中編
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変化は突然だ。
悪魔は少女と一緒にいる時間が楽しくなるほど、心のどこかにある違和感が大きくなって行くのを感じる。それは、ずっと同じ部分に絆創膏をしているような気持ちの悪さ。ほんの少しだけいつもより寝苦しいときのような息苦しさ。靴を履いたまま足の裏を掻いているようなもどかしさ。
耐え切れないほどではないが、決して心地よいものでは無い違和感。それは確実に悪魔の精神を蝕んで行っていた。
原因は分かりきっている。それは言うまでも無いことで、常に心の底にあったことで、おそらくあと少しで感じなくなるであろうことで、ひょっとしたら感じなくならないかもしれないことで、今更どうしようもないことだ。
悪魔は気づいていた。終わりの時が近いことを。
少女も気づいていた。別れの日は近いことを。
それの意味することは少女の死で、契約に従い魂を譲り渡すことだ。少女と悪魔はそれに気づきながらも、それについて深く考えようとはしてなかった。
常に無表情で無感情であろうとしている悪魔は、決して感情が無いわけではない。そうなるように、見えるように努めているだけだ。解決方法の不明な違和感は悪魔にやり場の無い苛立ちを与えていた。
――しかし、誰かが何かに悩んでいても、時間は気にせず進んでいくわけで。
(人間が多い……)
二人は今、近所で行われている花見祭りに訪れていた。
あまりの人の多さに悪魔は閉口する。ある程度予想していたものの、その悪魔の予想をロンダートで軽々と飛び越え、その上で高笑いされてる気分だった。端的にいうと、呆れていた。
二人は花見に来た。しかし、現在少女は花を見ていない。
「お前さ……何しに来たんだ?」
「んぐんご……何言ってんの、ん、うまっ、花見よ花見……やば、美味しい……」
「その割りには手もとの焼きそばをがっついているように見えるけどな」
ベンチに座って全力で買ってきた焼きそばを貪る少女に、悪魔はため息交じりに皮肉を浴びせる。少女はここに付いたかと思うとお腹が空いただとか言って真っ先に屋台へと向かい、焼きそばとかき氷を購入。その後四人は軽く座れるベンチを二人で占拠し、以来ずっとこうして焼きそばを食らっているのだ。正直呆れないほうがおかしい。
少女はきちんと噛んでいるのかと疑いたくなるほどの速度で焼きそばを食べながら、咀嚼の合間に返事をする。
「んん……何よ、あなただってかき氷食べてるじゃない」
「お前と違って桜を見ているだろう。お前はさっきから箸と焼きそばしか見てないじゃないか」
悪魔はやれやれと肩をすくめて見せた。
近頃悪魔の動作のバリエーションが増えていることに対して、我が子が育っていくところを見るような微笑ましい気持ちになっていた少女だが、その気持ちを少しだけ改める。悪魔は人を馬鹿にするための知識や技術まで溜め込んでいるのを思い知らされたからだ。
しかし、少女だって負けてはいない。伊達に悪魔と一緒に遊び続けてはいないのだ。
「ふふん、残念だったわね。私は地面に落ちた桜を見ているの。集まって生き生きと咲き誇る桜はきれいだけど、落ちて尚美しい桃色の絨毯というのも悪くはないのよ?」
「減らず口を……」
「負け犬の遠吠えね」
少女と悪魔はバチバチと火花を散らすが、こういうときの結末は既におなじみのものとなっている。
悪魔がすぐに飽きたとでも言うように顔を逸らして終わるのだ。
いつもどおりそのようにして終わった喧嘩とも言えない小競り合い。悪魔は無表情だが言い負かされたことを自覚して入るのか、少しだけ不機嫌そうだ。その横顔を盗み見した少女は、悪魔が珍しく感情を顕にしているのを見て、少しだけ良い気分になった。
悪魔が溶けたかき氷をストローで啜っていると、早くも焼きそばを食べ終えた少女が立ち上る。
「さ、腹ごしらえがすんだら次のことをしましょ」
「はあ? 次って、花見をしているんじゃないのか?」
