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変人と悪魔  作者: 仁崎 真昼
白:悪魔と少女
20/20

後編

□ ■ □ ■ □ ■ □ ■ □ ■



「失敗した、失敗した、失敗した……」

 悪魔は暗い部屋で、一人座り込んでいる。

(折角もうすぐに魂を手に入れることができる状況だったのに、あんなに無駄なことで状況を悪化させるなんて……! 意味の分からない願いをようやく叶えかけたところを、下らない苛立ちなどで! これでは、以降どうすればいい?)

 一夜経って心の昂りを抑えることができた悪魔は、目が覚めると同時に強烈な自己嫌悪のようなものに襲われている。

(いや、あいつは魂を寄越すと言った。だから、これはこれで良いのではないか? いや、あいつは寄越すとは言ったが、『誓い』を行ってはいない。確実に手に入れることはできないかもしれない。……まあ、あいつが嘘を吐くことは無いだろう。だからこそ美味そうなのだしな。……しかし、やはり確実さを求めたほうが)

 結論が出てはそれを疑い、それを認めてはまた疑問を浮かべる。悪魔の思考は行ったり来たりと定まらず、蝋燭の火のように揺れていた。

 沸々と湧き上がっていた感情が消え冷静になった悪魔は、昨晩の反省をする。

 悪魔が思い返してみれば、昨日の少女は少し様子がおかしかった。普段は笑い飛ばすような他愛ない軽口も、まじめな受け答えをしていた。何かあったのは間違いないだろう。それに気を使えなかった悪魔にも非はあった。

 謝りに行けば良いのだろうか、とそう考えたところで、悪魔はふっと我に帰る。

(何だ? 私は何を悩んでいる? 魂を手に入れられることはほぼ確実だろう? 私は一体、何がしたいんだ?)

 悪魔は頭を振って自分らしい思考をしようとする。先ほどからずっとそれの繰り返しだった。

 二人が仲違いをした理由は、悪魔が本当に下らないことで悩み、少女の清浄無垢な願いが裏目に出たという、よくあるもの。いや、正直に自分達の気持ちを話し合いさえすれば、すぐに解決するような些細なすれ違いだ。

 何故なら、悪魔が悩みの底にある感情は単純だからだ。

 ――何故お前はそんなに幸せそうなんだ? 私はこんなに寂しさを感じているというのに。

 悪魔が自分でも理解していないが、それでも少女に言いたいこと。それは、要約してみればこんなものだった。


 悪魔は結局、少女に会いに行くことにした。会いに行って、再び契約について話し合うことにしたのだ。

 別に、少女に謝ろうとしているわけではない。少女がとても傷ついたであろうことを重々承知してもいるか。それでも悪魔が少女に会いに行くことを決めたのは、()()少女なら昨夜のことも笑って許してくれるかもしれない、という思惑があったことは否めない。

 ――そんなことは絶対無いと、頭で理解していながらも。

 見慣れた白く巨大な建物を遠めに眺めながら、そこへ向かって淡々と歩いてゆく悪魔。その建物はいつ見ても目に痛いほど太陽の光を反射し、まるで邪悪なものたちを遠ざけようとしているようだ。そう、悪魔や亡霊といった、邪悪なものたちから。

(邪悪な……か。人の魂を狙って喰らう、私のようなものか)

 悪魔は苦笑が出そうになるのを抑えながら門をくぐる。

 庭は周囲にある一軒家の庭に比べ、無駄に、といえるほど広い。黒いコンクリートで塗りつぶしている駐車場に、青々とした芝生を植えられた広場。広場にはベンチと噴水も設置されていた。

 悪魔は庭を通り抜け、建物の中に入る。すると、空気が異様だった。

 建物の中の空気がどこか慌しい。駆け回る人々は皆少なからず焦っていて、全体的に浮き足立っているように感じられる。こんなことは悪魔が通うようになってから一度も無く、悪魔は言いようの無い胸騒ぎに襲われた。

