1.
秋。夕方。草原。
空は曇って肌寒い。
風が吹いて、一面の草がザザッと鳴った。
見わたす限り広がる草原の真ん中に、青毛の馬が一頭、西の地平線を見つめていた。
鞍の上に跨っているのは、がっしりとした体つきの背の高い男。
年齢は四十くらいか。
それほど美男というわけでもないが、末広がりに生やした口髭、逆三角形の顎髭、どちらも良く手入れされ黒々としている。
つば広の帽子、マント、チェニック、シャツ、ズボンに長靴……長旅の汚れが薄っすら乗っているが、どれもかなりの上物に間違いなかった。
マントの上から長剣を背負っていた。
鞍のうしろに振り分けた荷物の上には弓と矢筒。
「もう少し西へ進めば、バラーの街が見えてくると思うのだが……」馬上の立男が呟いた。
「今日はここまでか」
日の沈む方角を見ていた顔を左右に振り、どこか野宿に適当な場所はないかと探す。
左三百メドールほどの場所にお誂え向きの岩があった。
岩から少し離れた場所には、灌木が群生していた。焚き火に使えそうな枯れ枝があるかもしれない。
男は馬の首を巡らせて、岩のある方へ向かった。
* * *
日が沈む前に何とか枯れ枝を集め、岩の陰で火をつけることができた。
拾ってきた石を焚き火の周りに組んで、水筒の水を入れた鉄鍋をかけ、塩辛く味付けして干した肉を刻んで入れ沸騰させた。湯の中に干し肉の旨味と塩味が染み出しただけの、単純なスープだ。
最初の一口を木のスプーンで掬って口に入れる頃には、日もとっぷりと暮れ、世界は焚き火に照らされた僅かな空間だけを残して闇の中に沈んでいた。
「バルルゥ……」
暗闇の中、少し離れた場所に立っているはず青毛の馬が、一声鳴いた。
「んん? どうした? 黒槍号?」
馬の声に警戒の色を感じた男が、すぐ横の岩に立てかけてあった長剣を引き寄せながら、暗闇に向かって問いかける。
暗闇の中をゆっくりとこちらへ向かって歩いてくる人の気配。
「旨そうなもの食ってるじゃねぇか……おじさん」
焚き火の光を浴びて暗闇から浮き上がってきたのは、十四、五歳くらいの少年だった。
「おいらにも分けてくれよ」
少年が、思春期特有のガラガラ声で焚き火の主に話しかける。
ずる賢そうな目。薄汚れた服。背嚢を背負っている。
体つきは細く、少し発育不良のように見えた。
男は、長剣の鯉口を切りながら、焚き火の向こう側に立つ少年に「それ以上、近づくな」と言った。「近づいたらガキだろうと容赦はしない」
警告しながら、なぜか男はニヤリと口元に笑みを浮かべた。
飄々としながら、凄みを感じさせる笑みだった。
少年の顔に変化が現れた。かすかに動揺している。「あ……あやしい者じゃねぇよ……」声を絞り出して言った。「ただ、焚き火の明りが遠くに見えたんで、近づいてみたら旨そうな物が鍋の中でぐつぐつ茹っているじゃねぇか……でも、おじさんが分けてくれないって言うんだったら、それでも良いんだ。ただ、寒くてよぉ……せ、せめて今夜一晩、焚き火に当たらせてくれないか」
少年の口上を黙って聞いていた剣士は、鋭い目でしばらく少年を睨んだあと、「ふんっ」と鼻を鳴らして剣を脇に置いた。
「座れ」
焚き火の主の許可が下り、少年はホッとした様子で腰をおろした。ちょうど火を挟んで剣士の反対側の位置だ。
「あ、ありがてぇ」
剣士はナイフを取り出すと、削り取った干し肉の一片を焚き火ごしに少年に向かって投げた。
投げられた肉を、少年が器用に手を伸ばして受け取った。この少年、痩せこけているが、案外と運動神経は良いのかもしれない。
「た、食べて良いのかい?」
「当たり前だ。食べろ」
少年は、もう一度「ありがてぇ」と言って、干し肉を口の横にくわえた。
犬歯を使って硬い肉を千切りとる。
「うへぇ……塩っぺぇ……」
「当たり前だ。保存食だからな」
「お、おいらはロッチってんだ……お、おじさん、名前は何て言うんだい」
「パイソン」
「パイソン……へええ、かわった名だね」
「ここよりも遥か南の国に住む大蛇の名だそうだ」
「南の? おじさん、南国の出身かい? どうりで肌が浅黒いわけだ」
「俺の詮索より、自分のことを話せよ……ロッチとか言ったな……お前、草原を歩いて旅していたのか?」
「馬なんて立派なものをおいらが持っていると思うかい? そうだよ。歩いてバラーの街へ向かう途中だ」
「それはおかしいな? 建物ひとつ無いだだっ広い草原を歩いていたお前を、昼間、馬に乗った俺は、なぜ見つけられなかったんだろうな?」
「へへへ……」少年が気まずそうに笑った。「草原って言っても、真っ平じゃないからね……たまたま、おじさんから見えない場所を歩いていただけだと思うよ」
「ほう……」剣士パイソンは疑り深そうな目で、焚き火ごしに少年ロッチの顔を見た。
確かに、草原には緩やかな起伏がある。なだらかな斜面で構成された丘があり谷がある。
しかし、見晴らしの良い馬の背中から一日じゅう周囲を見ていたパイソンが、草原を歩く少年の姿を見落とすだろうか?
(このガキが、わざと人目につきにくい低地を選んで歩いていたというのなら話は別だがな……あるいは、昼間は岩陰に隠れて休み、暗い夜だけ移動するつもりだったのかもしれん……このロッチとか言うガキ、何者かに追われているのか)
だとしたら、わざわざパイソンの前に姿を現したのは、なぜか?
体つきを見れば、長いあいだ満足に食事にありつけてないことは容易に想像できる。肉の匂いに惹かれたというのも、あながち嘘ではないのかもしれない。
しかし、食事を分けてもらった後はどうするつもりだったのか? あるいは断られた時は?
(肉を恵んでもらって恩を感じるほど上等な人間にも見えん……干し肉をやる、やらないに関わらず、隙を見てこの俺を殺すつもりか)
このミッチという少年が誰かから逃げているとすれば、あとあと禍根を残すような『目撃者』を放ってはおかないだろう。
剣士パイソンは、鍋の湯でふやけた肉を頬張りながら、再度、剣を体に引き寄せた。
焚き火ごしに少年を見ると、少年もジッとこちらの顔を見ていた。
硬い干し肉をクチャクチャ噛みながら剣士を見返す少年の瞳は、焚き火の僅かな光を反射して、ちろちろと薄暗く揺れていた。