プロローグ①
その日、人生で初めて地球を見た。
とは言っても、本当に宇宙から地球の姿を見たわけじゃない。ましてやテレビの画面で見たわけでもない。
地上からこの星と同じ色をしたものを見ただけ、たったそれだけのこと。
それだけのことを目にしただけで、その日、私は全てを知った。
暗闇の中に堂々と輝く青い星。
世界が最期を迎える直前、世界で最も美しい景色を私は見た。
二〇三六年、九月二十日。深夜零時前。
私はふと瞳を閉じた。
東京都北区赤羽。私は今、自分の生まれ育ったその街の中で、ただ一言小さく「さよなら」と呟いた。
すると突然、私の携帯電話が忙しなく鳴いた。
だけど私はその中身を確認することもなく黙って空を見上げる。
嗚呼、凄く綺麗。
そうして私が見つめる先。
天上にぽっかりと穴が空いたように、真っ暗い秋の寒空の中それは浮いていた。
思えばこれは、私が一冊の本を手にした時から始まったんだと思う。
廃館寸前の高校の図書館で、最後に私が手にした一冊のファンタジー小説。
それにも、今と全く同じことが書かれていた。
『かつて地球には双つの月があった』
そう。
私が今見ているものは、その双つの月だ。
その一つはもちろん、誰もが知る黄金色の月。
そしてもう一つは、宝石の様に青々と輝く大きな月。
それを人は『ニビル』と言う。
多くの神話にも描かれる洪水伝説。
その原因ともされている氷の惑星、それがあれだ。
それが今まさに、この地球に衝突しようとしているのだ。
とても信じられない話だが、これは事実、私の目の前で起こっているのだから否定のしようがない。
宗教も軍事も政治も関係ない。
人の力をいくらかき集めたところで、自然の力の前には無力同然なんだと言うことを、その日、私は初めて思い知らされた気がした。
………………
……
青い。
真っ新なキャンパスを青い絵の具で何度も塗り潰したような空が、わたしの頭の上に広がっていた。
そんな青空の下、小さなわたしの身の丈を遥かに越えるススキ畑の中で、わたしは今友達に手を引かれ走っている。
上気した顔を撫でていく風がとても気持ちがいい。
そんな風のように過ぎていく金色の景色の中、わたしはふとそう感じた。
わたしは今まで、会う人会う度に"厄の子"だと呼ばれ、酷い時には小石を投げつけられ追い立てられることさえあった。
だけど、わたしはそれを仕方のないことだと半ば諦めかけていた。
事実わたしは、他の人とは目の色も髪の色もまるで違っていたのだ。
黒い髪に黒い瞳。
わたしの生まれ育った村には、そんな人など誰一人いなかった。
親だってそう。
だからわたしは来る日も来る日も神様を恨んだ。
どうしてわたしだけみんなと違う容姿なのだと。
でも、今は違う。誰も恨んだりはしない。そんなわたしにも友達ができたから。
誰からも必要とされなかったわたしを、ただ一人必要としてくれた大切な人。
わたしはこの友達が好き。彼女といられるだけで、わたしは心のどこかで喜びを感じていた。
だから。
わたしにとって彼女は初めての宝もの。
初めて人の温もりを教えてくれた人。
初めて、本当に初めて、わたしに世界の光を見せてくれた人だ。
「どこへいくの?」
「こんどはあっち」
わたしは嬉しかった。
わたしを一人の人として見てくれることが何よりも嬉しかった。
だからこそ私は、行く先に不安があったとしてもそれを口にはしない。
万一にもその言葉で友達が傷付き、結果嫌われてしまうのが怖かったから。
また一人ぼっちになるのがとても恐ろしかったから。
「つぎはあっちにいこう?」
そうやって友達は次から次へとわたしを誘う。
それにわたしは何も言わずについていく。
友達と一緒にいられる、たったそれだけのことで私は幸せを感じられ……
あれ……幸せって何だろう?
幸せって、どんな色のことを言うんだろう?
この空のように青い色?
それともこの草原のような金色をしているの?