 困惑している悪魔の元に、一人の女性が寄ってきた。

「すみません、茉莉ちゃんの知り合いの子ですよね。最近毎日のように通ってきてくれている」

「……まあ、そうですが。何かあったんですか?」

 敬語というものを頭の中から呼び出しながら、差し障りの無いように悪魔は答える。

「茉莉ちゃんがいなくなっちゃったんですよ、今日は外出の予定も無いはずなのに。何か知りませんか?」

 少女が出かけている、と聞いて、悪魔は驚きの表情を見せる。悪魔が思い出してみれば、悪魔が少女の部屋を訪れたときに少女がどこかへ出かけていたということは、一度も無い。それどころか、少女が建物の外へ出たことも、昨日が初めてだったのだ。

 そんな少女が、一人でどこかへ消えたという。それは、異常事態だ。

「……分かりません」

 その言葉は嘘だ。悪魔には心当たりがある。

(つまり、私に会いたくないのか)

 少女は悪魔がここに来ることを予想していて――いや、予想しなくても、来るかもしれないという可能性を考え、その上で悪魔に会わなくても済む方法を考えたのだろう。悪魔に会いたくないからこそ、行き先も告げずにどこかへいってしまったのではないか。そう悪魔は考えたのだ。

「そうですか……。あの子は今まで本当に良い子で、今までこんなことは無かったのに。やっぱり昨日何かあったのかしら」

 悪魔はどうするか迷ったが、結局少女の部屋で待つことを決めた。顎に手を当ててぶつぶつと独り言を始めた女性を置いて、悪魔は少女の部屋に向かおうとする。

「昨日門限を過ぎて帰ってきたと思ったら、晩御飯も食べずにずーっと塞ぎこんでいて……」

「すみません。部屋で待たせてもらいます」

「あ……分かりました。じゃあ、茉莉ちゃんが帰ってきたら伝えておきますね」

 短い、儀礼的な挨拶。女性の方も何も知らない訪問者に、長く関わっている暇は無いようだった。

 少しだけ悪魔陰鬱とした気分になった。そして、そんな気分になったこと自体に驚いた。

(もし会えなかったら、面倒くさい。そう思っただけだろう。そうに違いない)

 その言い訳は誰に対するものか不明だ。

 長い長い廊下を暗い気持ちで悪魔は歩く。似たような扉が延々と並んでいるように光景は、廊下の先が見えているというのに、それがいつまでも続いていると錯覚してしまいそうなほどである。

 不意に、悪魔の『鼻』が微かな異臭を『嗅ぎ』取った。

(っ、何だこの『匂い』は! こんな腐った魂、一体どうやったら作り出せるっていうんだ……?)

 悪魔は顔をしかめながらも、少女の部屋へと歩く足を止めない。悪魔が一歩進むごとに『匂い』は強くなっていく。

 先日までこんな『匂い』を発する人間は、この建物内には住んでいなかった。悪臭というものは生き物にとって、耐えようの無いストレスを感じさせる存在であると共に、心を蝕む毒でもある。これほどまでに強烈な、悪意の塊とでも言うべき『匂い』を発する魂を持っていれば、悪魔は到底この建物の中にいることはできないからだ。

 悪魔が少女の部屋の前の扉へ立つ。すると、一層濃い『匂い』が、悪魔の『鼻』を刺激した。

(この部屋が、何故こんな『匂い』を発している? この部屋は間違いなくあいつの部屋だし、生半可な『匂い』であいつの『匂い』が消されるわけが無いはずなのに)

 いよいよ大きくなる胸騒ぎを抑えながら、悪魔は部屋の扉を開けた。

 もわっ、とこれまでの数倍の『匂い』が悪魔を包み込む。それは、必要以上に冷やされた部屋から太陽の照りつける屋外へと出たときの熱気のようで、悪魔は思わず咽こんでしまうほどだ。

