the pilgrim of DUSK2
黄昏の巡礼者
――「目」の少女――
この世界はきっと悪意に満ちている。
それは今までもそうだったし、これからもきっと変わらない。
だから、私にあんなものが見えるようになったからって、それはただ世界の悪意だったというだけだ。
†
空気が冷たく肌に澄み渡る深夜。異常なほど白い満月が黒の天井に張り付いている。影の濃い路地裏を進む二人を覗くように浮かぶそれは、ここにいてはいけないような雰囲気を醸し出していた。手に提げたランタンに映し出されるのは灰色の壁、濁った煉瓦色の道と散らかされたごみ、生活の断片――汚らしい暗い路地裏。
「月がきれいだね、セレン」
上ばかりを見上げていた少女、ジークリンデが呼びかけてくる。
黒を基調とした学園の制服。腰まで伸びた赤髪を揺らしながら、澄んだ碧眼で覗いてくる。
「…………」
そんな彼女の言葉を無視して、セレンはつかつかと先へ進んでいく。
同じ学園の制服、銀髪のショートヘアー。さめるようなワインレッドとエメラルドグリーンのオッドアイ。虚ろなその目は、かわいいとジークリンデには言われたが、怖いという印象が大きいと、セレンはわかっている。
今は彼女の調子に合わせるほどの余裕はなかった。揺れる明かりを呑みこむように迫る闇。鼻をさす、肺を侵すような腐臭。進むたびに引き返せと心が叫ぶ。怖気が背筋を撫で、嫌な汗が出てくる。
こんな場所に自分から入るのは今日が初めてだし、なにしろ夜に、二人だけで入るのだ。不安も、緊張も、いつもより大きな顎で心の中を食い散らかしていく。
「東の果ての国じゃあ『愛しています』って意味なんだって。素敵な言葉だよね?」
「……そうだね」
「私の愛の告白受け取ってくれるんだ?」
「……リンちゃん、うるさい」
「もう、つれないなぁ……それがまたいいんだけど」
思わずため息をつく。リンはいつもこんな感じだ。もう少し空気を読むくらいできるだろうに。いつもふざけて、なぜか自分を気に入っているらしくて――迷惑な話だ。
引っ付いてくるリンを離してできるだけ気丈に言う。
「リンちゃん、今は……いつでも戦えるようにしておいてね」
もうここは敵の領域なのだ。
そういうとリンはわかったような笑みを浮かべて、答えた。
「そっか、もうセレンは見えてるんだ?」
「うん」
セレンの目に映っているのは暗く汚い路地裏の景色、
そしておびただしい量の血痕と、地面と壁を抉る幾本もの爪痕だった。
それはまるで視界に浮かんで見えた。壊れかけた幻灯機が写すノイズ雑じりの写像のようだ。色調もどこか褪せた傷痕と、何もない現実の視界が重なり合う。世界に残された傷痕。世界の異物、いや遺物なのだ。
「相手は多分、大きな爪を持ってるよ」
世界には表と裏がある。
表が人の住むこの世界ならば、裏は人ならざるもの、異端と異形の住処である。うつつとうつろ。人と魔物。
「深淵」と呼ばれるその世界と人の世界は時に繋がり、魔物が侵入する。深淵の魔物の名は「埋火」。彼らは人を喰らい、現実を侵食していく。
人の世界の存在を一とするなら、深淵の存在は零とされる。「一と零」とは存在の「有無」の標識、つまり、深淵より来る魔は元より「零」がゆえに、人の認識より外れてしまう。人は魔物を観られず、その痕跡すら知覚できない。
人の世界は、深淵と見えない魔物により常に蝕まれている。
しかし、その存在を知覚し深淵の魔物と戦う者、人の世界の守護を掲げる組織が存在した。
これはセレンが所属したその組織で知ったことだった。
セレンはその目で、世界に現れた魔物とその痕跡を観ることができるのだ。
「爪痕が多くなってきてる……」
痕の残る灰色の壁はすでに崩れ落ちているところもあった。もはや対象を傷つけるためではなく、狂乱と、歓喜の跡に見えた。
そして――不意に痕が途切れた。
「……っ」
足が緊張と驚愕で止まる。
灯りを正面に向けたが何もいない。辺りを見回しても、薄汚れた壁があるだけの広い場所だった。
どういうことだろう。爪痕が、急に、
「セレン、上から殺気を感じるんだけどな」
リンがセレンの前に立ち、腰に挿していた剣の柄を取り出して――
「巨人の斬首剣――幻造」
高らかな召喚。
その柄に蒼い光が灯る。夜を裂くその光は彼女の力の具現――創造という法則破棄の象徴。それはだんだんと強く、明確な形、真っ直ぐな剣の型を成していく。蒼の収束、そして発動。光が粒子のように発散する。現れたのは銀の大刃。
リンはその両手持ちの大剣を片手で正眼に構えた。
「大狼……!」
正面の建物の屋上。彼女の肩越しにセレンの目に映ったのは、黒いオオカミだった。
大きな血色の双眸のわきに小さな目が並んでいる。巨大な腕はまるで人のそれだ。隆起した筋肉が別の何かのように胎動し、獲物を捕えようともがいている。人を呑みこむことなど容易いだろうその大口は、粘ついた涎が垂れている。
「リン、いくよ……」
そしてセレンはもう一つの力を発動させる。
「繋げ、視覚共鳴っ!」
