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変人と悪魔  作者: 仁崎 真昼
赤:変人と悪魔
12/20

12 悪魔

 まつりとデートをしてから一夜明け、現在の時刻は午後三時。恭平は今日も町を徘徊していた。

 恭平には、昨日なぜああなったのか、全くわからなかった。いや、あれを理解するのは、恭平でなくとも無理だっただろう。あの、狂態とでも呼ぶべき有り様を、明らかにまともではない彼女の思考を理解することは。

 恭平は今朝蒼を送り出すと、それ以来ずっとまつりを探し続けている。探し出して何かをしようというつもりは、恭平には全く無い。ただ、まつりのことが心配で、あのままだとどうにかなってしまいそうで、取りあえず目の届くところにいて欲しかったのだ。

 しかし、昼御飯も食べずに探し始めて、早七時間。まつりの姿はどこにもなかった。

(困ったな……なぜだかわからないけど、何となく不味い気がする。早く見つけ出さないと……)

 人が泊まることができそうな廃墟や空き家を、手当たり次第に探しているのだが、一向に痕跡さえも見つからない。漠然と感じる嫌な予感は、時間と共に広がるばかりだが、それらは焦りを大きくするだけ。この町は該当する箇所が多すぎるのだ。

「うーん……ここにもいない」

 空き家の戸を強引にはずし、中を確認するが誰もいない。思わず恭平が乱暴な手段を使っているが、それぐらい焦っているのだ。

 恭平の脳内にインプットされている廃墟等の情報は、すでに八割がたがその価値を失っている。恭平はこの町の情報については、別に疎いわけではない。いや、むしろ日々の散歩により、普通の人より圧倒的に詳しいといってもよい。しかし、その恭平が探しても未だに手掛かりすら見つからず、逆に情報は減っている。

(もうこの町にはいないのかもしれない)

 どんどん減ってゆく、『まつりがいるかもしれない場所』。恭平の頭に諦めがよぎるが、それでも足は止まらない。

「まつりちゃーん! いない!? 少しだけ用事があるんだけど!」

 廃墟に入り込み声を張り上げるが、反応はなし。それでも諦めず、ひとつひとつ部屋を確認して行く。

(いない……いない……いない。いないなぁ。……もうこの町にはいないのかな? あのままどこかへ走り去ってしまったのかな?)

 恭平は心の中で自問自答を繰り返す。

 恭平の目には、あの時、まつりが泣き出しそうに見えたのだ。憎しみの言葉を吐きながら、虚空を睨み付けていたまつりが、涙をこらえる子供のように見えたのだ。

 その表情がちらついて、恭平の頭から離れない。それが焦りをさらに大きくしている。

「ここにはいない。こっちは……いない」

 この廃墟にもいないのか、と恭平は諦めかける。しかし、いくつかの部屋を確認せずに去ろうとしたその時、微かに人の話し声がした。

「……ぁ…………ぁか……」

「まつりちゃん?」

 恭平は声がした部屋の戸を開け放ち、勢いよくその中に入る。して、それと同時に、部屋の中で起こっていたことに言葉を失った。

「え……?」

 まつりがまるで出会ったときのように、宙に浮いていた。

 ただし、初対面の時と違い、コートはズタズタに引き裂かれ、左腕は血まみれだ。しかも、浮いている高さは地面から二十センチほど。そして、もっとも大きな点を挙げるならばそれは――

 蝙蝠のような漆黒の翼を持つ男が、まつりの首を絞めているという点だった。

 その男の赤い目は異常に大きく、産毛一つ生えていないその頭部は異様なほど前後に長い。腕や足は棒切れのように細く、指や爪先には鈎づめが生えていた。その上一糸纏わぬ姿で、その滑らかな漆黒の肌を惜しげもなく曝していた。

「君は……?」

 思考が停止すると共に、動作も止めてしまった恭平は、まさに隙だらけといった状態になる。そんな隙を男が敵ならば逃すはずがない。

 ダンッ、と音をたててて男が跳んだ次の瞬間には、恭平は壁に叩きつけられていた。

「がっ……!」

「■■■■■■■■■■■■■? ■■■……■■■! ■■■■?」

 独り言のように呟いた後に、恭平には意味のわからない言葉でまつりに向かって呼び掛ける男。地面に投げ落とされたまつりは、息を整えながら無表情に答える。その表情からは、何一つ感情が読み取れなかった。