 部屋の中には、誰もいない。それが更に、悪魔の胸騒ぎを大きくする。

 部屋の中に誰もいないということは、先ほどまでの『匂い』はただの残り香だということだ。数百年の時を生きる悪魔に、これ以上無いほど良い『匂い』だ、と思わせた少女の『匂い』をかき消すほどの『匂い』が、ただの残り香なのだ。良い匂いより悪臭の方が強いとしても、それにだって限度がある。その人物の魂の汚れ具合が、悪魔には良く分かる。

 そして、『匂い』が残っているということは、その人物がここに来たことは間違いが無い。その上、少女の行方は不明なのだ。

(嫌な予感がする……)

 悪臭を払うように空気を手で払いながら、悪魔は部屋の中に入っていった。

 部屋の中はいつもどおりで、全く荒らされた形跡は無い。少なくとも、その人物が乱暴に少女を連れ去っていった、という可能性は無さそうだ。それならば少女の身に危険が迫っている、という可能性も少ないだろう。

 また、悪臭は部屋の中に充満して入るが、染み付いてはいない。ここで何かをされたということも無いだろう。

(けど、嫌な予感は全く無くならない)

 悪魔は渋い顔をして部屋中の『匂い』を『嗅ぐ』。そして、その中で一番匂いの濃い箇所見たとき、雷に打たれたかのような衝撃に襲われた。

 一番匂いの濃い箇所は、少女がいつも寝ているベッドの、枕の下。いや、正確に言えば、枕の下に隠すように置いてあった、ノートの切れ端であろう一枚の紙切れ。部屋の中に充満している悪臭が染み付く紙切れの中心には――。

『悪魔の仲間は預かった』

 と書かれていたのだ。

弾かれるように顔を上げた悪魔は、思わずその両手をベッドに叩き付けそうになった。

(私が悪魔だということを知っている奴が、あいつの他にもいる……! それに、預かっただと? あいつ、誘拐されているんじゃないか!)

 悪魔は手に取った紙切れを握り潰すと、素早く窓際に駆け寄った。

(こんな腐った『匂い』を発するような魂を持った人間が、どんなことを起こすかなんて全く分からない……! ここの人間は役に立たないだろう。警察とやらを頼るのも面倒だ。すぐに見つけ出してやる)

 悪魔は心なし鼻息を荒くしながら、小さな小さな(といっても普通の大きさだが)燕の姿をとると、大空へ向かって飛び出した。

 病院の周囲を円を描くように飛びながら、悪魔は全力で周囲の『匂い』を『嗅ぐ』。ただの匂いならば到底判断することはできないだろうが、実際には『嗅ぐ』のではなく、魂を感じている、と言った方が近い。そして、その判断する能力は、その悪魔がどれだけのチカラを持っているかで決まる。悪魔は集まってくる多種多様な魂の『匂い』の中に、先ほどまでずっと至近距離で『嗅いで』いた悪臭が無いかを探した。

 二回、三回、と回るたびに、燕の姿をとった悪魔が描く円は大きくなって行く。そして、回った回数が十回を超えたとき、悪魔は一つの方向に向かって飛び始めた。

(おそらく……そう遠くではない。こっちの……こっちではなくて……この辺りか。クソッ、もう少し高度を下げないと分からない……!)

 悪魔は少し飛ぶとすぐに高度を下げ、小さな林の中に入って行く。そして、周囲に人の目が無いことを確認すると、空中でもとの人間の姿に戻り、ふわりと静かに着地した。

 そして、すぐさま方向を確認して、今度はその脚で走り始める。

 悪魔は自分でも分かっていなかったのかもしれないが、その時確かに焦っていた。軽いパニック状態に陥っていたといっても良い。しかし、例えどんな状態だろうが、中途半端には頭は回る。

