第14話
目の前に浮いている加能さんは、ただただ私のことを見続けた。でも、私には加能さんが追っていた何かが見えない。
「見えないんですけど、何が私の前に誰かいるんですか?」
私は加能さんに尋ねた。すると加能さんは溜息交じりのような呼吸をしたあと、「それをお伝えすることはできません」とキッパリと答えた。
「え、そんな。伝えてもらわないと・・・」
「七瀬様、お気になさらないでください。見えなくても構いませんので」
「え、そうなの?」
「はい。何の問題もございませんよ」と言いつつも、加能さんはその場でしゃがみ込み、さらに身を小さくして私には見えない何かと話し始めた。聞こえるのは加能さんの小さな話し声だけだった。
「あの、見えなくてもいいって言われても、やっぱり気になるんですけど」
「あぁ、すいません」
「何、話されていたんですか?」
「あぁ、えっと」
「誤魔化さないで、ちゃんと言って。誤魔化されるのが苦手だから」
「そうですよね」
「それに、加能さんは私のお願いを訊いてくれて、不安の中にいた私のことを助けてくれた。だから今度は、私が加能さんのことを助けます」
責任感が強い性格上、変なことを断言してしまった。でも言ってしまった以上、後戻りすることはできない。
加能さんは浮いた状態で姿勢を正し、またも乱れていない白い髭を数回指で触り、整える。そして、重たそうな口を開いた。
「今から話すことは、とある方が七瀬ゆず奈様に直接お伝えしたかった手紙の内容になります。わたくしが代読する形になりますが、それでも―」
「いいですよ。代読でも、ちゃんと伝えてくれるのなら」
加能さんの顔に花が咲いた。最初から伝える気でしかいなかったはずだろうに。意外と分かりやすい人なのかもしれない。
「ありがとうございます。では、わたくしが代読させていただきます」
「はい。お願いします」
私は深呼吸した。何の手紙かも明かされないまま伝えられるのは、少しの勇気が必要だった。ただ、何となく、今から言われる内容は私が生きていくうえで、何かヒントになるようなことを与えてくれるような気がした。
加能さんは手に何かを持っている様子だが、それが私の目に映ることはなかった。
―拝啓 七瀬ゆず奈様―
七瀬ゆず奈様。わたくしは貴方のお母様である七瀬京香様から大切なものを奪ってしまいました。それは、お父様である七瀬平司様に関する記憶です。七瀬京香様のみならず、七瀬平司様と関わりのある方々からも、七瀬平司様がこの世に存在していたという記憶を、すべて消してしまいました。わたくしに与えられた任務とは言え、自分自身の身を護るがために、このようなことをしてしまい、誠に申し訳ございません。
七瀬ゆず奈様は、今ごろ、なぜ私だけお父さんに関する記憶が消えなかったのだろうかと、不思議に思っていることでしょう。その答えとしては、わたくし一個人の想いからそうなっているのです。
わたくしは、貴方のお爺様にあたる七瀬英司様という方の下で働いておりました。七瀬英司様は、息子である七瀬平司様のことを自慢気に話されていることが印象的な方で、いつもは取っ付き難い方なのに、七瀬平司様のお話ともなると、嬉しそうに笑みを浮かべるのです。そのときの笑顔が忘れられず、娘さんである貴方にだけは、七瀬平司様が生きていらっしゃったことを忘れて欲しくありませんでした。そのために、七瀬ゆず奈様の記憶からは、お父様がいたという記憶を消さなかったのです。
しかし、そのことでお母様や親族の方と何度も衝突され、苦しく、辛い思いをされてきたことだと思います。それは、貴方の責任ではなく、わたくし自身の責任なのです。十五年もの間、黙っていて申し訳ありませんでした。
貴方が生きるこの先の世界が、明るく照らされていることを願っております。
―敬具ー