夏だぜ! みかん 前編
「へい! 彼女ぉー、どこいくの? 乗ってかない?」
サイドウインドウをさげると、外界にふれる。熱気が車内に流れこんでくる。目
もくらむような強い日ざしをがっぷりとうけとめて、幅広のアスファルトの路面か
らは陽炎が立ちのぼっている。かすかな風が沿道に立ちならぶ鮮やかな緑の
木々の葉をゆったりゆったりとしならせている。盛大なる蝉しぐれ、四方八方
からのサラウンド。息ぐるしい熱い空気がまとわりついてくるようだ。
「彼女ー、デートしないかい?」
栗毛色に染めた長い髪をひるがえし、横断歩道を颯爽とわたる彼女。彼女は
俺に気づかない、または気づかないふりをしている。俺は車をユルユルと徐行させ
ながら車窓から身を乗りだし、手をふった。
「彼女ー! みかんちゃん!!」
彼女ははじかれたようにビクン!と立ちどまり、大きく見ひらいた目をコチラへ
むけた。
「よっ!」
俺が笑顔をむけると彼女は、わぁ!!と声をあげて俺の車に手をかけた。
「アチッ!」
そりゃそうだろう。ボンネットで目玉焼きができても不思議ではない。
「あはは、相変わらず──」
「えーえー、相変わらずそそっかしいですよ!! ところで、どうしたんですか?
本当に久しぶりです。元気でした? ナンパかと思っちゃいましたよ! こんなオ
バさんになっても、あたしも捨てたモノじゃないのかなぁ、なんて。勘違いしちゃ
いましたよ!!」
言葉をはさむ間がなかった。本当に相変わらずだ。
「みなさん、お元気ですか?」
そう聞いてきた彼女をマジマジと見る。あれから五年になる、彼女はもう三十
四、五になるはずなのだが、あのころのまま、100ワットの電球さながらのあか
るさと、にぎやかさは、まるで変わっていない。そして、年齢よりもかなり若々し
く見えた。
「みな、元気だよ。安東さんは辞めたけど。菊田は、ああ、だいぶ薄くなったな」
俺が頭をなでると彼女はブブッと笑いをこらえた。そうだった、彼女はにぎやか
でうるさい半面、他人の肉体的特徴をあげつらうようなまねはいっさいしない、ひ
かえめな目な一面もあわせもつという、不思議な女だった。
「みかんが辞めたあとに入った事務の子、いい子なんだけどトロくてさ、鷲尾女史
にそうとうイジめられてるよ」
「えー、鷲尾さん、そうなんですか? あたし、イジめられたおぼえないのに!」
それは……。
「鷲尾女史がなにかいう前に、みかんがしゃべるからだよ」
「そうかなー?」
おいおい。
「まるであたしが、おしゃべり女みたいじゃないですか! まー、違うと完全否定
できないところが、つらいトコなんですけどね」
俺はふふ、と苦笑いしてしまう。
「ところで──」
「あ、そうそう。あたしもいい年なんですから、みかんはやめてくださいよ。十代
の子でもあるまいし、照れちゃいますよ」
「ああ、あのさ──」
「だいたいですよ、久々に会ったおとなの女性に対してみかんちゃん!て声かける
人がどこにいるんです?」
「はいはい、俺の話も聞いてくれます?」
あ!っと彼女は口もとを押さえた。
「ごめんなさい。なんだか久しぶりで、つい嬉しくなって……」
彼女は唇をとがらせて、少しうつむく。
「暑いだろ? コッチには仕事できたんだけど時間あるからさ、乗ってきなよ。そ
の辺でよければ送るよ」
彼女は、元気よくハイ!と返事すると助手席側へまわった。
「渡瀬さん、丸くなりましたね」
彼女がいった。
「ドキッ!」
俺は胸を押さえる。
「俺ももう四十だからな……みなにいわれるんだよ、太ったって……そんなに太っ
た? 俺」
車内クーラーは寒いくらいガンガンにきかせている。少しばかりえらくなったせ
いか、車での移動が許され、夏だというのに汗を流すきかいもへっている。
「ふふ……それもそうですけど、そうじゃなくて、なんていいますかね、角が
とれた感じです」
うん?
「さっきみたいなとき、渡瀬さん、昔だったらどなってましたよ。俺の話を聞け!