目に見えることのない幸せに対してふとそんな疑問を抱いた時、わたし達は突然何かにぶつかった。
「きゃっ!」
それがわたしの不幸の始まりだった。
いいえ。
幸せを知らないわたしにとって、それが不幸であることを知る由もなかった。
そう、この時までは。
"すべて"を失う、"すべて"を失くす。
その瞬間までは……。
わたしが見上げるとそこには、空の青よりも更に深い蒼────それこそ何色にも喩え難い夜空のような色────をした髪を靡かせる"悪魔"が、わたしたちに冷えきった視線を送っていた。
それから"悪魔"は、無言でわたしの首に手を掛ける。
わたしは必死になってそれを振り払う。
そうじゃない。友達がいたから振りほどけたんだ。
友達がわたしをそれから引き離してくれた、だからわたしは助かった。
その後わたしは、恐怖のあまり何も考えず一目散にその場から逃げ出した。
そうやってわたしが逃げ出す時、後ろで友達は何かを言っていたかもしれない。
もしかすると叫んでいたのかもしれない。
でも、その言葉がわたしに届くことはなかった。
だって、一度も後ろを振り返ることなくわたしはすぐに逃げ出してしまったから。
友達も、わたしと一緒に逃げたものだと思っていたから。
………………。
どのくらい走っただろうか。
幼いわたしの足で三十分ほど走り続け、大分距離をとったところでわたしは足を止めた。
そこでようやく後ろを振り返る。
「──────」
嗚呼、わたしは大きな過ちを犯してしまったんだ。
その時になって、やっとわたしはその事に気付かされた。
"すべて"を失ってしまった。
そんなわたしの後ろには、ただ静けさだけがついてきていた。
──────────
それからと言うものの、わたしの中の不幸の色は、すべてを呑み込む夜の色になった。
わたしは幸を識った、わたしは不幸を識った。
嗚呼、神様。
わたしは他に何もいりません。
わたしは他に何も望みません。
だから一つ、たった一つだけ。
もしもわたしの我儘が許されるのなら……
「わたしのたった一人の友達を返してください」
少女は切に願い続けた──
†
灰色のカーテン。その隙間から、雲の切れ間から溢れる放射状の光の様に差し込む春の陽射し。薄暗い部屋に漂う埃が星のようにキラキラと輝く。
埼玉県南東部と隣接し、同県と非常に密接な経済的かつ生活上の関係をもつ地域。東京都北区の中でも特に交通・商業ともに栄える街、赤羽。埼玉県を吹き抜ける北方からの山風の名残によって、そこは今日も一段と冷え込んでいた。
とはいえ、関東以北の地方では未だ雪が残っている地域さえあるのだ。春爛漫。街路に咲いた桜の花のことを思えば、ここも春らしくなってきたと言えるだろう。
そのようにして外では既に春が押し寄せている中、目覚まし時計の無機質な電子音が、部屋に充満する肌寒い空気を震わせていた。
カチッ──
と。それまで煩く喚いていた目覚まし時計が、上部のボタンを誰かに押されそして、鳴くのをやめた。
「んぅ……」
しんと静まり返る朝の一室。
アラームを消す為に一度は起きたと思われるその少女は、気付いた頃には再び、襲いくる睡魔に唸りながら布団の中へと潜り込んだ。
それから暫くして、二度目のアラーム音が鳴り始めた頃。
その少女はまたも布団から腕を伸ばすと、今度は時計の頭を叩くと同時に、それを顔の前へと引き寄せた。
「今……何時?」
未だ眠気が覚めぬまま、アラーム時計が示す時刻を凝視した少女。
途端、彼女の瞳に焦りが見えた。
「…………あ……」
確かに、寝起きの彼女の表情はどこか気の抜けた容子だったかもしれない。
しかしそんな顔をしていたのも束の間で、今や焦り一色。とんでもないものでも見た感じに、彼女は即座にベッドから飛び出した。
「遅刻する!」
憐れにも彼女に投げ捨てられたアラーム時計が、荒れた布団の上でバウンドする。
「新学期早々、どうしてこうなるかなぁ……」
そうぶつぶつと文句を言いながらも、壁に掛かけらていた制服はもはやそこにはなく、今では乱雑にベッドの上へと放られていた。
──────────
………………
……
