06 お買い物
この町にはデパートらしきものがある。大きさはそれほどでは無いが、飲食店、雑貨屋、娯楽施設などが所狭しと詰め込まれていて、なかなか便利なのだ。近所の住民は大抵そこに買い物に行く。
恭平と蒼の二人も例に漏れず、そこに買い物に来ていた。
「ねえ、兄ちゃん。何か買ってくるんだよね? 予算は具体的にどれくらいなの?」
「んー、大抵の物はいけると思うんだけど……」
自身ありといった様子で、自分の財布をチェックする恭平。その財布はシンプルな茶色のもので、使い込まれていることが人目でわかるほど草臥れていた。
兄の言葉を聞いた蒼は近くにある棚を指差す。
「アレとかは?」
「ごめん、さっきのは間違いだった。諭吉さん二人で何とかできるレベルにしてくれない?」
指差されたウン十万円のベッドを見て、恭平の顔がひきつる。それは確かに寝ると気持ち良さそうだったが、小学生が使うには少々不釣り合いな代物だった。
早々に前言撤回した兄を見て、冗談だよ、と楽しそうに蒼は伝える。家で散々驚かされせた事に対する意趣返しのようだ。
弟の心臓に悪い冗談に対して、恭平は苦笑いを返すしかなかった。
「で、何かある? 無いならまた今度とかでもいいよ? まあ、その場合いつになるかわからなくなるんだけど……」
提案をしてみたものの、いい難そうに言葉を濁す恭平。この休みが終われば、また四、五ヶ月は弟に会う機会は無い。如何に弟と会う機会が少ないか再認識すると共に、申し訳ない気分になったのだ。
「……うん。やっぱり、今日何か買ってもらう事にするよ。良さそうなものを探すから、手伝ってね!」
兄の表情を見て、何を考えているか瞬時に察してしまった蒼。折角の目出度い日に、そんなことを気にする必要は無いという意味を込めて、明るい声を出す。
弟の無言のメッセージを受け取った恭平は、買い物を楽しむために素早く思考を切り替えた。ここら辺の切り替えの早さが、恭平の長所なのかもしれない。
あっという間に元の雰囲気に戻した二人は、めぼしい物は無いかと店内を探し始めた。
「んじゃ、色々見てみるようか。何屋から見る?」
「まずはここ」
兄の言葉に即答する蒼。どうやら一応考えてはいたようだった。
蒼が選んだのは隅のスペースを使っていた雑貨屋だった。
「……ここがいいのか?」
「ほら、こういう場所こそ何かいいものがあるかも知れないじゃん?」
「そうかも知れないけど……何かなあ……」
「はいはい。ぐちゃぐちゃ言ってないで入るよ」
納得のいかない顔をしている恭平を蒼が引っ張っていく。弟に引っ張られる恭平は、キョロキョロと店内を眺め回した。
店内はそこだけ別の空間かのように、不思議な雰囲気を醸し出していた。
少し暗めの照明のしたに、多くの棚が立ち並んでいる。雑多に置かれた様々な種類の商品が、あちこちで照明の光を受け輝いていた。棚は背が高く、入り組むように並べられているので、あまり広くないのに迷ってしまいそうだ。
そうしたものが相まって、独特な空間となっている。
棚と棚の間をうろうろとさ迷っているうちに、恭平は不思議な気分になってくる。キラキラと光る小物に囲まれて狭い通路を進むのは、トレジャーハントでもしているように感じた。
(なーんか不思議な気分だなー。現実味が無くなっていくと言うか……夢見心地ってこんな感じなんだろうな、たぶん)
恭平はとりとめの無いことを考えながら、店内を見て回る。店内に流れる静かな音楽を聴きながら、ふらふら、ふらふらと揺れるように。
暫くそうしていると、ふと恭平の視線が一点に留まり動かなくなる。気になるものがあったようで、そこに吸い寄せられるように近付いていった。
恭平が手に取ったのは一つのシンプルなペーパーナイフだった。
そのペーパーナイフは長さが十五センチほどで、刃は全体の三分の二程度だ。光沢の無い黄土色の刃は両刃で、どうやら何かの金属のようだ。そして、ペーパーナイフは基本的に切れないように作られているのだが、先端部分は木を削られるくらい鋭くなっていた。持ち手の部分は木製で全体的に装飾が少ない。その地味とも言えるほどの素朴さを恭平は気に入った。
