前:ロッキングチェアに揺られ
眩しさを感じたアタシは、瞼を上げる。無意識に体を動かした直後、揺籠の中に居るような安心感を覚えた。
ぼんやりとした頭が眠りから醒め、「あぁ、またやってしまった」と軽く後悔する。その証拠に、すぐ側にある円形のローテブル上に置かれたテーブルライトの灯りは点いたままだ。
ここ最近、お気に入りのロッキングチェアで寝落ちする日が続いている。ベッドで寝ないとと毎回思うが、チェアから立つ気が起こらない。
揺れを利用し立ち上がると、体のあちこちから悲鳴が上がる。全身を包み込み気持ちを落ち着かせる快適性はあれど、横になって眠るのと比べれば回復も負担も雲泥の差だ。それでも自堕落な眠りを改められないのは、深い理由がある。
向かいにあるチェアが目に入り、誰も座ってない事を認識しアタシの涙腺が緩む。
遡ること十三日前、最愛の夫が不慮の事故で死去した。大手建設会社に勤める夫は、自らが携わる超高層ビルの現場で打ち合わせ中に落下してきた重量鉄骨の下敷きになった。遺体と対面はしていない。人の形を留めてない程に激しく損傷し、遺族へ見せるのは心理的負荷があまりに大き過ぎると判断された為だ。
夫の死で、アタシは天涯孤独の身となった。アタシが二歳の時に両親は離婚、母は一人娘のアタシを育てる為に身を粉に働いた末、九年前に激務が祟り脳溢血で急逝。悲嘆に暮れるアタシを救ってくれたのは、当時交際していた夫だった。いつも穏やかな笑みを浮かべる夫は誰にでも優しく、憔悴するアタシを献身的に支えてくれた。
心の広さに限らず、博識で、才能に満ち溢れながら努力家で、常に謙虚で感謝を忘れなかった。アタシには勿体無い素敵な人だったけど、価値観や嗜好が似ていてフィーリングが合う夫は心の底から愛してくれた。結婚から八年、夫の大きな懐に包まれ幸せで満たされる生活がこのまま永遠に続くと信じていた。
『ずっと君の側に居る』
プロポーズで誓った夫の約束は果たされず、アタシを残して先に逝ってしまった。遺体を確認してないのもあり、夫の死を未だに受け容れられていない。ふらっとアタシの前に帰ってきてくれる、そんな気持ちが心の片隅にまだ残っていた。
夫の訃報に接した直後から数日間、記憶が飛んでいる。独りぼっちになったアタシは、魂の抜けた脱け殻になった。何の気力も湧かず、空虚なアタシはお気に入りのチェアに座り続けた。夕食後、夫と向かい合わせで座って他愛ない話をするのが何よりの楽しみだった。アタシはその想い出にしがみ付く事で、辛うじて命を繋ぎ止めていた。
唯一の好材料は、お金の心配は要らない点か。自宅は結婚を機に大規模リフォームし新築同然、母と夫の死亡保険金に加えて夫の勤務先から多額の賠償金が支払われ、慎ましく生活すれば一生暮らせる程の貯金がある。尤も、今のアタシに一軒家は少々広過ぎるけれど。
泣いて泣いて泣き腫らし、涙は涸れ果てたと思っていた。それでも、瞳から零れた雫が頬を伝う。アタシの体内の水分は涙へ自動転換されるのかも知れない。
襟でグイと雑に拭い、足を踏み出す。喉の渇きも空腹も感じないけれど、寝起きにコップ一杯の水を飲む習慣があった。アタシはインプットされたルーティーンに従い動くだけだ。
ノロノロとした足取りでキッチンへ向かう。リビングもキッチンも、あの日から刻が止まっている。何も食べてないから頭も体もフラフラする中、ふとリビングの壁に視線が向く。
(……喪服)
吊るされている喪服。葬儀で袖を通したからにはクリーニングへ出さないといけない。コップに注いだ水を飲み干したアタシは、それをやろうと決めた。
外出するからには、ずっと着続けた部屋着にノーメイクとはいくまい。身支度を進めるアタシは、久し振りに人間らしい事をしていると思った。
