているかといったらそんなことはないが、確かに映画やドラマ、伝え聞くエピソードとしてそういった話は珍しくない。むしろ、俺はそういったエピソードに触れるたびに、罪悪感を抱かない自分自身への嫌悪を深めていたような気がする。


「私は結構海外ドラマの刑事ものが好きでよく見るんだけど……、犯罪者から市民を護るためにいざというときに躊躇うな、と彼らは訓練されているのに、それでも現場で犯人を射殺することに躊躇ったり、する」

「うん」

「それだけじゃなくて、犯人を射殺してしまった後にはカウンセリングにかかったりも、する」

「うん」

「ドラマは創作で、本当の話ではないかもしれないけれど……きっと、そう間違ってるってわけではないと思うんだ」

「うん」

「人の命を奪う、っていう決断や、行動の生むストレスっていうのはさ。きっとあるんじゃないかって私は思ってる」

「……だから、止めた?」

「そう。だから、止めた。

 君に、そんな負荷を背負って欲しくなかったから」


 ここは異世界だ。

 俺たちが暮らしていた世界とは異なる理で動く世界。

 それでも、現代日本で育った俺たちの中には、「人の命を尊重する」という概念が根強く存在している。

 イサトさんは、その概念が俺を苦しめる可能性を考えて、あの時止めてくれたのだ。あの男に対する同情でも、常識に乗っ取った判断としてでもなく、あくまでも俺のために。


「あんな男のために、君が傷つく必要はない。君がストレスを抱えてまで手を下す必要はないと思ったから、止めた」

「――…、」


 深く息を吐き出しながら、俺は力尽きたようにイサトさんの肩口に額を押し付けて突っ伏した。いろいろいたたまれない。イサトさんは、そんな俺の頭をもしゃもしゃと華奢な指先でかき撫でた。

 

「私は、君を信じてるよ」

「……俺の、何を?」

「君の、判断を。だから、私は君を怖がらない」

「……いきなり飛ばされた異世界でナチュラルに殺す覚悟を決められる男、なのに?」

「……嫌味だな」


 つん、と髪を引っ張られた。

 今までと変わらない甘やかなじゃれあいに、くつ、と喉を笑みに鳴らす。


「これはあくまで私の意見なのだけれども。根っからの良き人であるよりも、良き人であろうと努力して良くあることの方が凄いと思うんだ」

「―――、」


 静かに息を飲んだ。

 そんな風には、考えたことがなかった。

 努力しなければ、普通であれないことがコンプレックスだった。

 考えなければ、普通の人の考え方がトレースできない自分が厭だった。


「優しくあろうと努力してるから、君は他の誰よりも優しい」

「……そうか?」

「そうじゃなかったら、私はとっくに犯されてる」

「ぶ」


 イサトさん、自覚あったのか。


「だから、秋良。君は――…、自分を誇って良いよ」

「イサト、さん」

「あんな風に、自分を嗤うな」

「…………」


 柔らかく、それでいてどこか拗ねたような声で言われて、ふと思い当った。


「……イサトさん、もしかしてお怒りでした?」

「うん。お怒りです」


 しれっと認められた。


「……だから、わざと俺を挑発した?」

「………」


 イサトさんは無言でやんわりと微笑んだ。

 このやろう。本当。このやろう。

 俺が悶えることを織り込み済みで、イサトさんは俺の部屋に泊まるなんて言い出したのだ。


「俺が悪かったから、もうそんな自分を人質にするような嫌がらせはやめてくれ、本当。俺がもたない」

「知ってる」

「……タチ悪ィ」


 深々と溜息をついた。

 本当、この人には敵わない。


「それじゃあ、秋良青年、そろそろどいてくれ。重い」

「へいへい」


 のっそりと、俺は今度こそ邪魔されることなくイサトさんの上から身体を起こした。それから、何気なく手を取ってイサトさんを引き起こしてやろうとして。


「……、」


 イサトさんの手が、酷く冷えていることに気付いた。


 ああ、そうだよな。

 いくらイサトさんがタチの悪いおっさんだとしても。

 ガタイの良い男に組み敷かれ、凄まれて、怖くなかったわけがないのだ。

 ごめん、なんて言葉が喉奥まで出てきたのを、飲みこんだ。

 謝っても、イサトさんはしらばっくれるだろう。

 だから。


「ありがとう、イサトさん」

「いいってことよ」


 返事はやっぱり男前だった。



真面目回。


ここまでらお読みいただき、ありがとうございます。

pt、感想、ツッコミ、全て栄養になっております。

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