持っていても使う機会はないとわかっていながら、それは何故か恭平を強く惹き付けた。
「綺麗だ……これ、何でできているんだろう」
つい値段を見ると五百円となっている。値段から見ると高級品ではないようだ。この様子では大したもんじゃ無いだろう、と恭平は予想した。
暫く恭平がそれを眺めていると、蒼が棚の影からひょっこり顔を出した。そして兄の顔を確認すると、嬉しくて堪らないといった表情で駆け寄ってきた。
「兄ちゃん! これ見てこれ! これが欲しい!」
はしゃぐ蒼が手に取っていたのは、革製のブックカバーセット。薄い文庫本サイズの物から分厚いハードカバーサイズのものまで、八枚で一セットとなっている。
本を大事にし、また学校に持っていく事の多い蒼にはぴったりのものだった。
「おっ、良さそうなもの見つけたね。それでいいの?」
「おっけーだよ! ここ少し不気味だから入った事無かったんだ。勇気出して入ってみてよかった!」
「あ、やっぱり不気味だと思ってたんだ」
「当然だよ! で、これでいいよね? 大丈夫だよね?」
「八千円……ん、大丈夫。余裕過ぎてあくびが出そうだよ」
よほど気に入ったのか、しきりに確認する蒼に、恭平は笑い掛けた。
恭平は弟へのプレゼントが決まると、弟と一緒にレジへと向かった。蒼は嬉しくてスキップをしている。
レジで会計を済ます恭平。すると、買ったものを見て蒼が不思議そうな声をあげた。兄が他のものも買っていたからだ。
「あれ? そのペーパーナイフ買うの?」
「……うん。何となく気に入っちゃって……」
上手く言えない恭平を尻目に、蒼は勝手に納得する。
「兄ちゃんが実用品じゃないものを買うなんて珍しいね。けど、シックな感じだし、値段も安いし、いいかもしれない」
代金を払う恭平の後ろで、蒼はうんうん、と頷いている。
恭平は自分でも自身の事がよくわからなかった。しかし弟の解釈が一番正しいような気がしたので、とりあえず乗っておいた。
「似合うだろ」
「うう……似合わないと言い切れないのが何かシャクだなー」
ペーパーナイフをくるりと回して見せて、微笑んむ恭平。それがヤケに似合っているのを見て、蒼は悔しそうだが、どこか嬉しそうだった。
周囲の人々は生暖かい目で見つめている。
褒められて満足したのか、恭平はいそいそとコートのポケットに仕舞い込んだ。特に何かに包んでいる訳ではないが、頑丈なものなので、壊れるような事は無いだろう。忘れないかが少し不安だったが。
二人が迷宮のような雑貨屋から出ると、既に午前も終りつつあった。恭平の感覚では十分ほどしか過ごしていなかったのだが、実際にはその三倍は過ぎていたのだ。
驚く恭平はその事からひとつの結論を出す。
「はっ。あそこは異空間ーー」
「違う違う。そんなわけ無いでしょ」
恭平のぶっ飛んだ思考に、敬和はしっかりと突っ込みをいれる。手はパーで、手首のスナップを利かせている正統派突っ込み。
こういう事には敬和はまめだった。
軽い寸劇を済ました二人は、次の目的地を決めるために話し合いを始める。
「次、どこに行く?」
「何か恋人みたいな台詞だね…………はっ! もしかして周りからはそう見られてたのかな? 同性同士である上に、家族。おまけに相手は小学生。ある意味最強だよね。いや、最凶? あのさーー」
「はいストップ、兄ちゃんはノーマルだからね。そこんとこ誤解されないように気を付けるように」
「さて、冗談は置いといて……僕はお腹が空きました」
「冗談か……。お願いだから真顔でそういうことは言わないで欲しい。カレー作ってあげるから」
蒼は別に怒ってはいないのだが、楽しいので兄をからかいまくっている。
何とかそんな弟のご機嫌を取ろうとする恭平。食べ物で釣ろうとする辺りがなんとも言えない。
それでも引き際を心得ている蒼はさっさと話題を移した。
「カレーね。なら材料を買わないと」
「……はぁ」
「ほらほら、何ため息吐いてるのー? さっさと降りようよ」
「僕はユーモアのある弟を持てて、とても幸運だと思うよ……」
恭平は心の底からそう思った。
