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勝手な妄想と唸る鞭


 フレディのアパートに戻り買ってきたものを整理し終えると、次第にマリアは落ち着かなくなってきた。もうとっくに夜になっており、狭い部屋にフレディと二人きり。隣の部屋からは相変わらずテレビの音が聞こえてくるものの、二人の間に会話はほとんどない。

 ダイニングテーブルでコーヒーを飲みながら、カウチに腰掛けているフレディをチラッと見た。背もたれに身体を預け、抱き抱えたクッションに顎を載せている。その視線は向かいにある汚れた壁に注がれており、さっきから全く動いていない。何を考えているのか。そして、フレディの傍らに置かれた紙袋が気になる。片時も離さないのは大事な物だからか、それとも他人に見られたくない物だからか。

「まさか……」

マリアは呟いた。袋の中身は避妊具ではないだろうか。

 優しかった男が突如豹変することぐらいマリアも知っている。気の弱いフレディ、しかし彼もれっきとした男だ。それに、マリアをポルシェから降ろしたあの時の剣幕。いざとなれば、女なんて簡単に押し倒せるだろう。血走った目で涎を垂らしながら襲い掛かってくる獣のようなフレディを想像し、マリアの背中に冷たいものが伝う。

「どうしよう……」

今もフレディは依然として動かない。マリアは椅子に座ったまま身体の向きを転じ、シンク横の水きりラックに入っている金属のフォークを一本取った。もしフレディが襲い掛かってきたら、これを膝にでも突き刺してやればいいし、そこまでしなくても目の前に突きつけてやれば怯ませることぐらいはできるだろう。

 フォークを掌で包むように隠すとマリアは席を立ち、フレディの目の前を通ってバスルームに向かう。チラッと彼を覗き見ると、少しの間マリアの姿を目で追っていたが、すぐに壁へと顔を戻し溜息をついていた。襲うタイミングを見計らっているのだろうか。マリアは足早にバスルームへ駆け込んだ。


「はぁ……」

フレディは深い溜息をついた。マリアのために買ったワンピースをいつ渡そうか、ずっと考えていたのだ。買ってきたものを片付けていた時、流れに任せてさり気なく渡せばよかったのだろうが、てきぱきとした彼女の手際に見惚れてその機会を失ってしまった。その後は会話もなく、自分が座っているカウチとマリアがいるダイニングテーブルの二メートル弱という距離がとても遠い。わざわざ彼女を呼び、大々的に進呈するほど大層な代物ではないし。

 そうこうしているうちに、マリアは席を立つと黙ったままバスルームへ入っていってしまった。自分はなんてとろいのだろう。フレディは自己嫌悪のあまり頭を抱える。こんなことに巻き込んでしまったお詫びの気持ちも上手く伝えられない。昔からこうだった。周りから「取るに足らないつまらない人間」と思われていたのは分かっているし、自分でもそう思う。

「マリアは何故こんな自分に協力してくれているのだろう」

ふと、そんな疑問が頭の中に湧いた。

 同情か気まぐれか、それとも密かにマシューズを嫌っているのか。ジェイソンの話によれば、マシューズはかなり傲慢な人物だ。それに今日の電話に出た奴の娘のあの態度、あれもろくな人間じゃないことは確実だろう。

「いじめられてるんだろうな……」

フレディの脳裏には、暖炉の灰と煤に塗れ、マシューズとその娘に鞭で打たれながら床を磨いているという、童話の主人公さながらのマリアの姿が浮かび上がった。

「かわいそうに……許せないな、マシューズの奴」

勝手な思い込みを小さな呟きにした時、バスルームのドアが開きマリアが現れた。


 マリアはバスルームの中で着替えをした。スーパーで買ったアニメキャラクターのTシャツと、グレーのスェットパンツを身につけた自分の姿を鏡に映す。まったく色気のない格好。これでいい。フレディが失笑したこのTシャツならば、多少なりとも彼の男の本能を削ぐ手助けにはなるだろう。それに何より、今日はいろいろあったので朝から着ていた服は皺になっているし、緊張して汗もかいたから着替えたかったのだ。

「あ、そうそう」

洗面台のシンクに置いたフォークをスウェットパンツのポケットにしまう。用心に越したことはない。

 バスルームを出ると、フレディはまだカウチに座り深刻な顔で壁を見つめている。マリアは足音を立てないようにフレディの前を通り過ぎ、ダイニングテーブルに向かった。

「マリアさん、そこのベッド使っていいから」

フレディの囁くような声に足を止めたマリアは、部屋のいちばん奥、窓がある壁に接したシングルベッドを見た。元は白だったような黄ばんだカーテンの下、水色と黄色のストライプ柄の毛布が丸まっている。そして『ベッド』という単語を耳にし、マリアの警戒心は更に増した。

「でも……それじゃ、あなたはどうするんですか?」

「俺はカウチで寝るから」

「いえ、私は人質ですから。あなたを差し置いてそんな贅沢をするわけには……」

おかしな理屈だと自分でも思うが、フレディが邪な考えを持っているような気がしてしょうがないのだ。「ベッドに行け」と言われて「はい、そうですか」と素直に従うわけにはいかない。

