02 出会い
二月も終わりのある日のこと。
日が傾き薄暗くなってきた町並みの中、のんびりと歩く青年がいた。
その青年――大戸恭平は、二月の気温に対してやや軽装な格好で、暢気に鼻歌を歌っている。シンプルなティーシャツに擦りきれたジーンズ、足は素足にサンダルという姿で、思わず夏かと勘違いしてしまいそうだ。
そんな格好でも少しも寒がる様子は無いのは本人曰く、人は恒温動物だから、らしい。また、服装が明らかに浮いているが、他の人の目を気にする様子もないことも含むて考えると、世間一般で言うやや変わった人なのかもしれない。
恭平は今、馴染みの本屋に向かっている最中だった。
恭平は長い休みの最中であり、現在熱中している趣味は特にない。普段遊んでいる友人は多忙らしい上に、恋人はいない――というか、そういうことに興味がない。おまけに恭平は、テレビをあまり見ない。
端的に言うと、暇だったのである。
暇な時は何をするか。そう考えた結果、かなり古い漫画がたくさん並んでいる本屋で、懐かしの漫画達の立ち読みでもしようと考えたのだ。
そうして、特に迷うこともなく、目的の本屋に辿り着いたのはよいのだが。
「場所間違えたか……?」
恭平は目の前のものが信じられなかった。
そこにあったのはよく知っている建物では無く、雑草だらけの空地だったのだ。もちろん、古びた看板も、曇ったすりガラスも、やたら背の低い棚もなかった。恭平が町を離れているうちに、経営難で閉店していたのだ。
「……あ、ガラスが落ちてる。キレイだなー。けど、海で拾ったやつの方がキレイになってるよな」
恭平は、お気に入りだった本屋が潰れていることを認めようとしない。ショックの余り現実逃避をしているようだ。地面に散らばっているガラスを、弄っている――というか叩き割っている。
しかし、現実を見ないようにしても本屋は無く、状況は変わらない。
恭平は、帰るか他の場所を探すか葛藤した。
(折角外出したのだからどうにか見つけたいんだよなぁ。けど、何となく探しても見つからないような気がする。収穫無しってゆーのは面白くないよな……どうしよう)
恭平は気付いていない。潰れた本屋は探しても見つかる筈がないことは明白なことに。さらに言うと、この町には他の本屋も無いのでどうしようもない事に。そう、恭平はさっさと帰るべきだったのだ。
未練でいっぱいな恭平は、まだ現実逃避の影響が残っているのか、探すか帰るかを決めるのを、天に任せることにした。
「どーちーらーにーしーよーかーな。てーんーのーかーみーさーまーのーいーうーとーおーり!」
右を指す手を眺め、はたと気付く恭平。
「右がどっちか決めてなかった……」
独り言でボケてしまった自分を恥ずかしく思い、恭平は思わず辺りを見回してしまう。自分の弟がここにいたならば、盛大に突っ込みを入れていたのだろうな、と思いながらも道に誰もいないことに胸を撫で下ろした。
自分のアホさ加減に正気に戻った恭平が、もう帰ろうか、と思いだした時、唐突に携帯電話が鳴りだした。有名なクラッシックの曲で、どこかへ突撃でもしそうな勇ましいメロディーだった。
ポケットから取りだし、電話に出る恭平。物は派手な色というルールを決めている恭平のそれは、オレンジの折り畳み式の携帯電話だ。薄く軽いそれを恭平は気に入っていて、結構古い機種なのだが、いまだに大事に使い続けている。
「もしもーし」
恭平は相手をろくに確認もせず、間延びした声で応答する。
「兄ちゃん! どこにいるの? 腹へったから飯作ってよー」
まだ幼い男の子の元気な声が、スピーカーから響いてくる。恭平には八つ歳の違う弟がいて、その弟―−蒼からの電話だった。蒼はまだ携帯を持っていないので、自宅からかけたのだろう。
「……蒼か。今本屋を探してるところ。どこにあったかどわすれしちゃって」
自分でも薄々と察していながら、往生際悪く探してると言い張る恭平。そんな兄に蒼は、無邪気に現実を教える。
「へ? 本屋ってことは隣町まで行ってるの?」
