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初夜、妻はウェディングドレスのまま間男のベッドへ

作者: 熾星
掲載日:2026/06/24




1 新婚初夜の賭け



 新婚初夜、体を重ねたあと、俺の花嫁である白石凛はホテルのスイートルームのベッドに横たわったまま、しばらく天井を見つめていた。


 窓の外には東京・港区の夜景が広がり、ガラスには彼女の白い肩の線と、枕元に置かれた萎れかけの白い薔薇が映っていた。


 疲れているだけだと思った俺は、彼女を抱き寄せようと手を伸ばしたが、その瞬間、背筋が凍るような言葉を聞いた。


「佐伯悠真、私はもう、あなたが思っているような女じゃないの。気づいていた?」


 腰に回していた俺の手が、そのまま固まった。


 一瞬、頭の中が真っ白になったが、それでも俺は本能的に、過去なんて気にしない、古い価値観で俺たちの未来を測るつもりはない、と伝えようとした。


 けれど凛は横を向いて俺を見つめ、その目には後ろめたさも動揺もなく、ただ得体の知れない冷たさだけがあった。


「久我晴臣よ。三日前、私から会いに行ったの。私から誘った。これからも、彼とは切るつもりはないわ」


 俺は彼女を見つめたまま、胸を乱暴に引き裂かれたような痛みに襲われた。


 それなのに凛は、まるで何でもないことを話しているようだった。


 薄く笑ったその顔には、骨まで冷えるような嘲りが浮かんでいた。


「森川真由だって、あなたと結婚する前から久我晴臣と関係があったんでしょう?」


 森川真由は、俺の前妻だ。


 二年前、彼女が久我晴臣とずっと裏で関係を続けていたと知ったとき、俺はほとんど壊れかけた。


 そんな俺を、初恋の相手だった白石凛が少しずつ愛で泥の中から引き上げ、もう一度、人を信じてもいいのだと思わせてくれた。


 けれど、俺が救いだと思っていたものは、別の地獄にすぎなかった。


 肺の中の酸素を一瞬で抜き取られたように、俺は大きく息を吸った。


 指先はシーツを強く握りしめ、関節が白く浮き上がっていた。


 胸の奥の息苦しさは波のように強くなり、俺は長い時間をかけて、ようやく壊れた声を絞り出した。


「どうしてだ? どうして、よりによってあいつなんだ?」


 彼女は、何年も俺を待っていたと言った。


 それなのに、なぜよりによって久我晴臣を選んだのか。


 俺に家庭を与えたその同じ日に、なぜ自分の手でその家庭を焼き払おうとするのか。


 凛は半身を起こして俺を数秒見つめると、突然、耳障りな笑い声を上げた。


「賭けは私の負け。あなたの勝ちよ」


 彼女は枕元のスマホを取り、スピーカーに切り替えた。


 そこから聞こえてきたのは、だらしなく、悪意に満ちた男の声だった。


 その声を俺はあまりにもよく知っていた。


 最初の一音を聞いただけで、全身の血が凍りつくほどに。


「まさかあの馬鹿、本気でお前が何年も自分のために守ってきたと思ってるのか? 全部を初夜まで取っておいたって? 笑えるな。いったん通話を切る。ビデオにしようぜ。あいつの顔が見たい」


 久我晴臣の声だった。


 指先が冷たく痺れ、体ごとベッドに縫い止められたようだった。


 凛は俺の苦しむ顔を眺めながら、まるで友人との軽い遊びを説明するように、平然と話し始めた。


「久我は、あなたが泣くのをこらえながら、どうしてよりによって彼なんだって惨めに聞くほうに賭けた。私は、普通の男みたいに怒って私をベッドから蹴り落とすほうに賭けた。見ての通り、彼の勝ちよ。だから今夜、私は賭けに負けた罰として、このウェディングドレスを着たまま、彼ともう一度初夜を過ごしに行くの」


 凛は髪をかき上げ、俺を笑いものでも見るような目で見下ろした。


 俺が一番痛む場所を知っていながら、そこへ迷わず刃を当ててきた。


 しかも、ゆっくりと、楽しむように。


「悠真、あなたは本当は私が清らかかどうかなんて気にしていないのよ。気にしているのは、私に触れた相手が久我晴臣かどうか。それだけでしょう?」


 その直後、スマホの画面に久我晴臣からのビデオ通話が表示された。


 凛はそれを受け、カメラを俺に向けた。


 画面の向こうから、久我晴臣の下品な笑い声が響いた。


「ははっ、佐伯悠真。二年経っても、お前は相変わらず馬鹿だな。お前の女は、最後には必ず俺のベッドに来るんだよ」


 その悪意に満ちた嘲笑で、俺の四肢から感覚が消えた。


 頭の中には、二年前の台風の夜が勝手に蘇っていた。


 あの日、スマホには気象警報が何度も表示されていたが、俺が覚えているのは、真由が暗闇と雷を怖がるということだけだった。


 だから俺は会社から必死に東京湾岸のあのマンションへ戻り、嵐の中で彼女を安心させるつもりだった。


 けれど寝室のドアを開けた瞬間、目に飛び込んできたのは、森川真由と久我晴臣が絡み合う姿だった。


 真由はその場で真っ青になり、明らかに狼狽していた。


 だが久我晴臣だけは、まるでその部屋が最初から自分のものだったかのように、ベッドにもたれて煙草に火をつけた。


「悪いな、兄弟。実は俺と真由は、お前たちが結婚する前からこういう関係だったんだ。見つかったなら、もう隠す必要もないだろ」


 あのときの俺も、今と同じように床に崩れ落ち、涙を流しながら、意味のない「どうして」を繰り返すことしかできなかった。


 真実は鉛の塊のように胸を押し潰し、呼吸さえ奪っていった。


 激しい感情で喘息の発作を起こし、床に倒れ込んだ俺に残されたのは、二人がそのまま出ていくドアの音だけだった。


 その夜、俺は冷たい床の上で一晩中うずくまっていた。


 あの日から俺は、結婚を失い、大学時代から最も信じていた友人を失い、会社で顔を上げて歩く勇気さえ失った。


 凛の冷たい声が、俺を記憶の底から引き戻した。


 彼女はベッドから立ち上がり、高価なオーダーメイドのウェディングドレスを優雅に身にまとった。


 それは今日の結婚式のために、半年も前から東京の工房に予約していたものだった。


「もういいわ。あなたと話していても無駄だから、着替える」


 なるほど、二度も着られたのなら、十分に元は取れたのだろう。


 支度を終えた凛は、ベッドの上で廃人のように動けない俺を見下ろした。


 彼女はバッグを取り、ヴェールを整えた。


 その姿は、まるでこれから俺を辱めに行くのではなく、もう一つの祝福された儀式に向かう花嫁のようだった。


「テーブルに披露宴の料理を少し包んで置いてあるから、食べられるなら食べて。飢え死にされても困るし。明後日は静岡の実家へ行って、親族に結婚の報告をする予定なんだから」


