10.結婚は最悪の因習
それからというもの、ディアナは毎日のように裏庭を眺めるようになった。
あの真面目な、同じ年の庭師の青年に会うために。
彼と話すため、植物の事典とにらめっこする。ディアナは事前に知識を蓄え、庭の変化ひとつひとつを見つけては、彼に尋ねるようになっていた。
彼はやはり自身のことを語りたがらなかったが、植物の話となると多弁になった。
恋するディアナはそれだけで幸せだった。
いつか彼女はどこかの商会へ嫁に行くか、婿を取るかするのだ。
彼との交流はそれまでの、ささやかな思い出にするつもりだった。
それを切なく思う時もあったが、仕方のないことだと腹をくくる。
あちらだって、勤務先の令嬢に言い寄られたら困るだろう。
それこそ、屋敷に来なくなってしまうかもしれない。
現状維持。それで、自分を満足させる──そのはずだった。
あれを見てしまうまでは……
秋の、涼しい季節。
ついにイルザとグスタフの婚姻の儀が、隣国の大聖堂で執り行われることになった。
ディアナは侍女たちにクリーム色のドレスを着せられ、馬車に乗り込んだ。
父と母、イルザが共に馬車に乗る。
すると母は慈しむように、イルザの肩を抱いた。
イルザは母の肩に額を乗せ、めそめそと泣き出した。
いたたまれない空気が流れる。
ディアナはきりきりと胃が痛んだ。アウレールの表情も、どこか冴えない。
その時ふとディアナの胸に去来したのは、憐れみでも心配でもなかった。
怒り。
姉の心をここまでズタズタにする、結婚などという馬鹿げた因習に怒りが湧いたのだ。
女は男と結婚しなければ、生きて行けない。確かにそうだろう。
女のなれる職業は少ない。男性より稼げる職など、女には存在しない。
女は、ひとりでは生きて行けない。
だからといってなぜ好きでも何でもない会ったことも話したこともない男と、わざわざ結婚しなければならないのか。
(姉のような結婚をするぐらいなら……野垂れ死んだ方が、いくらかマシかもしれないわ)
冗談でも何でもなく、率直にディアナはそう思った。
隣国へは、半日もあれば着いた。
聖堂裏の控室に入り、ハインツ商会の面々はそこでイルザと最後の別れをする。
「さあ、今日からあなたはイシュタル商会の奥方になるのよ」
どこか厳しい表情で、カミラが言う。
「あちらのご家族の言うことをよく聞いて、上手におやりなさい、イルザ」
「お母様……」
「あなたの花嫁姿を、楽しみにしているわ」
いつもの柔和な表情でアウレールが言う。
「イルザ、お前は何でも上手に出来る子だ。グスタフも、その手腕は若い経営者の中で群を抜いている。夫を頼りながら、頑張れよ」
「お父様……」
「大丈夫だ。お前の夫はイルザを大層気に入っているらしい。必ずお前に尽くしてくれる」
一方、ディアナは──
イルザと目があった瞬間、強烈な悲しみを感じ、ぼろっと涙をこぼす。
それはイルザとて同じだった。
「ディアナ!」
「……お姉様」
姉妹はひしと抱き合い、黙って涙をこぼした。
言いたいことはお互い沢山あったはずなのに、まるで出て来なかった。
ただただ、悲しい。
きっと互いに互いのこれからを憐れんでいるのだ。
ここは聖堂。
されど地獄の門。
「さようなら、みんな」
「頑張ってね、イルザ」
イルザはイシュタル商会からやって来たメイドに迎えられ、控室を去って行った。




