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変人と悪魔  作者: 仁崎 真昼
赤:変人と悪魔
7/20

07 招待

 恭平、蒼、まつりの三人は、大戸家の居間兼台所にいた。

 カレーの材料を買った恭平は、腹が減ったと主張する二人――まつりは隠そうとしていたが――をなだめながら大急ぎで帰宅し、カレーを作っている最中だ。その証拠に台所からは、トントンと野菜を切る音が聞こえてきている。

 恭平はカレー作りに忙しくしているが、どこか活き活きとしていた。

 一方、料理に関する技術が全く無い蒼とまつりは暇そうだった。

 机の上にある文房具を弄る蒼に、言い難そうにまつりは質問をする。

「……何か用でしょうか」

「用があるって程ではないかなー。強いて言うなら、ちょっと気になったから観察してただけ」

 二人は四人用のテーブルに向かい合って座っている。それはおかしくないのだが、蒼がまつりの顔を凝視していたのだ。目を見開いて何かを見透かそうとしているその様子は、正に凝視といったものだった。

 まつりは別に見られることを気にするタイプでは無い。しかし、一メール離れているかどうかという距離で観察されても気にしないほど、周りを気にしない性格でも無かった。

「できれば観察は止めて欲しいんですが……何がそんなに気になるんですか?」

 少し不愉快そうに頼むまつり。正面からじろじろと観察されて、気分のよい人間は少ないだろうから、至極真っ当な反応だろう。

 蒼は相手が不機嫌そうなことに少し怯むが、そこで黙り込むようなことはせず、きちんと質問をする。

「あの、お姉さんは宇宙人じゃないんですか?」

 兄弟揃っての同じ質問に呆れるまつりは、どこからそんな発想が出るのか、と盛大にため息を吐く。

「はあ……私はただの女の子に見えませんか?」

「見えるよ。だから触覚が無いかなーとか、何か特殊な機械がついて無いかなーとか探してるんだよ」

「どういうところを見れば、私が宇宙人だという結論に至るんですか? 心外です」

 軽く睨み付けるまつりに蒼は、何でもないことのように答える。

「宙を浮くところ、とか」

 浮くという言葉を聞いた途端、まつりに緊張が走る。

(な……! まさかこいつにも見られていたのか? ……いや、あの時は他に人はいなかった。それにこの二人は兄弟なのだから、その日起こった奇妙な出来事を話し合っていても、おかしくはない)

 冷静に思考を組み立てるまつり。その結果、とりあえず直接見られたわけではない、と判断した。しかし、念のために確認をしておく。

「お兄さんに聞いたんですか? そんな冗談真に受けなくても……」

「ふうん……? まあいいや。それより自己紹介をしませんか?」

 何かを探るような顔をしながら蒼はあっさりと話題を変えた。手元の文房具を組み立て、塔を作ろうとし始める。

 まつりはもっと食い下がってくるかと思っていたが、蒼が簡単に退いたのでやや拍子抜けする。兄と違い、そこまで興味がないのかな、と楽観的に考えることにした。

「そうですね。昼食に招待されている身だというのに、失礼しました。私の名前は……天気の天に野原の野。それに平仮名でまつり(・・・)。天野まつりといいます」

 出会ったときとはまるで違う丁寧な挨拶に、蒼は少しまつりのことを見直す。初対面の時は苛立ちを剥き出しにしていて、口調こそは丁寧だったものの、正に慇懃無礼といった様子だったからである。