二人は今までいた三階から一階の食品売り場に向かい始めた。この建物は各階の角にエレベーターがあり中央は吹き抜けになっているが、何故かエスカレーターが設置してないので階段で降りていった。
滑らかな青い手すりを眺めながら、蒼はふとどうでもいいことを口にする。
「階段の手すりを見るとさ、滑りたくなるよね。怖いからやらないけど」
「やらないのか……。いや、やっちゃいけないけど」
「他の人に迷惑だもん、ね!」
掛け声と共に、ぴょんと蒼は階段を飛び降りた。そして両手を上げ着地のポーズをすると、にへりと笑う。
そういうとこは子供らしいな、と呟く恭平。普段は驚くほど賢い弟も、まだ小学生なのだという事を再認識した。
蒼に遅れて二階に降り立った恭平の耳に、結構な音量の電子音が聞こえて来た。若者も来ることの多いこのデパートでは、二階の角のスペースをゲームセンターとして利用しているのだ。人気もそこそこであり、それが目的で来る人も多い。
その音を聞き、この階にはゲーセンがあったなと思い出した恭平は、その事を話題にしようと蒼に話し掛けた。
「なぁ、ここのゲーセンってさ――」
「えっ! げ、ゲーセンがどうかした?」
少しぼーっとしていた蒼は、兄に急に話を振られて慌てる。その様子が少し奇妙なものに見えて、恭平は少しぼかしてみた。
「いや、大した事じゃないんだ。何でもない」
「そ、そうなんだ。わかった……」
恭平の返事を聞き、何故か蒼は少し元気が無くなる。そして蒼の目がチラッと音のする方を向いたのを見て、恭平は弟が何を気にしているかを悟った。
そして悟ると同時にからかいたくて仕方が無くなって来る。後で逆襲されるかもしれないと迷うが、それも一瞬の事。恭平は弟を目一杯からかうことに決めた。
「いやぁ、蒼は単純でわかりやすいね。ゲーセン、行きたいんだね?」
「は!? 何を言って――」
「隠さなくてもいいんだよ? ああいうのが気になるお年頃だもんねー」
「違うって!」
行きたいなら言えばいいのに、とニヤニヤする兄を見て、隠しきれないことに気づいた蒼は、赤くなって言い訳をする。
「だ、だって行った事無いんだもん、しょうがないじゃん!? お金もったいないし!」
「あらあら、行った事も無かったんですか! 聞きました? 奥さん。今時珍しい子ですわねえ」
「兄ちゃん、言葉遣いが変になってるよ! それに僕は――」
「よいのじゃよ。たかがゲーセンに行った事が無いくらい、気にしなくても。……それ故に気になって仕方が無いとしても、の」
妙な口調で尚も恭平はからかう。
兄の執拗なからかいに負けた蒼は、顔を両手で覆い嘘泣きを始めた。
「うぅ……兄ちゃんが苛めるよー」
「ばっ、誤解されるでしょ」
その演技があまりにも上手いので、恭平は周りを見回しながら慌てる。
「ふふふ。弟の必殺技、『周りの人の視線が痛い』だよ。……うぅ、酷いよぉ」
「わかった! ゲーセンに連れてってあげるから、許して!」
今日一日で何回弟に謝っているんだろうな、と目が遠くなる恭平。蒼はそんなことは気にも留めず、嘘泣きを止めて喜んだ。
「やった! これぞ奇跡の逆転Vだね! どこぞのサッカー選手もビックリのはず」
「うん、やっぱりこうなったか……まぁいいや。蒼、行くよ」
「さーいえっさー!」
階段を降りたところで長々と話し込んでいた二人は、賑やかな方へと歩いていった。実は結構通行の邪魔だった。
暫くの間、上機嫌な蒼とそれを眺める恭平は無言で歩いた。おもちゃ売り場を通り抜け、文房具屋の横を通る。二人がゲーセンに近付くほど騒がしさは増していった。
「着いたよ」
ガチャガチャドンドンビービージャラジャラ。二人の前はまるで戦場のようで、蒼はその騒がしさに目を白黒させている。
「凄い……」
「うっさいよね。僕はクレーンゲームとリズムゲームくらいしかしないけど、何かやってみる?」
「うん。クレーンゲームとか、いろいろしてみたい」
早くも軽く興奮している様子の蒼に、恭平は景気よく声をかける
「よっしゃ、今日は好きなだけ遊んでいいよ。年に一度の大サービスだってことで!」
「本当に? じゃあ、遠慮なく!」
