3.あの人は今
それからというもの、ハインツ邸にあの鈍色の瞳の庭師は来なくなってしまった。
ディアナは毎日のように裏庭を眺めては嘆息した。見知らぬ庭師が来るたびに、彼ではなかったと思いながらベッドに寝転がる。
もう会えないと思えば思うほど、あの花に溢れた光景が美化され、思いは募って行く。
それと同時進行で、姉イルザの結婚準備も着々と進められていた。
イルザは結婚が決まってからと言うもの、妹のディアナをどこへでも連れて行きたがるようになってしまった。嫁入り道具のドレスを作らせる職人が来ると言うので、今日もディアナは姉と同伴することになっている。
そろそろ時間なので、ディアナは廊下を歩いていた。ふと人影を見つけて立ち止まり、ディアナは声をかける。
「お父様」
廊下の途中に、花が活けられている。
ハインツ商会の主であり、ディアナの父である黒ひげの男アウレールは、その花に目を奪われていたのだった。
赤い大輪の百合のブーケ。その息をのむほどの絢爛豪華な花狂いに、ディアナも思わず立ち止まった。
「まあ……とっても大胆で、素敵な活け方」
アウレールは娘の存在に気づくと、にこりと笑って見せる。
「おお、ディアナ。イルザのお伴をするのかい?」
「ええ。最近、もうどっちが妹か分からないわ……ところでお父様こそ、ここで何を」
「いやー、余りに豪華な活け方に目を奪われてね。この花を活けたのは誰だ?」
「私ではありません。きっと、造園業の方でしょう」
「ふーむ。ちょっとフーゴに話してみるか」
ディアナはその口ぶりにピンと来た。
「お父様ったら、お姉様の結婚式に使う花の算段をしてるのね?」
アウレールは満面の笑みで頷いた。
「ああ。この赤い百合。まるで、イルザのようではないか」
ディアナも頷いた。
「そうね。お姉様は別名、ラトギプの百合ですもの。ぴったりだと思います」
「赤い百合を買い集めるか。式には百合の花々で送り出してやろう」
「とても素敵なアイデアだわ。思い出に残る結婚式にしたいですものね」
父と娘は笑い合った。
「私、お姉様のところへ行かなくちゃ。じゃあね、お父様」
「ああ。また、昼に」
二人はそこで別れた。アウレールは中庭に歩いて行くと、そこで作業をしているフーゴに声をかける。
「フーゴ」
「ああ、これはこれはアウレール様」
「ちょっと相談があるのだが」
フーゴは手を拭きながら主の元へ急ぐ。
「へぇ、何でしょう」
「食堂前の廊下に飾られた赤い百合なんだが」
「ああ、あれですね」
「誰が活けた?」
フーゴははっきりとこう答えた。
「レオンって言う、まだ入って一年も経たない新米の庭師です」
「ほー、新米……」
アウレールは意外とでも言いたげに腕を前に組んだが、
「成程。若い感性の活け方ということだな」
と自らを納得させたようだった。
「旦那様、一体何を……」
「フーゴ。赤い百合を買い集め、イルザの式に使用したいのだが、出来るか?」
「ああ、九月までならあの花、ご用意が出来ますよ。旬はもう少し先ですから」
「そうか。それでだな、さっきお前の言った〝新米の庭師〟というのはどいつだ?」
フーゴは首を横に振った。
「ここにはおりません。今日は事務所の方でブーケを作っておりまして」
「ならば、一度面通ししたい」
「……は?」
「だから、ここに連れて来いと言っているのだ」
フーゴは思いもよらない展開に目を白黒させた。
「でしたら、明日連れて参ります」
「そうしてくれ。ついでに明日の昼は、従業員皆に食事を提供しよう」
「あ、ありがとうございます!」
フーゴは商いの予感に、にこにこと笑う。
赤い百合は香しく新しい予感を乗せて、食堂の前で輝き続けていた。