 しかし今の態度を見ると、礼儀正しい女の子にしか見えない。何が彼女をそうさせているのか、蒼は少し気になった。

「天、野……まつり?」

 蒼は丁寧な自己紹介を聞き、漢字を当てはめてみる。すると、兄が少女の名前を呼んでいたことに気づき、疑問が浮かんだ。

「天野……さんは、兄ちゃんに名前で呼ばれてたよね? ……何で?」

 自分も疑問に思っていることを質問され、まつりは戸惑う。まつりだって自己紹介の次の日に、いきなり名前で呼び掛けられたのだ。わかるわけがないのは当然だ。

「何で、と言われてもよくわからないです。大戸さんは最初からそうでしたので」

 わからない、という答えを聞いた蒼は、少し驚いた顔をする。兄の琴線に触れる行為をした上で無自覚な人は、かなり希少だからだ。

 蒼は少し考え事をすると、唐突に質問をした。

「――じゃあ、まつり姉ちゃんって呼んでいいですか?」

 まつりは思わず手を机に叩きつけてしまった。

 まつりが叩きつけた手が机の上にあった下敷きに当たり、テコの原理で飛び散る、蒼の文房具の文房具の塔。盛大な音をたててバラバラになるそれらに、再建は難しそうだ、と蒼は早々に諦める。そして、机の下にまで飛んでいった文房具を拾うために屈み込んだ。

「な、何でそうなるんですか!」

「嫌なの?」

 机の下から蒼は意外そうに聞く。

「嫌かどうかとかそんなんじゃなくて、理由を聞いているんです!」

「いや、兄ちゃんの友達なら、それなりに呼び方がある、というか……」

「友達じゃないです。あなたがどんな話を聞いたのか知りませんが、そんなに親しい関係になった覚えはありませんし、なる気もありません。誤解しないでください」

 きっぱりと拒絶の意思を示すまつり。しかし蒼はそんなことは気にも留めず、落ちた鉛筆を拾っている。

「で、駄目なのかな? できれば僕らのことも名前で呼んで欲しいんだけど。ほら、名字が同じだから紛らわしいじゃん」

 相手の意見を無視して、話を押し付けてくる蒼に、ややあきれ気味のまつり。質問に答えなければ話が進みそうにないと思い、相手の質問を吟味する。

「……まぁ、そちらがなんと呼ぼうが私は構いませんが、そちらを名前で呼ぶのは、遠慮したいです」

「何で? 友達なんでしょ? 一緒にお昼御飯とか、完全に仲良しだよー」

「うっ……!」

 鉛筆の芯が折れてないかと確認する蒼は、間延びした声でまつりに問いかける。

 自分の意思をはっきりと告げるが、昼御飯という切り札を使われ、まつりは言葉に詰まる。どうやら逃げ道はなさそうである。

「……わかりました。きょうへいさんとあおくん、とでも呼べば良いのかな?」

「漢字は兄ちゃんが恭しいの恭に平和の平ね。僕は草冠に倉庫の倉で蒼。ちなみに、呼び捨てでもい――」

「遠慮します」

 蒼の提案を遮りながら、まつりは全力で拒否する。

 またごねてみようかな、と思った蒼はまつりの方を見るが、こればかりは意見を曲げそうにないのを悟った。

 人生引き際が肝心。

「じゃ、決定ね。よろしく、まつり姉ちゃん」

「ええ、よろしく」

 話がまとまった二人が、拾い集めた文房具を筆箱にしまっていると、台所の方から肉を炒める音が聞こえてきた。

 その音を聞き、うきうきとした気分になってきた蒼は、重要な疑問を思い出す。

「そういえば、何でそんなにお腹が空いてるの?」

 まつりはその質問の対応に困った。

 正直に理由を明かしてしまえば、双方にとって少々厄介なことになることが、まつりには手に取るようにわかっていた。しかし、ご飯を食べさせる方にしてみれば尤もな質問なので、答えないということはできない。

 どう答えるか迷ったまつりは、とりあえず気になることを確認した。

「大戸――じゃなくて、恭平さんには言わないでいてくれますか?」

「んー、いいよー。ただ、兄ちゃんに嘘をつくことはできないけど」

「それなら大丈夫です」

 恭平に伝えない。

 その理由は、まつりの答えを恭平に聞かせると、いわゆる大人の判断というものをされる可能性があった。そして、今それをされるとまつりは非常に困ることになる。それ故に確認をしたのだ。

