第一章②
柔らかな春の陽光が差し込む昼の教室で、勢い良く前後の扉が開かれた。およそ二週間ぶりの学校が終わったのだ。
今まで静かだった廊下に、一気に会話の花が咲き乱れ始める。
教室内のムードも然り。数分前まで教師の声以外響くことのなかったそこもまた、あらゆる雑音で満たされていた。
そうして長いようで短い退屈な時間からようやく抜け出せた可憐は、席に着いたままその解放感につい胸を撫で下ろした。
更についでと言わんばかりに、彼女は出かけたあくびを強く噛み締め、軽く背筋を伸ばす。
その時だ。後ろから陽気な声とともに何者かが飛び付いてきたのは。
「かっれえぇえええん!」
思わず「ひゃう」と、頓狂な声が漏れる。
もちろん飛び付いてきたのは、彼女にとって今や顔を見なくても声だけで分かる存在、綾奈だった。
「綾ぁ! どうしたの、そんな楽しそうにして?」
いつにも増して上機嫌な彼女に対し、顔を綻ばせて可憐は訊いた。
「どうしたもこうしたもないよ、今日一緒に帰ろ? 良いでしょ? ね、ほら!」
やたらと催促してくる綾奈。
そんな彼女に対して可憐は、どこかまどろっこしそうに答えた。
「いつも一緒じゃん」
そして椅子を後ろに引き下げた可憐。
早く帰りたい。そんな思いだけが、今、彼女の頭の中を満たしていた。
「そこが問題。実は今日、一緒なのは私だけじゃないんだよねぇ……」
「はい?」
疑問符を打つ可憐を他所に、チラリと教室の後ろに視線を流す綾奈。
そんな彼女の視線に誘導されるかのように自分のそれを合わせた可憐。
それからしばらく、時間が停止した。
「ちょっと待って、綾。もしかして……」
その先にはあの男子生徒がいたのだ。今日初めてこのクラスに足を踏み入れた転入生の彼が、だ。
「その『もしかして』だってば!」
「痛っ……」
はしゃぐ綾奈は自分の行動にブレーキが効かないようで、可憐の肩を思い切り叩いてきた。しかも容赦なく。本気で。
「それにしてもなんで一緒に……て言うか急に……」
と、不思議そうな視線で可憐は訊いた。
「ふっふっふっ、よくぞ聞いてくれました。実はですね、ホームルーム中にこっそり美佳ちゃんと筆談していたわけですよ、私は。今日一緒に帰りませんかと」
そうして今度は、転入したばかりの女子生徒の席へと視線を向けた綾奈。
しかしそこに彼女の姿はない。いやそうではない。彼女のある意味独特な雰囲気さえも掻き消すほどの熱気でそこは溢れ返っていたのだ。
言い換えれば、いち早く彼女と仲良くなろうとしている飢えた男子によって、彼女は囲まれていたのだ。
「帰国子女? 留学生?」
「まじの金髪じゃん! もしかしてお父さんが外人?」
はい、はい、と。飛び交う質問を適当にあしらっていく雛見美佳。それが余程迷惑なのか、彼女はどこか困ったような笑顔を浮かべている。
一方で、そんな彼女の事などお構いなしに、次から次へと迫る男子の軍勢。
中には彼女の事を一目見ようと他のクラスから飛んできた者までいるようで、その数はクラスの男子の人数を遥かに上回っていた。
ところでその様子を真後ろから綾奈と一緒に眺めていた可憐。
モテる女は辛いものだなと、彼女は人事のようにそう思いつつも、内心同じ女として少し悔しいとも感じていた。
「やっぱり、一人暮らし? 寮?」
「はい、そうです」
「それじゃあ今夜うちで俺とえっちし────」
「死ね」
彼女の生い立ちが一体どういうものかは未だよく知られていないが、どうやら日本語を自在に操ることはできるらしく、「イエス」で済ませられるものとそうでないものを彼女はしっかりと聞き分けているようだった。
そこでふと可憐は疑問に思う。
彼女の周りにあれ程生徒が集まるのに対し、何故もう一人の彼────草薙悠一の周りには人が集まらないのかと。
考えれてみれば彼も同じ転入生。
生徒が周りに数人いてもおかしくないというのに。
「ねぇ、綾。なんで草薙くんのところには誰もいないんだと思う?」
「あぁ、それね。ホームルームの時、みんな彼と筆談してたみたいだよ? メアドも教えてもらったって」
「え……」
なるほど、と。妙に深く納得した可憐。そして同時に、自分の積極性の無さを彼女は恨んだ。
