つなごう。 後編
なんだかイライラがつのってしまってボクは、アナタの頬をたたいてしまいま
した。そして怒鳴ってしまった。
好きだよ! 大好きだよ!! 嫌いなわけないだろ!!
※
うん、と紫乃は手紙にうなずいた。今も、あのときの彼の表情は忘れてい
ない。
いつも冷静で、ともすれば冷たいポーカーフェイスととられやすい彼の表情。それ
があのときは、まるで母親をもとめ、駄々をこねる幼子のような一途さを感じた。
たたかれたことにはビックリしたが、それ以上に……。
※
アナタをたたいてしまって、ボクは悲しかった。もう本当におわりだと思ったん
だ。生まれ て初めて、つないでくれるかもしれない人の手をボクは、自分の手で
つきななしてしまったんだ。そう思いました。でもボクの口は、心と裏はらにこん
なことををいいだしていた。──ね。ほら、気持ちが先行して本音ばかりをぶつけ
あうとろくなことにならないんだよ。ボクのいった通りだろ? もう、おわりにし
よう。
ところがアナタときたら、うたれた頬をおさえながら、ニコッと笑って
こういってくれた。ばかね、雨降って地かたまるってことわざも知らないの?
いいわ、私がじっくりと教えてあげる。先にポカポカたたいたの私の方だし、あい
こだもん。ボクは本当に、本当に驚いたんだよ。
いいの? ボクが聞くとアナタはボクの手をとって質問に質問でかえしてきた
ね。
私のこと、好きなんだよね? ボクは、うんと素直にうなずいた。
じゃあ、これからバンバン地かためできるじゃない?
あのときつないだアナタの手のぬくもり、あたたかさをボクは生涯忘れま
せん。
※
紫乃はまた、ばかね、とつぶやいた。日記でもつけてたのかしら。自分のいった
ことがいちいち、文章に残されているというのはどうにも決まりが悪い。
※
親なしで、甲斐性なしのボクとの結婚をアナタのご両親には反対されたね。
けれどアナタは、ロミジュリをやる気はないし、いざとなったら、ボニー&クライ
ドだからね!! なんて古い映画のタイトルをもちだして息巻いてたくせに、お父
さんが認めてくれたときには大粒の涙をこぼしたね。ボクは、あの涙も生涯忘れ
ません。いろいろとあったけれど、やっと今日、この日をむかえられることとなり
ました。これからボクたちは指輪を交換し、正式な夫婦となります。
※
紫乃は左手くすり指の指輪を、窓辺からの陽射しにかざしてみた。彼とおそ
ろい。シンプルすぎるほどシンプル。けれどキラキラと輝くプラチナのリング。
※
手をのばせば、そこにアナタの手がある。追いかける背中は見えないけれど、横
を見れば隣にはアナタがいてくれる。こんなに嬉しいことはありません。これから
も、ずっと、こうやって横ならびで歩いていきましょう。ずっと、ずっとボクと手
をつないでいてください。ボクもけっしてアナタの手をはなしません。
──これが結婚にあたってのボクからのお願いと、それからアナタへ決意表明
です。
※
一昨日のこと。結婚後もふたりが勤務していた工場の古い機械が不具合をおこ
し、整備と調整のために何名かの男性社員が残業してことにあたることとなっ
た。ライン生産のため、機械一台がストップすれば、工場の生産全体に影響がお
よぶということは全員が承知していた。彼は紫乃を先に家に帰し、自分は
工場に残った。よくあることであった。夕飯のしたくをおえ、ボンヤリとテレビ
を見ながら彼の帰りを待っていた紫乃の携帯電話が鳴った。ふたりの同僚からで
あった。
※
紫乃は彼の手紙から目を上げると、手をスッとのばしてみた。当然、空をきる
ばかりである。つないでくれる人はいない。涙があふれた。手紙を抱きしめて、
紫乃は泣いた。
※
水素ガスがもれていたことと、漏電が原因で工場が爆発事故をおこしたのだと
いう。とるものもとりあえず、工場へかけつけた紫乃に対し、工場の仲間たちは
哀れみの表情をしめし、とびだしてきた作業着姿の社長は彼女に土下座した。
消火活動は夜半までつづけられた。工場の一部が完全に大破し、瓦礫の山
と化していた。彼とあと数人が、あの瓦礫の下に埋まっているのだという。
翌日、マスコミ集目の中、大型のショベル車と消防隊が救出活動をはじめては
いた。いったんは帰宅して──と、みなにすすめられたが、紫乃はがんとして工
場に居すわり、事務室の自分のデスクで彼の生還を待った。
「今日で三日めよ……」
泣きながらデスクにつっぷしていた紫乃に、彼女の母親が声をかけた。連絡を受
けた彼女の両親も現地にきていたのである。紫乃はノロノロと顔をあげると、母親
をにらみつけた。
「だからなに? 彼は死んでない! 待ってる!」
何度となく繰りかえされた会話であった。しかし、さすがの紫乃も弱りはて、声
もかすれていた。
「わかってるよ。でも、せめて寝ないとアンタが先にまいっちゃうよ」
三日め、72時間が、こうした事故における生死の境だといわれていること
をふたりともよくわ かっていた。
紫乃はいささかゆるくなった左手の結婚指輪をいじりながら窓の外を見た。目の
前には沈痛な面もちの人波。しかし空を見あげれば、いつもと変わらないおだ
やかな陽差し。腹が立つほどにまばゆい煌めきがあった。
──絹をさくような女の悲鳴! 野太く聞きぐるしい男たちの怒号が響く。
紫乃は窓から身をのりだし、動きが活発化しているヤジ馬とマスコミ、群衆の中心
部に視線を向けた。
予感が走る!!
「紫乃! どうしたの!?」
母親の声に背をむけて、紫乃はかけだした。
ザワザワとざわめく人がきをかき分け、制止する警官やレスキュー隊員をすり抜
け、紫乃は走った!! 瓦礫につまずき、あごをしたたか打ちつけたが、
紫乃は瞬きすら忘れて走りつづけた!!
ああぁ!! 最後のじゃま者の腕をふりほどいた紫乃は、歓喜の声を上げた!!
紫乃の足元、コンクリートと土塊の中から一本の左腕がのびていた。
思いきり五指を開き、その左手は懸命になにかをつかもうと指先をふるわせ
ていた。
「私はここよ!!」
紫乃は叫んだ!!
その左手のくすり指には、紫乃とおそろいのプラチナのリングが、あたたかな
陽差しを受けてキラキラと輝いていた。
(終)