「いいんだ。こっちこそ迷惑かけちゃってるし」

マリアの警戒には気付かず、フレディはカウチに足を投げ出して寝そべった。不毛な議論はもう終わり、というように。

 マリアは溜息をついてダイニングテーブルに戻った。眠るつもりはない。いつフレディが狼に変身するか油断ならないからだ。温かいコーヒーを淹れ直し、何をするでもなく頬杖をつく。隣の部屋ではきっと映画でも見ているのだろう。時折、派手な音楽と共に銃声や叫び声、爆発音が聞こえる。アメリカ人はバイオレンスが好きだ。マリアはこの国に来てすぐの頃に感じたことを改めて思う。幼い頃に住んでいた場所では、すぐ隣に暴力が渦巻いていた。一触即発の麻薬ディーラーとギャング達。そして始まる銃撃戦。子供ながらにその恐ろしさを感じていたし、まさに目を背けたくなる現実だった。それが、この国ではエンターテイメントになる。本当に変わった人たちだ。

 そんなことを考えていたマリアは、ふと口に含んだコーヒーがいつの間にか冷めているのに気付いた。さらに、隣の部屋からのテレビの音も聞こえない。前面のガラスにうっすらと埃の被った壁掛け時計を見上げると、もう深夜になっているのがわかった。その途端に欠伸が出てくる。今日は色々な出来事があったから疲れているのだ。

 マリアは窓際のベッドに目を遣った。上下にスライドする窓が細く開けてあり、カーテンが柔らかく揺れている。まるで「おいで、おいで」と手招きしているようだ。睡魔に襲われている今、その寝床がたまらなく心地良さそうに思える。眠ったら危険だろうか。ベッドからカウチへ視線を移した。フレディはマリアに足を向けた状態でカウチに寝そべっている。ダイニングテーブルから彼の顔は見えない。マリアは立ち上がり、足音を忍ばせてカウチに近付いた。本当に寝ているのか判断しかねたマリアはポケットからフォークを出し、その先端でフレディの足の裏を軽く突っついてみた。

「う~ん……」

不機嫌そうな唸り声を上げたフレディは足を引っ込めて胎児のように丸まった。それきり動かない。

「寝てるみたいね……」

 マリアはベッドへ行き、ブランケットを持ってきてフレディに掛けてやった。カリフォルニアという所は昼間は暖かいが夜は冷え込むのだ。金もないのに風邪でもひいたら気の毒だと思った。フレディはぐっすりと眠っている。そういえば、昨夜一晩中シャロンの行きつけのクラブを見張っていた、と言っていた。

「疲れてるはずよね……」

 今までの懸念がバカらしくなりベッドへ向かおうとしたマリアだったが、ふと足をとめてフレディの寝顔を覗き込んだ。枕代わりのクッションに右の頬を載せ、そのせいで口が小さく開いている。まるで子供みたいだ。不意に、故郷に置いてきた弟のラウルを思い出した。

 カンクンのぼろアパートで毎晩、マリアの腕にしがみついて寝ていた弟。帰ってこない母親の代わりに、いつもマリアがラウルを守ってきたのだ。やんちゃな甘ったれだったが、マリアの腕の中で安心しきって眠っていた可愛い弟。もう何年も会っていないが、現在高校生のラウルはどうしているだろう。

 マリアはナイトスタンドを点けて天井のライトを消した。仄暗い部屋の中、外の消えかけたネオンの赤い光が途切れ途切れに窓から差し込んでくる。ベッドの上に座り、膝を抱えて窓の外に目を遣った。市街地の裏通りはどこも同じだ。飲食店の換気扇から流れてくる使い古した揚げ油の匂い。灯りに群がる羽虫のように、何かを求めて通りを彷徨う人々。きらびやかな表通りには決して出て行けない者達。あらゆる場所から風が運んできたゴミの吹き溜まりのような乱雑さ。あのアパートから見えた景色も、たしかこんな風だった。

 マリアは窓の枠に凭れ、ソファのフレディを眺めた。薄暗い中では黒く見える髪、丸めた細い頼りなげな肩。そのうち、自分が幼い頃に戻ったような不思議な感覚に囚われた。カンクンのアパートの窓から薄汚れた裏通りを見下ろし、いつも不安そうな弟と寄り添っていた頃に。

 ふと、マリアはマシューズ家のことを思い出した。たった半日ほど前のことだが、あの華美な邸で働いていたのがまるで別世界での出来事のようだ。彼らは今、どうしているだろうか。


 夜が更けていく。獣がその本性を剝き出しにする夜が。

 自分の欲望は年中無休で昼夜問わずのマシューズだが、そんなことは棚に上げ、濃くなる夜の闇に心の中のざわめきが激しくなる。マリアは今、凶悪犯と共にこの夜を過ごしている。こんな事態に落ち着いてなどいられようか。

「マリア……」

あんなにいい女と夜を過ごして、欲情しない男なんているはずがない。それに、もしかしたら犯人は一人ではないかもしれない。マシューズの頭の中にマリアの叫び声が響く。蝋燭の揺れる灯りが照らす地下牢。顔にはのっぺりとした鉄の仮面を被った筋骨隆々の男が数人、白いブリーフ一枚という格好で手に鞭を持って笑っている。天井から吊るされた鎖に両手首を繋がれた下着姿のマリアが「やめてください」と泣き叫ぶ。それにもかかわらず、変態男の一団はマリアの柔肌に鞭を振るい──

「あああー!」

頭に血が上ったマシューズが叫びながら立ち上がった。犯人からの連絡がないことで次第にだらけ始めていた刑事達は、その奇行に飛び上がらんほど肝を潰した。今にも火を噴きそうな勢いでマシューズは叫んだ。

「許さん! 許さんぞー!」

絶叫を飲み込み、サンディエゴの夜は更けていく。



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