 彼女はあまりにも自然に言った。


 浮気相手のもとへ向かうのではなく、コンビニへコーヒーでも買いに行くかのようだった。


 俺はその冷たい顔を見つめながら、自分が遊び壊された木偶人形のように捨てられているのだと感じた。


「白石凛、この二年間、俺を世話してくれたことも、俺に言ってくれた言葉も、全部演技だったのか? 会社の屋上で俺を抱きしめて、誰もあなたを愛さないなら私が愛すって言ったよな。これからの人生で、あなたの傷を癒やすって言ったよな。それに……」


 声は震え、目の奥が熱く滲んだ。


 だが今回は、彼女は昔のように近づいて俺を抱きしめたりしなかった。


 ただ鏡の前で口紅を直し、唇の端に嘲るような笑みを浮かべていた。


「佐伯悠真、もしあなたが最初から最後まで私だけにそんなふうに深情を向けてくれていたなら、私も本当に心が揺らいだかもしれないわ。でも、あなたは森川真由と結婚した。彼女はあなたと結婚する前から、もうあなたのものではなかった。だったら、どうして私だけが自分をあなたのために残しておかなければいけないの?」


 彼女はベッドの端に戻って腰を下ろし、ぞっとするほど歪んだ笑みを浮かべた。


 そして俺に布団を掛け直した。


 その仕草はまるで優しい新妻のようだったが、その瞬間、俺は恐怖に息を詰めた。


 彼女が俺を絞め殺そうとしているように見えたからだ。


 白石凛は俺の高校時代の隣の席の同級生で、大学時代には四年間、遠距離恋愛をしていた。


 卒業後、俺たちは結婚するはずだった。


 だが結婚式当日、彼女の母親が突然、五百万円の結婚準備金を追加で用意しろ、そうでなければ凛に式を中止させると言い出した。


 親族や同僚の前で、俺は恥ずかしさに顔も上げられなかった。


 凛は車の中に座ったまま、降りてこなかった。


 俺のために一言も言わず、まるで何も聞こえていないかのように、黙って窓を閉めた。


 その場で見かねた同僚の森川真由が皆の前で俺をかばい、俺に想いを告げた。


 真由は、男として最後に残っていた俺の尊厳を守り、最も惨めだった日に、俺が掴める一本の救いの綱になってくれた。


 その後、俺は森川真由と結婚した。


 そして後に、真由は俺を裏切り、俺たちは離婚した。


 会社でも俺は隅に追いやられたようになり、あの日の式を知る同僚たち全員が、女に捨てられたうえ妻にも裏切られた男だと、陰で俺を笑っているように思えた。


 日を追うごとに俺は鬱になり、会社の屋上に立って、このまま終わらせようとしたこともある。


 その瞬間、奇跡のように俺の袖を掴んだのが白石凛だった。


 彼女は俺を世話し、京都、鎌倉、北海道へ連れていき、闇の中から少しずつ俺を引きずり出した。


 奈良の大仏の前で、彼女は俺のために額をつけて祈ってくれた。


 あのとき俺は、彼女こそ本当に俺を愛してくれる人だと思っていた。


 だから今、俺は絶望の中で彼女に尋ねた。


「そんなに俺を憎んでいたなら、どうして二年もかけて俺を騙したんだ? あのとき会社の屋上から飛び降りさせてくれれば、それでよかったじゃないか」


 凛は長い間、俺を見つめていた。


 やがてその顔に、疲れ切ったような色が浮かんだ。


 彼女はバッグから一本の煙草を取り出した。


 それは久我晴臣がいつも吸っている銘柄だった。


 火はつけず、ただ指の間に挟み、俺を刺すための証拠品のように見せつけた。


「佐伯悠真、私は本当に、自分はずっとあなたを愛していたのだと思っていたわ。あなたがあの日、森川真由を選んだあとも、本気で恨んだことはなかった。母とも縁を切って、この一生、あなた以外とは結婚しないと誓ったの」


 彼女は一度言葉を切り、俺の顔に視線を落とした。


 その瞳には痛みも憎しみもあり、この二年間の優しさと嫉妬が、もう見分けのつかない汚れた水のように混ざっていた。


「でも三日前、久我晴臣が私を呼び出したの。彼の家へね。ああ、正確には、あなたと森川真由が暮らしていたあの部屋よ。そこで初めて知ったの。東京湾岸のあのマンションの家具も、全部、森川真由の好みに合わせて選ばれていた。あなたが私にくれたジュエリーボックスも、彼女が昔使っていたものと同じだった。あなたの部屋に残っている生活の癖まで、全部、彼女の影だった」


 凛の声は、言葉を重ねるごとに冷たくなっていった。


 彼女は俺を見つめていたが、その目は、長い間耐え、憎み続けてきた人間を見るものだった。


 だがその憎しみの奥には、まだ愛に似たものが残っていて、それが彼女をさらに歪ませていた。


「それが全部、私に思い知らせたの。私は、誰かに使われて捨てられたものを拾っただけなんだって。その感覚が、どうしようもなく気持ち悪かった。だからその日、私は自分から久我晴臣に身を委ねた。そうすれば少なくとも、私と森川真由は同じになるでしょう?」


 後悔と怒りが胸の中で引き裂き合い、彼女の一言一言が耳の奥に重く打ち込まれた。


 凛は俺を見下ろし、まるで自分こそが傷つけられ続けた被害者であるかのように、一語ずつ問いかけた。


「あなたは、森川真由を愛したように私を愛せるの? 森川真由に二年間も不倫され続けたのなら、私にも同じ扱いをしてくれなきゃ不公平でしょう?」


 彼女は吸ってもいない煙草を、俺たちの結婚写真に押しつけた。


 俺は必死に首を振り、涙でシーツを濡らした。


 その瞬間ようやくわかった。


 彼女は答えが欲しいわけではない。


 ただ、俺が苦しむところを自分の目で見たかっただけなのだ。


「不公平だと思うなら、俺から離れればよかっただろう。どうしてこんなやり方で俺を辱めるんだ。白石凛、離婚しよう。明日にでも手続きをしに行く」


 俺は声が枯れるほど叫び、胸が破裂しそうになっていた。


 凛はただ冷たく立っていたが、俺が力尽きてベッドに崩れると、ゆっくりとしゃがみ込んだ。


 顔はすぐ近くにあったのに、その声は氷のように冷たかった。


「もう書類も出した。式も挙げた。私はこの一生、あなた以外とは結婚しないと誓ったのよ。今さら離婚? そんなこと、考えもしないで。森川真由はあなたと二年暮らして、二年間あなたを裏切り続けた。私もあなたに二年間、不倫される苦しみを味わわせる」


