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盗まれた美女と撃ち抜かれたハート


「つまり、誰も頼んでいない寿司が三十人前も届いたってことだな?」

これまでこの事件の捜査をしていた郡警察の刑事部長から話を聞いた。

「これがメイドを誘拐した犯人の仕業だとしたら──」

眉をひそめている刑事部長と、苦悶の表情を浮べるマシューズ氏、その隣にいる彼の秘書グラントの顔を見渡しながら、俺は推測を述べた。

「これは挨拶だな。犯人は、ここに警察が集まってることを知っているんだろう」

「そ、それじゃ……マリアは──」

マシューズ氏が弾かれたように顔を上げ、一目で寝不足と分かる揺れた瞳を俺に向けた。望めもしない願望を、さも事実のように並べ立て、現実逃避をするのは俺の主義じゃない。

「既に殺されている、という可能性もあります」

轟く雷鳴に怯える子供のように、マシューズ氏は身を竦めた。

「警察に対する挑戦ともとれる。かなり狡猾で大胆な犯人だ。犯罪を楽しんでいるのかもしれない。しかし──」

眉間に深い皺を刻み、恐怖とも怒りともとれる表情を浮べるマシューズ氏を真っ直ぐに見捉えた。

「もちろん、生きている可能性もあるわけですから、我々は全力で彼女を捜しだし、卑劣な犯人を必ず逮捕してみせます」

俺の言葉にマシューズ氏は唇をきつく結び、力強く何度も頷いた。

 怨恨による犯行という可能性を捨てきれない今、こうして被害者の信頼を得ることは重要なんだ。大病院の院長という肩書きを持つこの男、何か裏がありそうだ。俺の勘がそう言っている。きっと、他人に知られたくない事情もたくさん抱えているだろう。そういった事こそが、事件解決の手掛かりとなる。何でも喋ってもらわなければいけない。

 誘拐されたのは、マリア・フェルナンデス。本当はもっと長ったらしい名前だが割愛する。

「それにしても、誘拐されたのは家族じゃなくてメイドなのに、そこまで心配されるとは。彼女は長いこと勤められているんですか? 家族同然とか。そうそう、オクラホマにある僕の実家にもメイドがいるんですけど、みんな一年も続かなくて。というのも、僕の母が完璧主義者なんですね。母ほどのレベルに達している人がいなくて、すぐクビになってしまうんです。仕方ないですね。僕の母は──」

また始まった。ハケットの母親自慢。いい歳をして自立もできない、子離れもできない、はた迷惑な親子関係が果たして自慢の種になるのか。マシューズ氏も初めはハケットに顔を向け、奴の話を聞いていたようだったが、すぐに興味を失くしてこちらに向き直った。

「六ヶ月だ」

マシューズの返答にハケットも言葉を止めた。

「まぁ、六ヶ月あれば充分ですよね」

このマシューズという男に違和感を覚えながらも、俺は努めてさらりと受け流し、問題のメイドの資料を捲った。

「もっと鮮明な写真をお持ちでしたら、提供願いたいのですが」

彼女を雇い入れた時にコピーしたという身分証明書の写真は影ができていて見難かった。とはいうものの、あまり期待はできない。普通、家族でもない使用人と記念撮影などしないだろう。

 俺の予想は見事に裏切られた。「それでマリアが助かるのなら」と、マシューズはリビングを飛び出し、数枚の写真を手に戻ってきたのだ。その様子を見て俺は悟った。誘拐されたメイドというのは、この男の愛人なのだろう、と。おおかた、プエルトリコ辺りのお忍び不倫旅行の記念写真が出てくると思った。しかし俺の目に飛び込んできたのは、赤いバラに顔を寄せる若いメキシコ人女性が一人で映っている写真だった。その後ろのヴィーナス像は、俺がこの家の敷地に入った時に目にしたものと同じだ。俺はソファから腰を浮かし、窓の外に広がるヨーロッパ風の庭園を見渡した。写真とはアングルが違うが、やっぱりそうだ。おそらく、この邸の二階から撮られたものだろう。俺は首を捻らずにいられなかった。

 その他の写真も、モップを手に掃除をしているところや、買い物袋を抱えて車から降りてきたところなど、彼女の目線はカメラにはなく、おそらく撮られていることを本人は分かっていないと思われるものばかり。これは盗撮したものだ。普通、自分の愛人を盗撮なんかするか?