それから数分後。
一人姿見の前で着替えをしている彼女。残すはリボンとブレザーを装うのみとなっていた。
だからこそ、悠長にも鼻唄が漏れているのだ。
丁度そんな時。
扉の向こうの階段下から、母親と思しき女の声が彼女の部屋に突然飛び込んできた。
「可憐、今日から学校でしょ! 早く起きなさい!」
「もう起きてる!」
と彼女もまたそれに負けないくらいの大きなボリュームで直ぐ様返した。
そうして今、鏡の前でジッと自分の目を見つめながらコンタクトレンズを嵌める少女──黒崎可憐。
彼女は最後に一つ、パチリと目をしばたかせた。
「うん、完璧!」
ふわりと、肩甲骨辺りまで伸びた黒のロングヘアが揺れる。
それから褐色混じりの黒い瞳で、姿見に写された小柄な自分の姿を可憐は捉えた。
「そういえば、今日は転入生が来る日だっけ」
呑気にも時間を忘れそう独り言を口にする彼女は今、臙脂色のリボンを胸元に結んでいる最中。
「かっこいい男の子かなぁ」
彼女の顔が小さく綻ぶ。
「それとも可愛い女の子だったりして」
フフンと、更に笑みを溢した可憐。続けて彼女はさっきまでのハミングをまた口ずさみ始めた。
ところで、彼女がどうして今こんなにもご機嫌なのか。それは、以前より同級生から聞いていた転入生の話が要因だった。
なんでも彼女の通う高校は、もちろんそれだけ高い学力を要するとは言え、全日制にしては珍しく他校からの転入を一、二学年のツークール毎に受け入れていた。
その為、四月と九月の始業式が近くなると、生徒達が教師などを通じて詮索を始めるのだ。今度は誰が転入してくるのかと。
可憐はそれにただ流されているだけだった。
訊いたわけでもなく、ただ聞かされただけ。それでも彼女を喜ばせるのには、転入生の話題は十分過ぎるくらい有力な情報だった。
人付き合いが上手い方ではないけれど、人と話すのが嫌いというわけではない。あわよくば転入生とフレンドリーな関係になれればと、彼女はそこに期待していた。
だから今、こんなにも上機嫌なのだ。
そしてリボンを結び終えた彼女は、ブレザーを羽織ると同時にハミングを終え、ブレザーの内ポケットから細いピンクのコームを取り出した。
数回、それを髪に通した可憐。さらりと艶のある髪が流れる。
それからコームを懐にしまう。
これで用意は整った。
「さてと」
ピョンと跳ねるようにして部屋のドアへと近付いた可憐は、そこに立て掛けてあった鞄を手に取り一気に階段を駆け降りてく。
そんな彼女の計画では、そのまま玄関へと行き学校へ……と言う予定だった。
しかし、
「朝食くらい食べていきなさい」
革靴を履きかけた彼女を、背後から呆れた様子で母が呼び止めたのだ。
焼けた食パンの香りと、焦げたバターの匂いが鼻の辺りをくすぐってきた。
「えー、別にいいよぉ……」
それは返事の通りで、彼女は今、そこまで空腹を感じてはいなかった。
それどころかむしろ、学校に遅刻することの方で彼女の頭は一杯だった。
もちろんノーブレイクファースト、それが春休み中の毎日の習慣となっていたのも理由の一つ。
だからこそ彼女は間怠っこそうにそう答えたのだ。
「残してもいいから少しは食べていきなさいって。そんなんじゃいつまで経っても大きくならないわよ?」
と、彼女が最もコンプレックスに感じている部位を見て母は言った。
「う……」
さすがの可憐もそれには怯んだ。
もちろんそれもこれも、親として彼女の健康を一番に心配して言っていることなのだろうが、子供の側からすればどこか傍迷惑に感じてしまうのも事実。けれども、これ以上何かものを言ったところで結局はいたちの追いかけっこ。
それどころか、意地を張れば張るほど自分への被害が大きくなるばかり。
そう感じた可憐は溜め息を一つ、履きかけた革靴を脱ぐや否すごすごとダイニングへと向かった。
(遅れなきゃいいけど……)
と。
玄関先の靴箱の上に置かれた時計をチラチラと気にする可憐。そんな彼女の頭の中を、その言葉が何度も何度もループしていた。
そうして今日、四月七日。
学年も高校二年と一つ上がり、彼女にとって今年度初めての学園生活が始まろうとしていた。