「っ、そうだ、こいつがあった!」

 だからこそ、自分が携帯電話を持っていることに気付いたとき、深く考えずに少女に電話をかけてしまったのだ。

 使い方は、何度かいじってみたので知っている。少女の名前が載せられた番号を、電話帳の中から引き出し、通話ボタンを押すだけだ。

 数回のコール音。生まれて初めて電話をかけた悪魔は、その音さえも非常に苛立だしく感じられた。 

 いつまでたっても止まないコール音に悪魔が痺れを切らしかけたときに、悪魔ははたと我に帰った。

 少女が携帯電話を持って言って無い可能性は、無理やり連れて行かれたわけではなさそうなので無いだろう。しかし、紙には預かったと書いてあった。この言い方はどう考えても穏やかなものではなく、少女が何らかの形で拘束されている可能性は高い。その過程で、携帯電話を奪われている可能性は大いにある。

 しかし、もしもそのような状況の下で、少女がいまだに携帯電話を持っていたら。

 その上で、犯人の隙を窺っているとしたら。

 悪魔がそう考えたとき、コール音が途切れ、電話が繋がった。

「っ、おい、大丈夫か? 今どこにいる?」

 悪魔は勢い込んで呼びかける。だが、向こう側からは荒い呼吸が繰り返されるだけで、何の返事も無い。

「おい、どうしたんだ? 返事しろよ。一体何があった。いや――」

 なぜか焦燥感に襲われながらも悪魔が再び呼びかけると、まだ年若い少年の声がした。

『お前、悪魔か』

「な……!」

 電話に出た相手が少女ではなかったことに、自分のことを悪魔だと言い切ったことに、悪魔は驚き、ごまかすこともしらを切ることもできなかった。

 電話の向こうではにやり、と相手が笑った気がした。

『最初に会ったときとはずいぶん違うな、声も姿もその態度も。……まあいいや、やっと話せて嬉しいよ、ご主人様である僕を裏切った悪魔ちゃん』

(こいつは、あのときの――)

 正体不明の声が誰のものなのか悪魔には見当が付かなかったが、その台詞によって一人の少年の姿が、悪魔の脳内でくっきりと結ばれる。その声は、悪魔がこちらの世界に来たときに、偶々その場に居合わせた少年のものだった。

 少年の声は続ける。

『お前のせいでおれは大変だったんだぜ。お前が部屋をめちゃくちゃにしていったせいで、火事が起きたんだ。蝋燭がいくつも倒れて、物置が燃えちまったんだぜ? おかげで周りの奴らがうっぜぇのなんのって』

 少年は自分の身に起こった不幸を話しているはずなのに、どこかはしゃいでいるように嬉々として話す。それは自慢話を楽しんでいるようで、自分の興奮を抑えることができないようで、自分の行為に酔っているようだ。

 まるでこれから、とてつもなく勇気の必要なことをするような。

 低い声で、悪魔が質問をする。

「悪魔なんているとでも思っているのか?」

『今更とぼけようとしても無駄だぜ。最初に言い淀んだ時点でもう遅いんだよ』

 悪魔はとりあえずとぼけてみたが、相手もただの馬鹿というわけではないようだ。やはり、全くといってよいほど効果は無かった。

 自分の迂闊さに舌打ちをしそうになりながら、悪魔は話を続けた。何故なら、少年がまともな精神状態ではないと悪魔の勘が告げているからだ。今の少年は、追い詰められたと思い込んで視界が狭くなっている人間そのものだ。そういう人間は、総じてろくな行動をとらない。

 つまり、時間稼ぎだ。

「……何で、私が悪魔だと?」

 待ってましたとばかりに、少年は嬉しそうに話し始める。その口調はまるで自分の武勇伝を語ろうとする阿呆だ。 

『おれはな、ずっとお前のことを探してんだよ。お前は危険な悪魔だからな。寝る間を惜しみ、暇を探しては、お前を探し続けてたんだ。お前はなかなか見つからず、足取りすらも掴めない。正直言っておれは何度も諦めそうになった。しかし、神様は正義に味方するんだ。それが分かってたからこそ、おれはがんばったんだ。そして、やはり神様は俺の味方だった。人の多く集まる祭りを駄目元で当たってみたら、人ごみの中から悪魔って単語が聞こえるじゃないか。天啓だよ。追けてみてもお前らは気付かないし、お前らの会話でどんどん確信は強くなってくる。それで、おれは分かったんだ。お前が悪魔だってな!』