「■■き■ぁあーくぅ……げほっ、ごほっ! ……知らんな。偶々紛れ込んだのだろう。放っておけば良いだろう、そんな塵」

 それに対してまつりは恭平には理解のできない言葉で返事をしようとするが、うまくできずに諦める。そして吐き捨てるように男に答えた。

 右手に持っていた血塗れの鉄片を投げ捨て、フム、と男は考え込む。そして、喉の調整をするかのようにに、三言声をあげると、唐突に日本語で恭平に質問をした。

「■■、Ahー、あー……よし。お前は、こいつの知り合いか?」

 こいつ、の部分で男はまつりを指差す。恭平はその男に言い様の無い恐怖を感じた。

 恭平は軽く息を吐く。

 こういう場面ではどういう返事をすべきなのだろうか。

 問い掛けの内容はまつりと知り合いか否かということ。

 目の前にいるのは奇妙な見た目をし、凄まじい力を持つなにか。自分に明らかに害意を持ち、また実際に攻撃をしてきた。

 そんな危険な奴に、そいつのターゲットらしきまつりとの関係性を訊かれたのだ。ここはは否定しておくべきなのだろう。実際にまつりは恭平のことを庇うように、既に否定してくれている。

 普遍的なケースでの対応などは置いておくとして、命を大切にするのならば、否定することがベストだった。

 それくらいは恭平にもわかっていた。

 わかっているだけだった。

「塵ね……それは随分な言いぐさじゃないかなぁ」

「何だと?」

 訝しげに男が睨んでくる。

 まつりがものすごい形相で睨み付けてくるが、こうなったら恭平は止まりはしない。ただひたすらに、我が儘に、行動するだけだ。恭平のスイッチ――地雷といった方が適切かもしれない――が入ってしまったのだから。

「いやぁ、いきなり人に暴力をふるっといて、こいつを知ってる? とか、マジでないだろ。素直に答えるとでも思ってんの?……あんたは無駄に偉そうだし、変な格好して意味わかんない言葉を使うし、まつりちゃんはそれを理解してるし。おまけにまつりちゃんは僕と他人の振りをしようとする。何だろう、物凄く……イライラする」


 恭平の表情が、薄っぺらい笑いを張り付けたようなものに変わっている。それは、決して無表情ではないけれど、完璧な微笑(ポーカーフェイス)だった。

 一方、男は不思議そうな表情をしている。まつりが嘘をつく理由がわからなかったのである。

「つまり、知り合いなのか?」

「うるさいから黙ってくれよ、ハゲ。僕は君と話をする気は――」

 男の腕がすさまじい速さで動く。

「舐めた口を利くなよ? 人間。このまま絞め殺してやろうか」

 首をギリギリと絞められ、言葉を無理矢理切らされた恭平。しかし今度は呻くこともせず、微笑したのままで男をじっと見つめる。その様子は誰が見ても、異常だった。

 息をするのも辛いはずなのに、唇を吊り上げて恭平はしゃべり続ける。

「はっ! まるでお前は人間じゃないような言い種だな。の割りにはしっかり人間の言葉をしゃべってんじゃねぇか。はっきり言ってダサいっ……!」

 敵に殴られて、恭平は再び壁に叩きつけられる。しかし、それでも恭平は声をあげず、表情も変わらない。ただ微笑みながら毒を吐くだけ。

「人間などという下等な生物と一緒にするな。お前らの言葉なぞ喰い(・・)さえすれば、簡単に理解できる」

「嘘くさっ。どこの食人部族の言葉だよ。宇宙人みたいな格好しやがって」

 その様子に苛立った敵は、さらに殴ろうと拳を振り上げる。

「やめとけ、そいつが死ぬぞ」

 淡々と告げるまつりに対して、特に感情を見せることもなく、男は恭平を殴り付ける。顎に直撃したそれは、さすがにダメージが大きいようで、恭平もしゃべることができなくなった。

