第6話
次に、のちに盟友となるあの方との出会いから別れについてお話しします。
不登校生のまま小学校を卒業したわたくしは、小学校のすぐ隣に設置されている中学校ではなく、隣町の中学校を選び、そこへ入学しました。理由は、もちろん、小学生時代の同級生と離れるためです。
中学校へは、自宅から自転車、もしくは徒歩で通いました。五、六キロの距離なので、別に苦ではなかったのです。大雨と猛暑の日以外は。
入学してからもドラムはわたくしの心の支えとなってくれていました。週一回、土曜日の十五時から二時間のレッスンは欠かさずに受け続けたのです。しかし、そんなレッスンは思いもよらない形で終わりを迎えてしまいました。
わたくしは、中学生になればバンドを組んでもいいという両親の言葉を真に受け、仲間探しを始めました。当初は、楽器を演奏できるお方なら、同級生だろうが上級生だろうが、あるいは先生方だろうが、どなたでもいいと考えておりました。
ですが、あるとき、わたくしはあるお方に惹かれてしまい、そのお方以外には声をかけなくても良いと思えてしまったのです。不思議ですよね。その方が楽器を演奏できるとも限らないのに。でも、その方ならわたくしの願いを一緒に追いかけてくれると、ちょっとした勘が働いたのです。その方というのが、あの岸本鷹大様でした。岸本鷹大様はわたくしにとって最初で最後のバンド仲間でした。
小学生の頃から抱いていた夢が実を結び、そして花開いた瞬間。嬉しさのあまり、わたくしの気分で、楽器すら触ったことが無いという岸本鷹大様をギターとヴォーカルに選び、ギターのほうは、浜中仁様にレッスンを受けるよう指示しました。歌に関しては、近所にヴォイストレーニングをしてくれるお方が見つからなかったので、時期が来るまでとりあえずは一人で練習してもらうことにしました。まぁ、元からお上手で、人の心をいとも簡単に動かせてしまうような歌声の持ち主でしたから、練習しなくても良いと思っていたのですが・・・、有名なバンドマンになるためには、歌にも磨きをかける必要がありますからね。
二人とも同じ浜中仁様からレッスンを受けられる。最初は胸がときめきましたし、とても光栄なことでした。ですが、わたくしが提案したギターのレッスン、これがわたくしと浜中仁様の距離が開いてしまう原因となるのです。
距離ができたと感じ始めたのは、岸本鷹大様のギターの上達が早かったことにありました。岸本鷹大様は演奏技術を上達させていく一方で、習わなくなったわたくしのドラム演奏技術は上達どころか、同じ速度の肩と並走しているような感じでした。つまり、上達もなければ腕が落ちる訳でもない。なんとももどかしい状態だったのです。
しかし、それに気づかなかったわたくは、自分の方が岸本鷹大様よりも演奏できるというアピールをし続け、演奏や歌には目もくれず、一人、独自の練習にのめり込んでいました。
中学三年間ろくに勉強もしないまま過ごし、高校は落ちこぼれの生徒たちが集まるところを受験しました。今思えば、その頃からわたくしは岸本鷹大様へ無茶な願いをしていました。最初は楽器に触ったことがないと言われたのにも拘わらず、ノリだけでバンドに誘い、ギターを習わせました。
それだけにとどまらず、勉強なんかより練習の方が大事だと何度も言い聞かせ、元々頭のいい方だったのを底辺に近いところまで落とさせ、そして同じ高校を受験させていました。岸本鷹大様は一度もわたくしの意見に逆らうことなく、わたくしの言うままに動いていたのです。
そのことが仇となったのが高校一年生の夏でした。塵も積もれば山となる。その言葉がわたくしに圧し掛かる瞬間が訪れたのです。
突如として現れた鴨田京香様によって、事実を突きつけられたのです。そのことに腹を立てたわたくしは、鴨田京香様と付き合い始めたと鼻の下を長くして報告してきた岸本鷹大様へ暴言、暴力を浴びせました。そして校長に自宅謹慎を言い渡されたわたくしは、三日後ですかね、学校を辞めたいと、その場の勢いだけで伝えてしまいました。
それからしばらくの間、校長や担任からは何度も説得されました。しかし、相当の怒りを抱えていたわたくしは全く聞く耳を持ちませんでした。そして、開き直って意見を曲げることもできず、その二日後、辞めると言い切ったのです。
こうしてわたくしは岸本鷹大様に苛立ちの感情を抱いたまま姿を消しました。このことは、三十三歳になった今でも、後悔していることの一つとして頭の中に残り続けています。
皆さまのように過去へ戻れるのなら、わたくしも一度や二度は戻ってみたいと思ったこともあるのです。まぁ、暴力、暴言をしないとか、学校を辞めるといった結末を変えることはできませんけどね。