 少年の言葉は分かりづらいが、少年が何をしていたかは大体理解できた。要するに、少年は悪魔のことを危険だと思い、探し、偶々見つけたということだ。

 悪魔は心の中で下を打つ。人ごみの中で軽く口にした一言が、赤の他人に聞かれていたのだ。そして、それが仇となった。

 悪魔は話を聞きながらも走り続けている。『匂い』もだんだんと強まってきた。

「……あいつをどうするつもりだ」

 少年の答えが、悪魔には薄々と分かっていた。それ故に、悪魔の額にじわりと汗が浮かぶ。

 そして、少年は悪魔の予想通り悪魔が抱いていた希望を、一蹴して見せた。

『ははははは、決まっているだろう! この女はお前の仲間だ。悪魔の仲間だぞ? そんな奴は平和のために死んでもらうに決まってる!』

「……おい、分かってるのか? あいつはただの人間だぞ?」

 人が人を殺してはいけない。悪魔の記憶の中ではそれはかなり重要なルールな筈だ。それを、この少年は容易く無視した発言をした。それも、嘘ではなく、本気だ。

 予想をしていたとはいえ、これはかなり異常なことと、今更悪魔は気付いた。

 悪魔は揺さぶりをかけるが、少年は全く態度を変えない。

『関係ないね。いや、お前に関係している時点で、悪魔の仲間だ。魂を食うような危険な奴らを、放って置けるわけが無いだろう』

 やはり、少年の言葉には、一片の嘘も見られない。それは少年が本気だと言うことを示していて、そのために悪魔は焦りを強くした。

 少年が言葉を切り、悪魔はその間も走り続ける。悪臭もそこまで集中しなくても『嗅ぐ』ことができるようになってきた。目的地は近い。

 その時、電話の向こうから少女の声がした。

『……あ、助け……』

『しゃべってんじゃねぇよ! お前は! 黙って! 餌になってればいいんだよ! その後で! しっかり! 殺してやるからさ!』

 しかし、少年の土星と共に鈍い音がして、少女の声はすぐに途絶えて仕舞う。

「おい、止めろ! おい! お前何してんだ!」

 悪魔も電話の向こうで行われている行為をとめ様と声を上げるが、興奮した少年には届いていないようだ。何か軟らかいものをけりつけるような音と、くぐもった悲鳴が、断続的に響いてくる。

 呼びかけに効果が無いと悟った悪魔は、走るスピードを更に上げる。悪臭はどんどん近付いてきて、それと共に悪魔の気分も悪くなる。

 少年は悪魔の存在など忘れてしまったかのように、ぶつぶつと独り言を始めた。

『全く、何なんだあいつらは! そこらじゅうにいるゴミみたいな犬猫を十匹やそこら殺したって、何の問題も無いだろうが! 頭の空っぽなクソババアも、頭の固いクソ親父も、平凡で退屈なクラスの奴らも、つまんねぇ考え方しかできやしねぇ! もっと広い見方をしろよ! もっと挑戦してみろよ!』

 不満。自分はもっと出来るんだ、という不満。世の中が自分に会っていないんだ、という不満。人は自分のことを認めてくれない、という不満。少年の言葉には不満しか宿ってはいない。

 悪魔は薄暗い路地に入り、目的地は近いことを悟った。

『くそ、くそ、くそ、くそ、くそぉ。どいつもこいつもおれのことを馬鹿にした目で見やがって』

 しかし、同時に少年の声も切迫感を帯びてくる。このままでは、いつ少年が()()()しまうか分からない。悪魔の焦りも更に増す。

(間に合え。いや、間に合わす)

 少年の口からは罵倒と侮蔑の言葉しか出ることは無く、その合間に自分を褒め称える言葉が入る。しかし、その言葉は自分を騙すための欺瞞で満ちていて、悪魔の予想通り、少年の魂は腐りきっている。

『……あいつらだって気付くはずだ。おれが悪魔を殺せば、仲間ごと殺せば、全部殺せば。俺を、人類を救った英雄だって』

 少年の声が一層冷たいものとなる。どう考えてもそれは黄色を通り過ぎて赤信号だ。

 電話越しでも少年の狂気と殺意を感じる。

 しゃりん、と金属を擦り合わせる音がした。

(まずい! このままじゃ――!) 