 実際にそういう常識が恭平にあるとは、欠片も思っていなかったが。

「私はですね……今家出の最中なんです。だからご飯があまり食べれなかったんですよ」

「……! そうなんだ……。いつになったら家に帰るの? たぶんお母さんとかが、心配してるよ」

 蒼は心配そうにまつりの顔を覗き込む。

 蒼の言葉を聞いたまつりは、ほんの少し――まばたきをすれば見逃すほどの一瞬の間だけ――顔を歪ませる。その表情は覚悟を表しているようであり、後悔を示しているようでもあった。

 その表情を唯一見た蒼。しかし彼には、そんな表情をする理由も、それが意味することも、何一つわからなかった。

 ただ漠然と、悲しそうだな、と蒼は思った。

「だ、大丈夫だよ。兄ちゃんのつくるカレーは、舌が飛び出るくらいおいしいよ! それに、なにか困ったことがあったら、兄ちゃんにが何とかしてくれるって! 友達だもん!」

 自分が顔を歪めたことに気づいていないまつりは、蒼が焦ったように励ましてくるのを見て、きょとんとする。

 しかし、必死に自分を元気付けようとしてくれてるのを見て、少し明るい気持ちになった。

「舌が飛び出るって、辛すぎるんじゃないんですか? それに、恭平さんがすごい人だとは、到底《・・》思えないです」

 最後の言葉を強調して、にこやかにまつりは言い放つ。

 少し明るい顔になったまつりを見て、敬和は嬉しい気持ちになった。が、兄をバカにされて、そんな気持ちもどこかに吹っ飛んでしまった。

「ちーがーうっ! 比喩表現だって! それくらい美味しいんですー! それに兄ちゃんはすごい人だもんね!」

「へぇー? そうなんですかぁ」

「あー! 絶対疑ってるでしょ!」

「そんなことないですよー?」

 むきになって兄の弁護をする蒼を見て、まつりは愉快な気分になった。子供相手に何やってるんだと思いながらも、からかうのをやめない。

「もう! すぐに証拠を見れるんだから、後悔することになるよ!」

「それはそれは。楽しみにしてますよ」

「何をー!」

 プンプンと怒る蒼とそれをからかうまつりのおしゃべり(?)は、恭平があまりの騒がしさに様子を見に来るまで続いた。



 恭平は目の前の状況に首を捻っていた。

 料理が一段落したので二人の様子を見に行ったのだが、二人が楽しそうにおしゃべり(恭平の目にはそう映った)をしていたのだ。

 蒼はまつりのことを警戒していたはずだし、まつりも似たような感じだった。それなのに、二人の間にあった見えない壁のようなものは消え、すっかりくつろいだ雰囲気となっている。

 一体何があったのか、恭平には皆目検討もつかなかった。

「……お二人さん。仲良くなったのはいいんだけど、準備ができましたよ?」

 恭平の登場により、二人の会話がやむ。しかし、準備ができたという言葉に、まつりは怪訝そうな顔をした。

「もうできたんですか? 少し速すぎる気がするんですが……」

 恭平が料理を開始して、まだ三十分も経っていない。まつりの言う通り、カレーが出来上がるには少しばかり早いと言える。

 顔に疑いの表情を浮かべているまつりに、恭平は答える。

「あー、そうじゃなくて。後は煮込むだけで少し暇だから、先に蒼にプレゼントをしようかと思ったんだ」

 まだよくわからないという顔を浮かべるまつりとは対照的に、蒼の顔がぱあっと輝いた。

「本当!? なら早くしようよ!」

「わかった。わかったってば! そんな焦らないでも大丈夫」

 興奮した様子で自分の袖を引っ張る蒼に、恭平は仕方ないなといった様子で苦笑する。

「まつり姉ちゃんも早くおいで! こっちだよ」

「……? よくわかりませんが……わかりました」

 恭平が落ち着かせようとしているのに全く効果がない蒼は、早く早くとまつりを隣の部屋に呼ぶ。まつりも状況は理解できてないが、とりあえず従うことにした。

 引き戸を開け部屋に入ると、薄暗い部屋に向かい恭平が挨拶をした。

「……久しぶり」

 隣の部屋にあったのは、夜のように真っ黒なピアノ。

 壁に張り付くように設置されたそれは、学校に置いてあるようなものとは違い、サイズはあまり大きくない。横から見ると片仮名の『ト』のような形、上から見ると長方形をしている。一般にアップライトピアノと言われるものである。