セレンの力、それは自分の目で捉えた魔物を他人にも見えるようにするもの。視覚能力の共鳴の力。観測者、「目」のセレン。
碧眼が闇に軌跡を描くように妖しく光る。
「見えてるよ、ばっちり! 大好きだよ、セレン!」
相変わらず空気の読めない明るい返事が返ってくる。
呆れながらも、セレンは眼の前の敵をしっかりと捉えた。
リンが詠う。
「我らは、」
そう、私たちは、
「埋火を闇へと還すもの、世界へ安息を与えるもの」
「明けの帳を拓くもの、宵の帳を閉めるもの」
「「我らは、黄昏の巡礼者!」」
§
――「剣」の少女――
彼女らの声に抵抗するかのように、大狼は叫び声をあげた。
「ゥワォオオオオオオオオン」
その声を聞きながら、二人は集中力を高めていく。
大狼が動いた。自慢の爪でリンたちを引き裂かんと、建物の屋上から広場に向かってに向かって跳躍。思いのほか身軽に着地すると同時に、リンに向かって突進してきた。
リンは片手で構えていた大剣を両手に持ち、腰に溜めながら前進。
大狼は前に出てきたリンに向かって右手を振り上げる。
彼女はそれに応じるように、右下から左上に向かって大剣を切り上げた。
リンと大狼が肉迫する。
鈍い金属音。
リンの大刃と大狼の爪は互いに相手に通ることはなかった。
だが、小柄な少女の繰り出す斬撃は、何倍もの体格を持つ大狼の爪撃に対し一歩も引いていない。
むしろ大狼のほうが、大刃に攻撃を阻まれ、後退。
すぐにバックステップから再び攻撃に転じる。
リンはその攻撃に斬撃で応じる。
大刃と爪は幾度となくぶつかり合い、火花を散らす。
セレンはその様子を、リンの後方、同じ広場の中ではあるが少し離れたところから見ていた。
リンは彼女の何倍もの大きさを誇る巨体からの攻撃を、大剣一本で防ぎ、応じ、反撃に転じようとしている。
ほとんど後ろに下がることなく、相手の攻撃を捌き切る彼女の戦闘スタイルからは、後方に控える私を守ろうとする気持ちが伝わってくる。
それに対し、自分は彼女のためにいったい何ができるのだろうか。私のできることと言ったら……。
そんなことを考えながら、せめて、視覚共有くらいはとさらに集中力を高める。
闇の中に先ほどより微かに光量を増した碧眼が浮かんでいた。
リンは依然として大狼との戦闘を続けていた。
こうやって爪と刃を打ち付けたのは何度目だろうか。お互いに大した傷を与えることがないまま、時間と体力、そして視覚共鳴によって精神力を消費していく。
(このまま長引かせるのは……)
強めの斬撃と爪撃を切り結んだ後に、大狼が後退するため小さく跳躍する。
ここでリンは、セレンを守るために引かず、また、無理に攻め入ることをせずという戦闘スタイルをやめ、打って出た。
狙うは左の首の付け根。
前方へのステップから大きめの踏込み。
着地後の硬直を狙って大剣を振り下ろす。
「もらった!」
だが、その斬撃は大狼の首に届くことはなかった。
太く、巨大な腕に阻まれる。
物を断ち切る音ではなく、鈍く、何かを打ち付けたような音が響く。
首の代わりにその太い腕を両断することは叶わず、おろか、小さな傷をつけた程度。
硬く鋭い爪でなく、腕でこの強度。生半可な攻撃では傷すらつけられないのではないだろうか。
「……っ。ならば……っ」
大狼は腕で受けた大剣を払うとともに、その腕で横薙ぎの攻撃を仕掛けてくる。
わずかに遅れて反応し、リンも大剣を右に切り払う。軽めの斬撃。
再び、鈍い金属音。
此度攻撃を打ち返されたのはリンのほうであった。大剣を、左後方に弾かれる。
傍から見れば、この状況は危機的状況以外の何物でもないだろう。しかし、彼女は表情を歪ませることなく、むしろ、口角を上げ笑っていた。まるで、いたずらに成功した子どものように。
左後方に弾かれた大剣に自分の体重を乗せ、そのまま体ごと大剣を回転させる。
ダイナミックな回転攻撃。
大狼による攻撃と、自身の回転による運動エネルギーを大剣に込める。
狙うは大狼の頭部左側面。
血色の巨大な瞳、そしてそのわきに並ぶ小さい目。
体の表面がどんなに硬くとも、眼球を切りつけられてただで済むはずがない。
「左目、もらった!」
ぐちゃっ、という何かをつぶしたような音と共に、大剣の先端が眼球を抉り、赤黒い鮮血が噴き出す。
大狼は大きく怯み、這うようにして後退する。
「今だリン、とどめ!」
後ろでセレンが叫ぶ。その声にこたえるかのように大剣を振りかぶる。
その時、片目を潰され怯んでいた大狼が未だかつて聞いたことのないような声で咆えた。
「 」
粘度の高い唾液を撒き散らしながら。片目から流れる鮮血を飛び散らせながら。
セレンはおろか、間近でその声を聞いたリンは思わず集中力を切らしてしまう。それが引き金となって、また、ここまでの戦闘で精神力をすり減らしてきたことによって、視覚共鳴の連結が切れた。
大狼の咆哮が止み、リンに大狼が近づく。だが、リンには感覚で大狼が近づいてきていることがわかるものの、連結が切れているために目標を視認することができない。
「リンっ。繋げ! 視覚共鳴っ!」
セレンが慌てて叫び、彼女の力を再び発動させる。
