迷子の夜
燃えるような輝きを放っていた夕陽は沈み、夜の帳が下りていく。
まるで私の人生を現しているような暗闇に包まれてしまった。
これまでライマーのために生きてきた。
彼が人生のすべてだったのだ。
それなのに突き放されて、捨てられてしまった。
誰にも必要とされず、住む場所も奪われて、今、私は寒空の下にいる。
なんて惨めで寂しい女なのか。そう思ってしまった。
鍋を両手に抱えたまま私は家路に就く。
ライマーは「騎士は体が資本だ」とか言ってたくさん食べるので、今日は特別に家の中にある大きな鍋で作ったのだ。
とても持ち運べるような大きさではない鍋を、怒りに任せてこの場にぶちまけたい気持ちになったが、ぐっと堪える。ここでシチュー鍋を投げたらご近所迷惑だし、何よりせっかく丹精込めて作った料理がもったいない。
「――っ!」
瞼が熱くなって涙がこみ上げてくる。
ここで泣いてしまったらライマーに負けたように思えて、ぐっと堪えた。
そもそもいきなり婚約破棄をするなんて……。しかも相手は十八歳の女の子。
ライマーも私と同じ二十九歳なので、少しは年の差を考えろとか思ってしまう。
というか、どうして聖女スイがライマーなんてしょぼい男を相手にするのか。聖女自身の様子もかなりおかしかったような気がする。
前に会ったときはもっと物静かで控えめな感じだったのだが……。
きっと恋は人を変えてしまうのだろう。
十年前、ライマーに恋をして、魔女になってまで彼を支えようと決意した私みたいに。
さまざまな気持ちがこみ上げてきたが、一番大きな感情は怒りである。
何が聖女スイのおかげで出世できた、だ!
ライマーを十年間支え続けたのは私だ。
薄給の彼に高価な装備を買ってあげたり、衣食住を提供したり、同僚と飲む酒代を渡したり。
武芸大会に参加する費用だって私が出した。出場するだけで金貨十枚も必要とする大会なのだ。結果はまったく揮わなかったが、参加するだけで出世に繋がるとか言うので七回分ほど払ってあげた。
これまで彼に使ってきたお金について、総額など考えたくもない。
十九歳の秋に婚約したときからライマーを愛し、信じ、いつか出世して幸せな結婚ができるのだと確信していたのだ。
いったいどうして彼を疑わなかったのか。
最近仕事の付き合いだとか言って、家に帰らないことも多かった。
今振り返ってみると、家に帰れない付き合いってなんだよ、と言いたくなる。
きっとライマーは聖女と熱い夜を過ごしていたのだ。
考えれば考えるほど、燃えたぎるような怒りが湧いてくる。
ライマー・フォン・リース! 絶対に許さない!
「ふふふ……あははははは」
怒りに支配されておかしくなりかけたとき、私の薬局の前に誰かいることに気付いた。
「あら?」
今日は二時間ほど早く閉店していたのだ。いつもだったら営業時間内だったのだ。
申し訳ないと思って声をかける。
「ごめんなさい、今日はもう閉店したの」
「ああ、そうだったのですね」
聞き覚えのある声にハッとなる。店先の灯りを魔法で点した。
照らされたのはぼさぼさの長髪に曇った眼鏡、くたびれた服を着た年齢不詳の男性――常連のイエさんだ。
薬局を開いてから五年間もの間通ってくれる上得意様である。
イエさんは毎日ボロボロになるまで働かされていて、私が作る栄養剤や魔法薬を購入し、なんとか頑張っているのだ。
「何か必要な薬があるの?」
「いえ、急ではないのですが、それよりも鍋、重たくないですか?」
「……重たい」
不思議と重たくない、と強がりを言うことはできなかった。
弱音を素直に吐いてしまい、自分でもびっくりしてしまう。
「持ちますよ」
「え、でも」
「こう見えても力持ちなんです」
イエさんはそう言うと、軽々鍋を持ち上げる。
「お店に運びますか?」
「え、ええ……」
魔法で薬局の扉を開くと、イエさんは鍋を運んでくれる。
人の気配に反応し、店内に置いてある光球植物が灯りを点す。
「どこに置きます?」
「カウンターに」
ずらりと魔法薬が並ぶ棚の前を通り抜け、鍋を置いてくれた。
カウンター上にあった小さな樹がもぞりと動く。
『んん、朝かの?』
樹には目と鼻、口があり、お爺さんみたいな顔立ちになっている。
彼は樹の妖精〝ドライアド〟である。
「樹木のお爺さん、こんばんは。まだ夜ですよ」
『おお、そうだったか。きれいな若いお姉ちゃんの客はやってきたかい?』
「店主さんだったらいるよ」
『あれは年増なんじゃ』
「誰が年増よ!!」
この万年発情ジジイは世界の二十九歳の女性全員を敵に回した!!
暖炉に放り込んでやろうか! と脅すと大人しくなった。
そんな私とドライアドのやりとりをイエさんはニコニコしながら眺めていた。
「ごめんなさい、恥ずかしいところを見せてしまって」
「いえいえ、楽しいですよ」
ドライアドは毎日下品なことばかり言うため、ライマーから「家から連れ出してくれ」と苦情が出たため店に連れてきたのだ。
同じようにイエさんにも呆れるようなことばかり言うドライアドだったが、寛大な態度を示してくれる。これが大人の余裕なのか、と思ってしまった。
「この鍋、どうしたのですか?」
「あー、いろいろワケアリで」
「話、聞きましょうか?」
「え?」
「店主さん、迷子さんみたいな顔をしているんです。何か辛いことでもあったのかと思って」
迷子――今の私はそうかもしれない。
人生の目標を失って、どこにいったらいいのか、頼るべき人はどこにいるのか、感情が彷徨っているのだ。
「でも、イエさんに私の恥ずかしい事情を聞かせるわけには」
そう口にした瞬間、ぐーーーーーっと盛大なお腹の音が聞こえた。
イエさんのお腹から鳴ったもののようだ。
「あはは、おいしそうなシチューの匂いをかいでいたら、お腹が鳴ってしまいました!」
あまりにも快活に言うので私も一緒になって笑ってしまう。
「よかったら、一緒に食べない?」
「いいんですか?」
嬉しそうに言ってくれるイエさんの表情を見たら、心の中を黒く染めていた靄のようなものが少し晴れたような気がした。
暗く落ち込んでいた私の気持ちを奮い立たせるには充分過ぎるほどの光だった。
「ええ。婚約者のために作ったシチューだったんだけれど、婚約破棄されて、誰も食べてくれる人がいなかったの」
驚いたイエさんを置いて、店の奥にカトラリーや仕上げに必要な調味料を取りにいった。