軽く化粧し外出着に袖を通しただけで、沈んだ気分が幾分晴れたように感じる。
喪服に財布・スマホなど必要最小限の物を持ち、玄関の扉を開ける。天候は晴れ。長く家に籠もっていた影響か、太陽の日差しに思わず手庇をする。
自宅の敷地外へ出た瞬間、立ち眩みに襲われた。栄養不足に長時間座っていた事による筋力の衰えが原因だろう。
直後、不運にも誰かとぶつかってしまった。その衝撃で地面に倒れ込む。
「大丈夫ですか!?」
「だ、大丈夫です……」
頭上から声を掛けられ、咄嗟にそう答える。実際、出血や痛みは無かった。
だが、思いとは裏腹に立ち上がろうとして蹌踉めく。明らかに異変が出ていた事から相手が気遣わし気に言った。
「失礼ながら、些か顔色が悪いように見受けられます。一旦お休みになりましょう」
相手から手を取られ立ち上がらせてもらうと、体を支えられながら自宅へ戻る。そのままリビングの椅子に座らせてもらい、相手から持って来てもらった水を飲んでようやく一心地ついた。
話が出来る状態に回復したと判断した相手は、向かいの椅子に座り深々と頭を下げる。
「この度は申し訳ありませんでした」
「いえ、そんな……!!」
そもそもアタシの不注意が原因なのに深謝され、罪悪感を覚える。「お気になさらず」と何度も伝え、ようやく相手は顔を上げる。
今まで気付かなかったが、相手はなかなか特徴的な人だった。
髪はマリーゴールドを思い起こす鮮やかなオレンジ色、キツネのように細い目にスッとした鼻、しっとりとした乳白色の肌。スーツは向日葵色の下地に若草色の線が格子状に入っていて、長身痩躯な体型と相俟ってなかなかオシャレだ。欧米系の顔立ちをしているが特筆すべきは――サファイアみたいな濃く深みのある綺麗な碧色。
「卒爾ながら、御身内に御不幸がございましたか?」
隣の椅子の背凭れに掛けられた喪服を目にし、相手は声を落として訊ねてきた。アタシは消え入るような声で「主人を……」と答えると、神妙な面持ちで「心よりお悔み申し上げます」と弔いの言葉を述べた。
しんみりとした空気が暫く続いてから、相手は慎重に口を開いた。
「申し遅れました。私、こういう者です」
懐の名刺入れから取り出した一枚の名刺を、アタシに差し出す。『ハッピーライフコンサルタント froh』と記されていた。
名前の読み方が分からず小首を傾げるアタシへ、慣れた様子の相手が名乗ってくれた。
「“フロウ”と読みます。ドイツ語で“楽しい・愉快な・朗らかな”といった意味です」
言葉の響きから一瞬“浮浪・不労”とネガティブなイメージが浮かんだが、説明を聞いて一変した。ニコッと笑った時の糸みたいな目に人へ安心感を与える声色、正しく名前の通りだと思う。
「その……『ハッピーライフコンサルタント』とは、どういったご職業なのでしょうか?」
初めて見る肩書について訊ねてみると、これもよくある事らしくフロウは慣れた様子で答えてくれた。
「社会が多様化する昨今、価値観や仕組みの変化に追いつけず心身面で不調を来したり幸せを感じにくくなる方が増えております。そうした方々が生きやすくなりますよう、色々なアプローチで幸せのお手伝いをさせて頂くお仕事になります」
スラスラと述べられた説明に思わず「へぇ……」と感嘆の声が漏れる。世の中には色んな仕事があるものだなと率直に思う。
「そうだ! 今日こうしてお会いしたのも何かの縁。お洋服を汚してしまったお詫びに、私共のサービスを体験してみませんか? 勿論、お代は頂戴致しません」
フロウの唐突な提案にアタシは最初断ろうかと思ったが、グッと言葉を呑み込む。『幸せのお手伝い』のフレーズが気になったからだ。