「何言ってるの? 商店街にもあったよね、禿げたおっさんが経営してたとこ。あれが見つからなくてね、困っているんだよ」
「何言ってんの? あそこは潰れたって知ってるでしょ?」
「……? いやそんなわけが……」
「本当だって。去年の十月に工事してて、工事の音がうるさいって話をしたじゃん」
「……場所はどこにあったっけ?」
「商店街のところ。向かい側に駄菓子屋があって、よくそこでアイス買ってた。……覚えてないの?」
後ろを振り替えれば馴染みの駄菓子屋があった。そして、店を見た途端それを思い出した。
信頼する弟が明言するのに加え、自分の記憶もあるのだ。恭平も――例え現実逃避の真っ最中でも――信じるしかない。
どこぞの大怪盗だってこの現実から逃げ切ることはできないだろう。
「ありがとう……思い出したよ。……飯はすぐ帰って作るから。じゃあね……」
明らかに元気のない声で、弟に礼を言う恭平。精神へのダメージが大きいようだ。
「ん。ありがとー」
弟の元気な声を聞きながらピッと携帯を切ると、恭平はため息を一つついた。こういうひなびた町の、小さな本屋が潰れる事は、どうしようも無い事だ。それがわかっている恭平は、無くなってしまった本屋に思いを馳せつつ、辺りを見回した。
(諸行無常の響きあり、だねぇ)
何故か浮かぶ古典の一節を恭平は実感する。まあ諦めるしかない、と締め括り、家に帰ることにした。
しかし、本屋から目を離し足を踏み出そうとした、その時。
恭平の視界の端に何かが映った。
「ん……?」
足を止めそちらに目を向ける恭平。その目には、隠しきれない好奇の視線が混じっていた。
陽が傾いている上に、薄暗い路地の中だったのではっきりとは見えなかった。しかしそれでも、何か奇妙なものがあったと、恭平の本能が訴えるのだ。それに興味を持った恭平は、何の躊躇いもなく、スタスタとそちらに近付いていった。
恭平がまず思ったのは、何かが揺れているな、ということ。
そして、それなりに大きなサイズだな、ということ。そこまではまだよかった。
しかし、さらに情報を得ようと目を凝らした時、そこで起こっていることに絶句した。
(人が……浮いている?)
一人の少女が、まるで吊り上げられているかのように、地面から一メートル程浮いていたのだ。
白い足はユラユラと揺れ、少しの力も入っていない。分厚いクリーム色のコートを着てる事も相まって、風に揺られるてるてる坊主のようだ。
有り得ないと思いながらも目を凝らすと、少女の体の一部を何か黒いものが覆っていることに気がついた。特に銅の辺りを、締め付けるように。そしてさらによく見ると、少女が顔を醜く歪めている事に気付いた。
それが、苦痛を意味している事にも。
それに気付いた時、思わず恭平は声をあげていた。
「うわっ! どうしたの!」
狭い路地に恭平の声が響き渡った。
すると、声に反応したかのように、少女の体がぶるりと震える。そして、一拍置いた後、糸が切れたようにドサリと少女は地面に落ちた。
「あ……! 大丈夫?」
足から落ちたので少女に大きな怪我はなさそうだった。しかし捻挫くらいはしてる可能性もあったし、何より今の現象が気になった。それ故に恭平は声を掛けながら近付いた。
少女が苦しそうに呻く。
「う……」
「無理しなくて良いよ。頭は打ってない? 足を捻ったりとかも」
身を起こそうとする少女を優しく押し止める恭平。その目からは好奇の輝きは消えていて、純粋に少女の事を心配している。
少女の頭を支えた恭平は、改めて少女を観察した。
日本人にしては白い肌に、肩まで真っ直ぐに伸びた黒い髪。顔立ちは全体的に整っているが、顔色が悪く目の下には濃い隈があった。胴体は分厚いコートで覆われているので、はっきりしたことはわからないが、その体の軽さからかなり華奢なことが感じ取れた。
どこか幼い雰囲気があるので、中学生くらいの年齢だろうと恭平はあたりをつける。
(ロープやワイヤーで吊るされた跡は無い。引っ掛かりそうな場所も無し。一体何が……?)
