後:夢の浮橋を渡った顛末
一週間後の昼下がり。フロウは繁華街の一角に建つビルの屋上に居た。夜には賑わう歓楽の巷もお天道様が昇っている間は眠りの中だ。
上部の開いた一斗缶に熾した火で暖を取るフロウは、いつもと違い上下黒のスーツに煙草を咥えている。立ちながら今日の朝刊を読む中、片隅の記事に目が留まる。
『三十代女性、自宅で意識不明の重体』
『出勤時間になっても職場に現れず連絡しても繋がらない事を不審に思った同僚が女性宅を訪問。室内で椅子に座り昏睡状態の女性を発見し、警察・救急へ通報。女性は職場の人間関係や家庭の事情で悩んでいたと同僚や近所の住人は証言する。家の鍵は開いていた事、女性の側に何か燃やした痕跡が残されていた事、室内を物色された形跡も見当たらない事から、警察は事故と自殺の両面で捜査する方針だ』
ざっと読んだフロウは「フン」と鼻を鳴らすと、新聞を一斗缶の中にポイと捨てる。焼べられた新聞にすぐ火は移り、忽ち墨と化した。その様を眺めていたフロウは、上を向き息を吐く。口から放たれた白い煙はモクモクと空へ昇り、やがて消えていった。
逆様のブリキバケツに座ったフロウ。鞄を開けると、大量の札束がパンパンに詰まっていた。札束の一つを掴み、ウキウキとした表情で一枚一枚数え始める。
「困るな。勝手な事をされたら」
突如、背後から声が掛かる。振り返れば、今し方まで誰も居なかった場所に人が立っていた。
雪のような銀髪に真珠の如き白い肌、中性的な顔立ち。そして特徴的な、薔薇やルビーをイメージさせる深淵な紅の瞳。黒で統一されたタキシードに革靴姿ながら、普通の人とは明らかに一線を画す容貌をしている。気のせいか、纏う雰囲気も独特な怪しさを醸し出していた。
「何や、ラクか」
ぞんざいな物言いを返すフロウ。心做しか、こちらもオーラが変わったように感じる。
楽しみを邪魔されて気分を害したフロウは札束を鞄の中へ仕舞いながら不服そうに答える。
「失礼な。これは歴とした報酬やで。それに、念書もある」
言うなり、ヒラヒラと見せびらかすように一枚の紙を示す。口調も関西弁に転じ、明らかに先程までとは違う。
正当性を主張するフロウに対し、「それだけじゃない」と平坦な声でさらに糺す。
「許容量を超える“夢の浮橋”を摂取させた事で、あの人は死を待つ身になった。ざっと五十年は寿命が残されていたのに、君の軽率な行いで大幅に縮められた。そもそも君は“死んだ人を迎えに行く”のが役目で、“人の命を奪う”のは不適当だ。違うか? トート」
明らかに違う名で呼ぶラク。それもその筈、“フロウ”は仮初の名で“トート”が本名だ。
Tod、ドイツ語で“死・消滅、最期・死神”を意味する。職業――死神。
「殺す? 冗談キッツイわ」
紫煙を吐き出しながら反論する。
「ワイはちゃーんと危険性を説明したで。けど、あの人は“死んだ旦那に会いたい”と強く願い自分の判断で買うた。ワイは何もしとらん」
そもそも、“夢の浮橋”は成分名だ。人が望む夢を見せる反面、耐性が付く為に中毒性がある上に許容量を上回った場合――永遠に眠り続ける。心地好い夢を見ている間に衰弱し、死に至る。この成分は現世に存在せず、幾ら調べようとも薫物が原因と突き止められる恐れは無い。
「それと、一つ勘違いしとる」
火の点いた煙草の先を突き付けながら、トートは語る。
「あの人は会うた時から生への執着は薄れとった。しんどい現世から逃れる為に、自ら進んで夢の浮橋の先へ渡った。言わば人助けで、それのどこがアカンの?」
「君の意見は尤もだ。でも、それならタダで渡せば済む話で、何故お金を毟り取る必要がある?」
ラクはトートの言い分を認めつつも反問すると、“これだから現場を知らん奴は”と言わんばかりに嘆息し答えた。
「現世に居るなら、これが要る」
空いた手の親指と人差指で輪を作ったトートは「銭や」と告げる。
「人間に紛れて仕事するには人間っぽく振る舞わな怪しまれる。せやけど、銭は湧いて来んから稼がなアカン。せやから、死にたい人の願いを叶える代わりに報酬を貰う。銭は死ぬ時一緒に持っていけんからのう。使い道を失った銭を引き取る、お互いウィンウィンなギブアンドテイクやで」
屁理屈にも聞こえる主張にラクは眉根を寄せる。煙草の灰を一斗缶へ落とし咥え直したトートは「それにな」とさらに畳み掛ける。
「人間が銭を稼ぐ理由を知っとるか? 生命維持に必要な物を買うのは第一やけど、それに限らん。暮らしの質の向上、心の潤いを得る、寿命が尽きるまで有意義な時間を過ごす。娯楽や嗜好に銭を投じるのは人生を豊かにする為や。どうせ現世で仕事するならワイ等も楽しまな損。そう思わんか?」
大真面目に語るトートの言葉に、ラクは黙り込んだ。自分本位な部分も多少含まれているが、真理を突いていると捉えたからだ。死神が迎えに行った人を送り届けた先がラクの仕事、人間の心理や思考について深く知る必要のある立場だから尚更だ。
暫く黙考していたラクは、諦めたように一つ溜め息を吐いた。
「……君の意見は一理あるが、認める訳にはいかない。くれぐれも尻尾を掴まれるなよ」
「善処しまーす」
気の抜けた返事で応えたトートに、ラクは何も言わずパッと消えた。“エンマ”の本名を持つラクは多忙の身、本来の持ち場へ戻ったのだろう。
恐らく、ラクは一斗缶で燃やしていた物を知っている。去り際に釘を刺したのがその証拠だ。
勢いの弱まった火を眺めながら、煙草を吸う。先端が仄かに赤くなり、灰色へ戻る。
(悪い事をしたと、ワイは思わん)
大金を搾取したのはやり過ぎたかも知れない。でも、愛する夫の死に打ち拉がれ、立ち直った後も精神的苦痛に苛まれ、夢の浮橋の先に渡って悲境な現世から解放された。あの人は望んだ結末を迎えたのに、ラクは誤りだと糾弾する。ならば、どうすれば良かったのか。
考えに考え、トートは脳内のモヤモヤを振り払うように頭を振る。優先度の違いで、正邪は人によって変わる。そんな堂々巡りは時間の無駄だ。
(さて、仕事や)
吸い終わった煙草をペッと一斗缶へ吐き捨てる。残り火に焦がされた吸殻は灰となった。それを見届けたトートは一斗缶の中に片足を突っ込み、余炎を乱雑に踏み消す。
顔を上げたトートは鼻で大きく空気を吸う。直後、末期の者が放つ特有の匂いを風の中に感じ取った。
「あっちか」
そう呟いたトートは、両手を上げ背伸びをした後に鞄を手に取った直後、音を立てず瞬時に姿を消した。死神本来の仕事へ向かったのだ。
命と引き換えに、幸せな夢の世界へ渡れる片道切符。あなたは欲しいと思いますか?
(了)