 そう言うと、彼女は枕元の水差しを取り上げ、中の水を全部俺に浴びせた。


 冷たい水は布団を濡らし、俺の中にわずかに残っていた温度まで奪っていった。


「いつまでもベッドで甘えていないで。あなたの世話をするのは、もう十分よ」


 凛がドアを開けて出ていったあと、俺は濡れたベッドの上で全身を震わせていた。


 ほどなくして喘息の発作が起きた。


 俺は必死に吸入薬へ手を伸ばしたが、胸の激しい上下に力を奪われ、指先すら思うように動かなかった。


 凛は寝室の外から俺を見ていた。


 その目には、残酷な興味のようなものが浮かんでいた。


 涙で濡れた顔を歪め、無様に喘ぐ俺を見て、彼女はついに何かを確認したように鼻で笑った。


「悠真、あなた自身もわかっているでしょう? 私がいなければ、あなたは命さえ保てない。離婚なんかしたら、そのまま死ぬだけよ」


 彼女は喘息の吸入薬をベッドのそばに投げると、振り返りもせずに出ていった。


 ドアが開き、重く閉まった。


 新婚初夜、彼女はウェディングドレスのまま、部屋を出ていった。


 俺は吸入薬を掴み、何度か吸い込んで、ようやく息を繋いだ。


 視界はぼやけ、昔のことが脈絡もなく頭の中に浮かんできた。


 二年前、森川真由との離婚が成立したばかりの頃、俺は明かりもつけない部屋に閉じこもっていた。


 俺が煙草の火で自分の腕を焼くと、凛は泣きながら隣に座り、自分の腕にも同じ火傷を作った。


 光が怖いと言えば、埃だらけの半地下の部屋で一緒に暮らした。


 夜になると、彼女は俺が余計なことを考えないように物語を語り、俺が少しずつ眠りに落ちるまでそばにいてくれた。


 拒食症になり、皮だけのように痩せていった俺に、彼女は食べ物を細かく潰し、病人を看るように少しずつ口へ運んだ。


 そんな温もりがあったからこそ、俺は彼女を人生の救いだと信じてしまった。


 婚約の日、彼女は親族や友人の前で、この一生、俺を守ると言った。


 人の誓いとは、こんなにも脆いものだったのか。


 この丁寧に作り上げられた芝居は、幕が下りる直前になって、ようやく血まみれの裏側を見せた。


 濡れた体が寒さに震えた。


 俺はよろめきながら立ち上がり、浴室へ向かった。


 鏡の中の自分は顔色が青白く、髪は乱れ、目は血走っていて、捨てられた犬のように惨めだった。


 怒り、屈辱、痛みが胸の奥で絡み合い、俺は引き出しの奥に隠していた一本のナイフを取り出し、上着の内側にしまって部屋を出た。


 半時間後、俺はまた、あの懐かしくも胸をえぐる場所に立っていた。


 東京湾岸の高級マンションは、森川真由が結婚前に買った部屋だった。


 離婚後、俺は古い家具のようにそこから追い出された。


 長い時間ドアを叩いたが、中から誰も出てこなかった。


 けれどドアの向こうから、男女が絡み合う声がかすかに聞こえていた。


 俺はこの部屋の予備の暗証番号をまだ覚えていた。


 震える指で最後の数字を押すと、鍵が小さく音を立てた。


 ドアが開いた。


 その扉を押し開けた瞬間、心臓が一拍止まった気がした。


 玄関には、凛の赤いハイヒールが乱暴に脱ぎ捨てられていた。


 リビングの向こうでは、彼女が白いウェディングドレスをまとったまま、久我晴臣と絡み合っていた。


 窓の外で、突然、雷が弾けた。


 雨と雷。


 二年前の台風の夜の光景が、目の前の現実とぴたりと重なった。


 喉の奥から獣のような低いうめきが漏れ、握りしめた拳の関節が白く浮いた。


 久我晴臣が振り返り、俺を軽蔑するように一瞥した。


 凛はというと、不機嫌そうに俺を睨んだ。


 まるで俺が、彼女の楽しみを邪魔しに来た厄介者であるかのように。


「何を騒いでいるの? こういう場面なら、あなたは昔から見慣れているでしょう?」


 久我晴臣は凛を抱き寄せ、わざと俺の目の前で彼女に口づけた。


 その仕草も声も、俺の苦痛を見世物として楽しむための挑発そのものだった。


「佐伯悠真、さすが大学時代に同じ部屋で暮らした兄弟だな。お前の女は、最後には必ず俺のベッドに来る」


 その挑発で、最後に残っていた理性が燃え上がった。


 久我晴臣は凛から離れると、また煙草に火をつけ、俺に向かって煙を吐いた。


 その得意げな顔が二年前の顔と重なり、今と過去の境目がわからなくなりそうだった。


「俺たち、本当に縁があるみたいだな」


 俺はその顔を見つめながら、懐のナイフに手を伸ばした。


 だが体が崩れそうなほど震え、胸にまた窒息感が押し寄せてきた。


 凛が久我晴臣のそばを離れ、俺を支えようとしたように見えたその瞬間、俺は身を折り、抑えきれずに激しく吐いた。


 彼女の動きが止まった。


 次の瞬間、彼女は暗い顔で、突然笑った。


「佐伯悠真、それはどういう意味? 私が汚いって言いたいの? やっとわかった? 私があなたと森川真由を見ていたとき、どんな気持ちだったか」


 俺にはもう、言い返す力さえ残っていなかった。


 心臓は異常な速さで跳ね、胸の中から飛び出してしまいそうだった。


 凛は自尊心を傷つけられたように顔を歪め、俺をさらに壊す理由を見つけたように立ちはだかった。


「佐伯悠真、これはあなたが招いたことよ。私は最初、あなたに私の気持ちを少しわからせられれば、それでよかった。でも今は違う。私はあなたが完全に壊れるところを見届けたい。今度こそ、私のせいで徹底的に壊れるところを」


 彼女は俺を突き飛ばすようにして、隣にいる久我晴臣を指差した。


 その目には新妻の優しさなど少しもなく、復讐の成功に酔った狂気と快感だけがあった。


「明後日、静岡の実家へ行って親族に結婚の報告をするでしょう? 彼も一緒に連れていくわ。親戚みんなに言ってあげる。私はあなたを裏切ったって」


 久我晴臣は凛を強く引き寄せた。


 その目には、他人のものを奪い取った者だけが浮かべる下品な得意げさがあった。


 俺を徹底的に辱める機会を見つけ、声まで浮ついていた。


「それなら、佐伯悠真に車を出してもらおうぜ。俺が代わりに、お義父さんとお義母さんに挨拶してやるよ」


 凛は俺の目をまっすぐ見据え、毒を含ませるように一語ずつ言った。


「いいわね。彼に私たち専属の運転手をさせましょう。私たちがどれだけ幸せに過ごすか、目の前で見せてあげる」


 俺は絶望に目を見開き、そんなことはありえないと言おうとした。


 だが口は何度も開閉するだけで、声は出なかった。


 ただ狂ったように首を振って拒むことしかできなかった。


 そんな俺を見て、凛はさらに激しく笑った。


「苦しいでしょう? 心を踏み潰されるって、こういう感じでしょう? よかったわ。あの日、結婚式の日に、あなたが森川真由に指輪をはめるのを車の中から見ていた私は、これよりもっと痛かったの」