怪訝そうな顔をして少女を見上げる悪魔は、至極全うな意見を言う。花見をしに来たのだから花見をする。それ以外に何かすることでもあるのか? と視線で問いかける。
しかし、少女はかわいそうな子を見る目で見られても全くひるむことは無く、とても楽しそうな顔をして言い放った。
「なーに言ってんのよ、私たちの前にはまだまだたくさんの屋台が待っているのよ? これを無視して花見なんてしてちゃ、屋台のおじさんたちに失礼でしょうが! そんなこと断固反対よ、徹底抗戦だわ」
「花には失礼じゃないのかよ」
少女の目は日の光を受けてかきらきらと輝き、同時に強い意思も感じ取れる。そしてその都合のいい耳の穴は悪魔の言葉をシャットアウトする。その様子を見た悪魔は、自分の中にある漠然とした諦めを感じ取った。
どうやら自分では、少女を止めることはできないらしい、と。
「しゃ、て、き! しゃ、て、き!」
奇妙な掛け声をかけながら歩き出した少女の横に、無表情を装いなおして悪魔は並ぶ。
「まあ、遊ぶのは別にかまわんが、金の扱いには気をつけろよ。金ってのはすぐに無くなるもんだからな」
「何その先人達の言葉! 見たいな言葉は。何か実感がこもっている感じがして怖いんだけど。ひょっとして実体験なの? 悪魔さん?」
思わずぐっと財布を握りなおした少女を見て、悪魔は鼻で笑う。
「そんなわけなかろう。欲しいものがあったら金など払わずに奪うからな」
「うん、そういう発言は人ごみの中では止めよう。すれ違う人たちの視線が痛いから」
少女は笑顔で悪魔をたしなめると熱気に当てられている悪魔の手をとり、しっかりと握り込む。その手が妙に暖かく感じたのたが、悪魔には些細なことだった。
少女はこれから戦にでも望むかのように、号令をかけ、走り出す。
「綿菓子にかき氷、クレープに大判焼き! 的屋に輪投げに金魚すくい! 時間はたっぷり、軍資金もたっぷり! さあ、行くわよッ!」
「はいはい、分かったから」
悪魔もそれにつられて走り出――さなかった。
「うわっとぉ! ちょっと、急に止まらないでよ!」
手を繋いでいた悪魔が止まったせいで、進むことができずに転びかけたことに口を尖らせる少女。しかし、悪魔はそんな少女を無視して、周囲に素早く視線を走らせている。
続けて文句を言おうとした少女だったが、悪魔のただならぬ様子を見て口をつぐむ。そして、恐る恐る悪魔に尋ねた。
「えっと、どうか、した……?」
悪魔はしばらくの間眉間に皺を寄せていたが、また普段の無表情に戻ると、ぼそりと呟いた。
「誰かに見られていたような……いや、なんでもない」
「そう。じゃあ行きましょ!」
少女と悪魔はしっかりと手を握り合ったまま、人の塊を掻き分けていった。
この祭りに来ることになった理由は、少女の部屋を訪れた瞬間に少女が語った言葉で十分だろう。
「やっほー! ねえ、元気? 不元気? それとも不機嫌かな? ふむふむ、不機嫌なのはいつものことだって? それはそうね、一本とられたわ、まあ、そんなことどうでもいいんだけどさ。このか弱い可憐な乙女の見本のようなわたしと違って、あなたは病気や病気や病気とは無縁そうだものね。ところでさ、本題に入るけどさ、妙鈴池でさ、桜が満開なんだって。桜は分かる? あのくねくねと気味の悪い幹をしているくせにやたらきれいな桃色の花を咲かせるアレね。……あ、知ってる。ま、いいわ、それでね、今日花見客向けのイベントとかやってて、屋台もたくさん出てるんだって。今日は良い天気よ。空は雲一つない快晴だし、風が強いというわけでもないし、わたしの粘膜が花粉警報を発令してもいない。――まさに絶好のコンディションだわ。おまけに今日は調子が良くて、私、外出したい気分なのよねー。……え? 何の茶番かって? いやね、そんな言い方無いじゃない、ただわたしは今日偶々耳にしたことを、なんとなくあなたに話しているだけよ。最近、室内の遊びもやり尽くした感が出てきたじゃない? 飽きてきたというか、疲れたというか……倦怠期? とにかくもう頭脳ゲームは勘弁。