 男は恭平が沈黙したのを確認すると、くるりと振り返りまつりの方を向いた。それはやけに芝居掛かった動作で、一見優雅に見えないこともない。

「どうしたのだ? この人間が死ねば、得をするのはお前だろう? なぜ止めるのだ?」

「お前のためを思って止めてやったというのに、何が気に入らないんだ?」

 不思議そうに問いかけてくる男に、まつりはやれやれ、と肩を竦めて見せる。しかし、おどけた仕草とは対照的に、表情は凍りついたままだ。心の中を見せまいとする、意思がはっきりと見てとれる。

 しかし、その無表情も、男の次の言葉で揺らいだ。

「ほう、先輩の経験談、というやつか? それならばありがたく頂いておこう」

「……どうやらお前は、死にたいらしいな……」

 まつりの無表情が崩れ、激しい怒りが見え隠れし始めた。その怒りの詳しい理由は、男にはわからない。しかし、それが人間に起因していることは明らかなので、そこから崩してゆけば殺せると思ったのだ。

 まつりの肉体、ではなく精神を。

「何故怒る? お前をバカにしたからか? 違うな、そうじゃない。お前が殺した人間をバカにしたからだろう? 必死なのだな、たかが人間のために」

 その言葉に、いとも容易く動揺するまつり。一度心を揺らしてしまえば、鎮めたままでいることは困難なのだ。

 男の策略は成功していると言える。しかし、男は違和感を感じ、それが何なのかはっきり掴むことが出来なかった。

「呆れるな、人間ごときのために、我を忘れ、怒り狂う――」

「うっせーな、ハゲ。お前の声って聞いてるとイライラすんだよな」

 ろくに返事もしなくなったまつりに、いたぶるように言葉を投げ掛けていると、またもや邪魔が入る。恭平の意識が戻り、ある程度まで回復したのだ。

 壁に打ったとき切ったのか頭から血をだらだらと流しながらも、恭平はしゃべることを止めようとしない。完全に口調も変わっていて、普段の丁寧さなど、欠片もなくなっていた。

「つーか、言ってることが臭い。聞いてると痛い。お前が何なのかは知らないけど、日本語は勉強し直した方がいいよ」

 恭平の暴言に、またもや男は苛立ってくる。

「もう二度としゃべることが出来ぬよう、その舌を引っこ抜いてやろうか」

「お! リアル閻魔様? やれるもんならやってみろよ」

 あくまで相手を挑発することを止めない恭平は、手のひらを上にして右手を伸ばすと、人差し指を軽く曲げた。言うまでもなく、挑発のポーズである。

 まつりは少し慌てた様子で、それを止めようとする。

「だから! いい加減に……」

 そのまつりの慌てる様子を見たとたん、男は違和感の正体を掴んだ気がした。追いかけている間中、ずっとまとわりついてきていた、それの正体を。

(そうだ、何故奴は私を止めようとする? 私が人間を殺すわけないことなど、わかりきっているはずなのに。簡単なことだ、万が一(・・・)が怖いからだ。しかし、その万が一(・・・)が起これば、奴は助かる。それなのに何故止めるのか? この人間の命がそれほど大切(・・)だからだ。自分が助かるために見捨てられないほどに。自分の命と同じぐらい(・・・・・・・・・・)に。つまり、奴は人間を、守ろうとしている(・・・・・・・・)

 そうして、男はひとつの結論に辿り着く。

「これではまるで、人間のよう(・・・・・)ではないか――」

 今まで敵が感じていた違和感とは、思考のズレから来るものであった。彼らにとって、人間はただの餌。それらのことを想うなんて、本来ならばあり得ない。

 人間の思考に染まり、人間を大切に思わない限りは。

 何故なら、まつりは――

「人を喰らう、悪魔(・・)のくせにな」

 悪魔、なのだから。

 まつりの顔がはっきりと歪む。それは薄々感じていたことをはっきりと指摘されたからかもしれないし、知られたくないことを知られたせいかもしれない。

 しかし、まつりはそれをはっきりと悟らされてしまった。もう知らない、では収まらない。

 恭平は無表情を貫いているが、動揺を隠しきれていない。まつりの目にもそれははっきりとわかった。

 それも当然だ、と思いながら、まつりは目を逸らすことしかできなかった。

 一方、悪魔は驚くが、それもあり得ることは知っていた。長く人間と一緒にいる内に、人間らしい思考を持ってしまう同族がいると聞いたことがあるからだ。そして、決定的な弱味を握ったとばかりに邪悪に笑う。何故なら、その場合効く手段が一つあるからだ。

