2 彼岸花にまつわる伝説
浴場に着いた。
遠慮がちにお風呂の扉を開けた。広めの脱衣所だ。綺麗に片付いている。誰もいない。貸し切りだ。急にハートが全開放された。
誰か他に一人でもいたら、こうはいかない。コソコソ貧弱なボディを隠しながら裸になるところだが、パッパッと大胆に下着を剥ぎ取った。
恥ずかしい場所も隠さず洗い場に向かった。
まずは汗を流し全身を清めてから湯船に浸かろう!
初めに檜の大風呂で足を伸ばした。自宅の湯船では、こうはいかない。少し熱めのお湯に浸かると全身の血液が循環していく気がした。
気持ちイイ!思わず、フーッと、大きなため息がでた。
平日なのだ。同僚がみんな働いている時に申し訳なかったが、それ故に贅沢な時間だと思えた。
プチ非日常。それを味わい堪能しているのだ。
しばらくすると、のぼせそうになったので、露天風呂の方に向かった。
丁度、夕焼けが向かいの山の尾根に沈んでいくところだ。真っ赤なトマトみたいに見えた。少しお腹が減ってきたのかな?
雲はオレンジから紅、紫、紺と鮮やかなグラデーションで薄暗くなった闇に溶け込んでいる。
ここは岩風呂で結構広めだ。大きな紅葉の木が枝を伸ばしている。葉っぱは、もちろん、まだ緑だ。秋には紅の葉を湛える事だろう。その季節にも、また訪れてみたいと思った。
風が気持ちいい。お湯もぬるめで、ほてった身体に丁度いい。半身浴で涼んだ。
しかし、残念ながら景色は、拝めない。三方に高めの塀が配してある。当然だ。女風呂なのだから。
私は自身の裸など、どうでもいいから景色を見せろ!と言うタイプだが、それはあくまで私個人の考えだ。普通に羞恥心を持った女性なら誰一人として、そんな考えには至らないだろう。
この塀が一般的な意識の象徴だ。しかし私が露出狂と言う訳では無い。ただ、露天風呂に浸かり、のどかな景色を拝みたい。ただそんな、単純な願望を持ち合わせているだけだ。
男性諸氏の話を伺うと男風呂には大した塀など無いらしい。その話を始めて聞いた時は
「へーーっ!いいなぁ。うらやましい!」
と、つくづく思ったものだ。
夕焼けの空を仰いでみた。気持ちが、ほんわか落ち着いた。静かな中に、ほんの少しずつ色んな音が、奏でられている。
お湯を注ぐ蛇口のジョロジョロという湿った音。川のざーっと流れるせせらぎの音。チチッとなく野鳥の鳴き声。そのハーモニーとアレンジが心根に安らぎを与えてくれている。
まずい!このままでは、一眠りしてしまいそうだ。それ程、癒されていた。「また、後でも入れるし…」とそろそろあがる事にした。
気がつくと空は、もう星空になっていた。暗がりを突然意識して、また、怖くなった。
誰かに見られてる。そんな気にまでなってしまった。
急いで脱衣所に向かい浴衣を着て部屋に戻った。
食事は食事処で準備されていた。今夜はマジで貸し切りだ。他にお客はいない。平日の、ど真ん中だからだと言う訳でもなさそうだ。明日は予約は一杯だそうなので、たまたまとの事だ。こんな日もあるのだ。
しかし私にとってはありがたい。好都合だ。これは贅沢だ。精神的贅沢だ。この状況を寂しいと思う人もいるだろう。
しかし、私はそうは、思わない。貸し切り風呂に貸し切り食事処。料金を上乗せしてもいい気分だ。もちろん気分だけだが…。なにしろ私はケチなのだから。
料理は地産素材をふんだんに使った創作料理だ。豊富な種類の野菜に地鶏と猪肉。普段は味わえない食材に舌鼓した。
飲み物は取り敢えずのクラフトビールを一杯頂き。それを飲み干すと地酒を頂いた。
気分が上がっているところに女将さんが一人用鍋に火口の長いライターで火を起こしに来てくれた。
「今日は他のお客さんがいらっしゃら無いのでお寂しいですね。」
女将さんが笑顔でそう話した。
「いえいえ、私には好都合ですよ。
お風呂でも気兼ねなく足を伸ばせるし、
なにしろのんびりできますから…。
でも、こちらのお宿としては、
お客さんが来ないとなにかとねぇ…」
「はい、それが、団体のお客様の予約が入ってらしたのですけど、観光バスが途中で事故に合われて、けが人も出てしまったと言う事で
キャンセルになってしまったんです。
あっ、申し訳ありません。
折角の、ご旅行にこんな話…。」
「いえいえ、そうだったのですね。
私も人の不幸で喜んではいけなかったですね。
ハハハッ」
笑うべきでもなかったかな…。そうだ!気になる事を聞いておこう。この際だ。
「彼岸花が満開で綺麗ですね。」
「そうなんですよ。怖いくらいですよね。
実は私は、ちょっと苦手なんですよ。
あの血みたいな赤色。
後、この土地の伝説を知ってからは、
もっと苦手になってしまいました。」
「それは、どんなお話しですか?」
「えっ!それは、勘弁して下さい。
忘れたいくらいなんです。
とても怖い言い伝えなんです。
だから私には、とてもお話しはできませんし
お客様もあまり耳にしない方が
今夜もお一人ですし…」
「そうですか。
でも、なんだか余計気になってしまいました。
ハハッ!」
「申し訳ありません。
あっ、お鍋、もうお召し上がり下さい。頃合いかと…」
「あっ、ホントだ! いい香り。」
私は地酒を一口味わって気になる話をした。
「あっ、そうだ!こちらに来る途中
おかっばヘアの女の子を見かけたんですけど。
平日なのにな…とか思ってたんですけど…。」
「ああ、はい!きっとウチの娘でしょう。
朝、少しお熱があったものですから
学校の方、お休みさせたんですけど
午後から元気になって、
遊びに行ってしまいまして…。」
「そうだったんですね。かわいいお嬢さんですね。
川岸の彼岸花の所にいらっしゃいましたよ。」
「あら、そうですか!
一人で川にいかない様に言ってあるんですけど…。
後で、また、言い聞かせないと…。
二年程前、水難事故が起きてるんですよ。
近所のお子さんが亡くなってしまって…。
それで一人で行かない様に言ってあるんです。
あっ、また、私ったら
折角の旅に水を差す様な話をしてしまって
申し訳ありません。」
女将さんはバツが悪そうに食べ終わったお皿を持って厨房に下がっていった。
美味しい料理を全て平らげると残った地酒を一気に飲み干して、ご馳走様をして部屋に戻った。
落ち着いた照明の少し薄暗い廊下を歩くとまた、ギシ、ギシと床板が軋んだ。
その途端、誰かついて来てる。そんな気がして恐る恐るゆっくり振り向いた。
「わぁ!」
少女が廊下の門に立っている。突然の事に向こうもビックリしている。
「あっ!すいません。スマホ、忘れてたみたいだったから届けにきました。ビックリさせてすいません。」
「あっ、いや、こちらこそ!
逆にビックリさせてしまって、申し訳ありません。
ああ、すいません。スマホありがとうございます。」
スマホを受け取ると部屋に向かった。気が効くし機転の効くお嬢さんだ事。忙しい両親のお手伝いをしているんだな。微笑ましくて、気持ちが和んだ。
だが、まだこの時は
あの恐怖の夜が迫っているとは
思いもしていなかった。
続く