 少女の位置をほぼ特定した悪魔は、携帯電話を放り投げ、最後のスパートをかける。もう少女がいる場所は目と鼻の先で、少年の発する悪臭も嗅ぎ取れた。

 路地の横にある、薄汚れた扉。その扉を封じていたであろう南京錠は、壊されその役割を果たせなくなっている。

 すぐそこに少女がいると確信した悪魔は、そこにあった扉を蹴破った。

「おい、大丈夫――」

 すると。

 そこには。

 腹部からどくどくと血を流す、見慣れた少女と。

 血に濡れて光る刃物を持った、どこかで見た少年と。

 片方は倒れていて。

 片方は立っていて。

 苦痛。

 興奮。

 見開いた眼。

 血を零す唇。

 震える刃物。

 薄暗い部屋。

 赤。

 黒。

 青。

 灰。

 少女は呻いていて。

 少年は俯いていて。

 少女はもがいていて。

 少年は、嗤っていて――。


「アアアァァアアアアアアアァァァァァァァァアアアアアアァァァアアアアアアアアアァァァァァアア!!」


 悪魔は人間ではありえない脚力で、その場から踏み切った。その速度は自分の影さえ置いていこうとしているかのようで、まともな人間ならば目で追える速度ではない。

 更に、滑るよう跳んでいるその一瞬の間に、悪魔は右腕を大きな刃物へと変化。悪魔の右腕がぶれたと思った瞬間には、悪魔の右腕から先は、蟷螂の鎌のような凶器に変化していた。

 ――鋭く、重く、早く、剛く。

 たった一歩で少年の懐に入り込む悪魔は、体を丸めるようにして溜め込んでいた力を解き放つように右腕を振り上げる。

「え?」

 刃物を持ったまま飛ぶ、少年の右腕。少年はまだ、何が起こっているのか気付いていない。

 続いて、第二撃。

 振り上げた右腕を体に引きつけるように折り畳むと、振り上げた勢いを利用して、全身に力をためる。そして、脚は大地を踏みしめたまま、上半身を捻るようにして刹那の硬直。

 そのまま、鋭い呼気と共に右腕を突き出した。

「ご――おふっ」

 少年の心臓の裏側からは鋭い鎌が突き出、少年の吐いた血は、少年の胸に抱きつくようにして刃物を突き立てる少女に降りかかった。

 少年の顔は、いまだに何が起こったのか理解できていないように、疑問を浮かべたまま固まっている。一体何が起きたのか。何故自分の腕は飛んでいるのか。自分にぶつかってきた少女は誰なのか。おそらく、少年が自分のみに何が起こったのか理解できる日は、もう二度と訪れることは無いだろう。

 悪魔が右腕の鎌を乱暴に引き抜くと、決して少なく無い量の血が悪魔に飛び散る。しかし、冷静さを失い、狂乱状態といっても良い悪魔は、それに全く気を使うそぶりは無い。また、引き抜く際にぶちぶちと肉をちぎる音がしたが、死に掛けの少年に反応する力はもう無いようだった。

 悪魔は手を元に戻しながら、倒れふす少女の元へと走りよった。

「おい! 大丈夫か! おい! 返事しろ!」

 悪魔が抱き上げる少女の腹部には穴が開き、そこから決して少なく無い量の血が流れている。少女の傷口から溢れたその液体はじわじわと地面を浸食し、大きな赤い水溜まりを形作っていた。

