09 対話
パチリ。
分厚い木の板に何か硬質なものを叩きつける音が響く。その鋭い音の合間には、硬いものか擦れ合う音がしている。
二人は今、向かい合って座りながら、碁を打っていた。
「……兄ちゃん」
「ん?」
「どう? 強くなったでしょ」
蒼は鈍く光る黒い石を、四つの足がついた木製の盤に打ちながら、誇らしげに問う。
唐突な質問に意味がよくわからなかったのか、目をぱちぱちさせる恭平。数秒ほど経ってやっと脳に情報が届いたようで、自分なりに質問を吟味し答えを出す。
「うん、中々じゃないかな。序盤の構えとしては、きれいにできてると思うよ」
「でしょう? 努力したんだから」
兄に褒められて蒼はとても嬉しそうだ。じゃら、と黒石を掴むと、迷いなどないように盤に打ってゆく。
弟の自信満々と言った様子を見て、かなり手応えを感じているんだろうなぁ、と苦笑する恭平。手は全く抜いていないのだが、まだ差はあまりついていない。
「努力ねぇ……何をしてたの? 相手なんて滅多にいるわけないし……」
「裏の一軒家にすんでるおじいさんに、暇な時特訓してもらってた。アマ六段だって」
「へぇ強いね。……蒼はよくわからない方向に行動力を発揮するなぁ。普段は人見知りするくせに」
しみじみとぼやく恭平は、さして考えた風でもなく石を置く。
「だって勝ちたかったんだもん。既に三桁は余裕でやってるのに、全敗とかありえない。絶対負かす」
「しょうがないでしょ、兄なんだから」
「理由になってなーい! 同時に始めたはずなのに!」
蒼が我慢ならないといった様子で叫ぶ。
そう、二人が碁を始めたのは全く同時なのだ。
恭平がまだ中学生の頃。二人が退屈で死にそうになっていたら、たまたま押し入れで碁盤と指南書(のようなもの)が発掘された。二人はこれ幸いと飛び付き遊び始める。しかし、これが蒼の連敗記録の始まりだった。
初戦、恭平の勝ち。二戦目、恭平の勝ち。三戦目、恭平の勝ち。二人が初心者で戦術もなにも無い内から、恭平は勝ち続けた。
意味不明なほどの勘のよさを発揮する恭平に、蒼は負けまくり、今に至るというわけだ。
「まぁでも、強くはなってるって。ちょっとは我慢も――」
パチリ。
「出来ないか……はぁ」
自分の陣地に単独で突っ込んできた蒼の石を見て、恭平は思わずため息を吐く。自分が少しでも負けていると思うと特攻する、蒼の悪い癖だった。
蒼は兄が呆れているのを見せつけられ、しどろもどろと言い訳をする。
「いや、だって敵の陣地が多すぎると落ち着かないし……それに、ホラ! だらだらするのは性に合わないっていうか!」
「だからってもう少し考えないと。突っ込むだけが戦法じゃないでしょう?」
「けど、こっちの方が…………楽しいじゃん」
蒼の目がきらりと妖しく光り始める。
それは例えゲームであっても、負けたら死ぬというスリルを楽しんでいる、狂気を含んだ輝き。
「殺し合い、開始! ってね」
壮絶な局地戦が始まった。
パチッ、パチッ。パチッ、パチッ。
石がほぼノータイムで盤上に置かれ、黒と白の複雑な模様をつくってゆく。よく考えた方が好い手が打てる。二人はそれがわかっていても、打つスピードを全く下げようとしない。理由は当然、この方が楽しいからだ。
その様子は互いの尻尾を喰らいあっている、太極図のようにも見えた。
目まぐるしく状況が変わる盤上とは裏腹に、二人は相変わらずのんびりと会話をしている。
「まつり姉ちゃんってさ、何者だと思う?」
「んー、よくわからないんだけど……」
「けど?」
「なんかね、悪魔を信じるか? って質問された」
「悪魔?」
予想外な単語が出てきた蒼は、思わず手を止めてしまう。そのまま顎に手を当てると、質問の意図について思考を巡らせ始めた。
「それって、すっごく意味深な問いかけだよね。……家出の理由はそれかな? ――あっ!」
蒼は独り言を発してから、自分の失言に気づく。
「まつりちゃん、家出してたんだ」
蒼はまつりに、恭平に家出のことは黙っておいてくれと頼まれていたのだ。それもかなり厳重に。それをあっさりと口にしてしまったことに、ひどく罪悪感を覚えた。
しかし続く兄の言葉で、蒼は拍子抜けすることになる。
「やっぱりね。そんなことだろうとは思ってたけど」
「へっ? 気づいてたの?」
蒼は石を打ちながら、若干混乱した様子で兄に問いかける。
恭平は蒼の手に対応しながら、平然と言ってのけた。
