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ゼドゥ国レード領にある女子修道院正門前に馬車が止まっていた。
馬車は地味だが細部まで手の込んだ造りで、ご丁寧に護衛らしき騎士が数人取り囲んでいる。貴族がお忍びで来たのだと一目で分かる有り様だ。
「王妃様、お気をつけて」
修道女で元は王妃の乳母だったドノーは王妃を見送りにきていた。
「いろいろありがとう。ドノー」
王妃サーリは心から感謝を込めて言った。今この腕に赤ん坊を抱けるのはドノーの尽力もあるが元々もしもの事態を想定して動いていた。
実家での出産を王に願い出ただけでなく元はサーリの乳母で今は修道女になったドノーに自分と同じ出産時期で父親が誰か分からない子を産む訳あり女を探してもらった。
修道院ならば、そんな女はいくらでもいる。そんな女一人いなくなっても問題にはならず赤ん坊の出自が知られる事もない。
勿論、サーリ自身が元気な男の子を産めれば問題なかった。だが、産まれたのは女の子で、あの女(イレーヌ)の指摘通り死産だった。しかも二度と子供が望めない体だと宣告された。それがばれないように、出産に立ち会った者達は全員「始末」したが。
サーリには王太子になる自分の「息子」が必要なのだ。
サーリは、このレード領の領主で宰相でもあるグレゴの娘だ。国王ジョナサンとは政略結婚だが彼女は夫である国王を愛している。
だが、国王には、すれに妾妃マリーと彼女との間に生まれた息子ミッシュがいた。
いくらミッシュが長男でも王妃が息子を産めば彼は王太子にはなれない。ゼドゥ国では王太子は国王と王妃との間に生まれた最初の息子だと決まっているからだ。
だが、王妃が男の子を産まなかったどころか二度と子供を望めない体だと知られれば王太子はミッシュに確定だ。
それだけは絶対に嫌だったサーリは国王や周囲を欺く事に決めたのだ。
愛する王に愛された女、憎んでも憎み足りない女が産んだ息子が王太子など許容できるはずがない。本来なら、その地位にいるのはサーリの「息子」なのだから。
馬車に乗り込もうとしたサーリは信じられない声を聞いた。
「待ちなさい」
高く澄んだ綺麗な声。今腕の中にいる赤ん坊を産んだ女の声だ。
まさかと思った。あの女はダーソンが「始末」したはずなのだから。
振り返ると、そのまさかの女、いや少女がいた。
走ってきたのか長く眩いばかりの金の巻き毛は乱れ、白磁の肌は紅潮している。出産した時のままの簡素な寝間着姿だったが彼女の美しさを損ねるものではない。むしろ飾り立ててない分、清楚な美しさが強調されているようだ。
「私の子を返して」
イレーヌの雨上がりの空ような美しい青の瞳は怒りに、きらきらと輝いていた。
「ダーソンは、どうしたのよ!?」
「そんな事は、どうでもいい」
動揺する王妃にイレーヌは素っ気なく言った。
「私の子を返しなさい。その子は私に残された唯一のもの。誰にも渡さない」
近づくイレーヌに恐れをなした王妃は赤ん坊を抱いたまま後ずさった。
「誰か! この女を始末して!」
馬車の前に待機していた騎士たちが近づいてきた。
「無駄よ。誰も私を殺せない。私自身ですら私を殺せないんだから」
イレーヌの妙な言い回しの意味を王妃は考えもしなかったがダノーは何かに気づいた顔で「まさか」と呟いた。
「……王妃様、この女は、もしかしたら」
「……足が動かないわ! どうして!?」
何か言いかけるドノーの声はイレーヌの悲鳴じみた声にかき消された。
ちょうど正門を通り抜けようとする所でイレーヌがいくら足を前に進めようと見えない壁に阻まれたように動けなくなったのだ。
王妃はイレーヌの異変を見逃さず素早く赤ん坊を抱いたまま馬車に乗り込み出発させた。
「出して!」
「待ちなさい!」
当然イレーヌの制止など誰も聞かず馬車は遠ざかっていった。
「いやあ――っ! 吾子――っ!」
イレーヌはその場に蹲り泣き叫んだ。
子を奪われた母の悲痛な嘆きは、いつまでもやまなかった。