 悪魔が水溜りを乱暴に散らし、薄暗く埃っぽい空気に、ぴちゃり、と水音が反響した。

「き……た、んだ……」

 乱暴に抱き起こされて気が付いたらしい少女は、焦点の定まらない眼で悪魔を見つめる。

「どうした、何があったんだ?」

 悪魔は勤めて普段の口調と変わらないようにしながら、少女に問いかける。

「今日、起きて、どうしようかと考えてたら、その人が来て」

「それで、どうしたんだ?」

「あなたと知り合いで、話があるっていうから……こっそり会いたいって。だから、着いていったら、いきなり殴られて……」

 悪魔はその警戒心の緩さに頭を抑えそうになるが、今はそのときでは無いとその苛立ちを抑え付け、少女を外へ連れ出そうとする。医者にさえ連れて行けば、何とかしてくれるのではないかと思ったのだ。

 しかし――立ち上がろうとした途端、悪魔の体を強烈な倦怠感が襲った。

「ど、どうした、の?」

(……そうか。これが、『罰』か)

 悪魔は冷や水を浴びせられたかのように一瞬で冷静になると、自分の現状をはっきりと理解した。

 『罰』。それは自分が世界に対して『誓った』ことを破ったときに、必ずその身に下るもの。それを逃れることは出来ず、それを避けることは不可能だ。『誓い』の種類によって『罰』の種類も変わるが、同じ『誓い』ならば同じ『罰』が下る。そして、悪魔の種族は皆同じ『誓い』をしているので、悪魔は自分達が『誓った』ことに対する『罰』を知っていた。

 悪魔達の『誓い』は、『人間を殺さないこと』。

 それに対する『罰』は、『魂が溶けて消える』。

 悪魔はもうすぐ、魂が溶けて、死ぬ。

 それを理解しながらも尚、少女を外へ運び出そうとする悪魔に、少女がぐりぐりと拳を押し付けた。

「あめ」

「何だ? 今忙しいから……」

「あげる、受け取って」

「後でだ!」

 少女は必死に悪魔に何かを渡そうとするが、悪魔もんな物にかまっている余裕は無い。時間的な猶予はほとんど無い上に、今も体から力が抜け続けているのだから。

「飴。あげる……」

 悪魔は少女が何を言っているのか分からない。そんなことに、かまっている暇は無い。

「私、悔しくて、あなたが嘘を吐くのが、悲しくて、だから、飴、あげる。私、怒っちゃって、でも、そうじゃなくて、あめ、あげるから、わたし……」

 少女の体からふっと力が抜けた。

「しっかりしろ、お前のことは助けてやるから」

 悪魔は少女の紅く染まる体を掻き抱き、必死に呼びかけるが反応はなかった。

 見る人が見れば手遅れだということを、瞬時に悟ったことだろう。いや、そういうことに対して、ズブの素人が見てもわかったかもしれない。しかし、悪魔はそれを認めたくなかった。

「起きろよ。まだ間に合うはずだから」

 死人のように色の抜けた頬を叩きながら呼び掛ける。しかし、その声は届かない。少女は出血により意識が朦朧としているようだ。

 時が経つと共に少女の体温は下がってゆくことを、少女を支えるために触れ合う腕が感じ取る。それは何よりも分かりやすい、死へのカウントダウンだ。

(助けてやる、じゃないと私の無駄死にじゃないか。……違う。あれ? そもそも、何故私はこいつをこんなに必死になって助けようとしているんだ? こいつが、違う。……駄目だ、意識が朦朧としてきた。このままじゃ、こいつが)

 死ぬかもしれない。そう思った瞬間、これ以上ないと言えるほどの恐怖に教われ、体が麻痺したように動かなくなった。

 指先が冷たくなり、足が強ばる。頭がじんじんと痛み、体が重くなる。悪魔は自分の体さえ支えきれず、少女の体に被さるように倒れてしまう。

「もう、時間切れなのか……? ……でも、まだ、契約は……」

(違う、そんなことどうでも良かった)