 俺は、もはや知らない女のようになった凛の顔を見つめ、すべてが馬鹿げていると思った。


 彼女の言う愛は、最初から毒を塗った砂糖菓子のようなものだった。


 森川真由への嫉妬だけで、彼女は真由がかつて俺に与えた傷を、二倍にして俺へ返してきたのだ。


 俺が苦しめば苦しむほど、彼女は満たされていく。


 再び息が詰まり始めたが、それでも俺はかすかに笑った。


 ここまで来れば、彼女に何かを説明する気力もなかった。


 ただ、最後の事実だけを返したかった。


「白石凛、あの日、車から降りてこなかったのは君だ。俺は、君に何も悪いことはしていない」


 その言葉に、彼女は返す言葉を失った。


 そして、その沈黙がさらに彼女を逆上させた。


 凛は駆け寄ると俺の髪を掴み、吐瀉物の中へ顔を押しつけた。


 抵抗しようとしたが、体力を失った俺は、彼女に押さえ込まれるしかなかった。


 喘息の発作がまた起きた。


 床の上で力なくもがき、呼吸のたびに肺を紙やすりで削られているような痛みが走った。


 俺は残った力を振り絞り、途切れ途切れに彼女へ助けを求めた。


「薬……棚の中に、吸入薬が……」


 凛は冷たく笑った。


 いつ死んでもおかしくないのに、すぐに救う価値もない犬を見るように、彼女は俺を見下ろした。


「この部屋のこと、ずいぶん詳しいのね。薬の場所まで、私たちの家と同じなの? 待っていなさい。久我と終わったら、薬を探してあげる」


 その言葉を聞いた瞬間、俺の心は完全に底へ落ちた。


 ほどなくして、寝室から二人がわざと大きく立てる声が聞こえ始めた。


 それは悪魔の囁きのように、どこからでも耳の中に入り込んできた。


 俺は冷たい床の上で、今にも息絶えそうな犬のように、荒く空気を求めていた。


「もっと声を出して。佐伯悠真に聞こえないと意味がないでしょう」


「大丈夫だ。あいつはこういうのを聞くのが好きなんだろ」


 絶望が喉を締めつけ、呼吸の仕方さえわからなくなった。


 頭の中の景色は混ざり合い、俺を救おうと涙を流していた凛と、今、あの古いベッドの上で俺を傷つけている凛が交互に現れた。


 どちらの白石凛が、本当の彼女なのか。


 どれほどの時間が過ぎたのか、久我晴臣が俺の昔のガウンを着て寝室から出てきた。


 彼は俺を見下ろし、意地の悪い軽蔑の笑みを浮かべていた。


 凛はその後ろから現れ、その目には陰湿な満足感がちらついていた。


「もう死にそうなのか? これから先は長いんだぞ」


 凛は喘息の吸入薬を床にばらまき、刃のように冷たい声で言った。


「生かして、ゆっくり苦しめるから面白いのよ。私は彼に、私がどうやって彼を裏切り続けるのか、最後まで見せてあげたいの」


 俺はぼんやりと顔を上げ、空っぽの目で彼女を見た。


 最後の幻想も、二人に踏み潰された。


 最初から救いなどなかった。


 ただ、愛を衣にした狂った女が、丁寧に仕組んだ復讐計画があっただけだ。


 ここまで壊されたのなら、もう少し壊れても同じだった。


 寝室のドアが再び閉まると、俺は床を這い、残った力を振り絞ってばらまかれた吸入薬のところへたどり着いた。


 鼻先を近づけ、何度も深く吸い込んだ。


 薬が少しずつ効き始め、ようやく息が戻ってきた。


 体にわずかな力が戻ると、俺は壁を支えに立ち上がり、心を完全に冷やしたまま寝室のドアを押し開けた。


 部屋の中の二人は俺が入ってきても、ただ嘲るように笑っただけで、俺への侮辱をやめなかった。


 俺はゆっくりと二人の前まで歩き、ナイフを取り出した。


 その瞬間、久我晴臣の顔が初めて強張った。


 彼は無様にベッドの端へ転がり、布団を抱えて隅に縮こまった。


 さっきまでの得意げな表情は、一瞬で消えていた。


「佐伯悠真、お前、何をするつもりだ?」


 俺は、その臆病者の男には何も答えなかった。


 ただ、同じように震え始めた白石凛の手にナイフの柄を握らせ、その冷たい指を上から包み込んだ。


 確かめたいことが、一つだけあった。



2 地獄から戻った男



 俺は白石凛の手を握ったまま、ナイフを自分の胸へ突き立てた。


 刃先が心臓のあたりを向いた瞬間、俺はようやく彼女の目にある本当の感情を見た。


 彼女の瞳孔は一瞬で縮まり、憎しみと狂気に塗られた表情が恐怖で裂け、その奥に隠れていた動揺が露わになった。


 俺の読みは、間違っていなかった。


 痛みが走った瞬間、温かい液体が胸から溢れ出した。


 凛は俺の胸に刺さったナイフの柄を凝視し、俺に握られたままの手を激しく震わせていた。


 彼女の声からは尖った怒りも冷たい毒も消え、ただ震えるような恐怖だけが残っていた。


「悠……真?」


 二年という時間の中で積み重ねられた、あの夜ごとの世話や寄り添いが、すべて嘘だったはずがない。


 憎しみは本物だった。


 だが骨の奥に染み込んだような気遣いもまた、本物だった。


 彼女は嫉妬と不甘に目を曇らせ、久我晴臣という男にまんまと刃として使われただけだった。


 彼女は俺に復讐しているつもりだった。


 だが実際には、最も愚かなやり方で、自分自身を壊していただけだった。


 俺は彼女の血の気を失った顔を見て、笑った。


 胸は痛かったが、心の奥には病的な快感が湧き上がっていた。


 彼女はようやく恐れたのだ。


 そしてようやく、いったん刻まれた傷は、軽い言葉では取り消せないのだと知った。


「白石凛、この一刺しで、俺は君に返した。これで、俺はもう君に借りはない」


 最後の力で彼女の耳元にそう囁き、俺は手を離した。


 体はそのまま後ろへ倒れていった。


 目を閉じる最後の瞬間、凛が喉を裂くような悲鳴を上げるのが聞こえた。


「いや――!」


 その声に、復讐を果たした快感はなかった。


 あったのは、尽きることのない恐怖と絶望だけだった。


 いい。


 ゲームは、今始まったばかりだ。


 俺は冷たい床の上に倒れ、意識が少しずつ遠のいていった。


 周囲の音は乱れ、凛が何かをめちゃくちゃに叫ぶ声と、久我晴臣の怯えた声が聞こえてきた。


 彼はもう、さっきまでのように得意げではなかった。


 ただ恐怖だけが声に残っていた。