たまにはお外でデートっていうのも悪くないわよねー。……デートって言葉は分かる? 分からない? そう。なら秘密にしておくわ。それよりも、妙鈴池のことは知ってる? 凄くたくさんの桜が密集して生えてるから、散るときは本当に吹雪って感じなんだって。視界が桃色の絵の具を撒き散らしたようになって、ふわふわ浮いている気分になって、桃では無いのに桃源郷! ってね。誰でも一度は見るべきよ。……何が言いたいかって? ずばり、お花見に行きません買ってお誘いよ! 分かってったって顔してるわね。なら! 見事正解してみせたよゐこちゃんには、飴玉をプレゼントー! 要らない? 欲しいんでしょ? ほら受け取っちゃったんだから諦めなさい。飴ちゃん持って、鞄を持って、さあ、出発進行よ!」
だそうだ。
溜めを作っていはいるのに口を挟ませる隙を与えないという器用なマシンガントークを前に、悪魔は為す術なく連れ出されたのだった。
そして二人は屋台を巡っている。手を握り合ったままという動きづらい状態で。
ここでは湖を囲うように桜が植えられていて、その湖の中心近くにある島に、大量の桜が植えられている。同様に、屋台も湖を囲うように並べられているので、この祭りには『端』というものが存在しない。二人は全ての屋台を見て回ることができるように、湖をぐるりと一周するように歩いていた。
祭りを見てはしゃぐ少女は、とにかく朗らかでやかましい。
的屋を見つけてはその料金表とにらめっこし、金魚すくいでは真っ黒なでめきんの大きさを見て大騒ぎ。型抜きでは不要な破片を味見して、輪投げでは一番遠いところにあるものを獲ってやると闘志を燃やす。当然それらは日々の鍛錬で鍛えられた少女の敵ではなく、悪魔と一緒に数々の屋台の方の顔を引きつらせた。
また、それらの合間に少女は食べる。まるで自分の限界に挑戦でもするかのように、次々と食物を腹に詰め込んでゆく。
わたあめ、たこ焼き、クレープ、焼き鳥、カステラ。りんご飴、イカ焼き、フランクフルト、チョコバナナ、ラムネ。甘いものの比率が若干多いのは、今日だけは羽目を外すぜ! という少女の思いが籠められている。
当然悪魔も食べてはいるのだが、超人的な食欲を誇る少女のまねをできるわけはなく、する気もなく、途中で買ったラムネを横で大事に飲んでいた。
そして、少女の背負っている鞄が膨らみ、屋台の列をほぼ回りきったとき、少女が嬉しそうな声を上げた。
「ねえ、ねえ、今の聞いた?」
「何を?」
意味が分からない、と聞き返す悪魔に、少女はじれったそうに説明する。
「今すれ違った人たちの話よ! これから花火やるんだって!」
「生憎、赤の他人の話を盗み聞きする癖は無いからな」
聞いていない自分がおかしいとばかりの口調に、悪魔は少々むっとしながら答える。当然そこには皮肉付だった。
しかし、少女はそんなとげのある口調を全く気にせず、興奮した表情で話す。
「細かいことはいいわ! 私、前にもこの祭りに来たことがあるから、ちょっとした隠れスポットを知っているのよ! 行ってみない? 行くわよね? 行くわよ!」
空は既に茜を通り越して群青にに近い色合いになっている。この様子ならすぐに花火に適した夜空になるであろうことは間違いない上に、祭りの規模からして花火もそれなりの規模になるのだろう。少女のその独走っぷり意外には、特に何も問題はなかった。
「はいはい、嫌だって言ってもどうせ無駄なのだろう?」
悪魔にとってはいつもの軽口程度の台詞。しかし、少女はそこで予想外の行動を見せた。
「……嫌なの?」
突然、少女は眉を八の字にして悲しそうな顔をしたのだ。
あまりの意外さに、悪魔は一瞬言葉に詰まる。そして、悪魔は自分が少々――いや、相当の衝撃を受けていることに気付いた。
「……さあな」
悪魔はその答えは言葉を濁す。答え自体は自分でも疑う余地が無いくらい分かりきってはいたが、それをはっきりと答えるのは癪な気がしたのだ。
少女は黙ったまま、少しだけ顔を伏せた。
悪魔はほんの少しだけ、素直に答えなかったことを後悔した。
