消えない記憶と兄弟愛
「フレディ、お前は俺の兄弟だ。俺の意志を受け継いでくれ」
頭の中で何度もリフレインする声。最後に聞いた兄貴の言葉。固く誓った兄弟の絆を忘れたことなんかない。
「でも、やっぱり……」
この女の言うことももっともなのだ。さっきの電話に出たのが、おそらくマシューズの娘なのだろう。いきなり自分を罵倒してきたあの根性の悪そうな声を思い出し、背筋に冷たいものが走る。他人を見下し、威張りくさることに慣れているような態度。できることなら関わりたくない人種だ。
さらに自分は決定的なミスを犯したのだ。間違えて誘拐したこの女は、当初の標的がマシューズの娘だったことを知ってしまった。しかも、この女はマシューズ家の使用人らしい。こうなってしまっては、この計画を仕切り直すなどできるわけがない。
「はぁ……」
溜息をついた時、本棚の上にあったはずの写真たてが落ちているのに気が付いた。拾い上げてみると、下になった写真の部分からバラバラとガラスの欠片が落ちた。
「兄貴……」
マリアの目の前で男は背中を丸めて蹲り、ガラスの割れた写真立てを見つめてめそめそと泣いている。あれが本棚から落ちて壊れた直接の原因は壁を叩いた隣人だが、自分にも責任があることは確実だ。
「あの……その写真立ては──全て私が悪いわけではないのですけど、弁償しますから。だから、泣かないでください……」
マリアが申し訳なさそうに声を掛けると、男はゆっくりと顔を上げた。薄汚れた頬に、涙の条が光っている。あと鼻水も。
「いいよ……壊れたのは安物の写真立てだけで、大事な写真は無事だからさ……それに、この写真は金じゃ買えないんだよ」
嫌味たらたらに男が言う。
確かに、思い出の写真など金で弁償できるものではない。いつの間にか自分も金持ちと同じ思考回路になってしまったのか、とマリアの胸はちくりと痛んだ。
「でもさ、縛られてるアンタがどうやって写真を落としたのか分からないけど……」
男は写真を持ったまま立ち上がり、ぶつぶつと呟きながらマリアに近付いた。
「謝ってくれないかなあ? 俺の兄貴のジェイソンに!」
男はマリアの目の前に写真を差し出した。
「あ……にき?」
写真には三人の子供が写っている。全員男の子だ。真ん中にいるローティーンの子は身体も大きく、この中で一番の年長者だろう。彼は両脇にいる男の子二人の肩を抱き、にっかりと屈託のない笑顔をカメラに向けている。
左端の子が、この男だとマリアは気が付いた。嬉しそうにはにかんではいるものの、今にも泣き出きだすんじゃないかと思うくらい自信のなさそうな潤んだ青い目。着古したよれよれの服も、この写真の男の子がそのまま大きくなったという気がする。
右端にいる男の子は分厚い眼鏡を掛けており、そのせいで目がとても大きく見える白っぽい金髪の子だ。この子は小学校に入ったか、その直前かぐらいの歳で、三人の中では明らかに最年少だ。兄貴と言うからには、真ん中の少年のことなのだろう。
「本当にあなたのお兄さんなんですか?」
マリアが不信に思うのも無理はない。真ん中の少年は黒人なのだから。
「……確かに血が繋がってるわけじゃない。俺も兄貴も産まれてすぐに捨てられたんだ。同じ施設で育って、同じ里親に……」
男はしんみりとした顔で自分の生い立ちを話し始めた。
どうやら、その里親は里子一人につき役所から毎月支払われる数百ドルの養育費が目当てだったらしい。
「ひどいもんだよ……そこは肉の缶詰工場をやっててさ、学校が終わると夜遅くまで働かされるんだ。俺と兄貴の他にも、同じ境遇の子供が十人ぐらいいてさ、一番仕事が遅い奴は夕飯抜きなんだ」
男は座り込み、子供の頃いつも里親の家の隅でそうしていたかのように膝を抱えて縮こまった。
「俺、とろくてさ……しょっちゅう飯抜きだったんだ。そんな時、兄貴がこっそり自分のを分けてくれた」
マリアは男の話に聞き入っていた。頷きながら大きく溜息をつく。世の中というのは、何て不公平なのだろう。そう考えた時ふとシャロンの顔が浮かび、より一層憤懣やるかたない思いが募ってきた。
男は喋り続ける。
「兄貴は俺と違って出来が良くてさ、大学に行って医者になったんだ」
男は顔をダイニングテーブルの上にある棚に向けた。そこには大学の卒業式と思われる帽子とガウンを纏った黒人の男と、その隣には式典に出席したらしく、スーツ姿のこの誘拐犯が笑っている大きな写真がある。卒業した本人は当然のこと、付き添いである男も、まるで自分のことのように誇らしげに胸を張っている。そして写真に直接書かれている文字にマリアは目を凝らした。
『親愛なるフレディへ、クロフォード兄弟の絆は永遠なり ジェイソン』
「フレディ……」
「はい……」
男は返事をしてから、はっとした様子で顔を上げた。
「な、何で俺の名前を知ってるんだよ? さ、さては最初から俺をはめるつもりだったんだろ!」
ここまでくれば、もはや呆れるのを通り越し、こういう反応を予想して期待すらしていた。
「写真に書いてあるんですよ。よく見てくださいね」
幼稚園の先生にでもなった気分で優しく諭すと、男は自分のバカさ加減を恥じ入るように小さく身体を丸めた。
「そうだよ……俺みたいなバカを、兄貴はいつも気に掛けてくれたんだ。俺にとってはただ一人の家族だったんだ、ジェイソンは」
「ジェイソンとフレディ?」
「うん。それは、名付け親が古いホラー映画ファンで……」
写真の二人がホッケーマスクを被りチェンソーを持って追いかけてきたり、長い鉤爪で襲い掛かってくる様を頭の中で描こうとした。しかし、明らかにお人好しそうな二人が殺人鬼なんて、どうにもピンとこないし、ちっとも怖くない。マリアは男が持っている方の写真に目を遣った。
「じゃあ、その眼鏡を掛けた男の子の名前はダミアンですか?」
「それは、さすがに……名付け親は神父だから。こいつの名前はチャッキー」
「…………」
マリアの頭の中に、この大きな目の男の子が邪悪な嗤いを浮かべてナイフを振りかざす姿が浮かんだ。さすがにそれはちょっと怖い。マリアの顔がひきつった。
「それはそうと、あなたとマシューズさんとは、どういった関わりがあるのですか?」
「あいつは……ジェイソンを殺したんだ」
指の関節が白くなるほど強く握り締めた写真を見つめ、男は絞り出すように告白した。