F・M(フェイシャル・ムック)の怪 後編
彼女は黙ってしまう。私は不意に胃のあたりに重さを感じた。
いやな予感がした。
「いったん私、実家に帰る。とうめんは面接と勉強だけになるから……もう会えな
い」
はっ? どんな理くつだ? 私の口はうまく動かない。ちょっ、ちょっ──。
「やさしくしてくれて……ありがとう。ごめんなさい」
「ちょっと待ってよ。意味わからないよ、なんでよ? どうしてだよ?」
「勉強……しないと」
高校生か? 受験生か!?
「勉強のじゃまはしないよ、今までだって待ったんだし、まだまだ待てるよ。だか
らたまに会うくらい──」
「じゃまになるのよ!!」
血の気がひいた。そして彼女は私の表情を見て、あわててあやまった。
「ごめんなさい……」
俺が……なにをしたってんだ!? 私は彼女を抱きすくめ──ようとしたのだ
が、彼女はスイッと腰を落として私の腕から逃げた。結果、私は自分で自分の肩を
抱くかっこうで立ちつくしていた。まるでマンガだ。ウキウキふわふわと喜びいさ
んでやってきた結果がマンガかよ。100万使った結果がマンガかよ! こんなに
好きになっても結局はマンガかよ!!
消えてなくなりたかった。生きていることが恥ずかしかった。
彼女がなにか話しかけてきたようだ。私はコンクリートの壁を思いきりなぐっ
た。彼女がひっと声をあげる。そして、私は逃げるようにしてその場を立ちさっ
た。一秒でも早く、彼女からはなれたかった。
酒屋でウィスキーボトルを買い、ラッパ飲みをしながらフラフラと歩きまわっ
た。部屋に帰るのもいやであったし、飲み屋に入り、店の人間と口をきくのもわず
らわしかった。
じゃまか……じゃまなのか……じゃまになるんだ……。
たぶん嫌われてはいなかったろう。たぶん好かれてはいただろう。しかし、愛情
を、彼女の女の部分をゆさぶることはできなかった。不甲斐ない男だ。
人に話せば最初からキャバ嬢とただの客にすぎなかっただけだろ? そういわれて
おわる話なのだろう。しかし、それだけではなかった。せめてそう思いたい……。
ひとつだけわかったことがある。どれだけ一生懸命になっても、どんなにがんば
っても、思いや願いをかなえること、私にはできないということだ。なにがどうあ
っても不可能。無理。私は目先のことをコツコツとこなすだけの人間。つまらない
人生、夢のない生き方しかできない人間。マンガみたく笑われておわる人間。バカ
みたいだ。三十すぎるまで、そんなことに気づかなかったなんて!!
「兄ちゃん、風邪ひくよ!」
誰かの声で目がさめた。明け方、私は路上に転がっていた。新聞配達の自転車が
すぎさっていく。見たことのあるような風景。どうやら駅三つぶんくらい歩いたら
しい。頭がわれそうに痛い。吐き気もする。
じゃま者か……私はつぶやき、アスファルトに涙と吐瀉物を落とした。
ブライダルコンサルタント。 今、こうしてF・Mを見ると、彼女は間違いなく結
果をだしたことになる。その職をわずか数年で辞した理由はわからないが、とに
かく描いた夢を現実にしたのだ。頭がさがる思いがした。
「私がストーカー気質じゃなかったことに感謝するがいい」
F・M上の彼女の画像にむかい、そういってやった。そしてもうひと言。
「……本当、えらかったな。がんばったな」
ついつい思いを馳せてしまう。あれから彼女はどんな風に夢を、願いを軌道
にのせて前へ進んだのだろう。話をしてみたいと思った。
むろん私は十五年間、彼女を思い、泣きくらしていたわけではない。そこまで純
情ではない。結婚していないのは、彼女以上に好きになれる女が現れなかったか
ら、それだけのことである。そして当然、今は彼女に対しよけいな感情などはな
い。ただ、話をしてみたい。
──って、ぇえ!! 私は大声をだしてしまった!!
『友達リクエストを送信します』
突然モニターに現れた文字。しかしそれは瞬時に消えた。友達、リクエスト!?
彼女のF・M上の画像やら、記事やらプロフィールやら、マウスを動かしながらいっ
たりきたりしていたのだが、私は間違って右上の【友達になる】をクリックしてい
たのだ。違う、クリックなどしていない! カーソルがたまたまその上にいたとき
に人さし指の力がゆるんだだけだ!!
「嘘だろ……」
せめて、送信しますか? そのくらいは聞けよ、F・M!!
しばし呆然となった。もし彼女が私の名前をおぼえていたら……とてもキモ
いだろう。忘れていたなら……それはそれで恐い……だろうな、やはり。
なにか、高揚しかけていた気持ちが一気に萎えた。そしてアワアワとうろ
たえている自身が滑稽に思えた。またマンガのようなことをした。冷静に考え
てみれば、そんなに悪いことをしたとは思えない。私は間違っただけなのだ。
パソコンに表示される時刻は午前0時をまわっていた。明日、考えよう。四十を
すぎてからこっち、最低六時間は寝ないと仕事がつらくなると感じている。私は飲
みかけのウーロン割りを飲みほした。
翌日、私は考えた。ようは、私が名前だけしか登録していない怪しい人間だから
いけないのだ。いちおうまともに仕事をしてるし、役職にだってついているのだ。
恥じいる理由はなにもないはず。きちんとプロフィールも入力して、メールでもな
んでもいいから、話をしてみたいとつたえよう。
帰りがけ、私は書店により、F・Mの入門書を買った。知識もなにもなく登録なん
てするから間違いがおこるのだ。
家にもどると、とるものもとりあえずパソコンを立ちあげる。F・Mを開き、彼女
の名前を入力、エンターキーを押す。
──ない。
昨夜、一発で見つけられた彼女の画像は、それから何度さがしても見つけること
ができなかった。彼女はF・M上から完全に姿を消していた。
言葉もない……。もし仮に、私が彼女の友人、もしくは恋人で、相談を受けたと
したら。こんな人から友達になりたいってメッセージがきたの、どうしよう? そ
う聞かれたとしたら。私は即座にこたえるだろう。今すぐF・Mのデータは消去し
て、しばらくはやめておいた方がいいよ、と。
さもありなん、だ。なぜ私は昨夜のうちに、せめてプロフィールだけでも打ちこ
まなかったのか? なぜ、その労をおしんだのか? そうしたところでなにが変わ
ったわけでもないのだろうが。しかし、やるべきだった。
デスクに投げだしたF・Mの入門書が、とても恥ずかしいモノに見えた。
「あ……」
帯に書かれた一節が、私の目にとびこんできた。
『F・Mは夢をひろげるビジネスツールだ!!』
どこかで誰かに聞いたことのあるキャッチコピーではあったが、私はハタと気が
ついた。彼女にはなにか新たな夢ができたのではないだろうか? だからブライダ
ルサロンを辞して転職し、新たなビジネス、夢をかなえるための第一歩として
F・Mをはじめたのではないか。だとしたら私は……私のせいでF・Mから消えたの
だとしたら……ふふ……今度こそ私は、完全に彼女の夢をじゃました!?
「はい、だめ押しきました!」
はははは。 ま、こんなもんだろう。 とどめをさされた私は、私を笑うしかな
かった。はははは……。
(終)