「狂ってる! お前ら二人とも、狂ってる!」


 誰かが俺の傷口を押さえているのがわかった。


 温かい手のひらが、俺の血で濡れていく。


 その手は凛のものだった。


 彼女は壊れそうな声で俺の名を呼び続けていた。


「悠真、死なないで。死んじゃ駄目。救急車を呼んで、久我晴臣、早く救急車を呼んで!」


 久我晴臣は答えなかった。


 面倒に巻き込まれるのが怖いのだ。


 この件が殺人未遂や人命に関わる事件になるのを恐れているのだ。


 凛は怒鳴りながらバッグの中を探り、震える指で何度も画面のロック解除に失敗した。


 何度かやり直して、ようやく彼女は救急へ電話をかけた。


「救急ですか。夫が……夫が刺されました。お願いです、早く来てください!」


 電話を切ったあと、彼女はしゃがみ込み、両手で俺の胸の傷を押さえようとした。


 だが血はあまりにも早く溢れ、止めることなどできなかった。


 彼女の白いウェディングドレスは、ほどなく俺の血で染まっていった。


「悠真、しっかりして。死なないで。お願いだから!」


 彼女は泣き叫び、大粒の涙を俺の顔に落とした。


 俺はその泣き崩れた顔を見ても、心は少しも動かなかった。


 演技だろうと、遅すぎる後悔だろうと、もうどうでもよかった。


 久我晴臣は、目の前の混乱に完全に怯えていた。


 彼は人命に関わる厄介事に巻き込まれたくなくて、そっと玄関へ向かった。


 ドアを開けて逃げ出す足音が廊下に響き、すぐに遠ざかっていった。


 このマンションには、俺と白石凛だけが残された。


 一人は血を流し、一人は涙を流している。


 意識がぼやける中で、俺は彼女が耳元で何度も呟く声を聞いた気がした。


「悠真、ごめんなさい。わざとじゃないの……ただ、嫉妬していたの。お願い、私を置いていかないで……」


 救急車のサイレンが遠くから近づいてきた。


 救急隊員が部屋へ飛び込み、俺を担架に乗せた。


 凛は血に染まったウェディングドレスのまま、魂を抜かれたようにその後ろをついてきた。


 救急車の扉が閉まる瞬間、わずかな隙間から、彼女の青白く絶望した顔が見えた。


 これが、復讐の始まりだった。


 俺は東京の総合病院の救急手術室へ運ばれた。


 緊急手術は長時間に及んだ。


 幸い、刃先は心臓の近くをかすめただけで、本当に貫いてはいなかった。


 あの一刺しの力と角度は、俺自身が制御していた。


 死にたいと思った。


 だが刃が体に入った瞬間、俺は死ぬことをやめた。


 白石凛にも久我晴臣にも、死ぬよりも重い代償を払わせる。


 警察はすぐに来た。


 白石凛は第一の容疑者として事情聴取を受けることになった。


 彼女は全身に血を浴び、精神も混乱し、まともに話すこともできず、ただ泣きながら「私じゃない」と繰り返していた。


 俺が目を覚ましたのは、翌日の午後だった。


 病室のベッド脇には、警察官らしき中年の男が座っていた。


 俺が目を開けたのに気づくと、彼は手にしていた記録用紙を下ろした。


「佐伯さん、目が覚めましたか」


 俺は頷いた。


 喉はひび割れそうに乾いていた。


 彼は水を注いでくれたあと、再び記録用紙を開き、落ち着いているが厳しい声で話した。


「あなたが負傷した件について、事情をお聞きしたいと思います」


 俺は水を一口飲み、彼を見上げた。


「妻は?」


 警察官の表情は硬かった。


「白石凛さんには傷害容疑があり、現在、事情を確認しています」


 俺は首を横に振り、弱い声で言った。


「妻は関係ありません」


 警察官は眉をひそめた。


「現場にいたのはあなた方二人です。ナイフには彼女の指紋があり、本人もあなたを刺したと認めています」


 俺は苦笑した。


 胸の傷はまだ痛み、言葉を一つ出すたびに呼吸が引きつった。


 それでも、あらかじめ用意していた言い訳を口にした。


「俺が自分でぶつかったんです。夫婦の間で少し揉めて、俺が感情的になりました。彼女はナイフで俺を脅そうとしただけで、俺が足を滑らせて自分からぶつかったんです」


 警察官が信じていないことはすぐにわかった。


 彼は俺をじっと見つめ、その目には疑いと警告があった。


「佐伯さん、正直に話してください。犯罪をかばうことは、あなた自身のためにもなりません」


 俺は静かに彼を見返した。


 自分でも驚くほど、声はまっすぐだった。


「警官さん、これが事実です。彼女は俺の新妻です。俺は彼女を愛しています。事故で彼女を前科者にするわけにはいきません」


 警察官は黙り込んだ。


 彼は長い間、俺の顔から嘘を探そうとしていたようだった。


 だが結局、何も見つけられなかったのだろう。


 彼は記録用紙を閉じ、休むようにと言い残した。


「改めて確認します。今はゆっくり休んでください」


 警察官が出ていくと、病室は静けさを取り戻した。


 夕方、病室のドアが開き、白石凛が入ってきた。


 血に染まったウェディングドレスはもう脱いでおり、普通の服を着ていたが、顔はまだ白く、目は一晩中泣き続けたように赤く腫れていた。


 彼女は俺のベッドのそばまで来ると、そのまま立ち尽くした。


 何も言わない。


 俺も彼女を見ず、ただ天井を見上げていた。


 沈黙が病室に少しずつ広がり、やがて彼女がかすれた声で口を開いた。


「どうして?」


 俺は彼女へ顔を向けた。


「どうして警察に本当のことを言わなかったの?」


 俺は唇の端だけで笑った。


「警察に言ったところで、どうなる? 君が刑務所に入る。それで終わりか?」


 凛の体がかすかに揺れた。


 彼女の目には、理解できないものを見る恐怖が満ちていた。


 おそらく彼女は、俺が自分を守ったのだと思っている。


 だが俺は、彼女をそんな簡単に監獄へ逃がしたくなかっただけだ。


「悠真、私……」


「黙れ」


 俺は彼女を遮った。


 声は氷水の底から響くように低かった。


「森川真由に二年間も不倫され続けたから、君も俺に二年間、不倫される苦しみを味わわせると言ったよな。なら、ゲームはまだ始まったばかりだ。今、君が刑務所へ行ってどうする」