って」
ああ……。
「あたし、実は渡瀬さんのこと、少し恐かったんですよね」
彼女はそういって舌をだした。
「そっか……」
なんといえばいいのかわからなかった。確かに仕事は楽でなく、いつもキリキリ
としていた。そのせいか、なにをいおうがへこたれない、いつもバカあかるい彼女
に対し、八つあたり的な態度をとることもしばしばあった。笑ってうけながしてく
れる彼女にあまえていたかもしれない。
「恐かったか……俺」
彼女は笑った。
「今は大丈夫ですよ。いいんですって! 男の人が仕事してるときは恐いくらいの
ほうが。ナメられると、つけこまれますからね!」
彼女はウチの会社に事務として入る前、銀座でホステスをしていたと聞いた。家
計を助けるためだったそうだが肌にあわなかったらしく、夜の仕事から足を洗いた
いと常連客だった親会社の社長に相談したところ、ウチを紹介されたのだという。
さりげなく男を立てる言葉、態度は彼女のそんな前歴からきているのかもしれな
い。
だが俺も、他のみなも、社長以外の人間は彼女がホステスだったことなど知るよ
しもなかった。知ったのは彼女が退社したあとのことである。親会社の社長に彼女
どうしてる? いい子だろ?と話をふられなければ一生、知らなかっただろう。
彼女の学習能力はずばぬけていて、鷲尾女史も一目をおくほどであったし、なに
より社内があかるく(うるさく?)なった。殺伐とした雰囲気をなごませる一ぷく
の清涼剤、それが彼女であった。すこやかに成長したお嬢ちゃん、みながそう考え
ていた。つねに多忙を極めていたせいもあるが、彼女に手をだす男もいなかった。
色気というモノをまったく感じさせなかったから? なぜか手だししてはいけな
い、そんな空気が社内にはあったのだ。
汗だくになって会社にもどると、彼女はいつも冷えたコーヒーをだしてくれた。
「夏!って感じですね! 夏ってだけでワクワクしません? なにしろ夏ですもん
ね!!」
夏=ワクワクする。それが彼女の口ぐせだった。疲れてヘトヘトのときなどは、
うるせぇ、暑苦しいんだよ! そんなひどいこともいってしまった。しかし彼女
は、口ごたえをしたことはなかった。
「渡瀬さん、どこへ連れていってくれるのかしら?」
クーラーの風向きを少し変えながら彼女がいった。
「どこって……仕事っていったろ? ちょっと乗せるだけだよ」
「仕事、けっこうかかりますか?」
「いや。一、二時間……今日は打ちあわせだけだから」
彼女は腕時計を見る。
「待っててもいいですか?」
「いやぁ……だってさ」
「デートしようっていいましたよね?」
「いったなぁ……まあ」
「あ、渡瀬さん、結婚されたんですか? だったらいいです、誤解されたりすると
迷惑かけちゃうから! ごめんなさい!!」
「結婚……してないよ。彼女もいない」
彼女の顔がパッとかがやいた。
「やっぱり!!」
──って、どーゆーこった?
「あたし最近、病院ばっかりで……せっかく、夏になったのに」
「ワクワクしないか?」
彼女はハイ、とうなずいた。
「病院か……」
彼女がウチの社を辞めた理由は、姉の介護をするためだった。難病だという
ことで、母親と交代でそばにいる必要があるらしい。つまりは都心にあるウチの会
社には通いきれないため、どこか近所でバイトでもさがす。そういうことだった。
彼女を引きとめてやれる男は俺もふくめ、誰もいなかった。
「お姉さん、ぐあいは?」
「亡くなりました。でも、今度は母が倒れて。しかもときどき、あたしが誰かわか
らなくなるんですよー。ひどいと思いません? もう、あたしと父でシッチャカメ
ッチャカです」
きびしい話を笑顔で語る彼女。
「キツいな……」
「はい、キツいっす!!」
「いいよ、仕事がすんだらご飯でも食べにいこう」
「ヤッター!! ずっと病院にいるからクサクサしてたんです! で、フラッと散
歩にでたんですけど……よかったぁ! 渡瀬さんに会えてよかったです!!」
「ああ……そう?」
「夏、しちゃいます? ふたりで」
イタズラっぽい目。
「……あ?」
ほうけたような俺の表情を見て、彼女は本当に本当に、嬉しそうに笑った。
その日、約束の時刻、約束の場所に彼女は現れなかった。胸さわぎがした。なに
かあったのかもしれない。だが、俺にできることはなにもなかった。
打ちあわせは順調であったというのに、なぜか落武者のような気分で、俺はその
街をあとにした。
(つづく)