 情というものを持っているがために有効な手段が。

「そうと決まれば、やることは簡単だ。今晩、あそこの丘にある建物に来い。来なければ、そうだな……お前の養父(ちちおや)という人間が、地獄の苦しみを味わうことになる。それで駄目なら義弟(おとうと)か? それでも足りないならば級友(お前と一緒にいた奴等)全員だ」

 それは人質。

 大切な人を人質にされるだけで人間は動けなくなる。悪魔ならば簡単に見捨てるが故に意味の無いそれも、人間にはこれ以上無いほどの鎖だ。

 まつりの顔がさらに醜く歪む。

「では、楽しみにしているぞ。お前がどちらを選ぶのか、をな」

 そう言い残すと音をたてて男は翼を広げ、それと共にゴゥ、と強烈に風が吹く。男は二、三メートルはある翼を叩きつけるようにはためかすと、無駄に広い窓を粉砕しながら飛んでいった。

 割れた窓から風が吹き込んでくる。

 恭平はそれを無表情に眺め、まつりはただ俯いていた。



「うわっ! 何でまつり姉ちゃんと一緒に? って言うか、血塗れだし傷だらけだし、何があ――」

「ごめん。後にして」

 玄関で出迎えてくれた蒼が驚愕の声をあげるが、恭平は平坦な声でそれを切り捨てた。普段とは全く違う様子の兄に、蒼は少し面食らうが、すぐに何かを察したように真剣な顔になった。

恭平は定期的に――極たまにだが似たような状態になるのだ。

 あの後、まつりは俯いたまま黙り込み、全く動くことが出来なかった。ついに、敵に知られたくないことを悟られ、逃げ場が無くなってしまったことに加え、恭平にまで正体を知られてしまったのだ。それも当然のことなのかもしれない。

 まつりの脳内では様々な思いが錯綜し、何をしたいのか、何をしてよいのか、さっぱりわからなくなってしまった。

 呼び掛けても返事をせず、動こうとしないまつりに苛立ったのか、いつの間にか無表情になっていた恭平に、まつりは家に連れて行かれた。そして現在、じっと俯き自分から動こうとしないまつりが、強引に玄関の中に引き入れられたところだ。

「……うん、わかった」

 蒼は繰り返し訊ねる様子もなく、じゃあ僕は自分の部屋にいるよ、とすぐに引っ込む。それを横目に見ながら、まつりは恭平に引っ張られて行く。ただし、まつりは左腕を怪我しているので注意深く。

 一言も言葉を発さずまつりを居間に引き入れると、無理矢理椅子に座らせる恭平。まつりが座ったままどこかに行きそうもないことを確認すると、恭平はごそごそと棚を漁り始めた。

 部屋にとても人がいるとは思えないほどの沈黙が広がる。

 まつりは微動だにせず、ひたすら感情を整理する。恭平はひたすら棚を漁り、時おり何かを取り出す。時計の秒針が刻む音が、やけに大きく響いた。

 不意にまつりが恭平に声をかける。

「……私は人間じゃない。強いて言うならば悪魔という種族だ」

 予想外の告白に、棚を漁っていた恭平の手が一瞬止まる。

 普通の状態ならば一笑に付す言葉だ。しかし今は先程の出来事により、人間じゃないものが存在するということが、恭平にもわかっていた。だからその言葉を信じられるし、信じてしまう。例えそれが、昨日まで人間だと思っていた少女が、少女自身の口から発した言葉であろうとも。