リンに視界が戻った時にはすでに大狼は間近に迫っていた。
巨大な腕が振り上げられる。
リンはとっさに自身を守ろうと、大剣を腕が振り下ろされるであろう頭上に持って行く。
だが、その腕が大剣に振り下ろされることはなかった。
リンが見たものは、自分の目の前に振り下ろされる腕。その腕を軸に回転する大狼の体。
それと共に脇腹に伝わる強烈な衝撃。
(フェイント……っ)
突然のことに声を発する余裕もないまま、広場の端まで飛ばされ、壁にぶつかり止まる。
大狼の攻撃をもろにくらってしまった。恐らく肋骨を何本か持って行かれている。蹴り飛ばされたときに背中を壁にぶつけ、息ができない。
遠くでセレンの悲鳴が聞こえる。
目前には大狼。依然として左目からは鮮血を流しているが歩みはまっすぐで、疲弊した様子はない。
攻撃に備えようと、大剣を握りしめた右腕を上げようとしても、右腕どころか全身に力が入らず動くことすらかなわない。
大狼がその太く巨大な右腕を振り上げる。リンに、硬く鋭い爪が迫る。
§
――少女と日常と世界――
だからこの世界には悪意が満ちていると言ったんだ。
リンに振り下ろされる大狼の腕を視ながらセレンが真っ先に思ったことは、彼女の心配でも自分の心配でもなくまずそのことだった。
大狼もその腕も懸命に動こうとするリンの姿も何もかもが鈍って見える。
セレンは手に持ったランタンを握りしめた。目を閉じても何も変わらない。この状況を何もかも一気に解決してくれるような能力はない。そう自分に言い聞かせて息を吸う。
「こっちだ化け物…ッ」
腕を振りかぶり、ランタンを投擲する。放物線を描いて跳んだオレンジ色の光は大狼の顔に直撃した。同時に、ランタンが割れる。
飛び散ったガラスが大狼の傷ついた左目に、無傷の右目にも突き刺さった。
「―――――!」
びくん、と大狼がのけぞる。反射的に腕の軌道が変わった。大狼の爪はリンから数センチ離れた地面を抉り、止まる。
「滑稽だね、こんなに大きな姿をしているのに。本当に無様」
言いながらセレンは大狼に近づく。無意識に震える身体を両腕で押さえた。
一方の大狼は荒い呼吸をしながらうずくまっている。セレンの声を聞いているのか、伏せた耳が時折ぴくりと動く。
大狼とセレンとの距離が数メートルにまで縮む。恐怖を逃がすかのようにセレンが息を吐いたその時だった。
大狼が鼻先を上げ、セレンの方に向き直る。そのまま身体を沈め、跳躍した。突然のことに固まったセレンは自分の視界いっぱいに大狼の巨体が広がるのをただ見ていることしかできなかった。
「セレン!」
ぼうっと目を開ける。白い天井。昼の日差しが差し込む部屋。赤髪の少女がセレンを覗き込んでいた。
「……リンちゃん」
「大丈夫、痛いところない?」
「リンちゃんに言われたくないんだけど」
覗き込むジークリンデはほっぺたにガーゼ、首筋には包帯、腰はなんだかよくわからない器具で固定されており、点滴と松葉杖がオプションのようについていた。
「私は大丈夫。もともと治癒力高いし、大げさだよこんなのは……それよりセレンだよ」
赤髪をさらりと揺らして、リン。
セレンはベッドから上体を起こしながら昨夜のことを思い出す。
……視界いっぱいに広がった大狼の黒い毛が自分に触れた瞬間、セレンの意識がブレた。
『悪意が満ちて、』『仕方がない』『混じって』『ごめんなさいね』
『見ないでよ』『あの人怖い』『嘘つき』『セレン、』
これが走馬灯か、とセレンは頭のどこかでぼんやり思う。一方で、ノイズのように湧き出てくる感情。ぐるぐると回って制御がきかない。面倒くさい、と呟いた途端、それは収束した。
薄暗い路地。倒れているジークリンデ。特に身体が痛むということはなく、大狼の姿はどこにもない。えぐれた地面と血痕、傷ついた相棒にランタンの破片のみが大狼の存在した証拠として残っていた。
「……リンちゃんを病院に運ばないと」
セレンはどこかぼんやりした頭でジークリンデを背中におぶり、ふらふらと歩き出した。
救急外来まで運んだことは覚えているが、そのあとの記憶がない。どうもそのまま倒れてしまったようだった。
「少し頭がぼうっとするだけで目立った外傷も自覚症状もないし、検査結果も特に問題なかったから今のところは大丈夫だと思う」
「そっか……何もないんだったらいいんだけど、セレンが私を運んでくれるなんて大事な時に私は気絶して……惜しいことしたなぁ」
心底残念そうな顔をするジークリンデには答えず、セレンは窓の外に目をやった。
「おはよー」「昨日のテレビ見た?」「でさー」「うんうん」
朝の喧騒を他人事のように眺めて歩く。誰にも干渉されず、また、することもない。彼女一人が透明な壁に囲まれているようだ。たまにその壁を赤髪の少女が破ることはあっても、基本的に一人。加えて、現在ジークリンデは入院中、一週間は帰ってこない。セレンはしばらく壁を張り続ける生活を送ることになりそうだった。
