とある国における「おバカな彼女」と「バカ者な私」が「死」にいたるまでのとりとめのないお話 前編
「バカね」
口もとに笑みをうかべつつ彼女がいった。そうしてから、その唇をキュッとつぼ
め、不平でもあるかのように眉間にしわをよせる。
「バカか?」
私が聞くと、バカよ、バカ、本当、バカ。彼女はバカを連呼しながら、私の裸の
胸に頭突きをくらわせた。
ゲホッ、せきこむ私。
「お前ねえ……」
怒ったフリをするが、むろん本気ではない。わかっている、私に抱きつこうとし
て勢いあまった結果でなのだ。まあ、よくあることである。
「ゴメンね!」
またやっちゃった! 彼女はバツが悪そうに口をとがらせて、うつむきかけた。
「胸をやられた、息が苦しい! 人工呼吸、人工呼吸!」
私がおどけると彼女の表情はパパッと変わり、グイと私の鼻をつまみあげ、唇を
重ねてきた。これではもちろん息ができない。
三十秒……五十秒……。 ぶはっ!! 私はこらえきれずに、つめていた息を吐
きだす。その際、私の唾液のしぶきを大量にあびてしまった彼女は、またバカね!
といいながらシーツの上で笑いころげ、猫のように手の甲で顔をふく。
「バカだよな」
「でも好き」
伸びあがるようにして抱きついてきた彼女の、薄い胸のかすかな弾力を私は楽し
む。ふれあう素肌、シルクの感触を私は楽しむ。むだな肉が削げた獣を思わせる鞭
のような腕が巻きついてきた。その筋肉のしなやかさを私は楽しむ。
「ゴロニャーン」
あまえたがりの猫科の獣は、そのかわいらしい声とは裏腹に、獰猛な黒豹のごと
く私におおいかぶさって──。
ドダン。 彼女がベッドから落ちた。これまたよくあることである。猪突猛進
型というか、要は、そそっかしいのだ。初めて街で出あったときも、彼女は私の前
でハデに転んでみせた。あのときも、そして今も、あはは、と笑う彼女。
「やっぱおバカは私ね」
「バカ者どうし、仲よくやれているじゃないか」
手をのばして彼女を引きあげる。出あいのときから何度、彼女に手をさしのべた
ことだろう。
「うん、本当にね」
抱きあげた私の腕の中で、うん、うん、と彼女は何度もうなずいた。私は彼女か
らのキスはなるべく受けないようにしている。何回かに一度は鼻やら歯、目のあた
りに激突してくるからだ。だからといってあからさまに拒否しては、彼女が傷つ
く。きそうだと雰囲気をさっ知したら、こちらからキスすればいい。これでも
私は危機管理能力にはたけている方なのだ。
ビー。 緊急放送用の室内スピーカーからブザーの音が流れた。
「戒厳命令が解かれたね。外、でてみる?」
彼女がいった。
「暴動はおさまったんだろうけど、でたいのか?」
真夜中の街に。
「でたくない。このままがいい」
お前が聞いたんじゃないか? などと野暮はいわない。私は喜んで同意す
る。深夜の街は危険だ。
「バーカ」
えっ?
「なんで?」
「なんとなく……」
「なんとなくバカなのか?」
「うん、なんとなくバカなの」
そういって彼女は、今度はやわらかく、私の胸に頭をおいた。
「ね、今日、私、でかけるから。夕飯は冷蔵庫のをチンしてね」
朝、出勤前のせわしないひととき、私はネクタイを首にまきながら冷蔵庫をのぞ
く。ビーフシチューらしきモノがラップをかけた器に入っていた。
「昨日、つくっておいたの、味は保証つきよ」
誰が保証したのだろう? 彼女は料理がへたではない。炒め物や焼き物などは食
べられないこともない。事実、毎日のようにありがたく食している。だが、なぜか
煮込み系の洋食料理だけは苦手らしかった。苦手だと思っていないのだとした
ら、舌がどうかしているに違いない。
やはり以前、「長くでかけるから、コレなら毎日食べられるでしょ?」と鍋ごと
おいていったカレーは、確かひと口食べて、トイレに流した。食べられたしろ物で
はなかったのだ。
「ビーフシチューか……」
私がいうと彼女は不安気にたずねた。
「マズイと思ってる?」
「いや、うまそうだ」
私はあかるくこたえる。
「本当?」
「本当さ」
「嘘くさい、なんかくやしい! おいしんだから!!」
「わかってる」
が、たぶんまたトイレいきだろう。
「いちおう、信じとくからね」
私は笑った。
「そうしてくれ」
「ひとりでもちゃんと、いただきますっていうのよ」
こんなところにも彼女の育ちのよさを感じてしまう。
「わかってる、いうよ。どのくらい、家をあけるんだ?」
たずねると彼女は笑顔を見せた。
「心配してくれるの? 大丈夫、今回は一日だけ。シチュー見てよ、一食ぶんでし
ょ?」
彼女の仕事は不定期で、でかけると二、三週間もどらないことがあるかと思え
ば、半日で帰ってくることもある。全身、傷だらけになってもどるときもあれば、
極端に日焼けして帰ることもある。お笑いかなにかのネット番組制作の仕事
だと彼女はいった。不景気の上、人心が荒れているため、過激さのみが求められて
いる。大変な業界だと聞いている。彼女は仕事について多くを語らない。だから私
もたずねない。私自身も、自分の仕事について彼女に語ったことはないし、彼女か
ら聞かれたこともない。だから居心地がいい。たがいの仕事については詮索しな
い、それが私たちの暗黙のルールだった。
「戒厳命令がでようと、でなかろうと、夜はであるくなよ」
私がいうと、彼女は引きかけたルージュをほおりだし、私に抱きついてきた。
「やっぱ心配なんだ?」
私は彼女の口紅がワイシャツにつかぬよう、慎重に体を引く。
「服にはつけないわよ、バカねぇ……」
ゴチッ。やった。素早くキスしてきた彼女の額と私の額が鉢合わせした。
痛う……。デコを押さえる彼女。
「心配にもなるさ」
そそっかしいから。
「ありがとう……」
私はあわてた。彼女は涙ぐんでいた。
「お、おい……」
どうした?