 そのピアノの前部には丸椅子がポツンとおいてあり、まるで持ち主を待っているかのようだった。

 部屋にあったものが予想外だったため、まつりの動きが止まる。

「えっと……つまり……?」

「ピアノを弾くのさ。僕がね」

 困惑しているまつりと、期待に胸を膨らます蒼。それぞれの反応を気にせず、恭平は準備を始める。

 恭平は蓋を開け、掛けてあった布をとると、白と黒の鍵盤を確かめるように押してゆく。

 優しくゆっくりと、一音ずつ鳴らし、素早く流れるように鳴らす。

 しばらくそれを繰り返すと、恭平は感嘆の声をあげた。

「音程は狂ってない……さすがだな」

 その姿を眺める蒼は、反対側の壁に寄りかかっている。腰の部分にクッションを何枚も敷き、完全にリラックスする体勢を作って、演奏が始まるのを待っていた。

 することのないまつりは、ただ突っ立っているのも変だと思い、蒼の横に腰を下ろす。

 まだ半信半疑のまつりは、蒼に小声で話しかけた。

「上手なのですか?」

「聴けばわかるよ」

「……そうですか。恭平さんがピアノを弾けるなんて、とても意外ですね」

 先程までとは打って変わって静かになった蒼。楽しみだった兄の演奏を聞けるのだから、それも当然のことなのかもしれない。

 二人が小声で話し合っていると、準備が終わったようで、恭平が静かに宣言をした。

「――始めるよ」

 張り詰める空気。

 恭平がひとつ深呼吸をすると演奏が始まった。

 ゆっくりと曲が流れ出す。

 焦れったいほどのスローテンポで、恭平は鍵盤を叩く。

 タン――タン――タン――タン――タン――タン――タン――タン。

 最初は単音。

 高く強く弾かれる音は、だんだんと大きくなっていき、その音についていくように低音が流れ出す。

 静かに恭平は指を動かす。

 徐々に高くなるそれは、複雑になっていく。

 だんだんと速くなる演奏。

 恭平は目を瞑り、祈るような表情で弾き続ける。

 一段と高いメロディーが流れる。と、誰もが一度は聞いたことのある旋律が流れ出した。

 転がるように、追いかけるように、流れるメロディー。

 タン、タタタン、タタ、タタタタタタタタタン。

 蜘蛛が這い回るようにように、鍵を押す恭平の指。まつりはそのスピードに目を奪われる。

 目まぐるしく変化する主旋律。

 その綺麗な音は、日の光を受けて暖かな部屋に染み渡っていく。

 繰り返されるメロディー。

 繰り返し、繰り返し。

 素晴らしい演奏を聴きながら、自分にまつりは呆れる。

(……何と人は見かけによらないことだろうな。あんな奴でも、こんな綺麗な音が出せるなんて、ね)

 だんだんと遅くなる演奏。

 最後に強く長く鍵盤を叩くと、恭平は演奏をやめた。

 恭平は腕をぷらぷらと振り、蒼は拍手をし、まつりはほうっ、と息を吐いた。

「すごいすごいすごい! さすが兄ちゃんだよ!」

 拍手と共に恭平に送られる、蒼の尊敬のまなざし。興奮したからか、蒼の顔は上気している。

 そんな弟に応えるように恭平は立ち上がると、振り替えって深々と一礼した。そして格式張った口調で挨拶をする。

「えー、本日は大戸恭平ピアノコンサートに来ていただき、誠に有り難う御座います。つきましては、只今より五分程休憩をとらしていただこうと思います。開始一分前にはブザーは鳴りませんが、休憩が終わりましたら速やかに席にお戻りください。尚、携帯電話の電源はお切りくださるようお願いします。――では、引き続きお楽しみください」