ジークリンデの不在。予期せぬそれは少しは自分に影響を与えるだろうとセレンは考えていたが、予想に反して、寂しいとか嫌だといった感情を覚えることはなかった。ジークリンデが自分の生活に登場するつい最近までは、孤独が自分の日常だったからだろう、と彼女は思った。そして、少しの干渉ぐらいでそれは揺らぎはしないのだ、と。
周りから浮いている自分をどこか他人のように思いながら、セレンは教室に入った。
「宿題やった?」「あたし忘れちゃってさー」「うそー」「きゃはは」
彼らには、彼女たちには「観えない」のだ。それが彼ら彼女らの日常。だが……。それ以上思考を回さず、セレンは持ってきた本を開いた。
『音楽を構成する要素はメロディ、リズム、ハーモニーの三つからなり、それらが――』
「セレン」
いくらも読み進まないうちに声を掛けられ、セレンは顔を上げた。
「何読んでるんだ、セレン」
クラスメイトのミーネ。彼には今まで話しかけられたことがない。自分が彼に何かしただろうかとセレンは訝しみながらも、質問には答えてやろうと黙ってタイトルを示す。
「音楽の本? ふうん、セレンって音楽好きなんだ」
「そうね」
特に好きというわけでもなかったが、わざわざ否定するのも面倒だったのでセレンは適当に返事する。
「へえ、どんな音楽が好きなんだ?」
返答してもらったミーネはこれ幸いと身を乗り出してセレンの机に肘をつく。
「テクノ系J-POP」
「案外普通なんだ……もっとへヴィメタとかパンクとかそういうの聴いてると思ってた」
拍子抜けした風に言うミーネ。いつものセレンならうっとうしくなって皮肉の一つでも言いたくなるところだが、今日は不思議と何も感じなかった。
そういうイメージもあるのね、と相手の感想を受け流し、本に目を戻す。ミーネは彼女のその仕草をじっと見ていた。
それから、移動教室の時、休憩時間、昼休み、放課後、ことあるごとにミーネは話しかけてきた。セレンはそれを疎ましく思うことはなかったが、心躍らせることもなかった。ただ漫然と相手をしていた。
そんな日が一週間続いた朝、いつもの喧噪の中をセレンは歩いていた。
「セレン、ちょっと」
知らない声だ、と思った。その声の方を向くと案の定、特に親しくもないクラスメイトが立っていた。セレンの虚ろな瞳を見たクラスメイトは不快な表情を隠すこともせずに本題に入る。
「ミーネ君見なかった? 昨日からずっと姿が見えなくて」
「知らない」
変わらない日常。単調な毎日。大狼との対峙の後から珍しく何も『観ない』、平凡な日常が続く。
「そう? セレン最近ミーネ君とよく話してたから、知ってるかなと思って」
自分を脅かす者がいなければ、面倒なことに自ら首を突っ込むこともあるまい、と彼女は常々思っていた。
彼一人いなくなっても彼女の日常は変わらず回る。失礼に分類される彼の態度を黙認していた自分は彼に対して何らかの思いを抱いているのかとも思ったが、いなくなっても何も感じないとなるとそうでもなかったようだ、とセレンは推論した。
何も答えない彼女に焦れて、クラスメイトはセレンの肩を掴もうと手を伸ばす。
「本当に何も知ら――」
「セレン!」
反射的に懐かしい、と思う。二人の間に割り込んだのは赤を基調としたスタイルの少女。
「……リンちゃん」
「あなた、セレンに何してるのかな」
相手の視線からセレンを遮断するように両手を広げるジークリンデ。何らかの感情を押し殺したような碧眼はまっすぐ相手に向けられている。
「何よその目……せっかく話しかけてあげたのに」
「そういう問題じゃないと思うんだけど。まあいいや、セレン、行こう」
そう言ってセレンの手を取るジークリンデ。
「ちょっと!」
遠ざかるクラスメイトの苛ついた声。セレンはジークリンデに手を引かれながら無感情にそれを聞いていた。
「まったく、私がいないからってセレンに手を出すなんてね……ライバルかな、あの子は私のライバルなのかな」
少しおどけた風に、ジークリンデ。セレンは無言で彼女を見た。
「ミーネはあれだよ、ここに来る途中でさ、悲鳴あげてたから剣ぶん回したら手ごたえがあってさ、埋火? たぶんそうだと思うんだけど、まあ助けられたみたい。あいつも検査かな、可哀相に」
言葉を切り、ジークリンデはセレンを見る。
「……セレン?」
いつも深い光を湛えた――とジークリンデは思っている――セレンの目が、今日はどこかおかしかった。今まで目を見るだけでだいたい何を考えているかはわかったのに、今のセレンの目には何も映っていない。吸い込まれるような色違いの目の奥にはただ、無が広がっていた。
「セレン!」
ぐらり、とセレンの身体がかしぐ。受け止めた小さな身体が瞬く間に冷えていく。
「セレン、」
『この世界は――』
消毒液の香りの漂う、学園の保健室。浅い呼吸を繰り返すセレン。倒れた彼女を抱え上げてここまで運んだジークリンデは不安そうな顔でセレンの手を握っている。
「やっぱりあいつの影響なのかな……」
「埋火と何かあったのかしら?」
豊満な胸の保険医がカーテンを開けてジークリンデを覗き込む。
「ああ、一週間ほど前のことなんだけど……」