「あれれぇ? もしかして、あんたにしては珍しくジェラシー?」
「綾、うるさい」
いじけたように親友を一蹴した可憐。
恐らく綾奈の事だ。筆談の時点で彼女の通学路や所在地など、大まかなことは聞いているに決まっている。
ともすれば、彼女と一緒に帰ると言うのは些か嘘とは言いがたい。
そして恐らく、悠一の方は彼女と帰路が同じという理由で、偶然一緒に帰れることになったのではないだろうか。
最後まで机上に残されていたクリアファイル──赤い服を着る黄色い熊の絵柄をした──をスクールバッグに詰め込みながら、可憐はそう判断する。
「ともかく。あの二人は寮生で、帰り道は私たちとほぼ同じだって。さぁどうする」
やはりか、と。
ニヤリと顔を歪ませた綾奈を前に、可憐は浅く溜め息を吐いた。
「何か企んでるでしょ」
スクールバッグのファスナーを閉め、綾奈に鋭い眼差しを可憐は向ける。
「べっつにぃ? 可憐が久々に妬いているようなので、少し弄ってるだけだよん」
どこまでが本気で、どこからが冗談なのか。全くもって可憐にはそれが分からなかった。
けれど。
少なくとも今この状況が全てからかいによるものだということは、次の一言で確信を持てた。
「付き合ってみれば良いじゃん」
………………
……
すいぃ────
左右に開かれた液晶画面に触れることも、画面下部に用意された矢印キーを押すこともなく、独りでに携帯の画面が横にスクロールされた。
〈FAVS────フルオートヴィジョンシステム〉
通称ファーブス、『全自動型視覚感知機能』とも呼ばれるその機能は、元々十数年程前にスウェーデンのとある企業が開発した視覚センサーを日本の企業がより大衆向けに改良したもので、なんでも手前にいる人の視線に反応し画面がスクロールされるという、非常に画期的且つ先進的な機能だった。
更にその機能はたちまち世界中に広まり、今や目視するだけで電子機器のパネルを押すなどの精密な動作も可能となってきている。
もちろんその機能についてはオンオフの切り替えも可能で、人の集まる電車内などでは基本的にオフにされることが多い。
しかし、多くの若者は単に「楽だから」と言う理由だけで、その機能を常にオンにしていた。
それは可憐もまた同じだ。
彼女が今手にしている二画面式スマートフォンにもその機能は勿論のごとく搭載されており、それをフルに利用しながら彼女は携帯小説を読んでいた。
言わずもがな、今もそうだ。
下校時、二人の転入生と親友の綾奈とともに帰っている時も、彼女は携帯の画面から一切視線を外すことはなかった。
そんな彼女の隣で。
先程から転入生の雛見美佳とひっきりなしに話を続けている綾奈。
うんうんと頷きながら、彼女はそうしてまた美佳へと疑問を投げ掛ける。
「なるほど。てことは、雛見さんはお父さんが婿養子として日本に来て、雛見さん自身の戸籍は日本ってことでいいの?」
爽やかな春の風が吹き込む街路で、塀の上から飛び出た桜の枝が風に煽られ花びらを散らす。
その中を、潜り抜けるように過ぎ去っていく四人。
そして美佳が、少し戸惑いながら綾奈の質問に首を縦に振る。
「そう……なりますね、はい」
彼女のブロンドの髪が、きらりと鮮やかに輝く。
「ふぅーん、だから名前が雛見と美佳で両方日本名なのかぁ……」
と、一人頷く綾奈。
一方で、可憐はその話を全く聞いていないわけではなかった。
ただ彼女達の話についていくことができないから、仕方なく携帯を眺めているのだ。
いくら情報技術が発達したとしても、主に動画や興味のあるものでしかそれを使わない彼女は、政治や経済といった一般常識に関しては周囲よりも大分疎い。
そんな彼女が話に加わろうものなら、話が飛んでもない方へと向かってしまう。そして結局、学校の友達が認知しているように、転入生もまた彼女に『天然娘』とレッテルを貼ることだろう。
だから今、彼女は話がしたくなかった。
少なくとも、話すなら自分のよく知ってる話題で話がしたかったのだ。
「じゃあ、外国名もあるってこと?」
そこで、少しの間何かを考えていた綾奈が再び美佳にそう訊いた。
しかし。
訊かれた美佳の方は何故か、今までになく困惑した表情で、チラリと悠一の方へと視線を流したのだ。