 恭平のらしい(・・・)挨拶に吹き出す蒼。

「ぶふっ、なんかそれっぽいね。けど一曲で休憩なの?」

「ごめん。カレールゥ投入して来ないといけない」

「あっ、なるほど」

 恭平は部屋を出る前に、呆然としているまつりに声をかける。

「どう? なかなかでしょ」

「……驚いた」

 あまりの衝撃につい素直に答えてしまったまつり。恭平がにやにやしているのを見て、ハッと我に帰ると、顔を赤くしながら怒ったように睨み付ける。

 このままだと蹴られそうだと感じた恭平は、カレーをつくりにさっさとに逃げ出した。

 恭平が去ったのを見て一息つくまつりは、振り返ったところに恭平と同じ表情をした蒼がいてぎょっとする。しかし、さすがに小学生を威嚇するわけにはいかないと心の中でため息をつくと、ニッコリと笑いかけた。

「上手でしたね。恭平さんはどこかでピアノを習っていたんでしょうか?」

「んーん。母さんがやってたから、見よう見まねだと思うよー」

「本当に? それは……すごいですね」

 驚きという名の衝撃に、まつりはまた素が出てしまった。

 まつりは音楽やそれらの芸術には滅法疎い。しかし、そんな茉莉でもアレがそんな簡単にできることじゃないのはわかったからだ。

 それくらい、綺麗だった。

「ふっふーん、もっと褒めていいですよー。自慢の兄ですから」

 得意気な蒼にも、まつりは何も言えない。今何かを言うと、全部褒め言葉になりそうだった。

 胸を張っている蒼と無言のまつりが先程の演奏に浸っていると、恭平が調理を終えて帰ってきた。

「終わったー?」

「うん。目一杯かき混ぜてきた。面倒だから後は煮込むだけ」

 急かすような弟の確認に、恭平は簡潔に答える。そして、ちらりとまつりの方を見ると、小さく微笑んだ。

 その優しげな笑みを見たまつりは、何となく目を逸らしてしまう。

 そんな仕草を見て再び微笑んだ恭平は、腕をぐるんと一度回すと高らかに宣言をした。

「じゃ、後半戦といきますか」

「いっえーい!」

 蒼は威勢のよい声をあげ両手を突き上げると、素早く壁際のクッションの上に座り込む。その動作には早く観たい、という気持ちが如実に現れている。

 蒼にとって恭平の演奏は――技術的なものももちろんあるが――色々と思い出もあり、別格なのだ。

 まつりは座ったままなので、特に動きはしなかったが、やはり楽しみにしているようだ。

 恭平は丸椅子に座り、フーッと息を吐く。そして、ひとつ宣言をすると、おもむろに弾き始めた。

「いきます」

 恭平の右手と左手が鍵盤の上を踊る。今度は、最初の曲ほど力は込められておらず、軽快なリズムを刻んでいった。

 流れるように静かな曲は、時々浮き沈みするように音が跳ね、それがはっきりとリズムを生んでいる。

 蒼は先程の曲との違いに少し調子が狂うが、すぐに演奏に引き込まれた。

(これは、ジャズ? こんなことも出来るんだ……。一体いつ練習してるのやら)

 兄の器用さに少し呆れながらも、敬和は味わうように曲を聞く。 クラッシックなどとは違う独特なリズムの中に、時折ひょうきんなメロディーが流れる。そんな調子のよさに蒼は満足した。

 恭平の両手は鍵盤の上を跳ねる、跳ねる、跳ねる。

 恭平の両足は足下の床を鳴らす、鳴らす、鳴らす。

 時折入る遊びのようなアドリブを聴きながら、演奏に耳を傾けていたまつりは、強烈だけれど心地よい睡魔に襲われた。退屈なわけではない。心安らぐ穏やかなメロディーを聴き、ここのところ張っていた気が緩んだからだ。まつりは抗うこともできず、瞼が重くなってゆくことを感じた。