恭平の気前の良い台詞に、蒼は喜びの声をあげる。
二人は音と光の渦に飲み込まれていった。
巨大な機械からパンパカパーと間抜けな電子音が流れる。その横で蒼は歓声をあげた。
「凄いよ兄ちゃん! 八百点台を出すなんて!」
二人は今パンチングマシーンの前にいる。
二人は先程まで三十分ほどの間、多種多様なゲームにひたすら挑戦していた。
誰もが一度は聞いたことがあるような、メジャーな曲に合わせてリズムをとるゲーム。上手く掴んで持ち上げても、運びきる前に落ちてしまうクレーンゲーム。付属の拳銃型コントローラーを使用した、高難易度のシューティングゲーム。それらを蒼は片っ端から挑戦しては、どれも一回でコツをつかんでしまっていた。恭平は弟のゲームの上手さに舌を巻いていた。
他にも様々なゲームをして、ある程度満足した蒼の目に、次に映ったのはパンチングマシーンだった。
これも高得点を叩き出したい、と頑張ったが、所詮は小学生。その非力な腕では、標準的な記録にも届かなかった。
唸る弟を見かねて恭平が挑戦した結果が、蒼の称賛の声だ。
「何でそんな細腕で高得点が出せるのー? 八百点台って喧嘩王級って書いてあるよ! 意味わかんないけど凄い!」
恭平はその筋肉とは無縁そうなその腕で、日間一位、月間一位、総合順位でもベストフィフティに入る記録を出してしまったのだ。しかしその記録を、文字通り叩き出した本人は何でも無いことのように言う。
「こんなのある程度体ができていれば、あとは気合いだって」
「そんなわけ無いじゃん! 兄ちゃんって時々テキトーなことを言うよね」
「まあまあ。そこは僕の七不思議の一つってことで、よろしく」
全くまともにとりあう気の無い恭平。ふと時計を見ると、もう正午も近かった。
「うわ、少し遊びすぎたかも。そろそろ御飯の準備をしないと、昼御飯って言う感じじゃ無くなっちゃうわ」
「えっ? 本当だ……まあ遅くなったら晩御飯を軽くすればいいんじゃないかな」
悩む恭平に蒼は解決策を提示する。
「それでいいのか?」
「うん。けどちょっぴり疲れたから、食材を買って帰ろう」 目一杯遊び帰ることにした二人は、満足そうに歩き出した。
機械の間を通り抜け、ゲームセンターから脱け出そうと歩き回る二人。あちこちで様々な光が輝いていて、目が痛くなりそうだ。
(うーん、相変わらず騒がしいところだな。人も多いし、みんなよっぽど暇なんだねえ。中学生もたくさんいる……って!)
周囲を見回しながら物思いに耽っていた恭平は、あるものを発見してしまった。それは本来なら喜ぶ事なのだが、今日は弟を構ってやらなければならない。
どうするか迷った恭平は立ち止まってしまった。
「どうしたの? 何か面白そうなものでもあった?」
突然立ち止まった兄に疑問を感じ、その視線を追う敬和。その先にはレーシングゲームの座席に座った一人の少女がいた。
「あの女の子がどうかしたの?」
「……いや、まぁ何というか」
恭平はどうするか悩んだ。他人には冷徹で気遣いなど皆無の恭平も、大切な人の事はきちんと気遣う。その区分けは明確なラインがあり、当然弟の敬和は内側だ。それ故に恭平は悩む。
数秒の間悩んだ結果、出した答えはこれだった。
「あの女の子……例の子なんだよね。ほら、空中浮遊してた子」
そう、洗いざらい話して、敬和の判断に任せるという事だ。
本日の主役は弟の敬和。ならば訳を話して弟がどうしたいかを聞けばいいと考えたのだ。
「今日は蒼の誕生日。どうするかは蒼が決めて良いよ」
恭平に示された選択肢。蒼はどちらを選んでも別に良かったが、兄がどちらを望んでいるかは明白だ。
二人より、三人の方が、とそう考えた蒼は、兄の好きにさせることにした。
「そうだな、兄ちゃんの好きにして良いよ」
「……本当に良いの?」
疑わしげに問う恭平に、蒼は満面の笑みで頷く。それは嘘をついているようにも、強がっているようにも見えない。
恭平の迷いは一瞬で、すぐに自分のやりたいようにすることにした。
「じゃあ、とりあえず声をかけてみよう」
「いいよ。ただし気を付けてね。体を乗っ取られたりしちゃうかもしれないし」