 俺は血の気を失った彼女の顔を見て、静かに笑った。


「君には俺のそばに残って、きちんと世話をしてもらう。そうでなければ、面白くないだろう?」


 凛は恐怖に目を見開き、まるで悪魔を見るように俺を見た。


 俺はさらに深く笑った。


 彼女はようやく理解したのだ。


 そうだ。


 俺は地獄から戻ってきた悪魔だった。


 白石凛は、その夜、俺の病床のそばに座り続けた。


 俺は目を開けたまま天井を見つめ、彼女が彫像のようにそこにいるのを放っておいた。


 俺たちの間に会話はなく、点滴のしずくが落ちる音だけが規則正しく響いていた。


 朝になると、看護師が回診に来た。


 凛の魂が抜けたような顔を見て、俺を心配して一睡もしていない家族だと思ったらしい。


 看護師は、患者の世話には家族の体力も必要だと穏やかに言った。


「ご家族の方も、ちゃんと休んでくださいね。顔色が悪いですよ。これから患者さんの世話もありますから」


 看護師が出ていったあと、凛は水の入ったコップを持ってきた。


 彼女はベッドのそばに立ち、傷ついた獣を驚かせないようにするかのように、慎重に声をかけた。


「水、飲む?」


 俺は答えなかった。


 彼女はコップを持ったまま立ち続け、やがて腕が細かく震え始めた。


 長い沈黙のあと、ようやく喉の奥から三つの言葉を絞り出した。


「悠真、ごめんなさい」


 その言葉が彼女の口から出ること自体、ひどく滑稽だった。


 俺はやっと彼女のほうを向いた。


 彼女の目に揺れる、崩れかけの後悔を見ても、ただ笑うしかなかった。


「ごめんなさいの一言で、何かが変わると思っているのか?」


 彼女の目からまた涙が落ちた。


「わかってる。意味がないのはわかってる。でも、私は……」


「安っぽい涙はしまえ。これから君がやるべきことは一つだけだ。俺の言うことを聞くことだ」


 凛は唇を噛み、頷いた。


「わかった」


 それからの日々、白石凛は俺専属の介護人になった。


 水を飲ませ、食事を口へ運び、体を拭き、排泄の世話までした。


 その姿は贖罪のようでもあり、俺から受ける無言の裁きのようでもあった。


 彼女が従順であればあるほど、俺には滑稽に見えた。


 俺の両親も、彼女の両親も、病院へ見舞いに来た。


 双方の親から事情を尋ねられるたび、俺は同じ答えをした。


 あれは事故だった、と。


 俺は、妻を深く愛し、広い心で許した夫を完璧に演じた。


 俺の両親は俺を心配しながらも、それ以上は何も言えなかった。


 白石凛の両親は、俺に感謝しているようだった。


 特に彼女の母親は、病床の前で頭を下げそうなほどだった。


 おそらく彼女は、俺が本当に自分の娘の人生を守ったのだと思っている。


「悠真さん、うちの凛が本当に迷惑をかけてしまって。家に帰ったら、きちんと言い聞かせます。これからは、あなたのことを全力で支えさせますから」


 凛はその横でうつむいたまま、一言も発しなかった。


 罪を犯し、裁きを待つ子供のようだった。


 誰もが、俺たちを苦難を越えて絆を深めた夫婦だと思っていた。


 俺たちだけが知っていた。


 俺たちの間に残っているものは、折磨する者と折磨される者の関係だけだと。


 久我晴臣は一度も現れなかった。


 おそらく、とっくにどこかへ逃げたのだろう。


 あの臆病者は、女の前で威張ること以外、何もできない男だった。


 だが、焦る必要はなかった。


 次は、あいつの番だ。


「久我晴臣に電話しろ」


 凛の体がびくりと強張った。


 顔を上げたその目には、恐怖と本能的な拒絶があった。


「彼に電話して、何をするの?」


「余計なことは聞くな。かけろ」


 俺の声は、反論を許さなかった。


 凛はスマホを取り出し、震える指で久我晴臣の番号を押した。


 呼び出し音は長く続き、ようやく電話がつながった。


「私よ」


 凛の声は蚊の鳴くように小さかった。


 電話の向こうは数秒沈黙し、やがて久我晴臣が相手に気づいたのか、声を尖らせた。


「白石凛? お前、よく俺に電話なんかできたな。佐伯悠真っていうあの狂った男に殺されなかったのか?」


 彼は息を整える暇もなく、急いで自分を切り離そうとした。


「言っておくが、あの日のことは俺には関係ない。警察にも聞かれたが、俺は何もしていない。もう二度と連絡してくるな。俺とお前は何の関係もない」


 俺は凛からスマホを受け取り、静かに口を開いた。


「久我、俺だ」


 電話の向こうの声が、ぴたりと途切れた。


 今、彼がどれほど動揺しているか、手に取るように想像できた。


 スマホを握ったまま、顔色を失っているだろう。


「さ……佐伯悠真?」


「ああ、俺だ。久しぶりだな、俺の親友」


 俺はわざと「親友」の部分に重みを置いた。


 久我晴臣は電話の向こうで、言葉も出ないほど怯えているようだった。


「お前、何をするつもりだ?」


「何もしない。ただ伝えたかっただけだ。俺と凛は、もう一度結婚式を挙げる。来月だ。そのときは、必ず来てくれ」


 久我晴臣は電話の向こうで完全に黙った。


 荒い呼吸だけが聞こえてくる。


 彼はようやく、今度の俺がそう簡単に自分を逃がさないと気づいたのだ。


「どうした、黙り込んで。安心しろ、俺は警察には言っていない。警察にも、君のことは説明しておいた。俺たちは兄弟みたいなものだろう。俺が君を困らせるわけがない」


 久我晴臣はようやく声を取り戻した。


「佐伯悠真、お前はいったい何がしたいんだ?」


「言っただろう。俺たちの結婚式に来てほしい。怪我をしてから、凛はずっとよく俺を世話してくれた。俺は感動したんだ。だから、彼女にもっと盛大な式を用意してやりたい」


 俺はそう言いながら、白石凛を見た。


 彼女の顔は紙のように白く、体は今にも崩れ落ちそうで、目には哀願が満ちていた。


 だが俺は止まらなかった。


 彼女も、俺が助けを求めたときに止まらなかったからだ。


「式の日、君には俺の介添え役をしてほしい。昔、俺と森川真由の結婚式で、君がそうしてくれたように」


 その一言が、久我晴臣を完全に追い詰めた。


 電話の向こうで、彼はほとんど叫ぶように言った。


 あの頃の傲慢さは、もう少しも残っていなかった。


「行かない! そんな暇はない!」


 そのまま電話は乱暴に切られた。


 俺はスマホを凛に返した。


 彼女はうつむき、唇を噛み締め、魂を抜かれたように立っていた。


「かわいそうなふりをするな。帰ったら、あのウェディングドレスを出して、きれいに洗っておけ。来月、もう一度それを着るんだ」


 彼女は顔を上げ、信じられないという目で俺を見た。


「本当に、そんなことを……」


「他に何がある? ウェディングドレスのまま、あいつともう一度初夜を過ごすと言ったのは君だろう。叶えてやるよ」


 凛の目には恐怖と絶望が満ちていた。


 反抗したいのに、反抗できない。


