第5話
ふわふわと浮かんでいる何かが、私に尋ねる。
「今、過去にお戻りになりたいと願われましたね?」
服の袖で涙を拭いて、クリアになった視界で見る。黒いシルクハットを被った人とオレンジ色に近い茶色の扉が映った。どちらも浮かんでいる。その人は私のことを見ながら、口元を緩めている。
「こんにちは」
その人は一礼したあと、何を気にしているのか、乱れてもいない白い髭を指で何度も触る。やっぱり、おじいちゃんだった。見た目から判断するのは良くないが、年齢的には八十代ぐらいだろう。私の祖父よりもうんと年上に見える。
「えっと・・・、あの、なんですか、いきなり」警戒する私。その一方で、おじいちゃんはニコニコとしている。
「山下柚美様。あなたは今、過去に戻りたいと強く願われておりましたね?」
「何で私の名前・・・・・・」
「ぐふふふ」
おじいちゃんは気持ち悪い笑い声をしていた。神様のような顔の印象とは真逆過ぎて、戸惑ってしまう。
「あの、誰ですか?」
「申し遅れました。わたくしは支配人の加能と申します。加えるに能力の能で、加能です」
「加能さん・・・?」
「はい。加能と申します」
加能という苗字、お母さんの口から訊いたことはない。でも私が知らないだけで、もしかしたら常連さんかもしれないし、知り合いかもしれない。
「あっ、もしかしてお店の常連さんだったりしますか?」
「常連・・・、いえいえ。そんなことはございませんよ」
「じゃあ、お母さんの知り合いですか?」
「いえ。山下様のお母様とわたくしは知り合いではございませんよ」
「じゃあ何で私の名前知ってるの」
「あなたとは夢の中で何度もお会いしたことがございますから」
ご機嫌に答える加能というおじいちゃん。
こんな人、私が見た夢の中に出てきたことあったのかな。
「気持ち悪いんですけど」
「そんなこと仰らないでください。若造にそう言われては、老い耄れがさらに老いていきます」
「だって、事実なんだもん。いきなり出てきたおじいちゃんが、私のフルネームを知ってるなんて、どう考えても気持ち悪いでしょ」
「あらら。そこまで言われるとは思っておりませんでした」
ハットを下げてシュンとする加能さん。私はあくまでも事実を言っただけなのに。そんなに落ち込むことはないでしょ、と言いたくなるが、唾と一緒に飲み込んでグッと抑える。
「あの、ちょっといいですか?」
「はい。何でしょう」
「加能さんって、私以外の人にも見えてるんですよね?」
「いえ。過去に戻りたいと強く願われた方の前にしか現れませんので、その方にしか見えないようになっております」
皺だらけの手で口元を押さえながら笑う加能さん。見た目はおじいちゃんなのに、笑い方はお嬢様みたいだった。
「じゃあ、これ以上は大きな声でしゃべらなくてもいいですか?」
「どうしてでしょうか?」
「変な人って思われたくないので」
「あぁ、そうでしたか。わたくしは構いませんよ」
涙をもう一度だけ拭い、私は小声で加能さんに尋ねる。
「一つ、いいですか?」
「何でしょう」
「あの、私はいつ加能さんを呼んだんでしょうか」
「覚えていらっしゃらないのですか?」
「えっと・・・、確かにさっき過去へ戻りたいとは思いましたけど、そこで加能さんを呼んだ記憶は・・・」
「あるじゃないですか。わたくしを呼ばれた記憶が」
「えっ、どういうこと?」
私は加能さんを呼んだ記憶がないのに、加能さんには呼ばれた記憶があると言われて当惑しているのに、加能さんは私の前でクスクスと笑っていた。笑い方のバリエーションが豊富なおじいちゃん。いつの間にか虜になりつつあった。