 悪魔は限界を感じるが、それでも精一杯少女を助ける術を模索する。

 両手に有らん限りの力を込め、再び上体を起き上がらせる少女。しかし、よし、と気合いを入れ直した瞬間、服の袖を少女に引かれる。

「もう、おわりなのかな……」

(そんなことはない、そんなことはない、そんなことになったら、困る)

 うわ言のように呟く少女。それに返事をしようとするが、唇に冷たいものを当てられ、気勢を削がれる。当たったのは白く細い少女の指だった。

 重傷の少女は悪魔の唇を撫でながら、しゃべり続ける。

「まだまだやりたいことがあるのにな……これから、しようと思ってたことがあるのになぁ……」

「しゃべるな。腹に穴が開いているんだぞ」

「だけどね、ひとつだけ……ひとつだけ、いっておきたいことが、あるんだ」

「黙れって! 助かるから……!」

 悪魔は叩きつけるように断定する。それは自分に対してであり、少女に対してであり、世界に対してであった。

「あなたには、しんじられないかも、しれないけどね……」

「後でどんな話聞いてやるから、黙ってくれ……! お願いだから……!」

 五感がほぼ全てきかない状態で、それでもしゃべり続ける重傷の少女を、悪魔は見てられなくなる。叫び声に、懇願の響きがが混じる。

「ゎ……は……で…………って……」

 ついに少女は声さえ満足に出なくなる。それでもしっかりと悪魔に告げる。今の自分のありのままの気持ちを。

「……せ、よ」

 最後の言葉。

 それを聞いた瞬間、悪魔の体が、本能に従って勝手に動き始める。

(……そうか)

 少女の言葉を聞き取った悪魔はそれを無理矢理止めようとするが、できない。

(それならば)

 先程までの緩慢さが嘘のように背筋を伸ばすと、悪魔の目が少女の顔を捉える。そして顔をガッチリと両手で押さえると、顔を近づけた。

 少女の手から力が抜け、飴が一粒転がり落ちる。

 見えてないはずの少女の目が、悪魔の目と確かに交差した。

 最後に、少女は小さく微笑むと――

(仕方が無い)

 静かに静かに目を閉じた。

 ――がぶり。

 がぶり。

 がぶ。

 が。



□ ■ □ ■ □ ■ □ ■ □ ■



 その部屋は薄暗く、むっとした血の匂いが立ち込めている。窓から斜めに差し込む光は、空気中の埃によってはっきりと筋を見せた。また、空気中に漂う埃も、その光によってその姿を見せている。

 その中で、むくり、と悪魔が上半身を起こした。

「……生きている……?」

 偶然だった。

 『戒め』を無視し、『誓い』を破り、悪魔は『罰』を与えられた。それは魂が溶けてゆくという、死を伴うはずの『罰』だ。

 しかし、悪魔の魂が消えてゆくその直前に、悪魔は少女の魂を喰った。それは空っぽになりかけた器に新たな水を注ぎ足したようなもので、そのおかげで、器が空になることは無かった。

 もしも、少女の魂を喰うタイミングが百分の一秒でも早かったら、少女の魂は悪魔の魂に取り込まれ、悪魔の魂と共に溶けていたことだろう。もしも、少女の魂を喰うタイミングが百分の一秒でも遅かったら、少女の魂は悪魔の魂には取り込まれず、ただただ空気中に溶けていっただろう。しかし、結果として、少女の魂は悪魔の魂に溶け、悪魔が死ぬことは無かった。

 それは、神の悪戯のような、偶然だった。

「……何で……私は……」

 『罰』を受けたことによって悪魔の魂は大いに磨り減った。それこそ、ただの人間とほとんど変わらない程度にしか、残ってはいない。

 しかし、死ななかった。

 少女は死んだのに、悪魔は死ななかった。

(どうしよう……。私は、何をすればよいのだろう……)

 悪魔の横には、少女()()()ものが転がっている。

 ほとんどのチカラを失った悪魔は、ただただ顔を伏せ、途方に暮れた。

 こんな感じでした。意見や文句がありましたらご自由にお願いします。

 読んでくださった方に感謝を。


 仁崎真昼

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