「そ、それは無いと思うけどな」
恭平は蒼の突飛な意見を聞き、先日の議論の結論で、まつりの正体は宇宙人になっていたことを思い出した。
蒼はゲームの筐体に隠れるようにしながら、探偵のように少女を観察する。今までに無く真剣になっている様子は、本気で宇宙人を前にしているかのようだった。
「大丈夫だって。僕と彼女は既にアミーゴだからさ」
「油断は禁物、だよ! そうやってエイリアンをバカにする奴らから死んでいくんだから!」
「はいはい。気を付けるよ」
慎重に監視をする弟にテキトーに相槌を打ちながら、恭平は近付いて行った。
二人に見られていることに気づかない少女――まつりは、ただひたすらに時間を潰していた。
(騒々しい場所だ)
レースゲームの座席に座り込んだまつりは、正面にある画面を眺めながら頭の中でぼやいた。 昨日は人が少ない場所にいたせいで、少々面倒な事になってしまった。だから暫くは人気の全く無い場所は避けようと思ったのだ。
まつりの目的に対しては、本来なら人の多い場所の方がよい。それがわかってて尚、人の少ない場所を選んだのは、単に人と関わるのが煩わしかったからだ。
相変わらず余り休んでない様子のまつりは、コントローラーとして付いているハンドルに頭を預けた。その枕は予想外に気持ちよく、自分が疲れていることを実感した。
(疲れたな…………っ!)
その体勢で休んでいたまつりは、自分に近づく気配を感じ取ると同時に、嫌な予感にひしひしと襲われた。
何かとてつもなく厄介な――
「やっほー。一日ぶりだねまつりちゃん」
頭上から掛けられたその声を聞いた途端、自分の予感が的中した事を悟るまつり。すぐにでも逃げ出したい気持ちで一杯になった。
「何の用ですか?」
歩いて逃げてもついて来るだろうし、走って逃げるなんてしたらとても目立つ。逃げられないと判断したまつりは、極めて素っ気なく返事を返した。
対する恭平は、不愉快ですという態度を全く気にしている様子は無い。言葉をそのままの意味で受け取り、返す。
「偶々会ったんだから声ぐらい掛けておこうと思ってね」
「……なんだか毎日会っている気がするんですが、私の気のせいですか? もし、ストーキングしてるなら警察を呼びますよ」
顔を上げないまま、にこにこ笑顔の恭平を拒絶するまつり。その迫力を受けて恭平の影に隠れている蒼は軽く萎縮してしまっている。まつりの言葉が丁寧なのは、恭平の他にも人がいるからだ。
まつりを怖い人だと思い込んでしまった蒼は、恭平の腕を引っ張り不安そうに囁いた。
「ねえ兄ちゃん。本当にこの人アミーゴなの? 何か兄ちゃんの事を凄く嫌っているような気がするんだけど」
同じように囁き返す恭平。
「安心しろって。今ちょっとお腹が空いて、気が立ってるだけだから。たぶん」
「なるほど。……なら昼御飯に誘おうよ。そしたら怖く無くなるはずでしょ」
「……名案だ」
成り行きでまつりを御飯に誘う事になってしまった恭平は、そう簡単にいくわけ無いと気づき、ノリというものの恐ろしさを実感した。だが、話を聞けるかもしれないのだから、誘う事自体に異論は無い。
恭平は、当たって砕けろの精神で果敢に挑戦した。
「まつりちゃん、とりあえず言っとくけど、ストーキングはしてないよ。面倒臭そうだもの」
「……だからどうしましたか。挨拶が済んだのならさっさと帰ってください」
「帰る前にひとつ聞くけど、お腹空いてない?」
恭平の言葉と同時にまつりは空腹な事を思い出す。そして、不覚にも次の言葉を期待してしまった。
「もし空いてるならさ、一緒に御飯食べない? カレーなんだけど二人だけじゃ味気なくて……」
バッと身を起こすまつり。
カレーと聞いて思わずよだれが出そうになるのを、必死に押さえる。その余りにも魅力的なお誘いに、脳内では大論争が巻き起こっていた。
(カレー食べたいな……いや、ほぼ初対面の相手を、いきなり自分家に食事に誘うなんて怪しすぎる。……けどこんな男の子も一緒なら大丈夫なんじゃないかな。でも、もしもこいつが危険な奴だったら…………ああもう! どうしよう!)