学園の保険医、テルル。金髪ショートにスレンダーな身体、真紅の瞳に豊満な胸。保険医と掛け持ちでセレンとジークリンデの所属しているサークル、チェスクラブの顧問をやっている。彼女もまた深淵からなる者が「観える」能力者であった。
ジークリンデは不安そうな表情を崩さず、一週間前の「あの日」のことを手短に話した。説明し終えると、ジークリンデは深くため息をついた。
「私がもっと強ければセレンはこんなことにならずにすんだのにな」
「らしくないわね、自分を責めても何にもならないわ」
豊満な胸を揺らして、テルル。ジークリンデの頭をぽん、と撫でる。
「安心しなさい、ただの過労よ。ずっと気を張って疲れてしまったんでしょうね、少し休んで栄養剤を打てばあっという間に完治するわ」
「でも……」
ジークリンデが何かを言いかけたとき、からからと遠慮がちな音で保健室のドアが開かれた。
「あの……ジークリンデ君。その、一限目の授業なんだが。その、来たくなければ来なくてもいいんだが僕の授業が嫌でなければ、嫌か。わかってはいるんだが僕は先生だからな……義務が」
入ってきたのはスーツを着た痩身の猫背の男。すまないね、とぼそぼそ口の中で呟いて、ジークリンデの顔色を窺う。それを見たテルルは大きくため息をついて両手を広げるジェスチャーをした。
「ったくアンタは卑屈ね、フンディング。リン、担任も来たことだしあとは私に任せなさい」
ほら、とジークリンデを立たせて保健室の外へ押しやる。ジークリンデはまだ心配そうにしながらも、少し希望が見えたような瞳で頼んだよ、テルル、と言った。ぼそぼそ話し続けるフンディングがその後に続く。
「しょうがない奴……」
ドアを静かに閉め、テルルは再びため息をついた。
呆れた顔をしていたテルルだったが、セレンの寝ているベッドに向き直ると険しい表情になった。無言でベッドサイドまで歩み寄る。セレンは眉間にしわを寄せ、苦しそうに息をしている。テルルはゆっくりとその胸元に手を伸ばした。
ず、とセレンの胸にテルルの手が埋まる。埋まったところから血が流れるといったことはなく、通り抜けるかのようにスムーズに保険医の手はセレンの胸に埋まった。探るようにゆっくりと手を動かす。と、あるところで彼女の手が止まる。何かを探り当てたらしい。そのままゆっくりと手を引き出していくと、ずるずると黒い何かが姿をあらわした。
保険医は黒い「何か」をべしゃり、と床に放り出す。きゃうん、と「何か」は鳴いた。
「何か言い残すことはあるか、クソ犬」
犬のような姿をした「何か」は微かに鼻を鳴らしながら震えている。
「アンタはやりすぎた。食いすぎて宿主を殺してしまえば何の意味もないわ」
保険医の周りに青い燐光が広がる。彼女は見下すような目で「何か」を見、言った。
「そもそも私のものに手を出したことが間違いだったわね、大狼」
青い光が炸裂した後、「何か」――大狼のいた場所には何も残っていなかった。
「セレン!」
よく通る声で呼ばれてセレンは顔を上げる。視界に入ったのは流れる赤髪、柔らかに細められた碧眼。
「リンちゃん」
「いつものセレンだ……よかった。どうなることかと思ったよ」
そう言いながら、ジークリンデがセレンの頭を撫でる。いつもなら撫でられることを嫌がるセレンだが、今回はどこか思案顔で宙を見ている。
「どうかしたの、セレン」
「テルルのことなんだけどね」
「うん?」
セレンはジークリンデに保健室での一部始終を話した。
話を聞き終わるとジークリンデはそれはちょっとおかしいね、と言った。
「私のもの、って言ったんだよね。それは違うな。セレンは私、ジークリンデのものなんだから」
「リンちゃん」
不機嫌そうな顔で、セレン。
「ごめんごめん。……冗談はさておき、確かに気になるね。テルル……埋火と何か関係があるのかな」
セレンはそうだね、と頷く。
「埋火が関係しているのはたぶん、間違いないよ。これはあくまでも私が感じたことなんだけどね……私はテルルが埋火なんじゃないかって思う」
「うーん、過激だねえ。セレンが言うなら間違いないんだろうけど」
「何か確かめる方法でもあればいいんだけど、問題はその方法がわからないことなんだよ。普通の埋火なら、能力持ち以外は私の視覚共鳴なしじゃ見えないはず。だけどテルルはみんなに見えてる」
「気配ぐらいしかわからないもんね。……あ、でもそういえばこの前の大狼。すごい強かったけど、ラッキーなことに視覚共鳴なしでも微妙に位置がわかったんだよ。あれはどうしてだったんだろ」
「それだ」
ぱし、と両手を合わせるセレン。
「強さ。私もあのときは普段より視覚共鳴が楽だったから。強ければ強いほど視えやすいのかもしれない。それとね、私が視覚共鳴を意識していないとき、何の関係もない私の周りにいただけの人たちに埋火が見えてたことがあったんだ。もしかすると無意識の共鳴とテルルの強さが関係してるのかも」
「と、いうことは……セレンが意識的に視覚共鳴を切れば」
「そう。それでテルルの見え方が少しでも変化すれば、テルルは埋火ってことになる」