 彼女はもう、自分が俺の手の中の人形であり、俺がどう置いてもどう壊しても逆らえないのだと知っていた。


 それから一か月、俺は二度目の結婚式の準備を始めた。


 東京中心部にある高級ホテルの一番大きな宴会場を押さえ、俺と凛の親族、同僚、大学時代の友人たちへ招待状を送った。


 全員に、この芝居の結末を見届けてもらうために。


 凛は毎日、人間の形を保っているのが不思議なほど追い詰められていった。


 昼は介護人と家政婦のように俺の身の回りを世話し、夜は冷たい床で眠った。


 俺は彼女が誰かと連絡することを禁じ、スマホも取り上げた。


 彼女は完全な孤島になった。


 精神が少しずつ崩れていくのがわかった。


 何度も俺に話しかけようとし、許しを請おうとしたが、そのたびに俺の冷たい目を見ると、言葉を飲み込んだ。


 結婚式の前日、久我晴臣から電話がかかってきた。


 声は哀れなほど震えていて、かつて俺の前で勝ち誇っていた男の面影はなかった。


「佐伯、兄さん、俺が悪かった。頼む、見逃してくれ」


 俺は笑った。


「言っただろう。俺の介添え役として来い。明日の朝八時、迎えの車を出す。来なければ、警察の車が迎えに行くことになる。せいぜいきちんとした格好で来い」


 そう言って、俺は電話を切った。


 結婚式当日、空はよく晴れていた。


 白石凛は洗い直したウェディングドレスを着て、メイクルームの鏡の前に座っていた。


 メイク担当が化粧を重ねても、彼女の憔悴した顔色までは隠せなかった。


 彼女の目は空洞で、魂のない人形のようだった。


 俺はきちんとしたスーツを着て、車椅子で彼女のそばへ行った。


 鏡の中の俺たちは、今もまだ似合いの新郎新婦のように見えた。


 だが彼女だけは、この式が自分をどんな地獄へ送るのか知っていた。


「今日は、きれいだ」


 俺は心からそう褒めた。


 凛は鏡越しに俺を見て、唇を震わせた。


「悠真、もうやめて。お願い……」


 俺は首を横に振った。


「遅すぎる。これからが本番だ。どうして今さらやめられる?」



3 二度目の結婚式



 結婚式の会場には、招待客がぎっしりと集まっていた。


 彼らはそれぞれ複雑な表情で、舞台中央に立つ俺たちを見ていた。


 俺と白石凛は照明の下に立ち、傍目には今もまだ美しく釣り合った夫婦に見えた。


 久我晴臣は介添え役の服を着て、俺の隣に立っていた。


 彼の顔色は凛よりも悪く、額には冷や汗が浮かんでいた。


 彼は何度も目の端で俺を盗み見ており、その目には恐怖しかなかった。


 司会者は明るく華やかな挨拶をしていた。


 祝福の言葉が音響に乗って宴会場に響き、温かくも皮肉に聞こえた。


 客席の親族や友人たちはまだ知らない。


 これから彼らが目撃するのは愛ではなく、公開処刑なのだ。


「本日は、新郎・佐伯悠真様と、新婦・白石凛様の二度目の結婚式にお集まりいただき、誠にありがとうございます。お二人は試練を乗り越え、苦難を越えて、互いこそが人生でただ一人の伴侶だと確信されました。それでは皆様、どうか盛大な拍手でお二人を祝福してください」


 会場に拍手が響いた。


 俺はマイクを持ち、幸福そうな笑みを浮かべた。


 凛は隣に立っており、指先を細かく震わせていたが、まだ異常がわかるほどではなかった。


「本日はお忙しい中、俺と凛の結婚式にお越しいただき、ありがとうございます。今日は、妻に特別な贈り物を用意しました」


 俺が指を鳴らすと、あらかじめ打ち合わせていたスタッフが合図を受け、プロジェクターを起動した。


 大きなスクリーンに光が灯った。


 映像の冒頭に映ったのは、俺と白石凛の高校時代の写真だった。


 制服姿の彼女は桜の木の下に立ち、まだ幼さの残る優しい笑顔をカメラへ向けていた。


 続いて、大学時代の遠距離恋愛の頃に交わした手紙やメールが映し出された。


 どの言葉にも、愛情と恋しさが滲んでいた。


 客席の人々は少しずつ表情を和らげていた。


 凛も顔を上げ、ぼんやりとスクリーンを見つめた。


 その目には、かすかな光が戻ったように見えた。


 彼女はもしかすると、俺が本当に心を入れ替えたのだと思ったのかもしれない。


 愚かだ。


 次の瞬間、映像の空気が一変した。


 スクリーンに映し出されたのは、森川真由と久我晴臣の親密な写真だった。


 二年前、俺があの部屋で二人を見つけたときに残した証拠だった。


 肝心な部分は隠してあったが、二人を知る人間なら一目でわかるものだった。


 会場は一瞬でざわめきに包まれ、ささやき声が潮のように広がっていった。


 久我晴臣の顔は、死人のように白くなった。


 彼は逃げようとしたが、俺が前もって手配していた二人の警備員に止められた。


 凛も呆然としていた。


 なぜ俺がこれらを流したのか、まだ理解できていないようだった。


 彼女は知らない。


 これは、まだ始まりにすぎない。


 映像は続いていた。


 やがてスクリーンが暗転し、ホテルの音響からはっきりとした録音が流れ始めた。


 それは、俺と白石凛の新婚初夜の会話だった。


「久我晴臣よ。三日前、私から会いに行ったの。私から誘った。これからも、彼とは切るつもりはないわ」


「森川真由に二年間も不倫され続けたのなら、私にも同じ扱いをしてくれなきゃ不公平でしょう?」


 その言葉は、宴会場の隅々まで届いた。


 会場は一瞬で静まり返った。


 すべての視線が、驚き、軽蔑、信じられないという色を帯びて、舞台上の白石凛と久我晴臣へ向けられた。


 凛は完全に固まった。


 彼女は床に崩れ落ち、全身を震わせた。


 ようやく理解したのだ。


 俺が彼女にもう一度ウェディングドレスを着せたのは、やり直すためではない。


 そのドレスを着たまま、彼女の名誉を完全に壊すためだったのだ。


 彼女は終わった。


 完全に、終わった。


 久我晴臣も膝から力が抜け、その場に崩れた。


 彼もわかっていた。


 自分も終わりだ。


 森川真由が彼を許すはずもなく、彼の会社もまた、彼を見逃すはずがない。


 俺の顔の笑みは、さらに深くなった。


 マイクを握り、よく通る声で話した。


 宴会場は不気味なほど静かで、全員が俺の次の言葉を待っていた。


「皆さん、今ご覧いただいたもの、そしてお聞きいただいたものが、妻と俺の親友から贈られた新婚の祝いです。なかなか見事でしょう?」


 俺は会場を見回した。


 すべての人が、この反転に息を呑んでいた。


 俺は白石凛の前へ進み、しゃがみ込んで、血の気の引いた彼女の顔を見つめた。


「どうだ、俺の花嫁。この贈り物は、気に入ったか?」


 彼女は顔を上げ、怨毒に満ちた目で俺を見た。


「佐伯悠真、あなたって本当に残酷ね」


「残酷? 俺のやったことなんて、君に比べれば大したことはない。君は二年かけて俺を地獄から引き上げ、また自分の手で、もっと深い地獄へ突き落とした。俺はただ、その味を君にも少し知ってもらっただけだ」