本能と理性の間でぐらぐらと揺れる、まつりの思考。顔にこそ出てないが、さり気なくお腹を押さえたり、微妙に距離をとったりと、とてもわかりやすい。しかし、その様子を眺めていた恭平は、どうにも警戒の方が大きそうなことに気付く。
攻めるなら相手が迷っている内に。そう考えた恭平はひとつの提案をしてみた。
「迷った時はね、テキトーに決めればいいのさ。例えば……小銭を投げて、表か裏か、とかね」
来て欲しいけど来なくても仕方がない、という微妙なスタンスをとった、絶妙な提案。その提案にまつりの心は、さらに大きく揺さぶられた。
いつの間にか顔を出していた蒼が、だめ押しとばかりにおずおずと誘う。
「あの……一緒に御飯食べませんか……? 二人だと少し寂しいんです」
寂しい、という言葉に心を打たれるまつり。なにも御飯くらいでそこまで気にしなくていいので、という気分にさせられた。
まつりは二人に期待に満ちた目で見つめられる。
「……コイントスで決めることにする」
まつりはついに誘惑に負けた。しかし、確率は二分の一だし、行くことになってもこの男の子がいるから大丈夫だろうと、もっともらしい言葉で自分を納得させる。名前は教えてしまったのだし、そこまで意地を張るのも変だからという理由もあった。
まあ、一番の理由は空腹だったからだが。
了承したも同然なまつりの言葉を聞き、恭平の顔が輝く。そして財布を取り出すと、十円玉を茉莉に手渡した。
「はい。じゃあ早速やってみよう……と言いたいところだけど、ひとつだけ注意をしとく。先に表になったらどうするか決めておくこと! ここ重要だよ」
「……それなら、表なら、昼食に呼ばれることにします」
そう宣言すると、まつりは軽く十円玉を握り、掌からこぼすように地面に落とした。
チャリン、と音をたてて落ちた十円玉は、コロコロと転がって――
「あ」
巨大なクレーンゲームの下に消えていった。
一同の間になんともいえない空気が流れる。コイントス、という言葉を知っていたので、投げ方も知っていると思い込んでいた恭平は、咄嗟に反応ができなかった。
「確認するのは難しそうですね。こういう場合はどうするんですか?」
「……やり直しだと思う」
悪びれもせず質問をしてくるまつりに対して、苦笑いの蒼。消えていった十円玉の事など、既にまつりの脳内から消え去っているようだ。
その様子を眺めとても愉快そうにしている恭平は、こちらも十円玉の事など気にせず新たに十円玉を取り出すと、コイントスのやり方を教え始めた。
「コイントスっていうのは落とすものでは無いんだよ、まつりちゃん。こう手を軽く握ってね――」
恭平は実際にして見せながら説明するが、まつりは上手くできないようだ。何度も失敗してはその度に、恭平と蒼が十円玉を追い掛けてる。
挑戦が二桁に達した頃、まつりはついに匙を投げた。
「そちらがやってくれませんか?」
「いいよ。この黄金の王や指で、見事に表を弾き出して見せよう!」
「ハイハイ、親指ね」
弟に軽く流されようが、年下の女の子に冷たい目で見られようが、一向に答えた様子の無い恭平。一度右手を崇めるように掲げると、十円玉を弾いた。
「きええぃっ!」
ピン、と小気味良い音をたてて十円玉が宙を舞う。恭平はくるくると回る十円玉を、空中でキャッチすると左手の甲に押し当てた。
恭平が十円玉を隠していた手をそっと持ち上げる。まつりが若干緊張しながら見つめていると、そこには大きく浮き出た『10』という字が上を向いていた。
「よっしゃ、表!」
「……本当だ! やったー!」
蒼は一瞬奇妙な顔をしたが、すぐさま兄の意図を読み取り、一緒に喜んだ。
そんな蒼を気にせず、嬉しそうにガッツポーズする恭平を見て、まつりはホッとする。
まつりは実は金銭的な関係で、今日もおにぎりを二つしか食べてなかった。正直、空腹の限界だったのだ。しかしそんなことはおくびにも出さず、素直に昼食に参加する旨を告げた。
「表ですか……では、昼食にお邪魔させていただきます」
「おーけー、おーけー。まつりちゃんならいつでもウェルカムだよ」
「じゃ、食材を買って、さっさと帰ろうよ」
すっかり騙されてくれたまつりを眺め、兄弟はニヤリと目を合わせ笑いあった。