「そうと決まれば、セレン!」
「うん。行こう」
大きな音を立ててドアが開く。机で作業していたテルルが振り返った。
「セレン。ジークリンデ。……そんなに慌ててどうしたのかしら」
「セレン!」
「うん。リン、いくよ……切れ、視覚遮断っ!」
共鳴ができるなら遮断もできるはず。半ば賭けのようなアイディアだった。セレンの灼眼が空気を切り裂くように鋭く光る。
「……やっぱり、か」
ジークリンデの目に映ったテルルの姿は半透明に透けていた。
§
――世界の「真実」――
ジークリンデは自分の腰に取り付けられた剣の柄に手をかけながらテルルに向かって問いかけた。
「先生、アンタは何者だ」
テルルは椅子から立ち上がりこちらを向くと、目を細めて微笑んだ。
「あら、それは、どういう意味かしら」
ジークリンデよりも少し後ろにいたセレンが、灼眼から依然として鋭い光を放ちながら、言う。
「私が『過労』で運び込まれたとき、先生は私を『治療』したよね……私に憑りついていた埋火を引き剥がして」
「あらあら、やっぱり気付いていたのね」
「先生にそういう能力があるなら私も納得できる。だけど、会話の内容を聞く限りそういうわけでもなさそうだった……食うとか、私の、とか。」
「明らかに怪しい。そして今、アンタは私からは半透明に透けて見えている」
鬼気迫る表情で自分を見つめる教え子二人を前に、保険医は苦笑した。
「ここまでばれちゃったら隠す理由もないかしら。そうね、ご察しの通り。私は埋火よ。セレン、あなたを宿主にしている、ね」
言い切るのと同時に先ほどまで細めていた目を見開いた。真紅であったはずの彼女の瞳は淡い青白色に変わっており、彼女の周りには、どこからともなく現れたその瞳と同じ色の燐光が広がっていった。
半透明に透けていたはずの体は、燐光が広がっていくとともに、すぐにいつものようにはっきりと見えるようになっていく。
淡く光を放つその瞳の奥は、自ら光を放っているにもかかわらず暗く、彼女の真意を読み取らせない。それどころか、何かどす黒い感情を含んでいるかのようで、見ているこちらを不安にさせる。
ジークリンデからはそう見えていた。セレンの灼眼からは、未だに鋭い光が放たれている。視覚遮断をしている状態でこれなのだから、もとから『見えている』セレンにはどのような光景が見えているのだろうか。
「セレン、もういいよ」
「うん」
セレンの灼眼から放たれていた光が消える。それと共に、燐光の密度が、明度が、さらに増した。部屋中が青白い光で照らされている。
テルルは相変わらず微かに笑っているような表情を保っている、少なくとも口元だけは。
「そうね。せっかくだから教えてあげるわ」
彼女はその表情を崩さぬまま、まるで授業でもするかのような口調で話し始めた。
「埋火はね、宿主の抑圧した感情を食べるの。何かを我慢しているうちに忘れてしまった、なんてことがあるわね。あれは埋火が抑圧した感情を食べてしまっているから。抑圧が激しいヒトほどいい宿主になるの」
テルルの周りに漂っていた燐光が、彼女の体の前に集まりだし、『人』と、『何かよくわからないもの』を形成していく。その『何かよくわからないもの』は、鮫や鳥、鰐、熊など、どんどんと形を変えていく。恐らくこれが、埋火を表しているのだろう。
「抑圧のあるところ、埋火が生まれる。抑圧が先か、埋火が先か、それはまだよくわかっていないわ。ただ、埋火が長らくヒトと『共存』してきたのは確かね」
彼女が共存という言葉を発するとともに、燐光が『共存』という文字を作り出す。
「はっきり言って、『共存』でヒトはあまり得をしないわ。抑圧しがちなヒトだと埋火はどんどん感情を食べることができる。宿主のことを考えない埋火は際限なく食べ続けて宿主を殺してしまう。宿主を失うことは餌を無くすことだから、新たな宿主を探して憑りつかなければいけない。憑りつくには対象が弱っていなければならない。弱らせるためにさんざん攻撃して、対象の抑圧がそれほど強くないとわかると殺してしまう埋火もたくさんいる」
『共存』という文字が霧散し、その場所に『寄生』という文字が表れる。
「野蛮な同族から宿主を守るために、宿主に力を与える埋火もいるわ。それがセレン、ジークリンデ、あなたたちの力。だいたいが逃げるための『視る』力のみなのだけど、宿主と埋火両者の特質によって他の力が発現する場合もあるの。そのあたりもまだよくわかっていない。というより、調べる者が少ない。情報を共有する前に死んでしまうの。余分なことを考えずにヒトを食らい続ける埋火の方が力は強い場合が多いからね、私たちのような埋火は宿主を奪われ、殺されるのがほとんど」
形を変え続けていた『何かよくわからないもの』が人と翼竜の形に分裂し、翼竜が人の形をしたものを喰らう。
「あの狼は貪欲に宿主の感情を食べて殺してしまったのでしょうね、そして新しい宿主を探して夜な夜なヒトを襲っていた。そこにセレン、上質な抑圧感情を持つあなたがやってきた。空腹だった狼は私が既に憑いていることを確認せずに上から憑いてしまったのね」