「嘘なき!!」
ハッハと高笑いする彼女に、今度は私から強引にキスをして黙らせてやった。
一歩、外にでると私は顔つきがガラリと変わる。変えるようにしている。あまい
言葉もささやかない。女子供にバカだなんていわせない。いつも通り、いつもの時
間に出むかえの車に乗りこみ、私は官邸へとむかう。私の現在の肩書きは、「内閣
調査室テロ対策室長」。首相の勅命で国内外のあらゆるテロリストの動向を
さぐり、報告する。緊急時には特命による超法規措置が認められており、事後承諾
による軍隊、および機動隊の発動を命令することができる。かつて二度、軍隊を動
かし、敵の組織に壊滅的打撃を与えることに成功している。ただし昨夜のような
小競りあいにすぎない小規模な暴動の際には、私の出番はない。今の私は、
それほど下の立場にはないのである。
ことの起こりは三年前の夏。私は一介の代議士秘書にすぎなかった。その当時の
景気レベルは最悪で、完全失業率が65%に迫るいきおいだった。街は貧困のあまり
犯罪であふれ、自殺者、餓死者が毎日数百人単位で確認された。戦後初の未曾有の
危機が叫ばれる中、政府は有効な対策をなにひとつうてず、ただ右往左往するばか
りだった。
ソレはあきらかに民衆の中からはじまった。各市町村の市民団体が結びつき、こ
の国において、かつてないほど大きな反政府運動がうねりをあげ、渦をまいて
席巻した。それらは暴動やデモにとどまらず、ハッキリと組織化されたテロ集
団へと昇華し、ついには完全な警備をかいくぐり、首相暗殺を実行するまでに
いたった。後任の首相も暗殺され、次の首相は早々に退陣し、次の首相は自殺し
た。コロコロと変わる政権、回復しない経済。荒れくるうテロリズム。あのころの
ドタバタ劇は侵略の意思をかくして牽制しあいつつも、静観を決めこんでいた
諸外国からも嘲笑を受けた。
国内に、若さと強いリーダーシップが求められはじめた。殺伐とした世の中に
国民も疲弊していたのだ。しかしまさか、いっかいの若手代議士にすぎなかった彼
が首相に選出されるとは思わなかった。(他になり手がいなかったのだろうが)筆頭
秘書であった私は、そのまま彼のブレーンとして裏側から国政を支える立場となっ
た。彼は強権を発動し、一種の独裁政治をおこなった。しかしその反動は大きかっ
た、国内に戦火が立ちのぼり、軍隊は各地に出兵、暴動は容赦なく鎮圧した。私の
指示で壊滅を余儀なくされた市町村もいくつかある。何人も死にいたらしめた
が、私の胸は痛まなかった。職務だとわりきった。わりきらねばやっていられなか
った。
新首相から絶大な信頼をおかれていた私は、やがて、内閣直属のテロ対策室にま
わされ、その室長におさまった。就任にあたって私がだした条件がひとつだけあっ
た。公私の完全なる分別。よほどの緊急時以外は、プライベートを尊重して
もらうこと。私も疲れていたのである。
約一年で、彼の政策は軌道にのった。反政府運動に荷担しない市町村は徹底
的に援助、保護をし、安寧を約束。破壊された街の復興、通信や交通網の整備
に特別予算を組み、失業者には職をあたえた。軍隊を掌握し、戦後、法令から
外された戒厳命令を復活させ、国民の行動に規制をもうける反面、政府主催の「運
動会」や「料理コンテスト」を推進。豪華賞品を支給して好評をはくした「KAR
AOKE大会」を開催するなどして、大衆の関心をかうことも忘れなかった。
「民衆運動」の中より生まれたテロの炎は、やがて「あきやすく、生活の安定が
一番の民衆」のもとで下火となり、破壊のみを目的としてくすぶる小火になり
かかっていた。まあそんなモンだろう、と我々は日々の戦果に祝杯をあげた。
しかし、先頭に立っていた知識人や、年配者が次々と離脱をはじめたせいで、若
者の暴走をいさめる者が少なくなり、テロの質は凶悪化、短絡化の一途をたど
っていた。爆弾、銃弾、砲撃。やつらがなにかを起こすとき、必ず何十人もの一般
市民犠牲者がでるようになっていた。ただそのこともまた、私たちの中では物笑い
の種となっていた。これは国民のみなさまの自業自得であると。
首相の支持率は現在、75%を超え、安定感すら感じられる。飴と鞭、
硬軟を使いわける交渉力や、残酷ともとれる強硬策は諸外国からも一目をおかれ、
評価も高いと聞く。
首相は「鳴かぬなら殺してしまえホトトギス」がその気性、性格をあらわす言葉
として名高い大昔の異国の軍人「NOBUNAGA」にたとえられることも多々あ
り、当人もまんざらではないらしい。一見、順風満帆に見える新政府、私に
与えられた使命は、くすぶる小火の完全なる鎮火作業であった。ただ、
それだけのことだ。
ホトトギスの駆除。それが私の使命、職務なのだ。
──その夜、約九十発の弾丸を全身にあびせかけられ、彼女は死んだ。
命令をくだしたのは私であったが、さすがの私も、その死体を正視することは
できなかった。
(後編へつづく)