「いや、だってまつりちゃん、三日も同じ服を着てたんだよ? いくらその服を気に入ってたって、年頃の女の子がそれはないでしょ。それにすごくお腹が空いてるみたいだったし、なんかあまり休めていないみたいだったし……その他もろもろを含めて考えると、家出しかないかなって」
「あー……なるほど」
よく見てるな、と思いながら石を打つ蒼。兄の推測は実に的確だと感心した。
蒼の最後一手で先程の戦いは一段落した。突っ込んだ蒼の石はなんとか逃げ延びて、恭平の陣地をうまく減らすことができたようだ。
白と黒の陣取り合戦は、以降比較的穏やかに進行してゆく。
「蒼は……どう思う?」
「家出について?」
「いや、悪魔を信じているかっていう、まつりちゃんの質問の方」
恭平の質問に蒼は考え込む。そして、小学生らしくないしっかりとした回答をする。
「……そうだね。質問の方向性から見ると、まつり姉ちゃんが悪魔に関係した何かを持っているって感じかな。取引でもしたとか、取り憑かれてるとか。……いや、茉莉姉ちゃんが悪魔って可能性もある」
なかなか鋭いところに打ち込みながら蒼は言う。
「ふむ、なるほどねぇ。……でもね」
それへの応手を考えながら、恭平は呟く。そこには釈然としない、という思いが滲み出ていた。
「……茉莉ちゃんは常に何かに怯えてた。気を張って、周囲を警戒して、怯えてた。どちらかというとあれは――」
何かから逃げる準備をしていたように見えた、と恭平は呟く。
暫し二人は無言で碁を打つ。部屋には石が擦れる音と、石と木がぶつかる音だけが鳴り響いた。
ふと思い付いたように、恭平は蒼に質問をする。
「ねえ、蒼。悪魔っていうとどんなものを連想する?」
「えーっと、悪魔悪魔……羊の角、禿頭、尻尾、三ツ又の槍、蝙蝠みたいな翼、とか」
「よく考えてみればそれって凄い外見。民間伝承って怖いね。他には?」
「魂を食う、人に取り憑く、残虐非道、とかは?」
「なるほど。そこら辺はエクソシストとかの領分か。……あとは付け加えるなら取引、とか、召喚、くらい?」
「あとは契約と勝負何てのもあるじゃん」
「ファウストとメフィストフェレス、だなあ」
「そんな感じだと思うよ」
自らも連想しながらまとめる恭平。ある程度挙げると、思考という行為に没頭していった。
少しの間のあと、蒼はまた盤上で喧嘩を売りながら、今度は自分から質問をした。
「もし……もし、さ。まつり姉ちゃんが悪魔だったら、兄ちゃんはどうする?」
恭平は喧嘩を受けて立ちながら、静かに答える。
「そうだね。……悪魔ってのはさ、元々は神様だったんだ。キリスト教に敗けた宗教の神様が、悪魔の扱いを受けてたりするんだ」
石を打ちながら独り言のように恭平は続ける。
「だからね……」
「だから?」
「そんなことあとで考えるよ」
きっぱりと言い放つ恭平を見て、呆れ顔の蒼。ため息を吐きながら石を打つ。
「後回し作戦ね……前向きなのか、後ろ向きなのか、よくわかんないや」
「まあまあ、どうでもいいじゃんそんなこと。それより、そこ、死んだよ」
「うっそ!? ……うわ、本当だ! いつの間に!」
「さっき」
ぎゃー、と叫ぶ敬和はいつの間にか包囲されてる石たちを見て、絶望、といった表情をしている。
というか、逆転は無理だった。
「…………負けました」
なんとも言えないくらい悔しそうな顔をして、投了する蒼。正面には高笑いしている恭平がいるのだから悔しさも一入だろう。
「うぅ、まただよ……一体いつになったら僕は奴を倒せるんだっ……!」
「なんかどっかで聞いたことあるような、ないような……まあいいや」
じゃらじゃらと音をたてて、素早く碁石をしまうと、立ち上がって延びをする恭平。何だかんだで、三十分は対局をしていたのだ。肩が凝るのは仕様がない。
蒼はぶつぶつと呪文のようなものを唱えながら、一人反省をしている。
「ここか、ここで手を抜いたからキラレて、でアテ、アテのああああ!」
「んじゃ、ちょっと出掛けてくるよ」
「ぁぁぁあ、ってどこ行くの? 図書館?」
「いや、散歩」
なぜ散歩? と少し疑問に思う蒼だが、どうせ兄のことだから大した意味はないのだろう、と思い直した。
「いってらっしゃい。迷子にはならないように」
「大丈夫。たぶん」
「たぶんなんだ……」
「じゃ、もしかしたら」
「確率上がってるよ!?」
「気にしない気にしない」
兄の絶え間ないボケに対してツッコミを入れながら、蒼も立ち上がる。襖を開くと押入れに碁盤をしまい込んだ。
「晩御飯までには帰ってくるよ、マイハニー」
「ちょっと人格が崩れてるよ。大丈夫?」
「大丈夫大丈夫」
ギリギリまで軽口を叩きながら、ばいびー、と言い残して恭平は出掛けていった。