怪物のはなし
怪物が出る。でくわした子どもはひと口で喰われてしまう。
体長2メートルほどの怪物は、昼間は下水道にひそみ、夜になると塾帰りの子ども
を喰うために地上へ現れ、曲がり角の先、薄くらがりで待ちぶせている。
最近、首都圏内の子どもらの間でまことしやかにささやかれている都市伝説であ
る。怪物の姿は犬にも見えるし、猫にも見える。兎のようだったと語る子ども
もいるという。
「って、コレ変じゃない?」 うさんくさいネット記事から顔を上げたサトルがいっ
た。
「どこが?」 私は、息子の次の言葉をうながした。
「体長2メートルの怪物が、この街のどこに隠れられるの? あり得ないよ」
「ほう……しかし、かなりの目撃談が書かれてるぞ」
「それが変なんだよ。怪物はひと口で子どもを食べるんだよ、見た子どもが食べら
れてないのはおかしいよ」
ほう、なかなか論理的じゃないか? 私はまだ幼い息子をたのもしく見た。
「だいたい、犬に見えて猫にも兎にも見えるなんて、そんなモノがいる
わけないじゃん。ボクら子どもがよく知ってる小動物をならべ立てただけだよ。
おおかた塾通いがいやな子どもが流したうわさ話だとボクは思うな」
アメコミ映画で有名な『蝙蝠男』の子ども用パジャマについたフードを
もてあそびながら、いっ気にまくし立てるサトル。明るい極彩色のヒーローより
も、少し陰のあるダークヒーローがお気に入りなのだという。確かにたのもし
くはあるが、いささか、こまっしゃくれている。
「だいたい人喰い怪物なんて、子どもの発想だよね」
そういうと冷蔵庫からミルクを出してコップに注ぐサトル。
──おいおい、お前だって子どもじゃないか? 私の中である衝動が起こった。
この生意気な息子を少し恐がらせて、この世には理屈ではわり切れない出来事も
あるのだと教えてやろうか?
「お父さん、ミルクは?」
優しい子だ。妻の教育のたま物だろう。その妻もこの週末は、学生時代の友人た
ちと温泉旅行に出かけている。あれを話すにはちょうどいい機会だ。
「お父さん?」
サトルは牛乳を冷蔵庫にもどすのか、私が飲みたいのかの返答を待っている。
「くれ」
私がいうと、サトルは薄く微笑み、食器棚から私のカップを取りだす。
「なあサトル、お父さんの話を聞いてくれるか?」
「うん、いいよ」
「お母さんには秘密だぞ」
子どもなりになにかを感じたのだろう、サトルは力強くうなずいた。
「わかった」
私は牛乳で唇をしめらせて怪物の話をはじめた。
あれは私が小学校四年生の秋のことだった。学校からの帰り道、当時、仲のよか
ったカズマサといつも通り、いつもの道をたどり、ふたりだけの秘密基地へと急い
だ。秘密基地とは名ばかりで、くち果て、放棄されたただの洋館なのであるが、
戦時中に惨殺された外国人の幽霊が出るとのうわさがあり、近づく者はあまり
いなかった。
ちなみに私もカズマサも幽霊など信じてなかったし、見たこともなかった。
私たちはそこで猫を飼っていた。正確にいえば、給食の残り物をやっていただけ
で、 彼は(彼女?)りっぱな野良猫だった。名前はボンド。スパイ映画
の大ファンであるカズマサがつけた名だ。
その日は風邪で学校を休んだ者が多かったため、給食のミルクもパンも大漁
で、私たちは早くボンドに食べさせてやりたかった。閉鎖され、板が打ちつけられ
た正面玄関や裏の木戸からは中に入れない。私たちは以前、壁面の小さな穴から
ボンドが出入りする姿をぐうぜん見かけて、そこからの侵入に成功していたのだっ
た。いちいち服が汚れるのは気になるが、秘密基地らしい出入口であると満足して
いた。
薄暗く、すすだらけの廊下を抜けると、外の明かりがほんのりと入ってくるホー
ルに出る。ここだけはカズマサとふたりで、きれいに掃除してあった。
私たちはソファーに寝そべるとボンドの名前を呼んだ。
にゃー。 ボンドだ。カズマサはソファーからはね起きて、ランドセルからミルク
とパンを──バクッ!! 一瞬の出来事だった。
ボンドは自分の体より大きい、カズマサの頭を丸々、喰ってしまった。
バリ、バリ、ボクッ。大きく裂けたような口から血をしたたらせ、カズマサの
頭蓋骨を噛みくだくボンド。私は恐怖のあまり、ソファーで腰をぬかし、身動き
ひとつ取ることもできなかった。ボンドは、カズマサの体まできれいに平らげる
と、私を見た。
にゃー。ひと声ないたボンドの体がむくむくと大きくなり、全身の毛がハラハ
ラとぬけ落ちた。信じられなかった。ボンドの黄色じみた瞳が、丸く黒々
とした少年の瞳に変わっていたのだ。ボンドは、カズマサになっていた。つるん
とした産まれたての赤ちゃんのような肌をしたカズマサがウフフと笑った。
そして、私の目の前で大きく口を開いた。
──喰われる。うわあっ!! 私は初めて悲鳴を上げ、転がるようにして逃
げ出した。まだ二本足になれていない様子のカズマサは四つ足で追ってくる!!