 まつりがもう少しで眠ってしまう――というところで、恭平が強く鍵を叩く。その音で少し短めだった二曲目が終わった。

「気持ち良すぎて寝ちゃってた?」

 ビクッと跳ね起きたまつりは、自分が寝かけていたことに気づき、顔が赤くなる。慌てたせいか、恭平のからかいにもうまく返すことができなかった。

「……寝てないです」

「本当に?」

「本当ですよ。絶対に寝てはいませんでした」

「そうだよ兄ちゃん。寝かけてただけだもん」

 二対一で(蒼にそのつもりはなかったが)からかわれ、追い詰められたまつりはぐぅの音もでない。反論しようと口を開くが何も言えない様子のまつりに、恭平はニコッと笑いかけると、次の演奏にと切り替えた。

 まつりは敗北感でいっぱいになるが、まだ聞けるということに――何故か悔しくはあったが――胸を高鳴らせた。

「クラッシック、ジャズときたから、次はポップにしようか……」

 恭平はそう呟くと、手首を鳴らして構える。そしてゆっくりと三曲目になる曲を弾き始めた。

 タン、タ、タ――、タン、タ、タ――タン、タ、タ――、タン、タ、タ――――

 滑らかに長く伸ばされるそれを聞いたとたん、まつりに衝撃が走る。まつりが唯一知っている曲――いや、思い出の曲だったからだ。

 しかしまつりがどれだけ動揺しようとも、演奏は止まらず続いてゆく。

 大切なものを扱うかのように、恭平は鍵を押す。丁寧に、ゆっくりと、しかしはっきり。その様子はピアノを優しく撫でているようにも見えた。

(何で……? 何で……? 何で、この曲を……)

 まつりは何も考えられず、ただ疑問を浮かべることしかできない。

 低く小さく、何かを抑えるかのように恭平は曲を弾く。左手は淡々と一定のリズムを奏でている。

 徐々に気持ちが籠められる演奏。体を前傾させながら弾くその姿は、まるで懇願するかのようだ。

 押して、離して、押して、伸ばす。

 下がり、上がり、下がり、下がる。

 指は正確に鍵を押し、きれいなメロディーを紡ぐ。その様子が魔法みたいで、蒼は大好きだった。これを見たかったのだ。

 タタタン、タン、――タタタン、タン――

 どこか冷めていた曲調に、だんだんと熱が籠ってくる。速くはないが激しい演奏には怒りが籠められていて、今にも叫びが聞こえてきそうだ。

 そけに籠められていたのは、怒りではなく決意なのかもしれない。しかしどこまでも曖昧なそれはきっと、たいして変わりないのだろう。

 強く、激しく。最後には弱々しく。

 恭平は力が抜けたかのように、儚げに演奏する。消えてしまいそうなその演奏は諦めを湛えていた。

 ――ン、と最後に長く響かせると、三曲目の演奏が終わった。

 少しの間余韻を感じる恭平。その行為に満足すると、我ながらいい演奏だったと思いながら後ろを振り返った。

「え……?」

 するとそこでは、信じられないことが起こっていた。

 まつりが涙を流していたのだ。

「ええとごめん、なのか? 違うな……ありがとう? でもないし、何て言えばいいんだろ。……何のせいかよくわからないけど、大丈夫?」

 あまりの驚きに動転する恭平。上手くまつりに言葉がかけれない。

「違う……違うんだ。演奏がどうとかじゃなくて、ただ、懐かしくて、悲しくて……」

 まつりの眼からは透明な涙が零れ落ち続ける。

 自分の気持ちを確認するかのように、まつりは訥々と呟きながら、涙を必死に止めようとする。その姿はとても痛々しかった。

 蒼はおろおろとするだけで何もできない。

 恭平もその言葉だけでは、ほとんどなにもわからなかった。しかし彼女が悲しんでいることはわかった。それさえわかれば恭平には十分だった。

「……悲しい気持ちにさせちゃったんだね」

「ちっ……違っ……!」

 否定しようとするまつりを手で抑えて、恭平は言葉を続ける。

「そういう時はさ、明るい曲を聴こうよ。悲しさなんてぶっ飛んでしまうくらい、ひたすらに能天気なやつ。暗い気持ちなんて馬鹿らしくなるくらい、ただただ幸せを歌った曲。どうかな?」