恭平が観察している間に少女は意識がはっきりしてきた。そして、現在の状況――自分の傍に人間がいて、その人間に支えられているという状況――を理解した途端、恭平の手を払い、バッと飛び起きた。
当然、そんな反応は想定外で、恭平はうぉ、と声をあげる。少女はまだ苦しそうなのにも関わらず、サッと恭平と距離をとった。
素早くしなやかに、という表現が合う動作。その動きを見て暢気にも猫のようだ、などとという感想を抱く恭平は、また軽く現実逃避をしているのかもしれない。幼い少女に全力で拒絶されたという現実に対して。
呆然としている恭平を、少女は警戒心剥き出しで睨み付ける。その様子は肉食獣を彷彿させるが、瞳は動揺を映していて、何かに怯えているようだった。
暫し見つめ合う二人。空気は固く、気安く話しかける気にはなれなかった。恭平にそんなつもりは無かったはずなのに、膠着状態に陥ってしまった。
恭平がどうしたもんかと悩んでいると、少女が震える唇を開き、静かに質問をした。
「見たか……?」
その声は小さく震えていたいて、恭平の耳に辛うじて届くような音量だった。本来なら可愛らしい声であったであろうそれは、かすれて老婆の声のようだった。
そのとても小さな音に乗った、たった三文字の質問。それは主語も目的語もついておらず、何のことか恭平にはさっぱりわからない。しかし、やっと会話が始まったことに安心した恭平は、よく意味のわからない質問は置いといて、取りあえず会話を続けようとした。
「ちょっと警戒し過ぎじゃない? 僕は心配して見に来ただけなんだからさ。決して興味本意とかじゃ……あるな。まあ、そんな細かいことはあんまり気にしないでいきましょう。だからそんなに警戒しないで……あっ、それとも僕の顔はそんなに凶悪に見える? だとしたら少しショックだなー。これでも精一杯笑顔を作ってるからね」
いきなり饒舌にしゃべり始める恭平に、戸惑いの眼差しを向ける少女。
それも当然のことだろう。 目の前に突然見知らぬ青年が現れ、自分があからさまに威嚇しているにも関わらず、ベラベラと独り言のように話しかけてくるのだ。実際にあったら少し正気を疑うレベルの怪しさだ。
恭平は怪しまれていることに気付きながらも、全く気にせず喋り続ける。立て板に水とはこのことだろう、と感心できそうなほどだ。
「……そう言えば! まだ名前を訊いてなかったね。僕の名前は大戸恭平っていって――って、待って! どこに行くの!?」
べらべらとしゃべる恭平をじっと睨んでいた少女は、素早く身を翻す。そして、まだ話し続けようとする恭平を放置し、脱兎のごとく駆け出した。
その姿はか細い少女のものとは思えない速さで、あっという間に夕闇に溶けていった。
制止のために片手をあげたまま、茫然とする恭平。
「あれ? 何か失敗したかなぁ。頑張って緊張を解そうとしたのに……」
会話と称して一人しゃべりまくることで、緊張がほぐれると思ってる恭平は、少し常識が足りない。知っていても、考えようとしないだけなのかもしれないが。
「何だったんだろ……変な子だなぁ」
自分の事は棚にあげ、ぼやく恭平。しきりに首を捻るが、何か思い付くわけもなく、一旦放置することにする。
わからないことはその内わかるよね、と前向きなのか楽観的なのか、よくわからない結論をだし、恭平は家に帰ることにした。
「狭い町だ。また会うこともあるよね……たぶん」
少女の去っていった方向を見つめながら呟く恭平。軽い口調とは裏腹に、見詰める目は何故か真剣味を帯びている。
フイと目を上に向けると、既に空は群青に染まっていた。
「ありゃ。早く帰らなきゃ」
恭平は足早に家へと向かった。