先ほどまで翼竜の形をしていたものは、人と狼の形に変わり、直ぐに狼の形をしたものが砕け散る。
最後に残ったのは、二つの人型と、『寄生』という文字。
「幸いセレン、あなたの抑圧はとても強い。おかげで私の力も強かった。馬鹿な狼はもうこの世にはいないけれど……あなたを『悪意』に巻き込んだ力の原因、私をあなたは恨むかしら。埋火は寄生虫。放っておいてもヒトに何の得ももたらさない」
テルルが言い終えるとともに、彼女の前で形を作っていたものは散り、もとの燐光に戻った。
セレンとジークリンデの二人は、テルルが説明をしている間、動くことができなかった。
「私はねセレン、宿主のあなたのことが好きよ。だから、できる限りは守ってあげたい。けれど、私を殺したいのなら止めはしないわ」
ジークリンデは手をかけていた剣の柄を取りはずし、構えるが、彼女の表情には迷いが隠しきれていなかった。
ジークリンデはセレンの様子を見るため、いつでも刃を展開できるような状態で後退する。警戒状態は解かない。
これほどの量の燐光に、視覚共有することなくはっきりと見えている体。彼女は一体どれほどの感情を食らい、どれほどの力を溜めていたというのか。
セレンに向かって、テルルが言う。
「殺すか生かすか、決めなさい、セレン」
オッドアイの少女はぐっと両手を握りしめた。
それを見てテルルは歪んだ笑みを浮かべる。
ジークリンデはついに刃を出現させた。室内で大きな獲物は取りまわし辛い。出現させたそれは、普段使っているものよりも何回りも小さく、しかし、繊細で鋭い、小剣であった。
ただ、ジークリンデにも、セレンがどうしたいのか、まだよくわかっていなかった。ただ、テルルは危ないということだけはわかる。自分の本能がそう告げている。セレンに話しかけようと口を開こうとしたとき、テルルが口を挿む。
「ただね、私も自殺志願者ってわけじゃないから、抵抗くらいはさせてもらうわよ」
さあ、戦おうと言っているかのように。
空気中を漂っていた燐光が、テルルの周りに収束していく。彼女の周りにいくつもの球を作る。
その球は次第に成長していき、あるものは矢に、あるものは剣に、槍に、斧に、ナイフに、と形を変えていく。
先ほど彼女が話をしていた時に形成していたものとは違う。質量も質感も。
テルルはジークリンデに向かって微かに笑った。それはまるで、こうしたほうがあなたもやりやすいでしょう、と言っているかのようであった。
ジークリンデは、無意識に入ってしまう小剣を握る力を、意識的に抜く。
燐光が収束し、明度が落ちたことで、いつの間にか部屋に西日が差しこんでいることに気付いた。夕日が、窓の近くを漂う刃の一部を真っ赤に染めていた。
§
――世界の「悪意」――
「セレン、迷うことなんてないよ!」
躊躇いを消すようにリンが叫ぶ。それはセレンに向けた言葉か、あるいはリン自身に向けた言葉だったのだろう。
人を助けるための力が、敵から与えられたものだなんて。
認められるはずなかった。なにより、それは自分よりもリンにとって残酷で、絶望的な言葉だったはずだ。なのに――
「リンちゃん……私は……」
「セレン、私たちはヒーローだ。だから迷ってなんかいられない。埋火は敵、世界を脅かす敵なんだよ」
たとえ、テルルでも倒さなければいけない。
一歩踏み出してそう言い放つリンは、言葉に迷いすら感じさせない。どこまでもまっすぐで、芯の強い馬鹿。本当はそんなに器用でもないくせに、他人の事しか考えないお人よし。自分とは正反対の少女。
セレンは、そんなリンに敵わないと思った。
「そうだね、迷うことなんて……ないね」
彼女の言葉を信じて、セレンは決心する。テルルを倒す、と。
「リンちゃん、私の力になってほしいの」
†
困惑の消えた部屋に、高い音が響いた。
床を蹴った、靴の音。
殺気よりもおぞましい気配を肌に感じながら、リンは一足で間合いへ踏み込む。逢う魔が刻の朱色を裂く銀の一閃。先手必勝、リンの戦闘スタイル。白刃の先は、首。
歪んだ笑みのテルルが左手を前に突き出した。
「相変わらず愚直な戦法ね、ジークリンデ」
甲高く響く金属音。
操られた蒼のナイフが宙を舞い、リンの刃を受け止めていた。刃を腹にのせて、滑るように弾かれる。手加減なんてしていないのに、斬撃はテルルの姿勢を崩すにも及ばない。むしろリンの体勢がわずかによろめいた。
「なっ……!」
「肉体派ではないわよ、私?」
そこへ容赦ない反撃の刺突。何かを投げるように右手を振るう。槍の切っ先がリンに迫る。
直線軌道なら……!
咄嗟に体を捻って右へ飛ぶ。槍の一撃がわずかに腹をかすめる。もう一度剣を構える。再び攻撃に転じようとしたリンが見たのは、右手を上にかざしたテルル。
「リンちゃん、上!」
「ほら、まだまだいくわよ」
二人の声が同時に聞こえた。振り下ろしたと同時に頭上から追撃が落ちる。叩き潰すような両刃斧の断撃。わずかな焦燥感がリンの中に湧きあがる。
「くっ!」
まだ……躱せる!