 突然の提案に咄嗟に返事のできないまつり。涙は収まりかけていたが、充血している目で恭平を見詰める。

 その目を見つめ返し、演奏を聴けるくらい落ち着いたと判断した恭平は、さっとピアノを弾く体勢になる。そして一言呟いた。

「楽しもうよ」

 タタタン、タタン、タ、タタン、タタン、タ。

 最初からアップテンポな演奏。茉莉はまだ固まっているが、気にせず恭平は引き続ける。

 そして前奏が終わった時、今までとは違うことをし始めた。

 歌を、歌い始めたのだ。


 ――お喋りしながらお菓子食べたり、ただ叫びながら走ったり――

 ――静かな場所で本を読んだり、のどかな昼間にうたた寝したり――

 男性にしては高い声で、恭平は、歌う。

 ――僕らはいつも笑いあって、叫びながら淡々と夢を見る――

 心の底から楽しそうに歌う恭平は、まるでこの世の苦しみとは無縁のようだった。

 ――勝手にそれらを拾い集める、こんな毎日が続いたらいいな――

 間奏に入り、恭平は口を閉じる。

 まつりはその様子をただ眺める。

 ――ふとした時に認められたり、綺麗なものに見入ったり――


 蒼は目を閉じ耳を澄ます。

 ――ほら人生を楽しんでいこうよ、喜びはそこら中に置いてある――

 ――勝手にそれらを拾い集める、こんな毎日が続いたらいいな――

 まつりには恭平の顔は見えない。しかし恭平が微笑んでいることははっきりと感じ取れた。

 ――祈る暇なんてあるわけ無い、楽しむだけで精一杯だよ――

 ――辛いことなんて忘れてしまえ、すべては自分のためにあるんでしょ?――

 まつりの涙はいつの間にか止まっていた。

  タタタン、タタン、タ、タタン、タタン、タ、タ――

 恭平の歌が止み、少し遅れて恭平の手が止まる。

「作詞、作曲、大戸恭平」

 どこまでも幸せそうな歌を聴いている間に、まつりの悲しさはどこかへ消えていた。そのお陰で、演奏を終えて振り向いた恭平に、しっかりと皮肉を言うことができた。

「どうだった?」

「……何と言うか、恭平さんみたいに能天気な歌ですね。あまりの馬鹿らしさに吹き出しそうでしたよ」

「酷いなぁ。結構好きなんだけどね、これ」

 ふふふ、と笑うまつりを見て、恭平はにへら、とおどけて見せる。その様子を見てようやく蒼も慌てることをやめた。

「うん、なかなかいい曲だと思うよ」

「やっぱりそう思うよね! よかった、味方がいてくれて」

「僕は(たぶん)いつでも兄ちゃんの味方だよ」

「弟よっ!」

「兄さん!」

「あー、これが噂に聞くブラコンというやつですか。勉強になりました」

 抱き合う二人を見て冷たくいい放つまつり。しかし口調は冷たいものの、目は笑っていた。

「これは兄弟愛ってやつだよ。何でもかんでも横文字省略は(みやび)じゃないって」

「どうでもいいです。……それより先程から何かが焦げる臭いがするんですが」

 暫しふざけていた恭平だが、まつりの指摘により重大なことに気がついた。

 カレーのルゥを投入した後、恭平は火を点けたままだ。当然、かき混ぜたりはしてないし、放置して二十分以上経っている。

 つまり、カレーが焦げている。

「オゥ、シット! やっちまったぜ!」

 奇声をあげながらカレーを救出に行った恭平が、カレーを無事に持ってくるまで、まつりと後は気が気ではなかったそうだ。

 こうして、恭平の演奏会は慌ただしく締め括られた。


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