 恭平は振り返ることはせず、また棚を漁る。まつりには恭平が何を考えているかを、その姿から察することは出来なかった。

 まつりが口をつむぐと、再び沈黙が流れる。まつりがそれに耐えかね再度口を開こうとすると、恭平はボウルに水を汲みまつりの向かい側に座った。

「……そうなのかもしれないね。翼は無いみたいだけど」

 恭平は淡々と手の中のものを机に広げる。机には、消毒液、湿布、傷薬など様々な医療品が並べられた。

 乱雑に並べられたそれらを見て、まつりははっきりと表情を固くする。

「何をする気だ? 私は人間じゃ無いって言ったはず」

「とりあえず、治療。破傷風とかは怖いしね」

 まつりの抗議を遮りながら、恭平は、タオルを手に取り水で濡らす。そしてまつりの怪我している手を強引に机の上に固定した。

「やめっ……」

「掻き傷か。消毒して……絆創膏は意味無いな……」

 恭平は自分の抗議を全く聞き入れる様子は無く、静かに傷を診る。その表情になぜか恐怖を感じたまつりは、思わず荒い声を出した。

「やめろ! 私は人間とは違うんだ! こんなこと必要無い!」

「けど人間に見えるし、血が出ている」

「これは人間の姿をとっているだけだ! 私たちにはそういうチカラがあるんだ」

 無表情で簡潔にしゃべる恭平に、まつりは声を張り上げる。その様子は駄々をこねる子供のようにも見えた。

 どうしても主張を曲げそうにないまつりに、恭平は小さくため息をついた。

「……これから話をしようってのに、相手が怪我をしてては落ち着いて出来ない。だから、血を止めるだけ」

 勢いのまままつりは抵抗しようとしたが、話をするという言葉を聞き、心臓が止まりそうになった。どう前向きに考えても、それを良い意味にはとれなかった。

 それについて詳しく聞こうとしたまつりは、情けないことに声が震えてしまった。

「は、話って……?」

「それは後」

 簡潔な恭平の言葉はとても素っ気無く、それゆえにまつりに鋭く突き刺さる。まつりは抵抗をやめ、恭平の真意を考え始めた。

 恭平はまつりが大人しくなったのを感じ取ると、少し腕の力を弛め、治療に専念し始めた。

 左腕はひどい有り様になっていた。浅くは無いが深すぎることも無い引っ掻き傷が、腕の表面を覆うようにびっしりと刻まれているのだ。恐らく苦痛を与えるために付けられたであろう傷は、肘の辺りに重点的にあり、一生消えることは無いと思われた。まつりが気にするかどうかは別としても、酷い傷だった。

 まず、腕を水で濡らしたタオルで拭う。その際相当な痛みが走ったはずだが、まつりはこんなもの屁でもないとばかりに強がって見せる。次に、ポケットから出したハンカチを消毒液で湿らせ、まつりの腕に押し当てる。それもかなり痛いはずだが、やはりまつりは反応をしない。恭平も全く気にせず、作業を進めていった。

 まつりは真剣な顔をして、ひたすらに思考する。

 現在の状況、今までの経緯、これからの見通し。恭平の考え、敵の目的、そして自分の気持ち。それらを踏まえた上で、自分のやるべきことを探す。

 恭平は白いクリーム状の傷薬をぬり、その上から包帯を巻いていった。それはお世辞にも上手いとは言えなかったが、優しい手つきで丁寧に巻かれていく。肘関節を無視して巻かれたので、腕を伸ばすこと出来なくなった。

 恭平が一応の手当てを終え、包帯を肩の辺りで結ぶと、まつりの方に向き直り正面から顔を見た。

 その目を見た瞬間、ただし、の顔が微かに歪んだ。そして、どうやらまつりはひとつの決意をしたようだった。

「さて、話なんだ――」

「私は人間じゃない」

「うん、それはわかっ――」

「私は人間じゃない」

 恭平が話を切り出そうとすると、まつりはそれに被せるように繰り返し同じ台詞を吐く。その口調はとても静かで、恭平もそこから何かを感じ取った。まつりの様子を窺うように口をつぐんだ。

 じっと自分の方を見てくる恭平に対して、まつりは機械的に話し始めた。

 今まで、必死に隠してきたことを。

「私は夜の世界から来た。人間などいない、異なる世界からだ」

 そこで一度言葉を切ると、まつりは恭平の顔を見る。まつりには恭平が、なんだか怒っているように見えた。

 それにより話す気が萎えそうになるが、それでも告白を続ける。

「……私はある日、たまたまこちらの世界に来て、その時に一人の人間に出会った。私は空腹だったので、そいつを喰うことにしたんだ。しかし、私は一つの失敗をして、重大な『禁』を犯した。そして、そのことによりに私は魂をすり減らし、私は悪魔としてのチカラ――他の生き物になりきる(・・・・)チカラをほとんど失った。……お陰で今じゃ、これくらいしか出来ない」