 目の前のマシューズは疲労感漂う顔に目だけをギラギラと輝かせ、俺にすがるように真っ直ぐ見つめてくる。こいつは、ただ彼女に入れ込んでいるだけなのか。きっとそうだ。若い女が好きなスケベおやじ。だがしかし、それも無理からぬことだと思った。というのも、俺は写真の中の女に見惚れていたのだ。望遠レンズで撮られたバラに寄り添う彼女。微笑んだ唇は天使のように無邪気で穢れなく、それでいて、半ばまで伏せられた目を縁取る長い睫毛は小悪魔のように相手を手招きしている。深紅のバラも彼女の美しさには霞んで見える。思わず吐いた溜息で俺の唇はかさかさに乾いてしまった。

「うわぁ、すっごい美人ですね」

隣で写真を覗きこんだハケットが素っ頓狂な声を上げた。俺が睨みつけるのも気付かず、奴は腕を組んで溜息をひとつ。

「でも母さんには紹介できないな。メキシコ人だし」

こいつは、頭に浮かんだことを全部口に出さなきゃ気が済まないのか。そういう差別的な発言は連邦捜査官にふさわしくない。だいたい彼女にしたって、こんなマザコン野郎を育てた強烈キャラの母親になんて紹介されたくもないだろう。

「くだらない話はいいから、お前は俺がさっき言ったことを調べろ」

南カリフォルニア及び南西部で過去に起きた類似事件と、その前歴者を調べるようハケットに言いつけたのだ。

「くだらなくないですよ。母を喜ばせたいと思うのは当然じゃないですか。それにこの彼女、きっとカトリックだろうし……」

ハケットはぶつぶつと呟きながら端末に顔を戻した。とりあえず、こいつには何か時間の掛かる仕事を与えておかなければ、こっちの神経が参ってしまう。

 それにしても、昨日の夕方以降、犯人からの連絡がないことを考えると、彼女はもう既にこの世にはいないのかもしれない。そう考えると、こんなに美しくもか弱い女を手に掛けた犯人に、今まで感じたことのない強い怒りを覚えた。何が何でも捕まえてやる。


 隣の大家に気付かれないよう、こっそりと部屋に戻るふたり。幸いにも隣のドアは開かず安堵したのも束の間、部屋の中では会話もなく重苦しい空気が漂っている。ソファに浅く腰掛けたマリアはそっぽを向いて黙ったままだ。

 彼女が何に対して怒っているのか、フレディにはよく分からない。心当たりがあるとすれば、例の寿司の件だ。だけど、何故そのことを彼女が知っているのかは謎である。自分の振る舞いに何かやましいところがあったのか。それとも、女神の化身であるマリアには何でもお見通しということか。

 恥じ入るフレディの頭に、大量に返品された寿司を手に右往左往する寿司職人の姿が浮かんだ。きっと困っているだろう。こんな悪質な悪戯をしたバカに腹を立てているだろう。そう思うとどうしようもない罪悪感に苛まれ、フレディはテーブルに顔を突っ伏した。傲慢なひとでなしのモグリ医者であるマシューズが、食べきれないほどの寿司を前にあたふたしているなら構わない。それこそが望む結果だったのだ。しかし、ジェイソンから聞かされた奴の人間性を考えると、確実にそうはならないだろう。寿司屋を追い返し、今頃はでかい椅子にふんぞり返っているに違いない。何の罪もない寿司屋にひどいことをした。

「何やってんだよ、俺は……」

フレディは頭を抱え、呻くように呟いた。このまま知らん振りを決め込むなんて、自分はこんなに最低な人間だったのか。

 マリアは依然として顔をこちらには向けない。しかしそれでいい。このままでは清らかな彼女と向かい合うことなどできはしない。フレディは唇を噛み、両の掌をテーブルに押し当てた。それから長い葛藤の末、その手を支えにして重い身体を起こした。