少しだけ居心地の悪い沈黙。それは少女が顔を上げて明るい声を出したことで破られる。
「……まあ、あなたに拒否権は無いんだけどね!」
「な――」
何を、と悪魔は言おうとするが、それを言い切ることはできなかった。何故なら、少女がいつの間にか取り出していた飴を、平手打ち並みの勢いで口の中に叩き込まれていたからだ。
当然、悪魔は慌てる。
「んぐ、ちょ、包み紙ごと口の中に入れるな!」
「あははは、あなたが焦っているところなんて始めてみたかも」
吐き出そうとする悪魔を見て笑い声を上げる少女は、既に先ほどまでの笑顔に戻っている。
悪魔はそれにいつも以上の無表情で返事をしながら、飴を手の中に吐き、包み紙を剥いで飴を舐める。吐き出して少女に叩きつけてやる案も頭に浮かんだが、それは少しだけもったいない気がしたので止めておく。その代わりに唾液まみれの包み紙はくしゃくしゃに丸めて投げ捨てた。
「あー、いけないんだ! そんな悪い子はおまわりさんに捕まっちゃうぞ!」
少女はそう叫ぶと同時にぐい、と手を引っ張り、手を握られている悪魔もそれに引き摺られてずんずんと歩き始めた。
「お、おい、あんまりスピードを出すとぶつかるぞ」
「平気平気! どれだけ華麗に人ごみを抜けれるか挑戦しなきゃ!」
悪魔の(珍しく)常識な注意も聞く耳持たず、少女はするすると人と人の間をすり抜けていく。
祭りのときの道の混雑というのは常軌を逸している、そう悪魔は思う。どこからこれだけの人数が出てきたのかと思うほどの人間が集まり、歩道どころか車道まで自分達で埋め尽くすのだ。一メートル先には必ず他人がいて、自分の思うペースで歩くことが非常に困難ですらある。
急速に闇の色を濃くしていく通りには次第にカラフルなイルミネーションが輝きだし、特に大きな桜の木はライトアップされる。視界を流れる景色は、ほんの少しだけ普段より現実感が薄い気がした。
小さい子を連れた家族の横を通り、仲のよさそうな学生の集団の横をすり抜け、ばらばらに歩く人々の間を縫っていく。少女は少しも止まることはなく、まるで道があるのかというほどスムーズに進む。
一心不乱といった様子の少女に、悪魔は無表情に問いかけた。
「そんなに気になるのか? あんなもの、ただの爆弾だろうに」
「もう、ロマンの無いことを言わないの。どうせ見るなら、なるべくきれいな状態が良いでしょう?」
少女は小さい子をたしなめるような口調で答える。少女は悪魔の不満にも一切自分のペースを崩すことはない。
悪魔は何も言い返さず、再びただ手を引かれるままに歩く。そして、 口の中で静かに溶けていく飴を味わいながら、前方を歩く少女の鞄を眺めた。
――唐突に少女が道を逸れる。
悪魔は腕を急に左に引っ張られ、思わず転びそうになる。少女が人混みの中を進むことをやめ、山道を行くことにしたのだ。悪魔は一瞬、人ごみの中を歩くことに飽きたのか? と疑問に思ったが、少女が何かを目指すように迷いなく進むので、おそらくその先に目的地があるのだろう、と思い直した。
悪魔は顔にかかりそうになるくもの巣を手で払いながら、ぶつくさと少女に文句を言う。
「もう少し人間が通りそうな場所にしてくれよ。歩き難くって仕方が無い」
「あら? あなたにそんな注文を出されるとは思わなかったな」
少女はそう言ってクスクスと笑うと、もう一言付け加えた。
「私だって辛いんだよー。なんたって走ること自体、ウンヵ月ぶりなんだから。現代っ子舐めちゃダメだよ」
少女はまたクスクスと笑う。
少女の息は傍目から見ても分かるほどに、既に荒くなっている。体力的な余裕は無いはずなのに愉快そうな少女に、悪魔は苦笑するしかなかった。
崖と形容しても問題は無いほど、少女達が上っている坂の傾斜は大きい。道ではないので均されているわけではなく、気を抜くと雑草に脚をとられてしまいそうだ。顔を叩いてくる木の枝も煩わしかった。
しかし、そんな状況でも全く速度を落とさずに少女は走り続ける。内臓の一部を別の生き物に変化させている悪魔はまだまだ余裕があったが、少女の様子が少し不安だった。