この間合いで防御など、そのまま串刺しにしてくれと言っているようなものだ。床を蹴って後ろへ大きく飛ぶ。空を切った斧が鈍い音を立てて床へ突き刺さる。
よし、このまま一旦距離を――
「前!」
「盾!」
セレンの声。それに反応して躊躇なく、小剣を蒼く透明な大盾を具現させた。
着地と同時にリンを襲ったのは無量の矢。命中するごとに衝撃が右腕に伝播し、体力を削いでいく。握る拳が痺れ、痛みが滲む。しかし、
「負けるかぁ!」
リンは更に盾を厚くし、重量を増やす。
倒れてたまるか。今度こそ、セレンを守るんだ。そう強く心に刻む。それに同調するように盾が蒼く輝いた。
そして、その全てを甲高い金属音とともに弾ききった。
追撃の手が止む。盾越しに見たテルルは笑っていた。
「盾まで作れるなんて。これじゃ、やっぱり力不足かしら」
張りつめた沈黙の中、テルルは先程までの武器を霧散させた。
少し息の切れたリンが問う。
「テルル……どういうつもり?」
「うふふ……これが一番あなたたちにふさわしいと思って」
薄気味悪い笑みと共に蒼い燐光が収束する。目の前で大きな何かの形を成していくそれは、どこか感じたことのある暴虐的な空気を漂わせていた。光が発散する。そこにいたのはまさに絶望の具現だった。
「そんな……っ!」
黒い巨躯。人間のような歪な腕、赤い眼。創造したのはあの大狼だった。桁外れにも程がある、法則破棄。圧倒的絶望が目の前に姿を現した。
「さあ、どうするのかしら? こんなもので、あなたたちは終わってしまうのかしら? 魅せて頂戴、セレン、ジークリンデあなたたちの最後の足掻きを」
テルルの嗤いと共に大狼が吠える。その重く響く声に、部屋が揺れる。二人は動かない。ただその黒い禍を見据えているだけ。
絶望が目の前で口を開けた。
そして、二人を床ごと呑みこんだ。
しかし、蒼い光が狼の口から漏れ――
「「貫け、異教狩り!」」
閃光。狼の体ごと部屋の半分が消し飛んだ。
†
衝撃と同時に吹き飛ばされ、テルルの下半身は瓦礫に沈んだ。辺りには粉塵が舞い、焼き焦げた肉の臭いがたち込めていた。
そんなテルルをセレンは見下ろしていた。手に持っているのはリンと共に創造した大槍。黒い刀身が夕日をうけていた。
「まさか、あんな芸当するなんて思わなかったわ」
「あなたが教えたんでしょう。この力は抑圧された感情からくるものだって、だったら私が一番嫌いな感情が能力になる。つまり、私の元々の能力は共鳴の力……」
共鳴とはすなわち増幅。あの威力もリンの創造の力を共鳴したからこそできたもの。
その言葉を聞いてテルルは笑みを浮かべた。それは敵意も邪気もない、いつもの自分たちに向ける笑顔だった。テルルには嘘も、虚勢も見えない。心の底から自分を褒めているような、そんな表情だった。
その微笑みにセレンは困惑する。馬乗りになって、槍の切っ先を首へ向ける。精一杯の殺意をもって睨みつける。
「なんで……なんで笑ってるの? リンを、私を殺そうとしたのに! なんで『よくやった』みたいな顔してるのよ!」
整理のつかない言葉が頭を埋め尽くす。
そして、返ってきたのはあまりにあっけない言葉で、
「あなたが一番嫌いな『他人と触れ合う』ことができた。それは私にとって何よりもうれしいわ」
セレンは当惑するばかりだった。混乱した静寂が下りる。
これじゃあ、何をしたのかわからない。笑わないで、そんな顔しないで。悪役は、悪役らしくして。そんなことのために、私たちと戦ったなんて言わないで。
焦げた臭いに混じって、濃い血の臭いがセレンの鼻をついた。
このまま放っておいても、テルルは長くないだろう。テルルは埋火だ。だからこそ、倒すと覚悟を決めた。だが、今セレンの前にいるのは先生としての彼女だった。
呼吸がおぼつかない。足が竦む。体が震える。テルルの言葉がセレンの体を縛り付ける。
しかし、躊躇うセレンに、手が差し伸べられた。
「そうね、なら置き土産くらいは残しておきましょうか」
テルルの手が額を小突いた。
刹那、視界が暗くなり、意識が闇へと落ちていく。
わずかに意識の端に、リンの声と肉を断つ音が聞こえた。
†
「セレン!」
よく通る声で呼ばれてセレンは顔を上げる。視界に入ったのは流れる赤髪、柔らかに細められた碧眼。
ここは病院の一室。学園の保健室の大破と、保険医の失踪から三日が過ぎていた。その間に、リンは他の組織と連絡し、情報改竄に走っていたらしい。セレン自身も翌日には目覚めたのだが、どうにも調子が悪く、ここ二日ほど寝込んでいた。しかし、大分回復したらしく、今日は体調も良かった。
「リンちゃん」
「今日は顔色もいいよ、いつものセレンだ……よかった。どうなることかと思ったよ」
リンがセレンに抱きついてくる。暑苦しいまでの強く、大胆な抱擁。
「リンちゃん、苦しい」
「ああ、ごめんつい嬉しくて」
たはは、と笑うリン。全く相変わらずのようで、こちらもつい苦笑してしまう。こんなやり取りにも日常が戻ってきたように感じている。うるさい平穏が確かにここにあった。
しかし、セレンには一つだけ気になることがあったのだ。
「ねえ、ホントにテルルを倒したんだよね」
思わず声が低くなる。
疑心の理由は自分の力だった。憑いていたテルルを倒したのに、消えていないのだ。そう、セレンは未だに〈観える〉。それとも、これがあのとき言われた『置き土産』なんだろうか。
その言葉にリンはいつになく真面目な顔で、
「そうだよ。私がそこにいたんだもん、間違えるはずないよ」
「そう……だよね」
「心配しないで、セレン。もしまたあいつが来ても、また二人でやっつければいいんだから」
先程とは全く違う優しい抱擁に心地よさを覚える。少し癪な気もするが……事実なのだ。
「ねえ、リンちゃん。これからも……よろしく」
何気なしにそう呟いた。するとリンはいきなり姿勢を正して、叫んだ。
「ふ、ふつつかものですが!」
「調子に乗るな!」
窓辺から吹き込む春風に花の香りが混じっていた。