「いったい、どういうつもりなの?」

マリアの頭の中では疑惑と憤りが交錯していた。

 恋人がいるくせに他の女を部屋に入れるなんて、そんなことが許されるのか。いくら誘拐してきた人質だとしても。そもそも、彼女はこのことを知っているのだろうか。おそらく知らないのだろうが、知っていたとすれば彼女も彼女だ。普通なら止めるだろう。

「……」

自分が嫌になってきた。フレディではなく、彼女の方に怒りを覚え始めている。この感情が何なのか分からず、マリアは頭を抱えた。

 不意に木が床を引っ掻く音が聞こえ、フレディが椅子から立ち上がったのが分かった。顔を向けると、玄関に向かうフレディと一瞬視線が合ったような気もしたが、彼はすぐに目を背けてしまった。

「マリアさん」

「はい?」

ドアの前で立ち止まったフレディに呼びかけられ、マリアは慌てて背筋を伸ばした。

「迷惑かけて悪かったね……俺は出掛けるから、好きにしていいよ。君はもう自由だ」

フレディはマリアに背を向けたまま言うと、ドアを開けて出て行ってしまった。

 扉の閉まる音が聞こえたのと同時に、マリアの胸がズキンとひとつ音を立てて痛んだ。何故か見捨てられたような気がする。フレディは現実に目覚めて彼女の元へ行き、この誘拐というくだらないゲームを終わりにするつもりなのだ。

「私はどうすればいいの……」

誰にともなく呟いた言葉は、部屋の淀んだ空気の中をいつまでも消えずに漂い続ける。マシューズ邸に戻るべきなのだろうが、どうしても気持ちがそちらへ向かわない。普段は尊大な態度だがメイドに色目を使う邸の主と、他人を蔑むのが当たり前と思っているその娘。そんな場所に戻るよりも、自分という人間を尊重してくれるフレディと一緒にいたい。そんなことを考えてからマリアはハッとして頭を振った。

「やめなさい。だめよ……もう恋はしないと決めたじゃないの……」

自分に言い聞かせるその声は弱々しく、胸の痛みを消し去ることなどできはしない。

 長い時間をかけて自分を戒め、ようやくマリアはソファから立ち上がった。この国へ来た目的を忘れたのか、自分のことばかり考えていられる身分じゃない。マリアは荷物をまとめると、フレディの部屋を後にした。

 アパートを出たものの、これからどうすればいいのかとマリアは途方に暮れた。フレディが乗って行ったのだろう、マスタングも消えている。車があった場所には、擦り切れたグレーのシャツを着た老人男性が座っているだけだ。男性はただぼんやりとして、隣に立ったマリアには目もくれない。しかし、その無関心がありがたかった。もしも気遣うような目を向けられ「どうしたんだい?」などと尋ねられたら、きっとこの場で泣いてしまうだろう。

 いつまでもこんな所でぐずぐずしているわけにはいかない。まるであの男に未練があるみたいじゃないか。早く忘れた方がいいに決まっている。マリアはマシューズ邸に戻った後のことを想像した。おそらくマシューズは大騒ぎするだろうし、食事に行くという約束も果たそうとするだろう。もっと怖いのはシャロンだ。彼女の虫の居所が悪ければ半殺しにされる。

「はぁ……」

思わず深い溜息が漏れる。このまま消えてしまいたい。しかしそうもいかないので、タクシーでも呼ぼうかと重い足どりで歩き始めた。昨日、フレディがマシューズへ掛けた電話ボックスへ向かって。

「マリアー」

突然、呼び声が聞こえ足を止めた。

「こっち、こっち!」

声のする方に顔を向けると、通りに面して並ぶ古びた建物の中にぽっかりと空いた穴のような空き地があり、そこでカルロスが手を振っていた。隅には壊れた電化製品などが打ち捨てられ、ひび割れたコンクリートの上で彼はサッカーボールに片足を乗せている。

 マリアは大きく息を吸い込み、どこか吹っ切れたような笑顔をカルロスに向けた。


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