隠された真実と造られた被害者
「それで、その患者さんは助かったんですか?」
マリアが問うと、フレディは静かに首を振った。
「当然、その医療ミスは問題になった。だけど、いつの間にかミスをしたのはジェイソンってことになっちまった。マシューズが、ジェイソンに罪をなすりつけたんだ」
「で、でも……手術室には他のスタッフもいたんですよね? そんな言い逃れは……」
「あの病院でマシューズに逆らえる奴はいない。あいつが黒と言ったら、白でも黒くなるんだって。それでジェイソンは査問会に掛けられて資格停止になった」
マリアがマシューズ家で働き始めた頃のことだ。自分の病院のドクターについてマシューズとグラントがひどい悪口を言っていたのを思い出した。それはジェイソンのことだったのではないか。その時は、自分には関係のないことだと聞き流していたが、今になってこんな形で関わることになろうとは。
フレディの話は続く。
「納得いかないジェイソンは、同じようにマシューズのやり方に常々疑問を持っていた若い女性研修医と協力して、奴の不正を暴こうとした。だけど、マシューズを審問会にかける準備がもう少しで出来るって時に、その研修医が突然掌を返した。しかも、ジェイソンにセクハラをされたって訴えたんだ」
「なぜですか? もしかして、本当にセクハラを?」
マリアの問いに憤慨した様子で勢いよく首を振った。
「とんでもない! 全部でっちあげだよ! ジェイソンには婚約者がいたんだ。あいつは彼女に夢中で、他の女になんか目もくれなかった」
「そ、そうですか、すみません……」
そういう誠実な男もいるのだ、とマリアは驚きながらも先を促した。
「それから一週間後、その研修医の父親が入院した。癌が見つかったんだって。彼女の家は、娘が医者になるために掛かった学費をローンで毎月返しているらしいけど、その父親はバカ高い最先端治療を受けることになった。どうやらマシューズは、二人の計画に気付いていたんだな」
「それで研修医の女性は、弱みを握られてしまったんですね。父親の命と引き換えに、あなたのお兄さんを訴えろ、と」
フレディは頷いた。
「ジェイソンはまた審問会に掛けられ、とうとう医師免許を剥奪された。しかも、婚約者さえもジェイソンを捨てたんだ。『医者じゃなくなったなら、結婚は出来ない』って言われて」
フレディは深く溜息をつくと、今にも泣き出しそうに顔を歪めた。
「それからのジェイソンは酒に溺れちまった……毎晩のように飲み歩いて。俺はそれに付き合って話を聞いてやってた。マシューズへの恨み言ばかり言ってたよ。だけど、それで少しでもジェイソンの気が楽になるのなら、って思ってた。あの日もそうだった……ジェイソンはしこたま飲んで酔っ払って。店の勘定を俺が払っている最中に、ふらふらと通りに出ちまったんだ。それで、走ってきたトラックに……」
「そんな……」
「ジェイソン! ジェイソン! しっかりしろ!」
車道に倒れた兄にフレディが呼び掛けた。ジェイソンの大きな身体は三メートルも吹っ飛ばされた。夜の場末に人だかりが増えていく。
「フレディ……ちくしょう……俺は、もうダメだ……」
「そんなこと言うな! 大丈夫だよ!」
息も絶え絶えのジェイソンを腕に抱き、フレディは微かな希望を必死で叫ぶ。そのフレディの服の袖を握り締め、ジェイソンは声を絞り出した。
「フレディ、お前は俺の兄弟だ……俺の意志を受け継いでくれ……」
静かに閉じられたジェイソンの目から流れた涙は、サイレンを鳴らしてやってきた救急車のライトに反射して光りながら、フレディの掌にぽとりと落ちた。
「それが、お兄さんの最期の言葉だったんですか?」
ぽろぽろと涙を流しているフレディにマリアはしんみりと尋ねた。
「いや。本当の最期の言葉は、救急隊員に言った『頼むからマシューズの病院には連れて行かないでくれ!』だった……」
ここ何ヶ月もそうしてきたのだろう、帰らぬ人となった兄を思い、フレディはめそめそと泣いている。
「ガキの頃から、兄貴は家族を持って幸せに暮らすのが夢だった。あともう少しでそれが叶うとこだったのに……マシューズがそれを全部ぶち壊したんだ」
逆境にもめげずに血の繋がらない家族を愛し、真面目で誠実な医者となったジェイソン。その悲しい末路には同情を禁じ得ない。
「それで、マシューズさんに仕返しをしようと?」
マリアの問いに、フレディは弾かれたように顔を上げた。
「当たり前だろ! 兄貴の意思だ。マシューズのクソッたれに復讐しろ、と俺に言い残したんだ」
その言葉にマリアは腑に落ちないものを感じたが、それ以上にマシューズの悪行に驚いていた。彼が善人ではないということは分かっていたが、こんな風に他人を陥れるとは。
「……だとしても、誘拐というのは、あまりいい考えとは思えません」
マリアの言葉にフレディはがっくりとうな垂れた。今さらながら、自分でもそのとおりだと思う。しかも、誘拐してくる人物を間違えたのだ。この計画は既に破綻している。
「そうだね……もう諦めるしかないよな。何とか兄貴の汚名を晴らして奴の悪事を世間に晒してやりたかったんだけど……俺みたいなダメな人間は、泣き寝入りするしかないってことか……」
「そうは言ってません」
マリアの言葉にフレディは顔を上げ、どういうことかと首を傾げた。
