激昂の女神と迷える子羊
「いきなり何ですか?」
触れられたくない家族の話題を出され、マリアは鋭い視線で男を睨みつけた。
「私の家族のことなんて、あなたには関係ないじゃないですか。何故そんなことを訊くんですか? 大体、あなたはとんでもない勘違いをしてるんですよ」
「なっ……」
いきなり怒り出した人質に、男は驚いて口をぱくぱくさせた。
「な……何だよ! せっかく同情してやったのに──あ、やっぱりあれだな、金持ちってのは性格が悪いんだ」
腹が立った男は勢いのあまり、根拠のない言いがかりをつける。マリアは手錠を掛けられた手首が痛むのも気にせず、椅子の上で上半身をぐっと男の方へ乗り出した。
「金持ちじゃありません! 私はマシューズ家の使用人ですから!」
男の口がピタッと止まり、マリアを見つめたまま固まってしまった。
「う……嘘だ……」
ここへきて自分が大変なミスを犯していたなどとは考えたくもない、とばかりに男はぶんぶんと千切れそうな勢いで首を振る。
「お、俺は見張ってたんだからな! お前がいつも遊び呆けてるっていうクラブの前で、一晩中!」
ご苦労なことだが確かに人違いなのだ。ほとほと呆れ返る。
マリアは男を見据え、冷静な口調で問いただした。
「顔はちゃんと確認しましたか?」
顔じゅうに噴出した汗を掌で拭った男は、ふてくされたように口を尖らせた。
「だって……クラブには、入れてもらえなかったし……入口のセキュリティーに止められちゃって……」
色褪せたTシャツに汚れてよれよれのジーンズ。男は自分を見下ろして力なく首を振っている。
マリアは男に同情すら覚えた。シャロンが入り浸っているあのクラブは、遊び好きな金持ちの若者達をターゲットにした店なのだ。よしんばセキュリティーがほろ酔い気分で寛大になり中に入れてくれたとしても、この男にあそこの入場料が払えるとは思えない。
「これで分かったでしょう? 人違いなんです。だから私を放してください」
諭すような口調に見下されたと思ったのか、男は顔を上げると勢いよくマリアを指差した。
「い、いいかげんなこと言うなよ! お前がマシューズの娘じゃないって決まったわけじゃないからな! 可愛い顔して、そうやって俺を騙すつもりなんだ! この詐欺師!」
誘拐犯に詐欺師呼ばわりされ、マリアは軽い目眩を覚えた。
「マシューズさんは白人ですよ。私が白人に見えますか?」
「み、見えないけど……そ、そうだ! 整形だろう! マシューズは美容整形が専門だもんな! 金にものをいわせて整形手術でそんなに美人にしたんだろう! 白状しろ、この成金娘!」
「美容整形なんてしていませんし、成金なんてとんでもありません!」
こんな調子の押し問答を数回繰り返した後、自分の間違いを認めたくないがための男の無茶な言いがかりはついにネタが尽きたようだ。男は頭を抱えてしゃがみ込んでしまった。
「分かってくれましたか? 私はメキシコ人で、マシューズ家の使用人なんです」
男は頭の上に手を置いたまま顔を上げ、困ったように眉根を寄せると震える唇を開いた。
「あ、え~っと……オ、オーラ。で、良かったのかな? スペイン語なんて学校で習った以来だし……成績も良くなかったからなぁ……」
男がぶつぶつと呟くのを聞きながら、マリアは大きな溜息をひとつついた。
「……オーラ。英語は話せます。今まで英語で会話してましたよね?」
「あ……そうだった」
男は決まり悪そうに髪を掻き毟って苦笑いをした。しかし、その表情は見る見る沈んでいく。そのうち床にぺたんと尻をつくと抱えた膝に顔を埋めてしまった。
「いつもこうだ……何やっても上手くいったためしがない……」
今にも泣き出しそうな声が聞こえた。
「ちくしょう……仕事だってクビになったし、これじゃ兄貴との約束も果たせそうにない……」
男は膝に顔を埋めたまま鼻を啜る。もしかして泣いているのか、とマリアは眉をひそめて覗き込んだ。
何だか自分がこの男をひどく傷つけてしまったような気がする。いたたまれない気持ちでマリアは男に声を掛けた。
「そんなことないですよ。最初に車から降ろされた時はすごい迫力でした。私、怖くて震えてしまいましたから」
「ほ、ほんとに?」
男はぱっと顔を上げ、涙に潤んだ瞳を期待に輝かせながらマリアを見つめた。
「え、ええ……」
男の勢いに怯みながらマリアは首肯する。それから心臓が不規則な鼓動を打っていることに気が付いた。不思議な気持ち。それはなぜかと考える。この男のすがるような瞳に心が躍っているのだ。マリアははっとした。
こんなにも誰かに自分の意見を求められた経験などなかった。名前も知らないこの男が今、マリア自身の考えを知りたいと願い、その言葉に励まされている。こんなことは初めてだ。今までは、自分に関わる者達の意見や行動を押し付けられ、流されるままに服従してきた。そのことに何ら疑いや不満など持たずに。マリアは初めて誰かに自分のことを重要視されているということの喜びに打ち震えた。
心地良い緊張感に包まれながらマリアは微笑む。
「気を落とさないでください。失敗は成功の母と言いますから」
そう励ましてみたものの、誘拐という犯罪を諦めるなというのもおかしな気がする。
「そうだよな……」
しかも男は笑顔で頷いている。すっかり気を取り直したようだ。何と言う単純さ。そこでマリアの頭の中に警鐘が響く。この男は、もしかしたらシャロンを誘拐しなおすつもりでいるのかもしれない。あのシャロンを。案の定、男は立ち上がって拳を握り締めた。
「よし! 今度こそ──」
「やめたほうがいいです! お嬢様はあなたの手に負えるような方ではありませんよ」
マリアは慌てて遮った。変な期待は持たせないほうがいい。せっかく自分を頼ってくれているのだ、適切なアドバイスをしなければ。
マリアの警告を受け、現実に目覚めたのか男の顔から笑みが消えた。