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1.はつ恋

 花の咲き乱れる庭で出会ったのが、恐らくいけなかったのだろう。


 ヴェンデルス王国随一の豪商、ハインツ商会の愛娘ディアナは、雷に打たれた後のようなどこか険しい表情で、裏庭のアイアンベンチにじっと腰掛けている。


 足元に散らばるのは、剪定された花木の枝。


 その木を見上げた先に、彼女の恋し人がいる。


 今日、初めて出会った庭師。


 名前は、まだ知らない。


 栗色の髪、鈍色の瞳。まくり上げたリネンシャツの袖から伸びる、逞しく若い腕。それらはディアナを一瞬で彼の虜にしてしまったのだ。


 顔立ちが特別整っているわけではない。こちらに甘い言葉を吐くこともない。


 こちらをろくに見もしない。


 けれど、隠し立てしない不器用さと優しい眼差しが同居する、不思議な魅力を持った青年だった。


 彼はディアナを、まるで見えていないかのように庭の隅に放っている。


 ディアナも、どうやら話しかけない方がいいらしい、と考える。


 目の保養。


 彼女はその恋から目を背けるため、すぐにそう脳内変換した。


 きっとこれは、叶わぬ恋なのだ。本気になって後戻り出来なくなっては困る。


 ディアナは彼とその仕事ぶりをうっとりと眺めてから、その記憶を抱えるようにして庭から逃げ出す。


 二階の自室に戻り、再び窓から眼下の裏庭を見る。


 青年の背中が見える。


 と。


 青年はディアナが視界からいなくなったのを確認するや、鋏を脇に置いてするすると麻の素朴なシャツを脱ぎ捨てた。


 ディアナはカーテンを引き、窓から目だけ出すようにして、彼の生身の背中を眺めた。


 そこだけ日焼けしていない、しかし農作業で鍛えられた頑丈そうな背中がそこにある。


 ディアナは惚れ惚れとそれを鑑賞してから、


(困ったわ……)


と心の中で呟いた。


(今のところ、全部好き)


 何か欠点でもあれば、諦められそうだ。


(そうだ、次は話しかけてみよう。声が妙に高かったり、話題が田舎者丸出しだったりしたら、きっとすっぱりと諦められる)


 汗ばむ初夏の陽気。


 深窓の令嬢はカーテンの隙間から、焦がれるような視線をその青年に向けていた。


 その時だった。


 こんこん。


「ディアナー?いる?」


 姉、イルザの声だ。ディアナは後ろめたい気持ちを胸にしまい込んで、飛び掛かるように自室のドアを開けた。


「お姉様……どうしたの?」


 ディアナの姉、イルザ。


 燃えるような縮れ毛の赤い髪を結い上げ、ガラスビーズの髪飾りを散らばせて、初夏の陽気に光らせている。ディアナの方はゆるいウェーブの髪質なので、頭の装飾はいつも控えめだった。


 姉の美しさは国中が知っていた。ハインツ商会の長女。別名ラトギプの百合。ディアナにはない色香と呼ぶべきものが漂っており、男女関係なく誰もが虜になる美しい女だった。


 ディアナはふと、こんなことを考える。


(あの庭師さんだって、きっと姉の方を好きになるんだわ)


「……ちょっと……聞いてる?ディアナ!」


 ディアナは我に返った。


「えっ、何?」

「何、聞いてなかったの?ならもう一度言うわよ、私の結婚が決まったって言ってるのよ!」


 ディアナは目を丸くする。


「え……結婚!?もう?」

「ええ。前も言ったけど、イシュタル商会のグスタフに決まったわ」


 ディアナは必死に思い出す。


 太っている、ということしか思い出せない。


「へ、へー」


 ディアナが曖昧な返事をすると、イルザは深い深いため息を吐いた。


「はぁ……そうよね、あなたもそう思うわよね……」


 いきなり心情を決めつけられて、ディアナは眉をしかめた。


「何よ、お姉様ったら急に!」

「あなたもグスタフを見たことあるものね。あの太りまわった男を」

「まあ、そうだけど……いい人そうだったじゃない?」


 ディアナの言葉に、イルザは不満をあらわにした。


「ちょっとぉ。そういうことじゃないのよ」

「はぁ」

「私の青春は、これで終わり!終了なの!」


 ディアナは顔を赤くした。


「誰にも恋せず、親の言いつけを守って貞淑にし、家庭教師をつけられ、着飾ってダンスの練習をして、健康と美に気を遣い……その最終結果が、これなのよ!」


 言うなりイルザはふらふらとディアナのベッドに突っ伏し、めそめそと泣き出した。


「分かっていたことだけど、それが本当にやって来ると、こんなにも気が滅入るものなのね」

「お姉様……」

「私の18年間は、このためにあったの?好きでもない太っちょと結婚するために!?」

「お、落ち着いて」

「あああ、あなたもその内だわ。きっとあと二年もすればどこかの商会の太っちょと結婚させられるのよ」

「太っちょは決定事項なの?」

「そりゃそうよ。近隣の商会の嫡男にやせ細った男がひとりでもいて?」


 ディアナは記憶をさらう。


「確かに……いないわ」

「あなたが18歳になるまであと二年。ディアナ、その二年の間に好きなことをやっておくのよ」

「二年……」


 ディアナは考える。好きなこととは、何だろう。


 そう考えた時、ディアナの視線は自然と窓の外に向かっていた。


「どうしたのディアナ。そこに何かあるの?」


 何かを察したイルザが、直線的な足取りで窓に向かって行く。ディアナは慌てた。


 カーテンが無遠慮に開けられる。


 裏庭では、ちょうど剪定を終えたらしい庭師の青年が上半身にシャツを纏うところだった。


 イルザはそれを見て固まり、ディアナは真っ赤な顔で姉を窓から引き離した。


「お姉様!私、お花が好きなの!」

「あー、はいはい。とても良い観賞物をお持ちで、お嬢様?」

「ぐっ……違うのっ」

「うふふ、そんなに慌てなくてもいいわよ。男の人なんかもっとえげつない視線をこっちに送って来るんだから。女だけはそういう目を男に持つなって言う方がどうかしてるのよ──今思えば」


 ハインツの令嬢姉妹は、花畑の中で着替える庭師のさまをずっと眺めていた。




 一方、庭師の青年は荷物を抱えてハインツ商会を出る道すがら、ぼうっと上の空で先程の燃えるような赤毛の少女のことを思い出していた。


(あの女の子が、ハインツ商会の美人姉妹の片割れか?)


 服装の豪華さから言って、予想は当たっているだろう。


(噂通り、めちゃくちゃ可愛かったなぁ……)

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