「おーい。大丈夫か? 歩いてもいいんだぞ」
「大、丈夫っ。もう、少し、だか、ら!」
少女の返事はまるで自分を叱咤しているようだ。全く大丈夫そうには見えないが、死にそうな訳でもないので、悪魔もそのまま走り続ける。
少しの間無言で走り続けると、大分高い位置まで登ってきたことを、悪魔は空気で感じ取った。
「もうちょっとだな。頑張れ」
「余裕、そう、な、のが、ムカ、つく! せりゃっ!」
前方に背の高い雑草が形成した藪が見える。
少女は息も絶え絶えになりながら、掛け声と共に藪を抜けた。ガサガサと掻き分けたときに少し傷ができたが、少女は悪魔に振り返った。
「ほらね! 間に合ったでしょ?」
視界が開けるとそこはせりだした崖の縁で、祭の様子が一望できた。
ライトアップされて淡く光る桜が、深い夜の色をした湖にその姿を映し出す。屋台の灯りは点々と輝きその湖の外周を示す。赤、緑、白、青、とさまざまなライトが、照らし、反射し、輝いている。
予想外の見晴らしのよさに悪魔が思わず目を奪われると、少女がニヤリと笑った。
「悪くないでしょ」
何となく、素直に返すのが悔しくて、悪魔は返事をしなかった。何が悔しいのか、何故返事をしたくないのか、理由はさっぱり分からない。ただ、漠然と、返事をしたくないと思ったのだ。
悪魔はそのまま崖ギリギリにドサッと座り込むと、顔を上げて夜空を眺めた。
夜空は雲が立ち込めているわけではないが、月だけは雲で隠されている。もう少ししたら雲が風で流され、月が顔を出すであろうことは間違いない。
(ああ……これは……)
「綺麗だね……とても、とても」
いつの間にか悪魔の横には少女が座っていて、同じように夜空を眺めている。
悪魔がはっきりと言うことができなくて、心の中で呟いた、ああ綺麗だ、という言葉と共に――
夜空に大きな花が咲いた。
「わー! すごい、大きい!」
悪魔がこっそりと感嘆の息を零す横で、少女が盛大な歓声を上げる。
花火大会が始まったようだ。
湖上から花火が次々と打ち上げられ、それに伴って火薬が炸裂する音がワンテンポ遅れて届く。光と音が全然あってなくて、まるで容量の多い動画を無理やり再生しているようなちぐはぐさ。どこか別の世界を画面の外から眺めているようだ。
悪魔の視界の中で緑色の大きな花が輝いたかと思うと、その横で小さな花火がはじける。少女が指差した赤い花火はすぐさま白に変色し、今度は紫に変わる。悪魔の正面で特大の花火が輝き、少女は思わず次に来る音に身構える。破裂した花火がさまざまな方向へ拡散する。予想とは待った区別の箇所で小さな花が輝く。湖上から連続で花火が吹き上げられる。
一秒にも満たない時間だけ輝いたかと思うと、すぐさま闇に溶けてゆく輝き。
それらはまさに、一瞬で咲き誇り散って行く『花』だった。
悪魔には分からない。何故こんなものに心を乱されるのかが分からない。
一瞬で役目を果たし、あっという間に消えていく。燃えることが役割で、輝くことが役割で、その役割を果たした末に消えていくはずなのに、何故それに哀しさを感じるのか。悪魔は自分の心の中の靄が、暴れだしそうな気がした。
悪魔が動揺を抑えるために少しだけ顔を伏せると、不意に少女が話しかけた。
「花火って素敵だよね」
悪魔は答えない。いや、心の高ぶりを抑えることに精一杯で、答えることができない。
少女はそれをいつものこととばかりに一人、花火を褒め称える。
「どおんって音で、さあ来るぞ、って気合が入って、ぱーんと弾けてきらきら輝いて、すうっと夜空に溶けていくの。絵柄を作ろうとして少し崩れちゃってるのも愛嬌があるし、音と光のタイミングがずれてるのも乙よ。……本当に、綺麗。火の花ってネーミングも最高だしね――」
少女の無邪気な声を聞いているだけで、何故だか悪魔の苛立ちが急速に高まってゆく。
悪魔の感情が、悪魔を無視して走り出そうとする。
「――まさに、一瞬の美ってやつだよねー!」