「えぇ、一応は……」
「じゃあさ、そっちの名前は何て言うの?」
まるで聞かれては困るものでも聞かれたように、はたと口を閉ざした美佳。
彼女達の間に緊迫した空気が漂う。
そして、
「アリ────」
「おい」
途端、彼女達の会話が途絶えた。
今まで何も言うことなく静かに歩いていた悠一が突然声をあげたからだ。
「寮に着いたぞ」
そんな彼はとうに立ち止まっており、彼女達のすぐ後ろで右手に佇む大きな建物の入口へと視線を向けていた。
もうそんなに歩いていたのかと。
綾奈は先程自分が口にした質問さえも忘れそう思う。
多分、未だ陽が上にあるせいで時間の感覚が鈍っていたのだろう。「もう少し時間はある」と。
「ホントだ……ごめんね、綾奈ちゃん……また明日お話しようねっ」
申し訳なさそうに綾奈へと謝る金髪美少女。
そして綾奈の隣でどぎまぎしている可憐に対しても「可憐ちゃんもね」と、彼女はそう付け加えて言った。
「ああぁ……えっと、うん……また明日……」
と、流石の綾奈もその流れの早さには付いていけないようで、その場に呆然と立ち尽くしたまま手を振った。
「それと、私の事は美佳って呼んでいいからね?」
入口で、先に扉を開けて待つ悠一の元へと走り寄る美佳は、途中クルリと身を翻しそう言ってきた。
「じゃね!」
それからゆっくりと閉まる寮の扉。彼等が階段を上り見えなくなっても尚、閉まりつつあるその扉。
そうして可憐と綾奈の二人が見守る中、ようやくガチャン────と扉に鍵が閉まった。
「……行っちゃったね」
と、物憂しそうに可憐。
それからふと彼女は天を仰いだ。
ところで彼女達が通う学園。
そこは、数年ほど前まで高等部のみで成り立っていた私立高校の一。
けれど、全国の高校の間で一流大学への進学が勧められる中、中高一貫による教育が必要だと感じた法人は新たに中等部を新設。
その為、遠方から通う生徒が増えてきたのだ。
結果「夜分遅くまでの課外授業により下校に支障をきたす」と生徒から願い出が殺到。もちろん帰りが遅くなればそれだけ身の危険性も高まるし、最悪、遠方通学者は終電に間に合わない可能性もあった。
そうした理由を元に去年、五年という歳月をかけて創られたのがこの寮だった。
「それじゃあ、綾、うちらも帰ろっか」
気の抜けた様子でそう口にする可憐。
そのまま彼女が立ち去ろうとしたその時、まるで彼女を引き止めるかのように綾奈は小さく口を開いた。
「ねぇ、可憐……」
「うん?」
綾奈の声に振り返る可憐。
咄嗟、彼女の表情が気まずいものに変わる。
「何で一言も話さなかった訳?」
そこには、怪訝そうに顔をしかめる綾奈の姿があった。
「え、だって綾がずっと話してるし、邪魔しちゃ悪いかなぁ……って」
「そうじゃなくて! 私は美佳ちゃんの方と楽しくお話してたでしょ? なのにどうしてあんたはもう一人の方と話さなかったのって私は訊いてるの!」
────男子が苦手。
可憐に関してそれは確かに嘘ではないし、現に友達と呼べる人も圧倒的に同性が多かった。
かといって、一概に男嫌いと言うわけではない。ただ異性を前にすると極端に言葉が出てこないだけだ。
異性の人のものの考え方が分からず、どうしても不安を持ちつつ接してしまう。
そのせいでいつも彼らと親しくなる機会を逃していたのだ。
「それは……なんかほら、恥ずかしいじゃん?」
と、照れ臭そうに可憐は言う。
「……これだからシャイは……」
「?」
首を傾げる黒髪の少女。
対して呆れる栗色の髪の少女。
「まぁいっか、いつもの事だし。それじゃあ今夜またメールするから、その時はちゃんと出るように」
と。
立ち止まる可憐の横を軽い足取りで過ぎていく綾奈。
そんな彼女の姿を、無意識に目で追う可憐。
例えそこに冷やかしの思いがあったとしても、反面、何かある度にこうして自分を誘ってくれる綾奈に内心彼女はとても感謝していた。
もちろん今回の事だけに限らず、それは中学時代や高校に入ってからも同じ。彼女の周りにいる友達との関係は、そうやって綾奈の後押しがあって築き上げられてきたと言っても過言でもないかもしれないからだ。
そして。
可憐もそんな親友の後を追うかのように再び歩きだすのだった。