固辞する姿勢を見せない事を承諾と捉えたフロウは、静かに訊ねた。
「旦那様を亡くされた現在、何が一番お辛いでしょうか?」
「……夫に、夫に会いたいです」
質問にアタシは即答する。突然居なくなった夫と、兎に角会いたかった。
切なる願いを受けたフロウは「承りました」と言い、持参した茶色の革製トランクケースをテーブルに乗せる。留め具を外し鞄を開けると、中からピンク色の線香を取り出す。長さは十センチ程か。
「こちらの品は“夢の浮橋”と申しまして、リラックス効果と誘眠作用、そして最大の売りは『望んだ夢を見られる』と多くの方々から好評を得ております」
流暢な商品説明に、まるでTVショッピングを見ている気分だった。アタシが惹かれたのはやはり『望んだ夢を見られる』の売り文句だ。こういう夢を見たいと就寝前に意識しても叶えられるものではないだけに、夫と会える唯一の機会を欲していたアタシには打って付けだった。
「では、そちらをお願いします」
「畏まりました。では、一番リラックス出来る場所へどうぞ」
促されたアタシは、お気に入りのロッキングチェアに腰を下ろす。フロウはローテーブルに皿のお香立てに薫物を斜めに挿し、先端に火を点ける。
ユラユラと揺れるチェアに薫物の甘い匂いが合わさり、瞬く間に眠りの世界へ誘われた――。
気が付けば、アタシは深い白霧の中に立っていた。純白の景色に目が慣れてきた頃、誰かの足音がこちらへ近付いてくる。
靄が揺れ、その先から現れたのは――。
「あなた……」
亡くなった筈の夫が、目の前に居る。感動のあまり、夫へ抱きつく。匂い、温もり、包み込む優しい腕の力。全て、生前と一緒だ。
言いたい事や聞きたい事は沢山あった筈なのに、いざ再会した途端吹き飛んでしまった。言葉なんかより、体温や感触の方が確かだった。
「済まない。君を置いて先に逝くなんて」
「いいの。こうしてまた会えたから」
夫の謝罪にアタシは首を振る。
抱擁を解いた夫はアタシの顔を見て心配そうな表情を浮かべる。
「……痩せたように映るけど、ちゃんと食べてるかい?」
「うぅん。食欲が湧かないの」
アタシが正直に明かすと、夫は「ダメだよ」と戒める。
「君が倒れると困る。元気な姿を見ていたい」
夫の諭す言葉が、心に沁みる。人として破綻した生活を送るアタシの事を気遣ってくれる人は、愛する夫のみだ。
すると、夫の顔が曇る。
「……ごめん。もう行かないと」
どうやら別れの時が迫っているみたいだ。それでも二度と会えない夫と対面を果たし言葉を交わせただけで大満足である。
「くれぐれも、体だけは気を付けて。見守っているから」
惜別の最後までアタシの事を気に掛け、夫は濃い霧の中へ消えていく。直後、意識が急速に薄れていった――。
「如何でしたか?」
フロウの呼び掛けで、現実に戻った事に気付いた。時計を見れば十分経っている。
「……はい。とても素敵な夢を見れました」
「それはよろしゅうございました。とても幸せそうな寝顔をされておられましたよ」
赤の他人から指摘され、恥ずかしさから頬が熱くなる。ただ、居心地の悪さは感じない。
事実、夢から醒めたアタシの心は軽やかだった。尽きていた気力が体内から湧き上がってくる感覚さえある。
アタシの反応を見て、フロウはにこやかな笑みを浮かべながら言った。
「今回はお試しという形でしたが、御満足頂けて何よりです。もしまた心がしんどくなりましたら、名刺に記載してあります電話番号へお掛け下さい。ご希望の日時にお伺い致します」
そう告げたフロウは一礼してから辞して行った。暫くボーッとしていたアタシは、喪服をクリーニングへ出すべく再び玄関へ向かった。