空を眺める少女の顔は、これ以上なく幸福そうだ。まるで世の中の不幸とは全く縁が無いとでも言うように、やさしくやさしく微笑んでいる。
理由は分からない。しかし。
何故だか、それが、酷く――悪魔の癇に障った。
「お前も。……お前も、一瞬の美ってやつを求めたのか?」
気付いたときにはそんな刺々しい台詞が、悪魔の口から漏れていた。
何か聞き間違いをしたのではないかとばかりに、少女の笑顔が凍りつく。
ああ、だめだ、と悪魔は思う。しかし、そんなことはかまうものかとばかりに、心の奥から刃を持った言葉があふれてくる。
悪魔は次々と言葉を投げかける。
「何故死ぬと分かっていてこんな契約をした? 契約などせずにそのまま生きていれば、退屈ではあろうが平和に暮らしていけただろうに。お前の願いは、お前の魂との交換なのだ。おろかではあるが馬鹿で葉にお前はそれを理解していたはずだろう。お前は何を求めた? 刺激か? 幸福か? それとも孤独を埋めてくれる何かか? そんなもの楽をしようとなどと思わなければ、お前ならばいくらでも手に入れれただろうに。違うか? お前は一時の快楽を選んだのだろう?」
口が勝手に意思を持っているかのように動き、止めることができない。顎が呪詛のような言葉を吐くために開閉し、舌が猛毒を吐き出そうとでもするようにくるくると回る。悪魔の脳さえもそれにつられてヒートアップし、自分の制御下から離れていっているようだ。
――息が酷く苦しい。
――呼吸さえできていない気がする。
それ以上は言うな、それ以上は言ってはいけない、という悪魔の思考も、ブレーキの役目を果たすことはできなかった。
そして。
「なあ、もうすぐ死ぬっていうのはそんな気分だ?」
悪魔は少女を傷つけるための言葉を吐き出した。
少女の顔からすっと笑顔が抜け落ちる。その顔は悪魔がぞっとするほど、完璧な無表情だった。
「……何で、そんなことを、言うの……?」
その声には深い深い悲しみが籠められているように、悪魔は感じた。何故、そんなことを訊くのか。何故、そんなに攻め立てるような口調なのか。何故、そんなに冷たい声を出しているのか。何故、今訊くのか。
悪魔はやってしまったとばかりに表情をゆがませそうになる。それをこらえた結果、いつもの無表情は無表情ではなく、相手を軽蔑しているような冷酷な表情になってしまった。
悪魔は少女に謝ろうとして、ふと気付いた。誤る理由が無いことに。
何を謝らなければいけないのか。少女に不躾な質問をしたこと? 悪魔はただ疑問に思ったことを質問しただけだ。少女に心無いことを言ったこと? 確かに悪魔の意思で言ったことではないが、述べた言葉は全て嘘ではない。少女を傷つけたこと? 悪魔はそのうち少女を更に傷つけるのだ。そんなことは悪魔にとって理由にはならない。
結果、悪魔は何も言わずに、ただ少女の瞳を見つめる。
少女はじっと悪魔を見つめ悪魔の意思を読み取ると、目に失望を浮かべて吐き捨ててた。
「やっぱり、人間と悪魔は、友達にはなれないんだね」
低く低く、どこか濁って聞こえる音。
その言葉に何も言い返せない悪魔は、少しだけ動揺したそぶりで少女を見る。
「……安心していいよ。魂はあげる。ただ、こっちにも色々準備があるから、一週間後にでも私のところに来て。そしたらあげるって誓うわ」
そう低い声で少女は吐き捨てると、くしゃっと顔をゆがませて、今にも泣き出しそうな顔をした。
「さよなら」
少女は後ろを振り向くことなく、来たときに通り抜けた藪に向かって走りこむ。あまり乱暴に通り抜けると怪我をするのだが、少女にそんな些細なことを考えている余裕は無かった。一秒でも早く悪魔のいない場所へ行きたいとでもいうように、逃げていく。
悪魔はその一部始終を、無表情に眺め、小さな声で呟いた。
「……そうかもな」
ひゅるひゅるとこの場の空気にそぐわない間抜けな音を立てて、一筋の光が上って行く。その花火が弾け、輝き、涼やかな音を立てて降り注ぐ中、そんな二人を眺めていた一対の目がある。
当然、動揺の真っ只中にいる悪魔は、全く気付いていなかった。