 まつりはそう言うと、右手を恭平に見えるように差し出した。そして、フッと輪郭がぶれたかと思うと、その白い手は先程とは一変していた。

 五本の指全てに鉤爪が生えている。それも、赤く長い爪や黒く二股に裂けた爪など、どれも形状が違い、一切同じものが無い。恭平も無表情だが驚いているようだ。

 その爪を撫でながらまつりは話す。

「私は元の姿に戻るチカラさえ無くなった。当然帰ることもできない。だから、打つ手がなくなった私は仕方無く、しばらく人に混ざって暮らした。人間の振りをして、人間の真似をして、人間に見えるようにしながら、な。私は上手く騙していただろう。私について疑いを持つ奴は一人もいなかった。しかし、心の底ではあまり長くは続かないだろうとは思っていた。……そして思った通り、それは終わりを告げた。――あいつが来たんだ」

 まつりはやや顔を伏せながら一呼吸間を置いた。長い前髪が影を作っているせいで、恭平からはまつりの表情は見えなかった。

「……私は逃げた。敵わないと知っているから逃げ続けた。しかし、この非力な体で奴から逃げ切れるわけがない。案の定捕まり、丁度襲われている最中にお前に出会った……というわけだ」

 自分の爪に向けていた目を再び恭平に向けると、恭平は物凄く怒っているように見えた。相変わらずの無表情ではあったのだが、まつりにはそう見えた。

 不愉快そうに、恭平が声を出した。

「つまり何が言いたいの?」

「お前が知りたかったのは、これくらいだろう? なら、もう私に付きまとう必要は無い訳だ。お前は私の秘密が気になっていたのだから」

「……違うそうじゃない」

「何が違う? お前は私が宙吊りにされているのを見て、興味を持ったのだろう。だからこそ、近付いて来たのだろう?」

 恭平は言い返すことが出来なかった。まつりの解釈を、そうじゃない、と否定したかったが、上手く言葉にすることが出来なかった。

 自分でも何故なのかを上手く理解できなかったからだ。

 黙ったままの恭平に、まつりは宣告する。決定的な別離の言葉を。

「だからもう、遊びは終わりだ。私達は、思想も種族も能力も、住んでいた世界さえ違うのだから」

 まつりが言葉を切ると、部屋に沈黙が流れる。恭平は何も言えないが故に。まつりは言うことが無いが故に。

 暫しの静寂の後、恭平がまつりの名前を呼ぶ。

「まつりちゃん」

「やめてくれ」

「まつり――」

「その名前で呼ばないでくれ!」

 まつりは唐突に声を荒げ、叫ぶように必死になってに訴える。それはまるで、血塗れになりながらのたうち回る獣のようで、とても痛々しかった。

「この名前は、私のものじゃ、無いんだっ! あいつのものを勝手に使っているだけなんだ! 私に、名前なんて、無いんだ。……だから、やめてくれ……」

 まつりの悲痛な叫びは、だんだんと小さくなってゆき、最後にはただの願いとなっていた。

 ぼつりと恭平が呟く。

「じゃあ、君はどうするの?」

 その呟きに、まつりは自嘲気味に答える。

「もちろん、逃げるさ。辛いのは嫌だからな」

 何かを言いたげな恭平を無視し、確認するかのようにまつりは呟く。いや、決意を固めるかのように、だ。

「私は逃げると決めたんだ。もうどうなってもいいんだ。……まつりのいないこの世界に、守るべき人間なんて――」

 ――いないのだから。

 まつりの言葉は喉に引っ掛かったかのようにくぐもって聞こえる。その声からはまつりの声に常にあった、透き通るような響きが消えていた。

 まつりは小さく舌打ちをすると椅子から立ち上がった。そして恭平に背を向けると、玄関の方へ歩いて行く。

 恭平は引き留めようとはしなかった。ただ別れの言葉を投げ掛ける。

「……またね」

「もう二度と会わないだろうけどな」

 恭平の呼び掛けに対して、辛辣な言葉を吐き捨てると、まつりは玄関の扉をくぐり抜けていった。

 扉がばたんと閉まる。

 部屋がしん、と静まり返る。

 恭平は誰もいない空間に向けて、それは寂しいな、と呟いた。


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