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独裁者の苦悩と光るメス


「マシューズさんが人を殺した、ということですか?」

マリアの問いにフレディは瞳に暗い光を湛え静かに頷いた。

「そうだ。あいつが兄貴を死に追いやったんだ」


「心拍、血圧ともに安定しています」

手術室の自動扉が開きマシューズが入ってきた。既に待機していたクロフォードと麻酔医師、ナース達が恭しく院長を迎える。

 患者は二十一歳の白人女性。エラのように張り出した顎の骨を削る手術だ。大手の芸能プロダクションがこれから売り出すファッションモデルだと聞いている。確かに背が高く細身で、身体全体に掛けられた布の上からでも完璧なプロポーションなのが分かる。マスクの下で舌なめずりするマシューズの涎を啜る音が聞こえ、ジェイソンは眉根を寄せたが、こんなことは初めてではない。マシューズという男は、自分好みの女性を見付けると見境がなくなるのだ。

「院長、お願いします」

「うむ、メス」

ジェイソンに促されたマシューズが咳払いをしてから声を上げると、手術室が緊張に満たされた。


「執刀するって言っても、マシューズは最初のメスを入れるだけらしい。だけど、そんなことを知らない患者は『ぜひともマシューズ先生に』って頼むらしいんだ。あいつは美容整形の権威として有名だからね。それで特別に謝礼金を要求するらしいけど、実際に施術していたのはジェイソンだったんだ」

フレディの説明を聞き、マリアは小さい頃に住んでいた故郷の町医者を思い出した。貧しい村の中のバラックを自宅兼診療所にするその老医者は、昼夜問わず治療のために走り回っていた。彼以外の医者など近くにはいないため、特に専門などというものはない。お腹をこわした子供から、銃で撃たれた男、はたまた出産で赤ん坊を取り上げるなど、村の住民全員を診ていた。近くの町では麻薬絡みのギャング同士の抗争も多く、怪我人が多い時には、さながら野戦病院の様相を呈していたものだ。高額の報酬など望めもしないのに。

「これは神から与えられた使命だから」

そう言って笑っていたのを憶えている。まさに清貧という言葉が彼には似合っていた。

「お医者様も色々なんですね。あなたのお兄さんが腕のいい医者だということは分かりましたが、それでなぜマシューズさんに?」

 フレディは頷くと続きを話し始めた。


「ドクター・マシューズ。奥様から外線が入っております」

マシューズがメスを手にしたところで天井のスピーカーから声がした。

「今オペ中だ。後でかけ直すと伝えろ」

「……そのように申し上げたのですが、緊急の事態でどうしても、と……」

困り果てた交換からの声にマシューズは舌打ち交じりで応じた。

「ちっ、それじゃスピーカーホンにしろ。今は手が離せん」

「はい」

ほっとしたような交換の返事に続き、娘のシャロンによく似た横柄な声がスピーカーから轟いた。

「いつまで待たせるのよ! この能無し!」

「何の用だ? 今忙しいんだ、後じゃだめなのか?」

右手に持ったメスを振り回しながらマシューズは抗議するが、相手はどこ吹く風だ。

「一時間後にエステの予約があるのよ。患者なんて後回しでいいでしょう。こっちの方が大事なんだから」 

 ジェイソンをはじめ、スタッフ全員が呆れて首を振る。横たわった患者の耳の下、四角張った骨が浮き出る皮膚に指を沿わせ、銀に光るメスを近付けながらマシューズが口を開いた。

「いったい何なんだ? あの四十過ぎの下着モデルに入れた腹筋代わりのシリコンパックが破裂でもしたのか?」

自分の妻がハワイで一緒に暮らしている愛人についての軽口を叩く。しかし妻は嘲るように鼻を鳴らし、突き放した口調で言い返した。

「くだらないこと言わないで。新しい車が必要なの。お金を振り込んでちょうだい」

「緊急だというから話を聞いてやっていれば、金の無心か」

 結婚当初からこの女の浪費癖には辟易していた。自身で稼いだ金でなら、どんなに着飾って高い車に乗っていても構わない。

「俺が稼いだ金を湯水のように使いやがって……」

愛情など微塵もないのだ。一セントだってくれてやるのは惜しい。

「お前のインチキ商売はどうした? それに、あの下着モデルにだって収入はあるだろう」

マシューズの妻はハワイ島の溶岩を持ち帰り、「パワーストーンだ」と言って無知な金持ちマダムに売りつけている。

「あら、インチキなんてしてないわ。私がパワーストーンだって言うと、みんなが勝手にお金を出していくのよ。それに、あなたのお金の半分は私のものなのよ。権利があるわ。それが嫌だったら早く離婚に応じなさいな」

離婚をすれば、自分の財産の半分が妻のものになってしまう。それがカリフォルニア・スタイルだ。マシューズはマスクの下で歯軋りをした。できることなら、あの高慢ちきな顔をメスで切り刻んでやりたい。

「分かった? 早く振り込んでちょうだいよ」

妻は高圧的に言い捨てると一方的に電話を切った。

 激しい憤りがマシューズを襲った。喉はからからに渇き、目の奥はじんじんと痛む。

「院長?」

隣にいるジェイソンの声も耳には入らない。ここが手術室で、今が手術中だということも忘れている。

「くそっ!」

マシューズの手が怒りのあまりぶるぶると震え始め、患者の首筋にあてたメスの刃が、真上から降り注ぐライトを反射した。


「それで、マシューズは患者のここを……」

フレディは右耳のすぐ後ろの皮膚を指でなぞり、マリアは眉をひそめた。

「そんなところ切っちゃったら……大変なことになるんじゃ……」

フレディは神妙な顔で黙ったまま頷いた。


 患者の頚動脈から噴出した大量の血液がマシューズの顔面を襲った。

「うわあー!」

「院長!」

ゴーグルが鮮血に染まり、マシューズは後退ってメスを落とした。それでも出血は止まらない。手術室は大混乱に陥った。

「止血だ! 早くしろ!」

「血圧下がってます!」

「くそっ! 何とかしろ、クロフォード!」

マシューズは完全に取り乱し、手で顔を覆いながら手術室を飛び出していってしまった。



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