とある会長のことばより 前編
「た、助けてよ!! なんで誰も気づかないの? どうしてシカトするのよ! 」
目の前は、どうみてもやわらかな日ざしがそそがれている初春の公園。
「誰か気づいてよ!!」
犬を散歩させているご婦人。ベンチでお弁当を広げるふたりのOL。マラソンの
青年。喫煙スペースにむらがるサラリーマン。
大学を卒業し、新社会人になったばかりの矢崎朋恵は声をかぎりに叫んだ。
「私を見て! 誰か助けて!!」
自分自身が今現在どんな状況にあるのかさえハッキリわからない。おそらくはイ
スのようなものに手足を拘束されている。首も前方をむかされた形で完全に固定さ
れているようでどんなにがんばっても、正面の風景のほかは、自分の鼻先 くらいし
か見えない。そしてメガネをかけていた。ふだんはコンタクトレンズにしているか
ら、メガネをかけるのは就寝前後だけのはずだし、それにどうも違和感がある。自
分のメガネではないらしいのだ。いったい私になにがおこったの!?
服を着ている感触はある。寒さは感じない。妙な趣味の男につかまったわけでは
なさそうだ。あ! ボールが!! まだ、よちよち歩きの幼子がとりこぼした赤い
ボールを追ってこっちに走ってくる!
「ねえ! こっちよ! こっち!! おねえさんを見て!!」
子どもは、ボールに追いつくと朋恵を見ることなく、母親のもとへと走っていっ
た。朋恵よりも少し年うえに見える母親は、幸せそうな笑顔で息子をむかえ抱きあ
げた。
「な、なんなのよ? 見ろ! こっち見て! シカトすんなよ!! 私は石っころ
じゃないのよ!!」
うえ? うっ!! なになに! ? 固定されて動かせない首が少しずつ圧迫さ
れはじめた。 う、うぐぅ!! なに? なにぃ!?
「そうだろう? 無視される、シカトされつづけるのって哀しいだろ? 」
声が聞こえた。 ぐぐぐ……なに……なに? グキッ! 朋恵の首の骨が砕け
る音が響いた。
『シカトをはじめたのは、親友だと思っていた朋恵ちゃん。誰かにやらされてるん
でしょ? 小五からの友達だったのに。あれから朋恵ちゃんは私をさける。私はま
た、朋恵ちゃんと、おしゃべりがしたい。今日もクラスの全員から無視された。
ただ、外所クンだけがそっと私に声をかけてくれた。それだけが私の救いだ』
「うわっ!」
目のさめるような青空とあざやかな緑の木々。若き塗装工、鷲尾真治の目に
とびこんできたのは美しい自然に満ちあふれた風景だった。
山? 山だよな? なんだ? なんで俺、こんな所にいるんだ?
「はぁ?!」
鷲尾真治は悲鳴に近い大声をはりあげた。真治のいた場所は、高台に組まれた二
メートル四方ほどのやぐらの上だった。柵もなにもなく、寝がえりでもうとう
ものなら落下するところであった。真治は横に寝かされていた。正確には両腕を
うしろ手で縛られ、左足が膝をおった状態で固定され転がされていた。しか
も、パンツ一枚はいていない全裸であった。全裸であるのに塗装工事用らしきゴー
グル(メガネ)を顔に着けているという、ふざけてるとしかいいようのないいでたち
であった。
「くそう! 誰だ! なんのつもりだ、出てきやがれ!!」
やぐらの建つ高台は切りたっており、見おろすとはるか下方に河川が流れてい
た。やぐらから木と縄で作られた二十メートルほどの長さの古いつり橋が対岸へと
のびていて、そこに彼の着ていた作業着や安全靴がていねいにたたんで置かれてい
る。
くそ! なんのつもりだ? あそこまで服を取りにいけってか? 片足だけで。
「バカ野郎! 誰だか知らないが、てめえの思いどおりにはならねえぞ!! 出て
こい! 縄をほどきやがれ!!」
耳をすます。鳥のさえずり、川のせせらぎ、風にゆれる木々のざわめき。
「誰だよ、なんのためにこんなアホなまねするんだよ!!」
上空で大きな鳥が羽を広げて旋回している。ワシ? タカ? ハゲタカ? まさ
か、俺をねらってるんじゃないだろうな? 背中で縛られた腕をがむしゃらに動か
すが、キリキリと痛みがはしるだけでゆるむ気配すらない。日本にハゲタカがいる
わけない、いるわけないけど……。
「うおっ!!」
自由になる右足の筋力をふりしぼり、なんとか片足だけで立ちあがる。
チッ! 真治は舌うちをしつつ、片足とびでつり橋をわたり始めた。両腕を拘束さ
れているためバランスが取りにくい。橋は大きく左右にふられる、が、こうしたも
のは勢いでのりきってしまうしかない。真治は大きくすばやく、片足ジャンプをく
りかえす。あと少し!
