黄昏の巡礼者 ‐零‐ 七分の六
黄昏の巡礼者 ‐零‐
七分の六
この世界はきっと悪意に満ちている。
それは今までもそうだったし、これからもきっと変わらない。
だから、私にあんなものが見えるようになったからって、それはただ世界の悪意だったというだけだ。
†
夕闇が急速に濃さを増す黄昏時。徐々に輝きを増しつつある白い月が暗橙色の天井に張り付いている。影の濃い路地裏を進む二人を覗くように浮かぶそれは、ここにいてはけないような雰囲気を醸し出していた。
数少ない街燈に映し出されるのは灰色の壁、濁った煉瓦色の道と散かされたごみ、生活の断片――汚らしい暗い路地裏。無意味な都市開発を幾度となく繰り返したこの街の路地裏は暗く複雑で初めてのものが迷い込むと簡単には出てこられない。
そこを、二人の少女が何かに追われるかのように歩みを進めていた。
「一体、どうしたの、セレン」
紺を基調とした学園の制服に、腰まで伸びた長い三つ編み。澄んだ青紫色の瞳に眼鏡をかけた少女、リリィが息を切らしながら呼びかけてくる。
「…………」
そんな彼女の言葉に対して何も答えることがないまま、セレンは先へ進んでいく。
同じ学園の制服に銀髪のショートヘアー、さめるようなワインレッドの瞳。虚ろなその目は、かっこいいとリリィには言われたが、怖いという印象が大きいとセレンにはわかっている。
今は彼女を気遣うほどの余裕はなかった。揺れる明かりを呑み込むように迫る闇。鼻をさす、肺を侵すような腐臭。歩みを止めるたびに後ろからそれが迫り、早く逃げろと心が叫ぶ。怖気が背筋を撫で、嫌な汗が出てくる。
彼女にはわからないのだ、これが。
背後から迫りくる何かが。
セレンにとって、この不快感そのものは初めてではなかった。今までも何度かこの、何とも言えない嫌なもの、の存在を感じ、そこから逃げ出したことがある。だが、このような暗澹たる影を纏う路地裏で、ここまではっきりとした不快感に全身を支配されたのは初めての経験であった。
不安が、恐怖が、そして緊張が、大きな顎で心の中を食い散らかしていく。
それを無理やり打ち消すかのように、リリィに顔を向ける、ぎくしゃくとした笑顔で。
それが今のセレンにできる、精一杯の強がりであった。
「セレン、今日帰りに街の方によっていかない?」
そうリリィに言われたのは苦手な数学のテストを終えた直後であった。今日のテストはこれで終わり。明日は休みだから、一時的にではあるがテストから解放されることになる。ちょっと寄り道して帰るくらい問題ないだろう。
「いいよ、何か買い物?」
「うん、ちょっと行ってみたいところがあって」
リリィは嬉しそうに微笑んだ。
気づいた時にはもう遅かった。今、自分たちがいる場所がどこかわからない。不快感から逃れるために入った、勝手知ったる裏道はとうに過ぎ、そこと似通ってはいながらも明らかに別とわかる路地裏に迷い込んでいた。そして今、奥には袋小路が見えている。すでに日は落ち、異常なほど白い月はまるで、自分たちを嘲笑っているかのようであった。
路地裏には黒い靄が広がり、獲物を狙う猛禽類のように二人を取り囲む。
心の中に、どろっとした黒いものが広がった。それに比例するかのように濃くなっていく、周りの黒い靄。徐々にきつくなる腐臭、不快感。背筋を撫でていた怖気は、次第に強くなり、今や殺気と言っても差し支えない。
背後から突然、がりっ、という煉瓦を鋭い何かでひっかいたような音が響いた。その音に驚き、振り返る。
大きな丸い物体が二つ重なったかのような胴体と、そこから生えた巨大な四対の脚、一対の触肢。一見して顔とわかるそこからは鎌状の鋏角が生え、赤い八つの目が二列に並んでいる。
黒い靄に包まれた、巨大な蜘蛛がそこにいた。
「どうしたの? セレン」
現実とは思えないものを目にし、動くこともかなわないセレンにリリィが話しかけてきた。
あまりのことに、口を開いても言葉が出てこない。
「大丈夫? 左目、何か変だよ」
彼女の言葉に耳を傾けている余裕など、ない。
やはり彼女には見えていないのだ、この巨大な蜘蛛が。
彼女にはわからないのだ、今の状況が。
どろっとした黒いものが、さらに心の中に溜まっていく。