秘密の出入口、なんてせまい穴なんだ!! 私は穴を広げなかったことを死ぬ
ほど後悔した。ようやく外に顔と片腕が出た。が、遅かった。恐るべき腕力で穴
の中へ引きもどされた私の抵抗もむなしく……。
「猫が怪物だったの?」
サトルは青ざめている。
「違うと思う。怪物がボンドを喰って、猫の姿に変わったんだと思う」
「喰ったモノの姿に変わるんだね?」 サトルはおびえたような目で私を見た。
「ネット記事にある、猫にも犬にも兎にも見えたって話……だから、
気になるんだ」
サトルはなにもこたえなかった。しかし、手が震えている。
「サトル、お父さん、どうなったと思う? そのあと」
「逃げられたの?」
私は首を横にふった。
「喰われたよ、頭から。自分の頭蓋骨が砕ける音、今でも忘れられない……」
あっ。牛乳パックを倒したサトルが小さく声をあげた。とくとくとく。 テー
ブル上に流れだすミルク。
「サトル……ここからが不思議な話なんだが、意識がもどったとき、お父さんは
お父さんのままだった。確かにカズマサに喰われたはずなのに、カズマサから変
わった姿のはずなのに。なにも変わった気がしなかった。不思議だろ?」
うなずくサトル。
「よくはわからないんだが、お父さんの体の中には怪物をおさえ込むなにか、
抗体ってわかるか? そんなモノがあるのかもしれないな」
サトルは完全にだまり込んでしまった。やはり話すべきではなかった。私は
後悔の念にかられた。生意気な子を、ちょっとおどかしてやろうと思っただけだ
ったのだ。
ごく最近、今でも仲がいいカズマサと飲んだとき、はやりの都市伝説の話から
派生して、酔っぱらいふたりで作った冗談話なのだ。
……おとなげないことをしてしまった。
「サトル、お父さんが悪かった、怖かったよな?」
サトルは、真っ直ぐに私を見上げていった。
「これでわかったよ」
「うん?」
なにがだ? サトル。
「ボクが、子どもを食べたくなるわけ」
「なんだって?」
「怪物の血が流れていたんじゃ仕方ないよね」
サトルは憑き物が落ちたかのように晴れ晴れと無邪気に笑った。
「サトル、待て、冗談だ。冗談話だよ」
サトルは私に背を向けると、パジャマのフードをかぶった。角のようにピンと
伸びた二本の耳が特ちょう的なアメコミ映画の『蝙蝠男』のフードをつけた
小さなサトルが、私には犬のようにも、猫のようにも、兎のようにも見えた。
「サトル、待つんだ、サトル!!」
ふり向いて、ウフフと笑ったサトルは、大きく口を開いた。
待て、サトル!! 私は子どもじゃないぞ!!
──私が最期に聞いた物音は、バリ、バリ、ボクッという私の頭蓋が砕ける
音だった。
(終)