「うわぁ!!」
足裏にするどく細かい痛みが走り、体が横たおしになった。ぎゃっ!! 刺すよ
うな痛みが全身に絡みつく。画ビョウだ!! 橋の床板の上で、もがけばもが
くほど、大量にまかれた画ビョウは容赦なく素肌につき刺さる。
「痛い! 痛い! 助けてくれ!! 誰か助けてくれ!!」
「どうだい? 無意味なことをさせられたり、恥ずかしい格好にさせられた
り、痛い痛いと叫んでも、誰も助けてくれない。……つらいよねぇ? 」
声が聞こえた。真治は苦痛にあえぎながら絶叫した。
「誰だ! 出てこい!!」
「まじめにがんばってるんだってねぇ? いちじは悪くなりかけたそうだけれど。
塗装工だって? 腕もあがってるんだって? ご両親もさぞかし喜んでるんだろ
うね?でもそんな喜びも成長も、生きていられてこそなんだよ」
「誰だ、誰だ、誰だぁ!!」
ああ!! 縄であまれたゆれるつり橋の隙間から、真治はついに転げ落ちた。
あがが……。真治はつり橋に宙づりになっている自分に気づいた。彼を支えてい
るのは首筋に絡んだロープ一本 のみ。なすすべもなく、真治は血液とよだれ
と大小便をたれ流し、やがてこときれた。
『鷲尾真治。私は一生、あいつを許さない!! 今日、私があいつにされたこと。
自転車置き場の屋根にほおり投げられた体操着を取りにいかされた。そしてハシゴ
をかりてきて屋根の上にのぼり手をかけると、私は悲鳴をあげて落ちそうになっ
た。画ビョウがまかれていたのだ。そして体操服を取り、おりようとしたけど今度
はハシゴを取られてしまった。スカートをめくらなければハシゴはしまうといわ
れ、泣き声をあげる私を、朋恵ちゃんまでが見て見ぬふりだった。泣きながらスカ
ートをまくった私に、そのままそこへすわれと命じたのが鷲尾真治。私はわかっ
た、全部、鷲尾がやらせていたことなんだ。どうして!? 私が聞くと鷲尾はこた
えた。ブスだから目ざわりなんだよ。ブス、私はブス……。そして私は、屋根の上
にのぼってきた舞洲涼子に頭を押さえられ、画ビョウの上にお尻を落としそう
になった。舞洲涼子は笑っていた。舞洲は確かにかわいい。私よりも、うんとかわ
いい。だからなに? だからなんだよ! だからなんなんだ!! なんなんだ、
あいつらは!
結局はまた、外所クンが助けてくれた。私にかまうと外所クンも危ないよ、
私がいうと外所クンは気にするなと笑ってくれた。たぶん人生は楽しい。楽しいこ
とばかりじゃなけりゃ嘘だよ。だからがんばれ! そういってくれた。嬉しい!
嬉しい! 嬉しい!! けれど鷲尾や舞洲、クラスのやつら人間じゃない!!