それとともに込み上げてくる嘔吐感。
前には巨大な蜘蛛、後ろには袋小路。
自分以外には頼れるものなど存在せず、逃げ場はない。
巨大な蜘蛛は、がりがりと巨大な足を壁にぶつけながらこちらへと歩き出した。
一歩歩みを進めるごとに、靄に包まれていた脚が、触肢が、鋏角が、胴体が、よりくっきりと形作られていく。
全身は細かな体毛で覆われ、脚の先端に大きな三本の爪が生えている。
鋏角は先端が鋭く、そこからは暗紫色の液体が滴っていた。
路地の壁に傷を付けながら、道に爪痕を残しながら、巨大な蜘蛛は二人の方へと迫る。
「どうしたの、セレン。黙ってちゃわからないよ。それにここ、何か変だよ」
声を震わせながらさらに語りかけてくるリリィ。その声の震えはセレンの様子からなのか。それとも、見えないながらも何か感じているからなのか。
「さっきから何もないのに、がりがりって音するし、一体何がおき」
リリィがそれ以上言葉を発することはなかった。
巨大な蜘蛛がその触肢でもってリリィの首元を掴んだからだ。
「っ……。」
苦しい。息ができない。
リリィは、さまざまな感情が混在する目で、セレンを見た。
だが、セレンにはどうすることもできなかった。
化け物、としか言いようがないその巨大な蜘蛛に対し、あまりにもセレンは無力だった。
脚をバタつかせ、首を掴んでいる見えない何かから逃れようと必死になっている友達を、ただ見ていることしかできない。
そんなセレンの前で、蜘蛛はもう一方の触肢を振り上げる。
死にたくない。助けて。
蜘蛛の触肢が、リリィを引き裂いた。
柔らかな少女の腹部を。無慈悲に、人が蚊を潰す時のような容易さで。
鮮血がセレンの顔にかかり、視界の左半分を赤く染める。
一目でわかった。即死だと。
リリィから、いや、リリィであったものから、かつて体内にあったはずの肉塊が、血液が、零れ落ちていく。
蜘蛛は、動きを止めた肉体に興味を失ったのか、子どもが玩具を投げるような気楽さで、それを道端に投げ捨てた。
もう、セレンに動く気力などなかった。全身の力が抜け、膝から地面に崩れ落ちる。
そんなセレンに向かって、蜘蛛は再び歩き出した。
進むにつれ、脚は太く、鋏角は鋭くなっていく。
あれだけ巨大なのだ。足を延ばせばもうセレンにとどく。
切れかけの街燈に照らされ、太く鋭い爪が煌く。
恐怖はもう、感じなかった。
そうか。私はあれに潰され、引き裂かれ、死ぬのか。
ものを映し出すだけのカメラのように、周りの様子がくっきりと目に飛び込んでくる。
蜘蛛は右前脚を振り上げた。
これから起こるであろうことを、冷静に、無感情に想像する。
心の中に溜まった、黒いどろっとしたものがあふれ出した。
『悪意が満ちて、』 『仕方がない』
だからこの世界は悪意に満ちているといったんだ。
『混じって』 『ごめんなさい』
私はいつも、ひたすらに無力で。
『見ないでよ』 『あの人怖い』
世界はいつも、私から大切なものを奪う。
『嘘つき』 『セレン、』
世界はいつも、私の日常を壊す。
『助けて』
「巨人の斬首剣――幻造」
どこからか、声が聞こえた。
燐光が煌き、視界が蒼に染まる。
蜘蛛の右前脚がセレンに振り下ろされることはなかった。
厚く鋭い大刃が、蜘蛛の胸部を貫いたからだ。
胸部を貫かれた蜘蛛は、貫かれたその箇所から、靄となって消えていく。
冷たそうでありながらもやさしい光、大剣からこぼれた燐光はセレンを包みこんだ。まるでセレンを黒い靄から守るように。
「危ないところだったね」
先ほどと同じ声が、黒い靄の向こう側から聞こえた。
靄が晴れていくにつれ、電燈の上に、それを吊るすアーチ状の金属パイプをわずかにゆがませながら、一人の少女が立っているのが見えてきた。
蒼い光が彼女を照らす。
黒を基調としたどこかの学園の制服。腰まで伸ばした赤い髪。澄んだ碧眼。
「私の名前はジークリンデ。これからよろしく」
悪戯っぽく笑うジークリンデ。その笑顔は、なぜだかとても魅力的で、安心できて。
セレンは意識を失った。
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