7.大人になんてなりたくない
ディアナは浮かれていた。
今日、初めてあの庭師が笑顔を見せて、喋ってくれたのだ。
ディアナは部屋に戻ってじたばたと悶えた。
そして、ようやく気づいたことがある。
(そうよ。庭師さんはここへ仕事をしに来ているんだもの。忙しいから自分の話はしたがらないけど、仕事の話ならしてくれるんだわ)
なぜそんな当たり前のことに気づけなかったのだろうか。
ディアナは肩をすくめる。
(私ったら、自惚れてた。きっと庭師さんにとっては、私は勤務先の娘っていうだけなのよ)
明日、赤い百合をくれる。
あの庭師が。
(うふふ……なんて素敵な絵面なの)
ディアナは浮かれていたが、そこに再びあのノック音が聞こえて来た。
「はーい」
「……ディアナ……」
扉の向こうには、最近すっかりやつれたイルザが音も立てずに入って来た。その鬼気迫る光景に、ディアナは思わず息をのむ。
「お、お姉様──」
「うわーん、ディアナ!」
イルザはディアナに泣きついた。
「どうしたの、お姉様……!」
「式の日取りが決まってしまったのよ!」
この世の終わりのようにそう言って、イルザは妹を抱き締めた。
「そ、そう……」
「あなたはいいわよね。まだあと二年も猶予がある」
「……」
「私、嫌よ。ずーっと妹や、お父様お母様と暮らしていたいのに」
「お姉様」
「私、この国を離れたくない。異文化にさらされて、変わって行きたくないの」
イルザは落涙する。ディアナは姉の苦悩を感じ、その背中をさすってやった。
イルザのことを心配しているのは、ディアナだけではなかった。
姉妹の母、カミラ。
燃えるような赤毛を若々しく結い上げ、少し憂いを帯びた優しい瞳が印象的な淑女。
ディアナが心配して気分転換させようと中庭に連れて来たのを、カミラが見つけてやって来た。
泣きじゃくる長女の肩を抱き、母は諭す。
「政略結婚した夫を、いきなり好きになる女なんてそういないわ。夫婦って、徐々になるものなのよ。私とアウレールもそうだったもの。何も心配いらないわ」
「でも、お母様。私、不安でしょうがないの。だって男の人を好きになったことがないんだもの」
ディアナはどきりと胸を抑え、何か秘密をばらされでもしたようにうろたえた。
「しかもあんな太っちょ、好きになれる自信なんてないわ。見目麗しければまだ我慢出来るのに」
「……イルザ」
「好きになれるとっかかりすら見つけられないの」
「でもね、イルザ。あなたの今の気持ち、とても前向きで素敵だと思うの」
思いがけない母の言葉に、イルザは腫れ上がった目をこすった。
「……前向き?」
「そうよ。だって、好きになろうとしているじゃない、彼のこと」
イルザはうつむいて黙った。
「私もアウレールとの結婚が決まった時は、家から離れたくないって散々泣いたものよ。式の当日だって、沢山泣いて彼を困らせたの。けど、一緒に住み始めたら、その優しさと前向きさにどんどんほだされて行ったのよ。それにね……アウレールもグスタフも商会の経営者よ。どんどん物事を決めて、毎日へとへとになるまで働いて、あなたを養ってくれる。その姿を見たら、きっと嫌いになんてなれないわ」
ディアナはそれを聞いて「なるほど」とも思うが、どこか納得できない気持ちがあった。
それは「諦め」であって、「好き」とは違うのではないか。
(私……出来れば好きになりたいな)
叶わぬ夢なのだろうか。
豪商の娘として産まれてしまった故、その夢は諦めなければならないのだろうか。
一方、イルザは何度か頷きながら、自らを納得させたようだった。
「そうなのね。お母様も……」
「アウレールだって、太っちょだったわよ。けど、外見なんて誰もが老いて行くもの。お互い、見た目にこだわりがある時期なんて、ほんの一時よ。夫婦に真に大事なのは信頼感だわ」
「……」
「そして、その信頼感はあっちだってあなたに求めて来るのよ。美しいあなたを娶ったからって、互いに老いるのは同じ。大事なのは、お互いの見えない部分」
「……お母様」
イルザは再び母の肩で泣いた。
しかし──
ディアナは瞠目する。
姉の顔が、先程とはうって変わって大人びてしまったのだ。
その瞳には、覚悟の色が浮かび上がっている。
「……取り乱してごめんなさい、お母様」
「いいのよ。みんなそうだったんだから」
ディアナはその光景を見つめながら絶望した。
(私もああやって泣きわめきながら大人の顔になって行って、何もかもを諦めながら結婚するんだわ)
寄り添う母と姉に背を向け、彼女は小走りで自室に舞い戻った。
部屋に入って静けさを取り戻すなり、ディアナは涙が止まらなくなった。
(あれは、私の未来だ)
ディアナは膝から崩れ落ちた。
(私も、ああなるんだ)
と。
さきん。
鋏の鳴る音。
ディアナはそれに気づいて窓へ走って行き、裏庭を見下ろした。
ちょうどあの鈍色の瞳の庭師が荷物を片付けているところだった。
「庭師さん!」
ディアナはそう叫んで大きく手を振った。
彼は周囲を遠慮がちに見渡してから、荷物を肩にからげて小さく手を振った。
彼は少し笑っている。
それを見て、泣いていたはずのディアナはちょっとだけ、心が軽くなった。