外所クンのことが心配だ……』
バン。スイッチが切りかわる音。あかるい山間部の風景が一変してうす暗い倉庫
に変わった。
「あーあ、鷲尾のやつ汚いなぁ」
「ふん尿の掃除は私がするから、外所さんは心配しないでください」
「どうです親父さん、少しは溜飲を下げることができましたか?」
私は外所へ、はいと頭をさげた。
「しかし、まだあとひとり」
「舞洲涼子、ですね? 親父さん」
外所は言葉をついだ。
「実は鷲尾ではなかった。娘さんをいじめ倒し、自殺に追いこんだ張本人は」
私は最近盗撮した舞洲涼子の写真を見つめた。実にたとえようもなく美しい女だ
った。現在はファッション雑誌でモデルをしているようだが、カメラは性格までは
写さないらしい。しかし少し太めだった娘も、このくらいの年ごろになればダイエ
ットにせいをだしたかもしれない。化粧だっておぼえて、そりゃ、この女ほどでは
ないだろうが、けっこうチャーミングになっていたかもしれない──生きてさえい
れば。
私は舞洲涼子の写真を握りつぶした。
「じゃ、次も気ばりますか?」
外所は私の肩をたたいた。
「外所さんに出会えて、本当によかった」
私はまた頭をさげた。
「いや……娘さんの死は、ボクの心の中でもしこりとなって残ってたんです」
私はつり橋に見たてられた、ワイヤーでぶら下げただけの板きれを片手で押し
た。板は巨大なブランコのようにゆれる。それとともに鷲尾真治の遺体もユラユラ
とゆれる。
娘は中三の春、首をつって自殺した。もう八年も前の話だ。のこされた物は鍵つ
きの日記帳。娘は実にマメにその日の出来事を文章にして綴っていた。
あかるく外へ外へとむかうタイプでは確かになかった。しかし、心根のやさしい娘
であった。小四から連めんと書かれつづけた日記がそれを物語っていた。私や妻を
思いやる言葉がずいしょにあった。それが死の間ぎわは、誰にどんなひどい目にあ
わされたか、そればかりになっていた。それが悲しかった。私たち夫婦は当然、学
校や警察、教育委員会にうったえた。が、どこでも誰にでもうやむやにかわされ、
たらいまわされたあげく、誰も責任をとることなく、今にいたる。私はこの理不尽
な世の中に翻弄され、職もうしない、娘のために爪をともす思いで貯めてきた
わずかばかりの蓄えをすりへらしながらアルバイトを転々としていた。
ある日、転機がおとずれた。きっかけは、この外所という笑顔がやさしい男だっ
た。街で声をかけられた。娘の葬式に参列してくれたそうで、それで私をおぼえて
いたのだそうだ。喫茶店で近況などを話した。学校にもどこにも相手にされなかっ
た私の無念に話がおよぶと、彼はいたく同情してくれた。奥さんは?と聞かれ、妻
は娘の異変に気づけなかったことで自分を責めつづけ、心を病んでしまい床にふし
ている、と答えた。
「娘は、ほら、外所さんのことだけは信頼していたようなんだよ」
彼に娘の日記を見せた。おそらくは死の直前に書かれたと思われる最後の数行に
も彼への思いがあふれていた。
『外所クン、外所クン、外所クンが好き! 大好き! 私は外所クンが好き!!』
そして、その後のページが乱暴に破りとられており、彼への想いが綴られた
翌日、娘は死んだ。
連中への復讐も彼の発案だった。大学の研究室におもしろいモノがある、と。
3D映画を一歩進化させたような立体映写機だった。もともと人間の目のメカニズ
ムの解明をしていた研究者が開発したものだそうだ。特殊なメガネをかけることに
よって映像が、あたかもすぐ目の前にあるように見える。奥ゆきが深く、空気感ま
でもが感じられる。ぐうぜんの産物ではあるが、名だたるアミューズメント施設な
どに売りこみをかけられたそうだ。外所はなげいた。
「デキがよすぎるってのも考えものです。本物のように感じられすぎて、人間の精
神に異常をきたす恐れがあると、認可がおりなかったのです。ゲームっぽさがたり
ないとね。で、今じゃもったいないことに一部の生徒の娯楽にだけ使われてるんで
す。コレで連中を脅かしてやりましょうよ、親父さん」
あのとき彼はそういって、私にやさしく笑いかけてくれたのだ。
「舞洲涼子がどんなふうになってしまうか、楽しみですね、親父さん」
外所はフフと笑っていった。
「実は、舞洲涼子より先に楽しみたいやつがいるんだ」
私がいうと、外所は意外そうな顔でたずねる。
「娘さんの日記には、ほかの名前、なかったと思いますが?」
「あったさ。──外所さん、キミだよ」
(後編につづく)