「どういうことだ! マリアを小間使いみたいに扱って!」
「あいつはメイドでしょ! 何がいけないのよ!」
「お前のメイドじゃない! マリアを雇っているのは私だ!」
「あの……」
言い争う父娘に若い警察官がおずおずと声を掛ける。マシューズははっと我に返り、警察官に詰め寄った。
「そ、それで、運転していたマリアはどこだ? 無事なんだろうな!」
「それが、車の中は無人でして、付近の森も捜索したんですが誰も……」
困惑に眉をひそめるマシューズの前で、年配の警察官が思い出したように口を開いた。
「そういえば、焼け残ったシートの上に血痕のようなものが──」
マシューズの顔が急速に蒼ざめていく。
「まだ何もしてないのに……」
一応それなりに地位のある人物である。人前で言っていいことと悪いことの区別ぐらいはつく。口の中で呟くと苦しそうに息を喘がせた。
「──あったんですが、チリソースだということが判明しました」
警察官の言葉にマシューズは壁に手をつき、へたりこみそうになるのを何とか堪えながら大きく息をついた。
大邸宅に住む金持ちが自分の言葉に踊らされているというのが楽しいらしく、警察官はもったいぶった調子で状況説明を続ける。
「トレーラーの運転手はかなり動転していまして、気が付いたら目の前にポルシェが停まっており、中に人がいたかどうかは分からない、と。ただ、その先に赤だったか黒だったかの車が走り去るのが目に入ったそうです」
「そ、それはつまり……」
マシューズの喉から唾を飲み込む音が聞こえた。
「何かの犯罪に巻き込まれた可能性も──」
警察官の言葉を掻き消すように電話がけたたましく鳴り響いた。
「間違いは正さなければいけませんから」
マリアはきっぱりと言った。背後から差し込む西日が彼女の輪郭を光で縁取り、神々しいまでの輝きを添えている。まったくの清廉な佇まいはさながら聖女と呼ぶにふさわしい。椅子に縛り付けられているのを見なければ。
「そ、それはつまり?」
ごくっと喉を鳴らしてフレディが尋ねた。この窮地を救い出してくれる女神、と信じて崇めるように見つめながら。
結局マリアが導き出した解決方法は『話し合い』だった。フレディの問いにマリアは、しばし視線を泳がせてから答えた。
「彼も人の子ですから、話し合えばおそらく──いえ、きっと……」
自信なげな態度を不安に感じながらも、それしか道はないと考えたフレディはマリアを椅子から開放し、二人して公衆電話へ向かった。
「とりあえず、君は関係ないわけだから帰すよ。本当に悪かったね」
「いいえ。いい結果が得られるといいですね」
そうは言ったものの、受話器を取り上げたフレディを見ながら、多分上手くはいかないだろう、と思った。何せ、相手はあのマシューズなのだから。
そんなマリアの心配をよそに、フレディは受話器からの呼び出し音を聞いている。
「マリアか?」
顔中にびっしょりと汗をかいたマシューズが、コードレスフォンに向かって勢い込んで尋ねた。
「あ……マリアさんは一緒ですけど、マシューズさんですよね。実はお話が──」
「マ、マリアは無事なのか?」
マリアと一緒にいると言う、聞き慣れぬ男の声にマシューズはすっかり動揺してしまった。
「ええ、彼女は無事ですよ。それで、話が──」
「いったい何が望みだ? い、いや、すまん。何でも言うことをきく。要求はのむから、だからマリアをすぐに返してくれ!」
思わず泣き叫ぶような声を上げると、電話の相手はしばらく黙り込んだ後、「はあ……」と間の抜けた承諾の返事をした。こちらの動揺と比べ、あまりにも温度差のある相手の態度にマシューズは凍りついた。もしかして犯人は冷酷な犯罪のプロか、無感情な精神異常者かもしれない。
「お、お願いだ! マリアには手を出さないでくれ!」
「ちょっと! 私の車はどうしてくれるのよ!」
必死に懇願するマシューズの背後でシャロンが叫んだ。さらにその後ろでは、二人の警察官が顔を見合わせている。
「はあ……」
汚れたガラスに囲まれた電話ボックスの中、マシューズと話をしながら戸惑った様子で頷いたフレディ。何を話しているのか気になったマリアは受話器へ耳を近付けた。マシューズの切羽詰った声と、シャロンの怒り狂った罵声が聞こえてくる。
フレディは帰してくれると言っていたし、自分もそのつもりだった。しかし、マシューズの自分に対する執着、さらにシャロンの車のことを思い出し、マリアは首を振った。
「帰るわけにはいかない」
そんな考えがマリアの頭の中を過ぎる。
「あの、また連絡します」
父娘の迫力にすっかり気圧されてしまったフレディは、礼儀正しく告げると電話を切った。
公衆電話機の前で考え込む二人。ガラスの外は相変わらず猥雑な町。電話ボックスの中だけが、切り取られたように静寂に沈む。
「言うことは何でもきくって言ってた」
ややあってフレディが口を開き、マリアも聞いていたと首を縦に振る。
「……」
黙ったまま電話ボックスを出た二人は、フレディのアパートへ向けて歩き出す。口には出さないが、それぞれの考えを頭の中に巡らせながら。建物の入口にある階段には、しょぼくれた様子で老人が座っているが、その無気力な目は深刻な顔で近付いてくるフレディとマリアにも無関心だ。老人を避けながら階段を上がる途中でフレディは口を開いた。
「それじゃ、誘拐は継続ってことで……」