 俺は立ち上がり、もう彼女を見なかった。


 かつて俺の胸に重くのしかかっていた痛みが、この瞬間、少しずつほどけていくのを感じた。


 俺は客席を見渡し、すでに決まっていたことを告げるように、静かな声で言った。


「皆さん、お見苦しいものをお見せして申し訳ありません。今日の食事は、俺からのもてなしだと思ってください。この二人については、法律に任せます」


 そう言って、俺はスマホを取り出し、警察へ通報した。


 そのとき、思いがけない人物が舞台へ駆け上がってきた。


 白石凛の母親だった。


 彼女は俺の鼻先を指差し、会場に招待客もカメラもあることを忘れたように罵声を浴びせた。


「佐伯悠真、この人でなし。どうしてうちの娘をここまで壊すの。昔、あの子を傷つけたのはあなたでしょう。別の女と結婚したのはあなたでしょう。今さら偉そうに何を言う資格があるの」


 俺は冷たく彼女を見た。


 この女は、かつて結婚式当日に五百万円の結婚準備金を要求し、俺に満座の中で恥をかかせた。


 今はまるで何もなかったかのように、すべての罪を俺に押しつけようとしている。


「あの日、五百万円の結婚準備金を突然要求したのは、あなたです。払えなければ凛に式を中止させると言ったのも、あなたです。どうしました。もう忘れたんですか?」


 凛の母親は言葉に詰まった。


 俺はもう、彼女と口論する気すらなかった。


 再びマイクを握り、会場の全員へ視線を向けた。


 照明が俺の上に落ち、俺は最後の言葉を告げた。


「今日をもって、俺、佐伯悠真は白石凛と一切の関係を断ちます。この茶番は、ここで終わりです」


 警察はすぐに到着した。


 結婚式の会場は、完全な騒動の場へ変わった。


 白石凛と久我晴臣は、傷害容疑に関わる事情聴取のため、警察に連れていかれた。


 以前、俺は凛をそばに留めるため、警察にあれは事故だったと説明した。


 だが今、俺は録音や関連する証拠をすべて提出した。


 前の供述を覆すには十分だった。


 二人とも、もう逃げられない。


 招待客は一人、また一人と帰っていった。


 彼らが俺を見る目は複雑だった。


 同情もあれば、畏れもあり、理解できないという色もあった。


 だが俺には、もうどうでもよかった。


 両親が近づいてきた。


 父は深くため息をつき、母は目を赤くしていた。


 荒れ果てた式場を見ながら、その声には心配と無力感が滲んでいた。


「悠真、そこまでしなくてもよかったんじゃないか」


「何かあっても、もっと別の話し合い方があったでしょう。こんなことをして、これからどう生きていくの?」


 俺は二人を見て、胸の奥が少し痛んだ。


 だが後悔はなかった。


 二人は俺が経験したすべてを知らない。


 俺が自分の手でこの悪夢を引き裂かなければ、いずれ本当に狂ってしまっていたことも、きっとわからない。


「父さん、母さん。俺が味わった苦しみは、二人にはわからない。こうしなければ、俺は本当に壊れていた」


 そう言って、俺は一人でホテルを出た。


 外の空は青く、風が頬を撫でた。


 そのとき初めて、自分がようやくまともに息を吸えていることに気づいた。


 二年以上、胸の上に乗っていた巨大な石が、ようやく取り除かれたのだ。


 その後のことは、簡単だった。


 俺は東京で評判のいい弁護士を雇い、離婚訴訟を起こし、白石凛に慰謝料と治療費の支払いを求めた。


 久我晴臣はすぐに会社を解雇され、法的責任も追及されることになった。


 彼の人生は完全に崩れた。


 白石凛は婚姻中の不倫と、俺を傷つける明確な悪意を示す証拠によって、離婚訴訟で完敗した。


 彼女は一円も得られなかったばかりか、多額の負債を背負った。


 彼女の両親は裁判費用のために静岡の実家を売ったが、その金額では焼け石に水だった。


 彼ら一家は、かつての小さな安定すら失い、貧しさの中へ落ちていった。


 凛は外へ出てから仕事を探し回ったらしいが、彼女を雇おうとする会社はなかった。


 彼女の評判は、その町で完全に地に落ちていた。


 誰もが知っていた。


 彼女が元恋人への復讐のために自分を売り、夫を死なせかけた女だということを。


 かつて彼女のそばで味方をしていた人間たちも、真実が明らかになると一人ずつ離れていった。


 彼女はようやく、すべての人に捨てられる苦しみを味わったのだ。


 ある日、俺は新宿駅の近くで彼女を見かけた。


 凛は安っぽいコートを着て、道端でチラシを配っていた。


 以前よりずいぶん痩せ、目の光も消え、あの冷たく誇り高かった白石凛の面影はもうなかった。


 彼女も俺に気づいた。


 俺は新しく買った車を路肩に停めていた。


 凛は数秒、呆然と俺を見つめたあと、我を忘れたように駆け寄り、窓を必死に叩いた。


「悠真。出てきて。話があるの」


 俺は窓を下ろし、表情を変えずに彼女を見た。


 彼女は泣いていた。


 涙と鼻水で顔はぐしゃぐしゃになり、かつての清楚で誇り高い白石凛の姿は、もうどこにもなかった。


「私が悪かったの。本当にわかったの。お願い、許して。もう一度やり直したい。これからは必ずあなたを大切にする。あなたが望むことなら、何でもするから」


 俺はその卑屈な姿を見つめ、ただ滑稽だと思った。


 今さらだ。


 初めから、そうすればよかったのに。


「白石凛、自分が言ったことを覚えているか? 俺に自分の気持ちを味わわせると言ったよな。今、俺は味わったよ。復讐というのは、悪くない気分だった」


 彼女は嗚咽し、言葉を失った。


 俺の一言一言が、彼女の心に刃のように突き刺さっているのがわかった。


 だが、その痛みなど、彼女がかつて俺に与えたものに比べれば、まだ足りない。


「君は言ったよな。君がいなければ、俺は命さえ保てないと。見ろよ。俺は今、ちゃんと生きている」


 俺は車を発進させた。


 もう彼女を見ることはなかった。


 アクセルを踏み込むと、車はその場から一気に離れていった。


 バックミラーの中で、彼女の姿はどんどん小さくなり、最後にはぼやけた黒い点になった。


 俺と白石凛の物語は、ここで本当に終わった。


 彼女は俺の愛を壊した。


 俺は彼女の人生を壊した。


 これで、貸し借りはなしだ。


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